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2026年10月25日日曜日

10月25日 私の産業論の視点から見た今の中国経済そして工業の位置と意味

 私の産業論の視点から見た     

   今の中国経済そして工業の位置と意味

−   中国経済そして工業の今とその出発点 –

渡辺幸男

 

開放経済の出発点

―改革開放当初の中国工業の状況、1980年代の出発点―

 中国の改革開放時、世界的な工業水準から見れば、当時の中国の計画経済下で達成された工業化の水準は、かなり遅れたものであった。すなわち、最低限だが一通りの近代工業基盤が、計画経済下でやっと形成されたと言うしかないような水準であった。当然のことながら、当時の世界市場での市場経済下での競争を生き抜いた「企業」、あるいは生き抜けるような企業は、当時の中国における先端技術企業をふくめ、ほとんど存在しなかった

 近代工業製品を一応は作ることができる技術は、ソ連から得ていたが、巨大な人口、可能性としての巨大な市場は存在していても、改革開放当初は極端な低所得水準状況であり、等しく貧しい、広く低水準な潜在的にのみ巨大な市場が存在するとしか言えないような状況であった。当時の先進工業国製品については、その最低水準の低価格量産品でさえ、当時の中国の多くの一般の人々にとっては購買不能とも言えるような、低所得水準の潜在的巨大市場であった。

 そのような状況のもとで、豊富な低賃金労働力の存在を利用すべく、先進工業国向けの安価品の組立工場としての受託生産工場群が、外資系企業の進出工場を中心に沿海部で簇生し、そのような工場に向けての労働力として、中国内の安価労働力に対する巨大な需要が生じ、結果、安価な豊富な工場労働力の供給が極めて大規模に生じた。そのような環境下で、当初の外資系分工場群のみではなく、中国系の受託組立生産企業も簇生した。また、多様な組立製品のための先進工業国の部材供給企業の工場の大量中国進出も生じた。

その結果形成された、ごく低賃金の大量の労働者向けに、ごく安価な消費財等の供給の必要性が生じた。しかし、そこで形成されつつあった市場は、先進工業国の安価量産品でも高価すぎる新規形成市場ということになる。結果、中国国内に、極端な低価格志向の巨大規模かつ当初は潜在的な市場が形成された。強度の低価格志向の量的には巨大な市場(当初は潜在的市場)に向け、多数の新生地場企業による極端な低価格品製品の開発(簡便化開発)と、潜在的低価格品市場の開拓が行われ、他国にない極端な超巨大な低価格品の市場が顕在化した。

そのような市場状況の形成を踏まえ、先進工業国の工業技術について、多くの地場の新興企業が「簡便化」開発をすることで、低価格で巨大規模の地元消費者の低価格志向とその中での新たなニーズに応え、外資系の国内市場への大量進出を防ぎながら、国内市場向け供給の国内新生新興の巨大な企業層が形成された。他方、旧中国国有巨大企業は、近代工業の大規模生産企業であったが、経営面で市場志向が基本的に欠落した単なる生産主体であり、市場経済での市場競争可能な「企業」ではなかった。結果、1990年代における新興企業との競争に多くの国有企業は敗れ、退出あるいは縮小ないしは政府の保護下または外資との合弁で生き残るしかない存在となった。それゆえ、国内向け消費財とその関連市場の主役は、出自は多様な地場の新興企業群となった。郷鎮企業や民営企業そして地方政府支援の新興「国有」企業が大量に簇生し、激しい競争が生じ、そこから生き残った企業群が成長した。結果、超低価格品中心だが、巨大な国内消費財市場に向けた、地場の巨大な生産企業群が形成された。

 

今の中国工業企業への道

 独自なかつ多様な新興工業企業群の大規模形成と低価格品生産技術形成とにより、量的巨大市場である国内市場依存で、中国の競争的市場としての国内市場は、大量の国内新興企業を担い手に、独自な発展を遂げ、巨大市場化した。

他方で、海外企業が中国企業を下請けとして、部品供給企業として活用することで、海外の先進工業技術それ自体は、中国地場企業にも浸透した。それを国内市場向けに、中国新興企業は、先進工業国企業の先進工業製品との競争に大きく曝されることなく、当時の中国の市場状況に合わせた製品開発としての簡便化開発等を通して独自展開を行った。中国内の巨大な低価格市場向けに、中国企業間での極めて激しい競争を通して、新興企業層は一層発展し、巨大化した。

結果、中国国内新興企業群が主導する国内市場が、規模としては、世界最大の市場となっていった。それが、1990年代そして2000年代初頭の国内市場向け中国工業の状況であった。その象徴的存在が、世界最大生産規模の自転車産業そしてバイクや電動2輪車生産の急増であり、山塞携帯生産企業の大量発生と、その巨大化であろう。そして、それは、東南アジア向けそして南アジアやアフリカ向けに独自の輸出産業化を達成し、それまでの先進工業国企業の進出を軸とした低賃金労働力利用の加工組立型の多くの工業製品輸出産業とは異なる、独自製品の輸出産業化を実現した。

 

ただ、乗用車産業だけは、国内市場向けであったにもかかわらず、これらの超低価格製品の簡便化開発から出発した諸産業とは異なり、計画経済下からの既存国有大企業と外資系巨大企業の合弁から出発したことで、改革開放当初より、内生的に一気に発展したEVが中心化するまでは、国内企業は産業の主導的存在としての発展を遂げず、外資系主導の合弁企業による発展となった。その乗用車産業でも、そのEV化を契機に、一挙に乗用車市場として世界最大の国内市場となるだけではなく、旧国有完成車大企業とは関係のない、新興の国内企業中心の先端EV企業群を生み出した。その先頭企業がBYD(比亜迪)といえよう。

また、それに関連してKATLのような世界最大の蓄電池企業も生み出した。同時に、DJIのようなドローンで世界最大の先端製品企業を生み出した。それも、当面は世界最大化した巨大国内市場を対象の中心とした、新興企業間の開発販売競争を通してであり、日本企業のように、米国という海外巨大市場への輸出を通してではなく、自国市場を中心とした発展であった。

 

 今の中国経済の他の側面とその意味

 以上が、現在の中国経済の半面、工業面を中心に見た場合の状況についての私の理解といえよう。同時に、工業の状況を考えるためには、中国経済の現在を見る場合、もう1つ側面を見逃せない。

