2026年6月25日木曜日

6月25日  武内進一編著『アフリカの国家建設  自分たちの国をつくる』を読んで

 武内進一編著『アフリカの国家建設

 自分たちの国をつくる』

白水社、2026年 を読んで

 渡辺幸男


 本著は、私にとり、西欧諸国による植民地とは何か、特にサハラ以南のアフリカ地域にとって、何を意味したのかを、改めて考えること、考え直すことを突きつけられた著作であった。

 

 カリブ海の島々や北米植民地と、そこでの先住民族との関係を通してみた「植民地」形成、先住民族の生活基盤を一方的に破壊し、さらには先住民の生物としての存在を否定し、島々や大陸の主要部分から排除し、島々や大陸空間を、植民する西欧諸国出身の人々の専有物にしてしまう「植民地」、これが一方の極にある「植民地」のあり方といえよう。

それに対して、南アジアや東アジアにみられたような、先住民の社会を再編し、そこから西欧諸国が搾取をする「植民地」、インド亜大陸に典型的に見られたような先住民社会を残し、それを搾取対象として再編成する「植民地」、西欧諸国民が支配者として移民し、現地社会を徹底的に搾取するタイプの「植民地」が他方で考えられる。

私は、今まで西欧諸国による植民地のあり方として、この2つのタイプの存在で理解していた。メキシコや南米のアンデス山脈の太平洋側の諸国は、後者の植民地と質的には同様な関係と理解していた。また、アンデス山脈の大西洋側の地域については、北米のような先住民排除型の植民地と理解していた。

 

そのため、私の頭の中には、本書で取り上げられている、西欧人によるアフリカでの植民地経営と、その後の現地人による独立という植民地関係の独自のあり方についての理解は、極めて希薄だった。

 

本書で描かれているアフリカの植民地は、先住民の一方的排除や皆殺しではない。また既存の先住民の社会そして民族あるいは既存の「前近代国家」を前提にし、それの占領そして支配による先住民搾取型の植民地の形成でもなく、それらのいずれでもない。それらとは異なる形といえる、既存先住民の在り方と無関係で、かつ先住民支配活用を行う植民地形成が生じた。そして、その後、先住民社会のあり方と無関係な恣意的な植民地の境界を前提とした国家が形成された。そのような諸国の現代までの話である。

植民地としてアフリカでそれぞれ一定の領域を支配する西欧諸国、その領域はそこに住む人々とは無関係に占領され分割され、特定の西欧の国の植民地として宣言され、支配される。各植民地ごとに、そこに住む先住民の文化的な一体性や、植民地以前の支配関係とは全く関係なく、各西欧諸国による支配地域の領域が確定され、それを前提に、その領域に住む人々が独立を求める、これがアフリカの植民地の独立、極端に言えば、こういうことになる。西欧各国の植民地形成のための恣意的な支配領域の線引きが、アフリカ大陸については、近々の19世紀に行われ、その結果を前提に先住民による20世紀後半での独立国家の形成が生じ、そして国家建設が行われた。これが本書で記述されている、サハラ以南のアフリカ諸国の成り立ちの大勢ということになる。

 

そんな状況のアフリカで、特に私の無知を大いに自覚させられたのが、ケニアの独立と、その看板、独立の英雄とも言えるケニヤッタ氏の存在についての不十分な認識であった。楠和樹氏による本書の第4章「牧畜民からみた国家建設 ケニアにおけるマサイの領域統治と土地喪失」がそれを明確にしている。ケニヤッタ氏は農耕民のキクユの出身であり、牧畜民であるマサイの人々と、大きくその地域とのつながりや利害が異なっていたとのことである。独立の時期にケニアを含めた広域地域で牧畜業を営んでいたマサイの人々とは、ある面で対立した人である。英雄としてのケニヤッタ氏は、あくまでも農耕民としてのキクユの人々にとってのそれであり、牧畜民としてのマサイの利害とは大きくずれていたとのことである。1960年代、ケニアの独立の報道に接し、私はこのような状況を全く理解していなかった。

しかも、このようなマサイの人々が暮らす地域の分断と縮小は、アフリカの年と呼ばれた20世紀後半の時期に生じている。第一次大戦以降の多くの植民地を含んだ「民族国家」の成立とはあまりにもかけ離れた形で、アフリカでのアフリカの年における独立そして国家形成は生じていた、とも言えそうである。多数派民族の支配する国家の中の少数派民族の問題でもない。民族的な存在と無関係な国家の形成である。