 中国における地方政府の独自なあり方のもとにある財政基盤と土地保有制度との関係もあり、過剰な住宅建設投資が、近年行われ、大量の未完成物件が生じ、中国経済全体として見たとき、従来に比べ停滞的側面が目立ってきている点

である。

 

最近のFTの特集でも、1990年代以降の日本経済の停滞化と並ぶ、中国経済の停滞化として現在の状況が語られている。(FT, BIG READ. GLOBAL ECONOMY, ‘Two Asian giants. One economic trap’ 21 October 2026, p.15)このFTの記事の見出しには、「日本の不動産不況の後のミスステップは、停滞の数十年と結果した。今、中国が多くの同じ兆候を示し、米国を超えるという野望を脅かしつつある。」と書かれている。

この記事は、日中とも高度成長の結果として経済の変容が生じ、それが経済停滞へとつながるという発想で書かれているように見えた。

 

私の現在の中国経済と工業についての考え

しかし、日中の経済の違いは、一つは、その停滞に至ったという時期のそれぞれの経済の発展水準の違いが持つ意味からである。そして、もう1つの違いは、先に述べた基本的な主要市場が、日本の場合、ある時点から国内市場中心から米国市場中心に移ったのに対し、中国の場合、依然として中国国内市場が中核であるという点である。中国国内市場を中心にして、そこで育った新興企業群それ自体が、グローバル市場での最先端企業化したのちに、海外市場へと進出する状況が、依然として継続している。このことの意味、国内市場の当該国工業にとってもつ意味の違いという点からも、検討する必要があろう。

 

 この当該国の主要企業がもっぱら競争し、新分野を開拓する場となる市場、それが、日本の主導的工業(企業)の場合、1980年代までとそれ以降では、大きく変わった。すなわち、乗用車産業がその典型と言えると思うが、日本国内市場を前提にした競争を通して、革新を遂げていたのに対し、1990年代以降は米国市場での競争を通して先端的な製品開発を行う必要が生じた。その結果、日本工業全体として見た場合、米国市場を中心とした世界市場での大きな転換に追随できず、相対的に衰退、その波及として国内企業群の相対的な停滞が生じた。このように考えられそうである。

 それに対して、中国工業の今は、経済自体はある意味で停滞的、ないしはそれまでに比してみれば相対的に停滞しているが、競争し先進工業製品を生み出す場は、少なくとも、現在までは、(まだ)中国国内市場であるということになる。日系企業の1990年代とこの点が大きく異なるといえよう。ブログで紹介したFT記事のスマート・カメラの例のように、中国国内市場向けの製品開発を通し、新機軸を生み出す企業が輩出し、そこからグローバル市場でのチャンピオンが生まれている。それだけ、中国市場が巨大であり、それが先進的な市場をも持ちうるようになったと言えそうである。韓国や台湾の企業、サムスンやTMSCのような企業は、そもそも、米国市場を核としたグローバル市場進出の中での競争を前提にフロントランナー化した企業群である。それに対し、日系大企業の多くは、日本市場での競争を通して先端化し、結果的に米国市場を含めたグローバル市場でフロントランナー・最先端化した企業と言えるであろう。

 基本的なグローバル先端企業化した状況が大きく異なることで、その後の米国市場を核としたグローバル市場での革新に向けての競争での基本的な姿勢が、ある意味中途半端になったといえるのかもしれない。いわば、宮崎義一氏がかつて言われていた六大企業集団間の寡占間競争を通しての革新が、日本国内での先進工業へのキャッチアップを迅速に行うよう導くような競争では有効であったが、その後の米国市場を中心としたグローバル市場では、最先端化企業を継続的に多く生み出すには適合的でなかったとも言えそうである。

 それに対して、現在の中国企業は、韓国や台湾のグローバル先端企業化したサムスンやTSMCとも異なり、依然として世界最大の工業生産を吸収可能な中国市場を核として先端工業化、更には最先端工業化を実現する余地がある。それゆえ、中国系企業が、EVでそうであったように、巨大化し先端工業化した中国国内市場での競争を通して最先端工業化し、その結果としてEUそして米国市場を含むグローバル市場でも最先端工業企業となる余地があるといえそうである。

 このことは、中国企業の最先端企業化のために重要なのは、中国国内市場での最先端需要の巨大な形成と、その市場をめぐる激しい競争の存在だということになる。まさにそれを象徴する出来事が、世界最大化した乗用車市場を踏まえ、巨大化したEV産業での圧倒的な先行、完成車市場やその主要部品市場での最先端企業の輩出をもたらしているといえそうである。

 

米国経済とその市場の先進工業化にとっての意味の変化

 ここから見えてくることは、これまでの世界経済における米国経済の位置、ないしは地位の相対的変化ということになろう。かつては、世界一の巨大市場かつ先端的工業製品市場は、米国市場であった。それが、2020年代になって、必ずしも、そうは言えなくなったのである。世界経済を主導する市場は米国市場であるとともに中国市場でもある、という状況が生まれつつあるのではないかと、私にはそのように思われてきている。

EU市場が作られたときには、まさに米国市場と並ぶ、世界の先端工業を主導する巨大市場の1つに、EU市場もなるかと私には思えたし、多くの研究者がそのようなことを述べていた。しかし、結果的には、今のところ、世界の工業の動向を主導するような本格的な単一巨大市場とはなっていない。その理由が何であるのか、関税がなく財やサービスの移動が自由なことや労働力の移動が自由であることそれ自体だけで、巨大な単一市場とはなりえないのかもしれない。この点については、私の理解は深まっていない。

その点、中国市場は、EU市場と異なり、言語的にも共通語が存在し、文化的にも現代消費文化としてみるならば、一国全体、12億人余の人々の多くで同一の文化が共有されていると言えそうである。その意味で、現代工業の発展する場としてみるときには、世界最大となりつつある巨大単一市場と言えるのかもしれない。これは、EU経済だけではなくインド経済と中国経済とを比較したときにも言えることなのかもしれない。

乗用車産業の世界最大化の際に見られるように、中国市場は乗用車需要をめぐる文化圏としては、米国同様に一国単位で、単一の12億人余の均質的な市場を形成している。その点で、近代工業製品についても、乗用車に見られるように、需要の特性が構成国ごとにかなり異なるEU市場とは、異質な市場なのかもしれない。そこに、単に関税の無い状況や労働者の自由な移動だけでは評価できない、市場の等質性を持つ巨大市場としての特性があり、その点で米国や中国の市場は、現代工業製品の市場としては、EUやインドと異なる市場なのかもしれない。

 

最後の議論は、かなり感想的な理解水準であり、きちんとした裏付けのある議論とはほど遠いものではある。しかし、私には、今の時点では、世界の工業の今が、このように見えてきている。

2024年11月1日金曜日

11月1日 中国市場での「熾烈な過当な国内競争」は、「疲弊をもたらす」「過当」さか?

 中国市場での「熾烈な過当な国内競争」は、「疲弊をもたらす」「過当」さか?

鈴木友里子「次は水素 「中国式」は持続可能か」

(朝日新聞、2024年10月31日朝刊、p.7)

を読んで  渡辺幸男

 

 本記事は、朝日新聞の特集記事「資本主義 NEXT 復権する国家 8」として掲載されている。私が注目したのは、その記事のうち、「エネ産業育成 国家主導で」と「熾烈な国内競争 企業疲弊」と2つの中見出しで書かれたもののうちの後者、「熾烈な国内競争 企業疲弊」の記事内容である。

そこでは、「育てるべき産業と目標を中央政府が定め、地方政府も補助金などの強力な優遇策で競う」とし、「価格競争力をつけた企業が、世界市場に打って出る」としたうえで、「中国式の産業政策は、・・・その内側にもひずみを抱える」と述べている。その「ひずみ」として、「過当競争に陥る」ことや、「EVを含む新エネルギー車のメーカー数は、20年ごろには約500社にものぼった。その数は1割ほどまでに減り、さらに淘汰が進むと見られる」ことを述べている。その上で、この競争を「「内巻」とも評される熾烈な競争を生」み、「非合理な内部競争」とも称される、としている。その上で、「産業育成での「内巻」は、世界市場でも競争力を持つ中国製品の一群を生み出した。一方、大量の「敗者」につぎ込まれた支援策は経済全体の生産性向上の重しになったり、地方財政の悪化をもたらしたりした面がある」と述べる。

 

この議論を読み、何よりも感じたのは、ダイナミックな資本主義の市場経済での新産業形成過程がもたらす、「大いなる無駄」についての認識、評価についての本稿の著者と私との決定的な差異である。ここでの著者である記者は、中国での新産業形成と、その結果としての世界市場での優位な中国系企業の形成が、他方で大きな「ひずみ」をもたらしていると認識している。この記事での文脈からすると、避けるべき、あるいは避けることができる「ひずみ」として認識されているように見える。本当にそうであろうか。

この記事によれば、このような「ひずみ」は、中国の政策ゆえの問題であり、避けるべきものであるという理解のように見える。しかしながら、私には、健全な資本主義的市場経済での新生産部門形成過程としてのほぼ不可避な無駄、本来的な健全な発展的な資本主義的市場経済に伴う、資本主義経済のダイナミズムそのものの持つ無駄であるように見え、その無駄の中国版とも思える。ここに、記者と私との認識上の決定的な差異がある。

 

資本主義的市場経済の特徴は、競争的かつダイナミックに発展するそれの場合、新生産部門が形成される過程は、きわめて多数の参入企業による、試行錯誤と、その結果として新生産部門の急速な市場拡大、そしてその過程での多数の新規参入企業の脱落ないしは撤退、結果として、独自かつ新規形成市場を自らにとって適合的なものと成し得た企業とそれに追随できた限られた企業群が、新たな市場の構成企業として生き残り、既存市場での企業間競争へと転化していく過程と言える。資本主義市場経済とは、それがダイナミックに発展するとき、大変大きな無駄を、ダイナミックな市場経済的には意味のある多様な多大な試行錯誤の結果としての無駄を、常の伴うものと言える。

それと全く反対なのが、この意味での無駄が制度化されていないのが、いわゆる計画経済である。何をどのように生産するのか、誰がそれを担うのか、計画的に決めて生産とその拡大、変化をも進めていくのが、計画経済である。思惑通り進むかどうかは別の問題であるが、計画経済には試行錯誤による巨大な無駄は建前上には存在しない。実験室では試行錯誤が行われるとしても、「市場」では、実際の需要供給の場では試行錯誤は建前上では存在しない。

それと正反対に、資本主義的市場経済、その競争的な経済では、新市場形成をめぐっては、多数の企業の参入による試行錯誤が大規模に形成される過程、きわめて多数の参入が発生し、落伍する資本が大量に形成されてこそが、健全な競争的市場経済、資本主義的な競争的な市場経済なのである。ここにこそ、資本主義経済の持つダイナミズム、生産力を発展させる経済としての他の経済に対する決定的な優位性がある。同時に重要なのは、経済学の教科書に書いてあるようなタイプの企業だけによる試行錯誤ではなく、極めて多数の多種多様な企業による試行錯誤と淘汰こそが重要であるということである。それを現代で現実化したのが、改革開放後の中国経済と言えよう。

このような資本主義的市場経済のダイナミズムの形成の論理が、改革開放から30年余を過ぎた現代にも、中国経済には存在している、ということを示しているのが、この朝日の記事から私が読み取ったことであるといえる。なにせ、EVについては、市場が急拡大している中で、数年前に500社の参入があり、それが50社前後に淘汰され、さらに淘汰が進んでいるというのだから。既存の乗用車メーカーとそのほか数社が参入したと話題になった日本とは、大きく異なる「競争的」な資本主義ということができよう。中国経済は、日本経済のような寡占的市場支配が一般的な資本主義経済では、いまだ無いことが、この事実から示唆されよう。

資本主義経済としての国内市場の大規模性、否、巨大規模性、そして参入主体の多様性が、これを可能にしているように、私には思える。そして、それを考える際には、地方政府の独自なあり方、これが大きく影響している。このこともこの記事は「過当競争」的な理解でではあるが、示唆している。