サハラ以南のアフリカ諸国が、1960年代に数多く独立したが、それは植民した西欧出自の人々の独立国家の形成を目指した南アフリカの例はあるが、多くは、そこで元々生活していた人々による、それらの人々の文化や言語に関係なく西欧諸国の占領時における都合で国境を引かれた植民地の、その国境を前提とした独立であったことを、私自身としては、初めて具体的な形で認識させられたのが、本書であった。

先住民の人々による国づくりが始まったわけだが、それは、民族単位の国家とは程遠い以上に、無関係な存在としての国家の出発であった。複数が1つの国になるというだけではなく、民族的存在の恣意的な分断を含むものであった。それも結果的に。

 

このようなそこに住んでいる先住民の在り方とは関係なく、占領していた西欧諸国が勝手に引いた国境、これを大前提に、先住民主体の国家を形成する。これがサハラ以南のアフリカの新興独立国の国家形成の特徴だということである。それから数十年後、南アフリカでの西欧植民者の一方的支配としてのアパルトヘイトが終わり、一層、このような国家形成が一般化したと言える。なお、南アフリカについては、現在多数派として支配政党を担っている先住民系の人々、黒人の方々も、多くは南アフリカ植民地形成後に移住してきた近隣の先住民系の方々とその子孫が多いということが言及されている。植民地形成時の当該地域の先住民そのものやその子孫中心ではないようである。

 

植民地化以前の「民族」を単位としての民族国家の形成、それとは最も遠いのが、サハラ以南のアフリカ諸国なのだということである。国境が先住民の社会と関係なく引かれ、かつアフリカ内でも大規模な移動が生じた、あるいは生じさせられたこと、これらがこのような状況を生み出しているとのことである。

 

ここから生じることは、なんであろうか。

 

まずは、国民国家としての「国民」ないし「民族」の改めての形成の必要、ということになろうか。どの系統の人々が主導権を握るか、それにより、その国の主導者の系統、あるいは言語が決まるということであろう。あるいは、このような状況ゆえに、旧宗主国の言語や文化が、幅を利かせてしまうのであろうか。

 

中小企業研究者になる前の1960年代まで、現代社会の出来事に幅広く関心を持ち、新書等を広く渉猟したつもりだった私、植民地独立闘争等にも関心を持って見てきた筈の私であるが、その知識は1960年代の常識的な、否、浅薄な理解にとどまっていること、これを改めて痛感させられたのが、本書である。

2026年5月27日水曜日

5月27日 初夏のエントランス

 冬をテラスの中で無事越したサルビアの苗、

元気に花をつけています。

 


少し密に植えすぎた感があるのですが、

賑やかさはなかなかなものです。


軒下で冬を越したゼラニウム、

かなり痛みましたが、

残った枝から多くの花が元気に咲きました。

 

私の花を育てる気合いが落ちてきたため、

冬を越す鉢がかなり減りましたが、

初夏を迎え、それなりに咲き始めました。

いつものように、エントランスが賑やかになりました。

2026年5月23日土曜日

5月23日 FT, ‘BIG READ. AUTO INDUSTRY’ を読んで

 FT, Inagaki, K. & E. White, BIG READ. AUTO INDUSTRY,

(22 May 2026, p.15) を読んで 

渡辺幸男

 

 本特集記事は、中国の自動車産業の動向を伝え、分析する、稲垣氏等による最新の特集記事である。本特集の見出しは、「メイドイン中国の欧州車群」であり、「西側の自動車メーカー群は、彼らの自国マーケットに、中国の過剰な生産能力を利用し、低コストの車両を輸出しているが、同時に海外の技術に依存しすぎとなることを恐れている」である。

 

 昨年も、本ブログで、同じ稲垣氏らによって書かれた特集記事を何回か紹介してきた。いずれの特集記事も、中国に進出した欧州系乗用車メーカーを巡る状況の紹介とその意味の分析であった。昨年11月の記事は、ドイツのVWをめぐる記事で、ドイツ国内生産拠点の縮小と、開発を含めた中国での生産強化が、ドイツのVWによって実行されようとしているという、衝撃的な特集であった。今回は、中国で生産する、外資系や中国系のより多くの乗用車メーカーを対象に、ほぼ同様な議論が展開されている。

 ごく単純にまとめれば、中国系メーカーが、中国内での過剰生産と激しい競争を前に、より利益の出る海外市場、それも欧州市場等の先進工業国市場へと進出し、その結果、中国が世界最大の乗用車輸出国となった、という形で、中国系企業も含めて議論がまとめられている。

 そこで紹介されているグラフ、「中国乗用車輸出の爆発」と題された2つないし3つのグラフが大変興味深い。1つは、2021年から2025年にかけての5年間の乗用車輸出台数と同輸出金額の推移を示したグラフである。5年間で200万台から700万台へと台数で約3.5倍、金額で見ると、2百億ドル余程度から11百億ドル程度へと5倍程度の急拡大となっている。

残りの2つのグラフは、2020年と2025年それぞれのトップテンの企業の外資系を含む中国の自動車輸出企業の順位とそれらの輸出台数を示したグラフである。ここで興味深いのは5年間で、第1位の輸出企業の輸出台数が、30万台程度から130万台程度と急増していることと、首位の企業が上海汽車から奇瑞汽車へと入れ替わっていること、さらに2020年には圏外であった比亜迪が2位、100万台を輸出しているということである。なお、上海汽車は2025年でも3位にとどまり、50万台を輸出し5年間で20万台程度輸出を拡大しているが、その拡大が見えにくくなるほど、他の2社の拡大は大きい。さらに注目されることは、全体が急拡大している中で、上位10社のうち5社まで5年間で入れ替わっていることである。

 

半端ではない輸出拡大を実現し、かつ、その主要な担い手は、各社が拡大する中でも、その順位や表記企業が、5年程度の期間で、大きく入れ替わっている。これが今の中国の自動車産業、否、中国の工業全般の状況を端的に表現していると、私には思われる。

同時に、ここで注目されることは、乗用車産業について言えば、海外輸出拡大は、国内生産過剰ゆえの、原価を切った、あるいはそれスレスレの輸出の拡大、すなわちダンピング輸出とは、全く言えなそうもないということである。この記事の中で触れられているのは、海外輸出の方が採算的に合うので、奇瑞汽車は積極的に輸出を拡大しているということである。高度成長期の日本の鉄鋼業に一時期見られたような、国内市場向けの生産過剰下での、過剰製品分の採算を度外視しての輸出と同様なものとは、いえそうもないのである。海外が国内より儲かるから、海外市場を急拡大させている。こう言えるのだという。

巨大な市場に育った中国国内市場を前提に、垂直社会的分業下での国内での諸企業による部材からの一貫した生産の拡大と、EV生産をめぐり多様な分野・側面での技術革新が生じ、これにより、実質的な生産コストが、製品の品質向上を伴いながら下落し、国内需要すなわち市場を一層広げている。しかし、国内市場では競合メーカーが多く、競争が激しく、巨大市場が依然として拡大していながら、寡占的市場支配を実現できず、価格競争も激しく、あまり儲からない。他方で、国内生産体系での技術革新と規模の経済性の実現とを活用すれば、海外市場で強い競争力を発揮することは可能であり、それを前提に、輸出が急拡大しているのが、今の中国の乗用車産業、ということになる。

国際競争力を巨大国内市場の存在を前提としての技術革新を通して実現したが、資本の集中が進まないため、その利益は製品価格の低下と国内市場の拡大へと反映するだけで、企業利益の大幅増にはならない。それに対して、海外市場は、中国のEVメーカーから見たら旧態依然とした内燃機関中心の技術革新の進展が遅い寡占的市場である。そこに輸出や直接投資で進出すれば、高い収益性を実現できる、こんな展望が見えてくる。それを着々と、一部の企業は実現し始めている、というのが、このグラフに表現されていることであろう。

 

また、この記事に書かれていることは、このような中国企業の状況下で、その輸出拡大にさらされている欧州市場、欧州市場の既存企業、同時にこれらの企業はかつて中国市場の形成過程で直接投資を中国に行った企業であった。それらがVWをはじめとして、中国市場の拡大とその技術的先進化の下で、どのように生き残るか模索している姿を紹介したものでもあるといえる。

 