ここで、その昔、改革開放後に、中国の各種の地方政府が一斉にテレビの組み立てに乗り出したことを、私は思い出した。その進出企業群は、その後、ほとんどが消滅してしまった。が、その中に経営者に恵まれたごく少数の企業が生き残り成長し、その後の中国テレビ等の家電生産主要企業として、グローバルに活躍していることを見聞きしたことを思い出した。

いずれにしても、資本主義市場経済とは、ダイナミックに発展しうる経済であると同時に、ダイナミックに発展するためには、極めて多数の敗者とそれに伴う大いなる無駄をつくり出すことが必要な否必然な経済なのである。このような意味での無駄が大量にあってこそ、ダイナミックに発展する、無駄が多ければそれだけ発展するというわけではないが。繰り返しになるが、「創造的破壊」の世界が発展する資本主義経済の主要な源なのであり、当たり前であるが、その創造的破壊は他方での大きな無駄を伴うものなのである。

 

中国についてのこの記事を眺めながら、この正反対、同じように計画経済を30年前に解体しながら、全く異なる道を歩んでいる資本主義市場経済化した経済、ロシア経済が、私の頭の中に浮かび上がってきた。資本主義経済として市場の動きに支配されるようになり、競争圧力のもとに大きく変化した経済、この点については中ソで差はない。差は変化したかどうかということ自体ではなく、変化した中身の差異にある。

新たな工業分野への国内(新規)企業の大量参入の話は、計画経済が解体したはずのロシアからは聞こえてこない。聞こえてくるのは、EVを開発する企業群の簇生どころか、既存企業の衰退の姿である。乗用車生産では、計画経済下において、旧ソ連は中国を大きく上回る生産を実現していた。しかし、今や、ラーダを生産していたアフトヴァースは、自社でまともな乗用車を生産できなくなっているようで、EVどころではなさそうである。しかも、EV生産の新興メーカーの出現を、私は聞かない。そこには新産業部門進出をめぐる、巨大な無駄は全く存在しないのかもしれない。

結果、近い将来に世界市場に進出するようなロシア系EVメーカーが生まれる可能性も全く見えてこない。乗用車のEV化が本格化すれば、中国製にロシア市場は席巻される、このことが目に見えている。関税をかけて阻止するどころではない。自国系企業が全く作れないのだから。国内に競争力のあるEV生産部門を持つために巨大な創造的破壊の際の無駄を享受するか、黙って豊富にある天然資源の採掘とその輸出に専念し、工業製品については先進工業国製品の輸入国になり、創造的破壊の巨大な無駄を省くか、である。後者の無駄を被ることを避けることができると同時に、避けることしかできないというのが、まさに、今のロシア経済であろう。すなわち、一次産品の豊富な輸出国であり、旧ソ連時代の先端工業基盤を引き継ぎながらも創造的破壊の担い手を創り出せず、それに伴う朝日新聞の記者が気にしている大きな無駄を気にする必要がないのが、ロシアであろう。そして、その対極に存在するのが、今の中国経済となろう。

 

上記のような中国の新産業形成の特徴を、まとめてみれば、以下のように見ることができる。国に提案され、あるいは民間の企業により先見的に提示され、新市場が見えたとき、多様な母体から、多数の多様な企業が参入し、それぞれが新市場での覇者を目指し、多様な試みを行う。これがまず重要である。多様な多数の試みの存在の重要性ということである。中国の場合、その際の市場は、これまでの先進工業国の中に類例を見ない10億人余の規模の巨大な国内市場である。

その上で、市場の選択により、覇者が選択される。1つには限らないとしても、いくつかの有効な選択が見えてくる。このとき、それらにいち早く取り組んだ企業が拡大する市場を確保し急成長し、出遅れた圧倒的多数の企業が退出する。多数が退出することで、拡大する市場がより少数の企業によって供給されることになる。成功企業の規模の経済性が、急激に高まる。その結果、優位になった企業が価格をより一層急激に下げることが可能となる。さらに、ますますの上位企業への集中、同時に上位企業の個別規模の急拡大が生じる。これが、巨大国内市場を持つ中国での中国国内市場での競争を通しての新産業の形成過程の特徴といえよう。

競争的で無い市場経済、すなわち寡占的市場経済での新製品分野の開拓では、試行錯誤の選択肢が少ない。すなわち大企業によって企業内で市場に出る前に選択され、その財の消費(者)側による選択の機会が極めて狭くなる。また、新市場についても当初より少数大企業による寡占的な市場支配が存在することが多く、参入企業の排除が急速に進むことは起こりにくく、集中が進まず、市場の急拡大が、一層大きな形で特定企業に集中し、急激に規模の経済性を発揮し、価格の低下を一挙に実現するという循環が生じにくくなる。また寡占的市場支配を目指せる企業群においては、価格引き下げによる市場シェアの急拡大が見込みにくい中、価格引き下げによる自社の市場のより一層の拡大への志向が弱くなる。

大規模になる可能性の高い国内市場を前提とした上で、競争的市場として新市場が形成され、そこでの多様な試行錯誤と、失敗企業の急激な退出が生じる。これが新市場の覇者をより有利にし、規模の経済性の実現を容易にし、国際市場での覇者にもなりうる条件を付与することになる。このような状況こそ、中国のEV産業等に見られる特徴的循環といえよう。

敗者の退出による投資の多大な無駄の発生は、新産業部門の急激な発展のためであり、競争的市場経済のダイナミズムに必然的に付随するものとも言える。

 

朝日新聞のこの記事は、中国の資本主義市場経済としての(ある意味での)健全性の依然としての、そして頑とした存在を示している。金融面での中国経済の揺らぎ、政治的な不透明性にかかわらず(?)、資本主義的市場経済としての健全性は中国には依然として存在していることを示唆している。経済学の教科書に書かれているような市場のあり方や競争では無いが。

 

私はこのように考えたが、如何であろうか。

2016年4月9日土曜日

4月9日 加藤弘之『中国経済学入門』を読んで


加藤弘之、2016『中国経済学入門 「曖昧な制度」はいかに機能しているか』
                   名古屋大学出版会 を読んで考えたこと
渡辺幸男


(以下で見る加藤弘之氏の近著は、中国の経済発展を考えるうえで、大変重要な問題提起をし、加藤氏なりの回答を行っているという意味で、注目に値する著作である。それだけではなく、中国の産業発展をどのように考えるべきか悩んできた私にとっても、ある意味で大変示唆的な著作である。私の近著、2016『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』(慶應義塾大学出版会)での認識を念頭に置きながら、加藤氏の議論を紹介し、私なりに検討し評価する)