 私が初めて中国の現地調査を経験したのは、2000年であった。それから四半世紀余、中国工業の位置は、激しい競争下での、その先進技術化と、巨大な国内市場ゆえに、独自に発展し、かつて米国市場が占めていた位置を、中国市場も占めるようになり、世界の工業の主役の1つである乗用車の製品・生産技術の発展をもリードし始めたとも言えそうである。そして、その道は、かつての日系企業のように米国市場依存へと傾斜することなく、巨大国内市場の開拓を前提にした上で、グローバル化を実現しそうに見える。

時代は変わった、と改めて感じた次第である。

 

 EV化促進を拒否した米トランプ政権下での米国乗用車工業、そして米国市場に専ら依存する日系乗用車メーカー、これらのかつての覇者企業群は、これからの世界市場でどういう位置付けに置かれるのであろうか。これは乗用車産業だけの問題ではないが。FTでは、乗用車メーカーについては、専ら欧州系メーカーが取り上げられ、米系メーカーや日系メーカーについての分析は少ないようであるが。

 

 さらには、内燃機関の乗用車産業さえ維持し得ていない旧ソ連を引き継ぐロシア工業とその市場、欧州ほどの市場としての魅力も中国系乗用車メーカーにとってはないのかもしれない。欧州市場の周辺市場として位置付けられて、中国系メーカーの進出の対象となるようにも思われる。

2026年5月17日日曜日

5月17日  FT「ロシアのミサイルに西側製の部品が見出された」を読んで

 FT記事、

「ロシアのミサイルに西側製の部品が見出された」を読んで

Miller, C., C.Cook, & N.Sedoon, 

Ukraine war  Western parts found in Russian missiles 

 FT, 16 May 2026, p.2 

渡辺幸男 

 

 副見出しは、「部品は重要な軍事用部材についての輸出規制が始まって長くたってから製造されたもの」と言う指摘と、「「それぞれのミサイルが100以上の西側で作られた(部品)を含んでいる」というVlasiuk氏(ウクライナの輸出規制関連係官のトップ)の発言」からなっている。

 

 内容は、見出しに見られるように、この木曜日に、ウクライナに多数打ち込まれたロシア製のミサイルの残骸からわかったことは、半導体チップ等の主要部品に、依然として西側諸国製の部材が100以上使われていると言うこと、そしてそれがTIAMDといったメーカーの2024年や2025年製のシリアルナンバーがついたものであったということである。すなわち、西側諸国の制裁によって規制されている部材が、ウクライナに現在打ち込まれているロシアのミサイルに依然として使われていることの確認である。

 ロシアは現在ウクライナ侵略のために多数のミサイルを生産しているが、それらの生産のために、米国により輸出規制がなされている多くの部材を第3国経由で手に入れることができているし、また、中国製のクローン部品に置き換えたりもされているということが指摘されている。

 すなわち、西側の制裁により厳しく輸出規制がされているが、第3国経由での入手や中国製への置き換えで、依然として主要部品輸入に依存しながらも、ロシアは、自国製の巡航ミサイルの量産体制を維持し、それをウクライナ侵略に使用している、というのが、この記事の内容と言える。

 

 この記事が確認し、経済制裁との関連で主張していること、それ自体が興味深いといえる。が、私としては、その上で、工業経済、工業発展の元研究者としての私としては、いつもの疑問、そしてそのことの持つロシア経済にとって、長期的な意味の重要性を、その事実を通して改めて感じてしまう。

 

 すなわち、ウクライナ本格侵略開始から4年余が経ち、すなわち、西側の最新軍需製品の主要部材についての対ロシア輸出規制が本格化してから4年が経過しながら、主要軍需製品である巡航ミサイルの主要部材について、依然として西側の部材の間接輸入と中国製クローンの輸入に大きく依存しているし、依存できている、否、依存せざるを得ないでいる、ロシアの軍需産業の状況をどう考えたら良いのか、ということである。すなわち、ロシア工業の現状の産業としての自立性のなさが、改めて確認されたことの持つ意味である。

 

 なぜ、ロシア工業は、旧ソ連のそれなりに先進的であった工業、特に兵器産業の当時の先端的な主要生産機能を引き継いでいながら、主要部材について、間接輸入に依存し、中国製のクローンにさえ依存せざるを得ないのはなぜなのか。豊かな天然資源輸出による資金と旧ソ連から引き継いだ軍需産業をもとに、特に巡航ミサイル等のトータルな部材からの生産技術をもとに、軍需用先端部材についてのロシア内生産化を、何故、実現できないのであろうか、という疑問である。

これが、可能であれば、高い金を払って既製品の第3国からの輸入をしないで済むし、中国に依存しないで自律・自立的な軍需産業を構築できるはずである。旧ソ連からの、当時は先進的であった基礎的な軍事製品生産技術の継承を前提にすれば、素人考えでは、4年という年限は十分とは言えないとしても、それなりに開発を実現することができる年限ではないか、と思われる。兵器産業の人材は元々存在したはずだし、天然資源の輸出により資金もかなり豊富に存在し、需要そのものは引く手数多に存在するのであるから、ロシア国内で、この記事で取り上げられているようなチップ部品を、少なくとも軍需用に特化したものであれば、需要は豊富にあるのであるから、国内量産化を実現できるのではないか。そう考えるのである。

 しかし、実態は、この記事にあるように、依然として西側頼りから抜け出られず、多少なりとも、当初から代替したのは、兵器産業では旧ソ連の技術を引き継いだ後発工業国のはずの中国メーカーの生産に依存することによってである、というのである。これをどう見るべきであろうか。

 

 プーチン政権は、ロシアの工業の改めての先進工業化に向けての政策を放棄したのであろうか。私が、かねて主張しているように、ロシア経済の非工業化が、プーチン政権下、そしてウクライナ侵略戦争下で、一層進行したのであろうか。プーチンの意図としては、先端工業化政策を放棄してはいないのであろう。しかし、ウクライナ戦争遂行のための軍事費を維持し、侵略戦争を国民に受け入れさせるために、ロシア国民の生活水準のある程度の向上の実現との両立を実現させざるを得ない。このような政策をとったことの必然的結果として、少なくとも当面は、先進工業化実現を目指しての大量資金投入を諦めざるを得ない、ということなのであろう。

 豊富な原油等の第一次産品の生産、輸出による豊かな外貨収入を前提にしても、長期化している軍事費拡大と、国民生活のそれなりの向上の実現とで、手一杯であり、本格的な先進工業化へ向けての投資を行うことはできないでいる。それが現状なのであろう。ただ、大量の資金を投入したところで、競争的主体が多数生まれるようなことがないような、今のロシアの生産システムでは、台湾や中国に対抗できるような先端工業化推進を実現できるとは、私には思えないが。

 ウクライナ侵略のロシア経済、ロシア工業にとって持つ長期的な意味、これは、極めて重大であることを、この最近のロシア製巡航ミサイルの構成部品が物語っているとも言える。ウクライナ侵略のために今最も必要な最新型の巡航ミサイルの先端技術を担った主要部品でさえ、依然として西側製か中国製を多く含むのである。ロシア化、国産化の進行は実現していないことを、如実に示す記事となっている。

西側のロシアに対する先端工業部材の輸出禁止という制裁措置は、第3国経由で回避されるか中国製で代替され、巡航ミサイルの生産をロシアは維持できている。できているから、戦争を続行できている。しかし、そのことは、同時に、ロシア国内生産の部材のみでは先進的巡航ミサイルさえ作れない、今のロシア工業の水準を示唆している。そして、ウクライナ戦争勝利のために国内生産化が最も求められる先端的兵器でさえ、部材を含めた国産化には程遠い。こんなロシア工業の現状が露呈している記事である。中国製の部材に依存する、依存せざるをえないことはあっても、国内産の部材にもっぱら依存して巡航ミサイルを製造することはできないのである。

 

プーチンの下でのロシアの非工業化の進行、一次産品輸出国への道の結果的追求は、留まるところを知らない、といったところであろう。こんなロシア非工業化の再確認に近い感想を、私に持たらしたのが、この記事である。

 

 

2026年4月11日土曜日

4月11日 君子蘭とクリスマスローズの活け花

 我が家の春を、

妻が活けました。

 

咲き初めの君子蘭と、実をつけ始めたクリスマスローズです。


廊下で咲いていた君子蘭は、枯れ始めましたが、 

サンルームでも咲き始めました。

サンルームの君子蘭は素焼きの重い植木鉢に植っているので、

今の私には、移動が難しく、

近年は、切り花用に使っています。


その第一陣です。

 

これは、妻が通うカトリック二宮教会に飾られています。

 

サンルームの君子蘭には、

まだ10数本の花枝があるので、

開花の順番に、

切り花として、我が家の玄関等に飾るつもりです。

 