目次
はじめに
1,著者の言う「曖昧な制度」の各章での具体的内容
2、多様な状況を「曖昧な制度」という概念で括ることの意味
3、中国への現状についての著者の評価
4、混合所有企業、混合市場と市場の効率性
5、垂直分裂システムと「曖昧な制度」
6、小括
参考文献



はじめに
 本書は、タイトルが中国経済入門では無く、中国経済学入門と明記されているように、中国の資本主義発展をどのように把握すべきかについての、著者の基本的考えと、その考えで独自な現代中国での経済現象を説明することを試みた著作である。著者は、中国資本主義を経済理論、少なくともこれまでの先進資本主義国で開発された経済理論では、説明し難い諸現象により発展していると把握する。さらに、この中国独自の資本主義が、著者の言う「曖昧な制度」という考え方を組込むことで、説明可能になると主張する。すなわち、中国の独自性把握の論理を追究した著作である。中国を独自な資本主義、中国型資本主義として把握し、それをいかに説明するか、経済理論から見たら中国が異質であると切り捨てることなく、それ自体を論理的に説明する試みでもある。
 既に著者は、2013年に『「曖昧な制度」としての中国型資本主義』(NTT出版)で、この議論を展開しているが、その後の「曖昧な制度」を巡る研究者間での論争を踏まえ、その事実上の改訂版として出されたのが、本書である。
 加藤氏の中国資本主義の独自性を「曖昧な制度」という考え方で把握するという議論は、私にとっても大変興味深い議論である。私も日本資本主義の持つ独自性を、どのように把握すべきか、具体的には、日本独自の取引関係と言われた下請系列取引関係を中心に研究してきた。そこでの結論は、日本資本主義は独自であるが、それはそれぞれの国民経済が独自であると同様な独自性であり、その資本主義、国民経済が置かれた時代的な内外の経済・市場環境によって、経済学的に説明可能である、というものであった。さらにいえば、経済理論とは、理論研究者が典型的と考えた特定の資本主義、多くはその時代における支配的資本主義経済を念頭に、抽象化、論理化された経済的構造であり、経済的行動である。
 他方で、故中村精氏が主張されたように、日本の資本主義の独自性を、日本社会の伝統的な関係、 タテ社会というような日本社会の歴史的特性に着目し、経済外的に下請系列取引関係の形成を説明しようとした議論(中村精、1983『中小企業と大企業 日本の産業発展と準垂直的統合』(東洋経済新報社)を参照)も存在した。2000年から中国の産業発展を見てきた私にとって、中国資本主義の独自性は痛感されており、その独自性を、私の基本的な発想法から、どのような把握できるか、繰り返し考えてきた。そのような中で、加藤氏の『「曖昧な制度」としての中国型資本主義』に遭遇し、自らの考えをまとめる手がかりを得た。その手がかりを元に、拙著、2016『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』(慶應義塾大学出版会)をまとめた。
 この拙著を出版したのと同じ時期に、加藤氏も前著の改訂版ともいうべき本書を出版され、加藤氏から頂くこととなった。それゆえ、改めて、改訂版である本書をどのように見るべきか、そこから、加藤氏の言う中国型資本主義がどのようなものとして見えてくるか、これを探りたくなった。その加藤氏の改訂版での発想法を、筆者なりに整理し、検討することを目指したのが、この小論である。

1,著者の言う「曖昧な制度」の各章での具体的内容
 それぞれの章の課題に関連して、加藤氏の言う中国型資本主義の中核を構成する「曖昧な制度」を、具体的にどのようなものとして示しているか。この点をまずは見ることにする。
 第Ⅰ部は「基礎編」であり、著者の言う「曖昧な制度」の抽象的な規定を示している。そこでの定義は、「「曖昧な制度」とは「高い不確実性に対処するため、リスクの分散化を図りつつ、個人の活動の自由度を最大限に高め、その利得を最大化するように設計された中国独自のルール、予想、規範、組織」をさす」(p.30)とする。ここでは、「中国独自のルール、予想、規範、組織」の「中国独自」が著者にとっては、最も重要な点であろう。本文での展開から考えれば、この「中国独自」は、中国でしか存在しないことは当然として、中国の100年を超えて維持された「ルール、予想、規範、組織」として存在している「中国独自」ということになろうか。それとも、「中国独自」であれば、歴史的・時間的な広がりとは関係なく、このような内容のどのような「ルール、予想、規範、組織」も含まれるのであろうか。このような定義についての理解の幅を念頭に置き、以下では、「第Ⅱ部 応用編」の各章での「曖昧な制度」の具体的な機能として提示されたものを見ていくことにする。
 まず「第3章 進化する土地の集団所有」では、「土地の集団所有という「曖昧な制度」が有効に機能している事例」(p.58)をとりあげている。そこでは、国有でも民有でもない土地所有として、土地所有の中間的形態であるがゆえに、中国独自の「曖昧な制度」とされている。しかもその独特な土地所有制度が、「土地私有化が引き起こす恐れがある問題を回避しつつ、土地の有効利用を実現する」(pp.74・75)等で、制度が継続されているばかりではなく、独自の有効な機能を発揮しているとする。
 さらに、「第4章 市場なき市場競争のメカニズム ―成長至上主義からの脱却―」では、「行政権限の中央から地方への委譲という請負構造を前提として、昇進を競う官僚に大きな自由裁量権を与え、その業績評価を上級政府が行うことで地方の独断専行をコントロールする・・・維持される「曖昧な制度」」(p.75)としている。ここでは、中間領域故の曖昧さではなく、「包」(請負)という概念に直接つながる請負であるがゆえに、「曖昧な制度」とされている。それが、一面では「高度成長の源泉」(p.93)となっているとする。
 また、「第5章 混合所有企業のガバナンス ―ナショナル・チャンピオンを創り出す―」では、「国有と民営の要素を合わせ持つ混合所有企業という「曖昧な制度」」とし、「大半の競争的市場において混合所有企業が効率的に経営できている理由を」(p.94)分析している。「混合市場の効率性は、市場の秩序と混合所有企業の経済パフォーマンスの二つによって決まる」(p.101)としている。また、「混合所有企業」は「与えられた環境のもとで自己増殖を追求する資本の一形態として、限りなく民営企業に近い効率性を追求している」(p.103)とのべている。
 ここからは、形態ではなく、すなわち、著者の言う「曖昧な制度」という企業の所有形態の曖昧さではなく、企業が置かれた市場環境によって、効率追求企業となるかどうかが、基本的に決まると述べているようにも取れる。そうであれば、所有形態として「曖昧な制度」であるかどうかは、問題ではなく、多様な所有形態の企業が、どのような市場環境に置かれているか、後者の問題こそ、効率性を規定するということになろう。
 さらには、「「所有と経営の分離、中国型」が確立されていることが、混合所有企業が高い経済パフォーマンスを実現した理由」(p.108)とものべている。ここからは、所有形態ではなく、経営がどのような論理で動いているかが重要であり、競争的市場で企業が生き残ることを追求する経営であれば、所有形態はほとんど関係ないということを、著者自身が述べていることになる。
 「第6章 中国式イノベーション ―「曖昧な制度」が促進する技術革新―」では、「最先端の技術ではなく、その技術をもとに実用的な改良を加える技術革新(中国式イノベーション)が中国で生まれた要因を検討し、「垂直分裂システム」という「曖昧な制度」がそれを可能にしていたことを」(p.117)明らかにしようとしている。すなわち、「垂直分裂」が「曖昧な制度」そのものとされている。また、その章では、「複雑なバリュー・チェーン」を「角度を変えてみれば、垂直統合された巨大企業のような固定的組織を作らず、相互に関連する組織や個人が自由に結合と離脱を繰返す中でしだいに形成された、「包」(請負)の連鎖構造と捉えることができる」としている。すなわち、著者は、中国の携帯電話産業におけるような「垂直分裂」的社会的分業を、請負になぞらえている。そうであるならば、中間財の取引はすべからく請負ということになりかねない。結果として著者の言う「包」(請負)は、中間財の市場取引を全て包含する概念となり、逆に「包」(請負)ということの意味がなくなるといえるのではないかと、わたくしに思われるのだが。
 第Ⅱ部の最後の章、「第7章 対外援助の中国的特質 ―グローバル・スタンダードへの挑戦―」では、「ひとまず大きな構想を提起し、細部は後から詰めればよいとする手法」は、「「曖昧な制度」に特徴づけられた中国独自の制度の設計思想に基づくものである」(p.150)としている。「曖昧な制度」は、政策構想立案の考え方とされている。
 以上をまとめてみると、土地所有の中間的形態として、「包」(請負)という概念に直接つながる行政権限での中央から地方への請負として、企業の所有形態での混合性と市場での多様な所有形態の企業の混在として、垂直分裂システムそれ自体として、細部を後から詰める政策構想の立案の仕方として、それぞれ「曖昧な制度」の内容が示されている。その中で、経済学的概念の中間的形態として曖昧な制度であるとしているのは、土地所有と企業の所有形態にかかわる部分である。それに対して、曖昧な制度としての請負は、行政権限と垂直的社会的分業について言われている。最後は政策発想の順序を巡り曖昧さが指摘されている。

2、多様な状況を「曖昧な制度」という概念で括ることの意味
 以上見てきたように、著者は、多様な内容を持つ制度群を「曖昧な制度」として括っている。著者が本書で行っているように、これらの現象について「曖昧な制度」として括ることで、何か社会科学的な意味があることで括っているのであろうか。それとも、色々な曖昧さが市場経済化以前から中国社会にはあり、その多様な曖昧さが、現在の市場経済での中国の独自性をもたらしている、という意味で、それらを「曖昧な制度」として括っているのであろうか。本書の脈絡から言えば、後者のように思える。「中国独自のルール、予想、規範、組織」として、著者は、それらを「曖昧な制度」と呼んでいるのであろう。著者にとっては、中国型資本主義の伝統社会から受継いだ特徴をもたらすものの総称として、「曖昧な制度」といっているように理解される。
 このような視点から加藤氏の議論を検討するならば、第一に、私には、曖昧さと著者が主張している多様な中身を、中国の市場経済化以前からの制度の性格として、1つに括って「曖昧な制度」とすることの必要性が感じられない。経済的概念の中間形態であるという意味での存在の曖昧さと、「包」(請負)という時の取引関係での一括請負の持つ裁量権の請負う側への委譲ということでどのように委託されたことを実現するかの不明確さという意味での曖昧さでは、根本的に内容の異なる曖昧さであり、それらを一つの概念「曖昧な制度」と呼ぶことに、分析上の意味があるとは思われない。前者については、中国の実態の中には、既存の経済理論の概念からは把握できない、中間的形態の存在があり、それであるがゆえに有効に機能していると、述べる必要があろう。後者については、それとは異なり、制度としては明確であるが、委託相手に裁量権を委譲するような取引関係が広範化しているとすべきであろう。このような意味で、これらを一括りで「曖昧な制度」と呼ばず、中国の資本主義以前からの伝統の影響をより一般的に表現する概念を使用してネーミングした方が、著者の議論としては、より適切なものといえるのではないかと思われる。
 さらには、次に検討するように、この四つの「曖昧な制度」の中には、著者の言う「曖昧さ」ゆえに有効に機能しているというより、曖昧でも機能している、否、曖昧にもかかわらず機能している、すなわち、著者の言う「曖昧な制度」以外の他の要因が働くことで経済の効率性の実現を可能にしている、ということができるような議論が、著者自身によってなされている。その限りでは、中国型資本主義の発展は、著者が主張される意味での「曖昧な制度」故に生じているとも言えなくなる。
 以下では、私が専門と関連している、市場経済における中国企業の考え方と、そこでの競争についての議論にかかわる、すなわち、垂直分裂システムと呼ばれているものについての議論と、企業の所有形態が混在しているという意味の混合所有企業の存在と多様な所有形態の企業が混在するという意味での混合市場についての議論を取上げ、本書でどのように議論がなされているかを多少詳しく紹介する。その上で、その議論の意味するところと問題点を指摘し、私なりの説明論理を、「曖昧な制度」に依存することなく展開する。それを踏まえ、「曖昧な制度」の内容が多様であることを整理して中国型資本主義を議論すべきであるという言う以前に、これらについては、「曖昧な制度」という概念を導入することなく、広い意味での経済学的な概念で充分説明可能であることを示したい。

3、中国への現状についての著者の評価
 著者は、「多様な資本主義が存在していることを前提として、中国型資本主義もその一つの形態であると捉えている」(p.17)とのべている。
 私も、著者と同様に、中国型というべきかどうかは別として、日本の資本主義と同様に、中国も独自な資本主義であり、そのそれぞれの独自性の中に、日中ともに高度成長を実現できた要素が存在すると考えている。
 その上で、著者は、「旧ソ連や中東欧等の移行国とは異なり、中国は35年を超えて高度成長を持続するという優れた経済パフォーマンスを実現できた。その理由は他でもなく、中国が長い歴史的伝統を継承しつつ、30年の集権的社会主義の実験を乗り越えて形作ってきた独自の経済システムの優位性にあったと考える」(p.22)とする。ここに著者の「曖昧な制度」への回帰の原点がある。また、この点こそが、私と決定的に認識が異なる点である。
 私は、日本の資本主義の戦後の発展を、戦後の世界経済の中で日本資本主義が置かれた経済環境と、戦前・戦中からの製造業等での技術や人材の蓄積といった経営資源の蓄積、そしてそれらが活用された市場とその環境により、充分説明可能だと考えてきた。それゆえ、わたくしは、「高度成長を長期に実現した」「中国の独自な経済システムの優位性」について、日本の高度成長と同様に、その直前の状況に基づくことで、充分説明可能であると考えている。まさに改革開放の際に中国が置かれた独自な内外の経済環境、市場環境こそが、持続的な高度成長、私にとっては持続的な産業発展を可能にしたと考えている。
 以下では、著者が「長い歴史的伝統を継承」する「曖昧な制度」まで戻って議論することで、初めて説明可能となるとしている、いくつかの現代中国での経済現象のうち、私が産業発展との絡みで議論可能だと考える二つの現象について取上げ、著者の主張を整理するとともに、それを批判的に検討しながら、私自身の説明を展開したい。その一つは著書の第5章で取上げられている混合所有と混合市場での効率性の説明に関してである。もう一つは、第6章で、中国式イノベーションとの関連で取上げられている「垂直分裂システム」についてである。

4、混合所有企業、混合市場と市場の効率性
 著者は、「同一市場において国有と民営が並存し競争する「混合市場」」と、「同一企業の中に国有の様相と民営の要素が並存する「混合所有」」(p.98)を区別しながら、両者を包含した中国の競争的市場が、効率性の面で大きな制約となっていない、という議論を展開している。
 すなわち「混合市場の効率性は、市場の秩序と混合所有企業の経済パフォーマンスの二つによって決まる」とする。その上で、著者は「何らかの規制が加えられない限り、資本はその自体が増殖を追求する存在である」としたうえで、「混合所有企業という国家資本も例外ではなく、政府の思惑がどうであるにせよ、与えられた環境のもとで自己増殖を追求する資本の一形態として、限りなく民営企業に近い効率性を追求している」(p.103)とする。
 ここから見えてくることは、中国の多くの競争的市場が、混合企業や国有企業が存在している混合市場でありながら、それぞれの企業はそれぞれ資本として自らの価値増殖を追求するがゆえに、競争的市場での競争の結果、市場は効率的になっている、このように主張しているということである。混合市場や混合所有企業であるにもかかわらず、競争的市場では、生き残るため、どのような所有形態の企業であろうと、自己の価値の増殖を追求せざるを得ないと述べているといえる。マルクス経済学の資本・企業の理解からすれば、極めて当然の主張である。競争的市場で生き残ろうとすれば、個別企業は所有形態にかかわらず、効率性を追求するし、せざるを得ない。それを怠れば、市場から排除されてしまう。これが、資本主義における競争的市場の大原則であり、競争の強制ということであろう。まさに、私が見てきた中国の自転車産業では、このような現象が生じている。拙著でも紹介しているように、巨大国有企業として改革開放後も拡大を続けた垂直統合型の国有自転車製造巨大企業は、1990年代以降の市場の変化に対応できず、民営化の後に民営企業に買収され、消滅した企業もある。同時に、民営企業と同様な企業システムを構築しえた旧国有企業については、存立形態を大きく変えているが、いくつかの地方政府の出資を受けながら、トップ企業では無くなったが企業としては再生産している。
 ここからいえること、そして著者が言っていることは、中国の多数の混合所有企業の存在する多数の競争的な混合市場が、効率的なのは、混合所有企業が存在する混合市場なのだからではなく、そのような存在にもかかわらず競争的市場だからということになる。中国で、このような競争的な市場が、何故ここまで広範に多様に形成されたのか、これは、市場の置かれた環境の結果であり、市場内での既存企業の存在の仕方によるといえよう。
 いずれにしても、混合所有企業が存在する混合市場は、中国の「曖昧な制度」故に効率的な市場として機能しているのではなく、そのような形態の市場だが、多様な所有形態の企業が競争的市場のなかで、生き残るために「資本・企業」として、所有形態にかかわりなく価値増殖を追求していることにより効率的市場となっているのである。この点では著者と私の間に差異は無いといえる。所有形態のあり方、その曖昧さではなく、市場の環境こそが重要であるということになる。

5、垂直分裂システムと「曖昧な制度」
 中国製造業、特に競争的市場の環境として多くの論者に注目されているのが、丸川知雄氏が中国産業構造の大きな特徴として強調している垂直分裂である。本書でも垂直分裂システムについて「中国式のイノベーションを可能にした」(p.125)ものとして注目されている。
 本書での第6章では、中国式イノベーションが生まれた理由の第一として、「生産の「フラグメンテーション」が進展し、「中国の沿海地域が、・・・部品生産や最終組立の基地」(p.130)となり、「地元企業への技術のスピルオーバーをもたらし、それが中国式イノベーションを生み出す基礎条件となった」(p.131)とする。その上で、「生産基地としての優位性は、必ずしも中国だけのものではない」のに、「なぜ、中国において、中国式イノベーションが生まれ、隆盛を極めることになったのだろうか」(p.131)と自問している。その理由が「「曖昧な制度」と深いかかわりがある」(p.131)とする。すなわち、「携帯電話産業における複雑なバリュー・チェーン」は「「包」(請負)の連鎖構造と捉えることができる」(p.132)ことから、理由の一つとして「曖昧な制度」が存在し、それが垂直分裂という姿を取るがゆえに中国式イノベーションを可能にしたと主張される。
 「曖昧な制度」の一つの内容として「包」(請負)があり、携帯電話産業における垂直分裂システムの形成は、「包」(請負)の連鎖と把握可能であるがゆえに、中国式イノベーションをもたらした一方の要因として、「曖昧な制度」があるという議論である。
 この議論には、大きく2つの疑問を私は感じる。私もフラグメンテーションの進行が、中国でのイノベーションで一定の役割を果たしていること、特に携帯電話産業でのベースバンドICについては海外メーカーに依存し、その他の部分で開発を行うことでイノベーションが可能となるといった際には、フラグメンテーションの進展が大きな意味を持っているであろうと考える。
 また、著者は、「垂直分裂は、・・・「垂直統合」の対立概念である。・・・「取引費用」を削減するため、組織は垂直統合へと向かう。「関係特殊的投資」を行う必要がある場合、・・・企業は垂直統合を選ぶ」という形で「組織の経済学」を要約し、垂直統合に向かうべきなのに、「中国においては・・・これとは全く逆の現象」(p.126)が生じたと見ている。その理由として、「プラットフォームの機能が充分に働き、固定費が引き下げられ、リスクやインセンティブの問題が解決されれば、垂直統合を必要とする力は弱くなる。さらに低い価格による競争が激しくなると、固定費を回避するために垂直分裂を志向する動きが加速する」(p.129)と説明している。
 以上の議論については、差別化による寡占的支配との関連や市場環境の独自性が議論されていない等、私自身の経済学的な理解とは必ずしも同じではないが、著者はここでは基本的に経済学的な枠組みで、垂直分裂を説明している。その限りでは、「曖昧な制度」とはなんら関係なく、議論が展開されている。すなわち、著者の言う中国式イノベーションという中国独自といえそうな技術的発展は、「曖昧な制度」とは関係なく、フラグメンテーション論と垂直統合論という経済学の論理で説明されうると、著者自身にも考えられているのである。しかしながら、先にも見たように、「携帯電話産業における複雑なバリュー・チェーン」は「「包」(請負)の連鎖構造と捉えることができる」(p.132)ことから、理由の一つとして「曖昧な制度」が存在し、ゆえに中国式イノベーションを可能にしたと主張される。
 私には、ここでの議論に、何故「曖昧な制度」を組込む必要があるのか、全く理解できない。(なお、私自身の垂直分裂が中国の産業で一般化した理由についての理解については、これほど簡単な形ではない。計画経済期の技術蓄積や人材の形成・育成、あるいは巨大な既存大企業や外資系企業に占拠されていない国内市場の存在等、異なる要因も組込んで考えるべきだと考えている。この議論そのものについては、拙著『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』(慶應義塾大学出版会、2016年)を見てもらいたい。「渡辺幸男の晴耕雨読日誌(http://sei-ko-u-doku.blogspot.com/)」という私のブログに、垂直分裂システムに議論を絞った、私の考えをアップする予定である)

6、小括
 以上のように見るならば、著者が中国型資本主義の特徴として取上げているいくつかの現象については、「中国型資本主義の本質的な特徴として」の「曖昧な制度」とは関係なく、中国的独自であるとしても経済学的に充分説明できることになる。確かに既存の(開発)理論をそのまま当て嵌めたのでは、所有の問題や垂直分裂の広範化のように理解困難になることもあるが、それは、既存の理論の単純な当て嵌めゆえに生じているのであり、経済学的な理解、説明が不可能であるということを意味するものではない。この点は、先に見たように著者自身の説明が明らかにしている点でもある。
 私が、最初に本格的に学会の議論とかかわった日本の下請系列取引関係も、まさに、経済学的な概念から見れば中間的形態であった。垂直的統合でも無く、かといって垂直的社会的分業(丸川氏の言い方で言えば、垂直分裂)下での(純粋な)市場取引とはいえない形で、下請系列取引関係が存在していた。先に紹介した中村精氏は、このような中間形態であることを念頭に、資本所有関係がないにもかかわらず発注側大企業に下請中小企業が従属するということを意味する準垂直的統合という概念を提起した。その限りでは、極めて適切な把握であり、ネーミングであった。その上で中村氏は、それが何故生じたかについて、中根千枝氏等が社会学の分野で議論されていた日本のタテ社会という伝統に、その成立の根拠を求めた。当時の私にとって、そのような説明は、戦前の下請関係では下請系列的な取引関係が全く存在せず、戦後高度成長期に初めて形成された関係であることを説明することはできないという意味で、許容できなかった。そこから戦後の状況に基づく説明、広義の意味での経済学的な説明の試みを行うこととなった(渡辺幸男、1997『日本機械工業の社会的分業構造 階層構造・産業集積からの下請制把握』(有斐閣)を参照)。
 加藤弘之氏の「曖昧な制度」は、特に「包」(請負)は、まさに中村精氏の言う「タテ社会」にあたるといえる。同時に、具体的な現象の説明では、私から見れば、加藤氏は、私同様、少なくとも混合市場の効率性と垂直分裂については、実際には「包」(請負)からの説明にはこだわらず、経済的な説明を行っているように見える。中国の競争的市場での効率性や垂直分裂システムの形成に関して、「曖昧な制度」で説明する必要は無い、これが、著者自身の議論の展開からも確認できたと、私は考える。

参考文献
加藤弘之、2013『「曖昧な制度」としての中国型資本主義』NTT出版

加藤弘之、2016『中国経済学入門 「曖昧な制度」はいかに機能しているか』
                         名古屋大学出版会
中村精、1983『中小企業と大企業 日本の産業発展と準垂直的統合』東洋経済新報社

丸川知雄、2007『現代中国の産業 勃興する中国企業の強さと脆さ』中公新書

渡辺幸男、1997『日本機械工業の社会的分業構造
 階層構造・産業集積からの下請制把握』 有斐閣
渡辺幸男、2016『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』
慶應義塾大学出版会