2026年3月16日月曜日

3月16日 春を迎えた我が家の花々

春を迎えた我が家の花々

長年育てていたアザレヤ、

株を増やしたのですが、元の株だけ生き残り、

しかも、買った時の花は、

下の方に咲いているピンクのしぼりの花

それが、いつの間にか、台木の方が元気に育ち、

オレンジの花が賑やかになり、

接木の部分はようやく生きのこり、2つほど花を咲かせました。

 

この写真は、これまた長年育て、株を増やしたクンシラン、

廊下に年末に取り込んだ株が、

本格的に咲き始めました。

例年より、早く咲いたように思えます。


下の写真は、庭で本格的に咲き始めたスイセン、

強烈な香りを振りまきながら、

艶やかな春の姿を見せています。

 

賑やかな春の花々の季節を、

我が家も迎えています。

2026年3月11日水曜日

3月11日 プーチンとトランプは、同じ穴のムジナか?

 プーチンとトランプは、同じ穴のムジナか?

渡辺幸男

 

 プーチンのウクライナ侵略は、2014年のクリミア半島の無血奪取に始まった。そして、ウクライナ東部への侵略、2022年の本格的侵略へとつながる。クリミア半島での成功が、ゼレンスキー政権の崩壊、そして傀儡政権としてのウクライナ元首の挿げ替えを目指した、(後から見れば)不用意な形でのウクライナへの全面侵略開始、そしてウクライナ東部戦線での膠着状態、大量の自国兵士の死傷者発生、すなわち自ら泥沼にハマりにいき、引くに引けない侵略戦争へ、そしてその長期化、それなりの「勝利」の実現の困難化、戦争開始の際の目的を大きく割り引いた上でのそれなりの「勝利」の宣言と終戦との困難化へと繋がっている。

 2026年のトランプは、もっと短期に、同じようなことをしているように見える。ヴェネゼエラからのマドゥーロ大統領の誘拐、そして自国兵士の損傷なく、ヴェネゼエラ政府の米国政府の傀儡化の実現を達成できたように見える。同じことをイランに対して始めた。イスラエルと組んで、最高指導者の暗殺をはじめとして主要政権幹部の暗殺、その後、イラン政府の傀儡化を実現しようとした。

しかし、である。イラン政府は、ヴェネゼエラ政府の副大統領が受け入れたような米国への自国政府の傀儡化について、これを拒否した。結果、米国は引くに引けない状況に、自らを追い込んでいるのではないか。4〜5週間で侵略は終わり、傀儡政権を樹立できるとのトランプの思惑は、大いに外れそうである。

イランはヴェネゼエラではない。ヴェネゼエラでの成功体験が、悪影響をトランプに与え、泥沼へと誘い、世界経済を混乱させ、米国経済にも悪影響を与え、トランプ政権の存立基盤自体を掘り崩しつつある。

このように見えてくる。どうであろうか。

プーチンがウクライナで犯している失敗を、トランプは、もっと短期で、より過激に繰り返すのではないか。

ここでトランプは、引くことができるか、それが勝負どころであろう。引くことができれば、トランプの政権基盤自体は弱体化するが、とりあえず侵略長期化という泥沼にハマることはないことになる。ただ、自らの面子を重視すれば、引くに引けない状況に陥るであろう。

トランプが、ウクライナ援助をしぶり、プーチンに甘いのは、プーチンと同じ発想の、自国の勢力圏たる近隣諸国に対する力による支配を主張する帝国主義的人間であることの反映ではないか。それゆえ、プーチンの行動を十分理解でき、その発想の大元については、これを肯定し、共鳴するからではないか。このように思えてくる。ロシアのウクライナ侵略について危機感を持って身近に感じているヨーロッパ諸国民とその政府首脳たちとの大きな違いが、そこには存在するようである。

 

ここまでを、2026310日午後2時までに書いた。

 

 その日の午後2時過ぎに我が家に届いた、フィナンシャル・タイムズのOpinion欄(p.17)で、ギデオン・ラックマン氏がトランプのイラン侵略の問題を取り上げ、‘Trump’s Venezuela plan is failing in Iran’(トランプのヴェネゼエラ・プランはイランでは失敗しつつある)というタイトルで小論を書いている。そのサブタイトルは、「中東での米国の軍事的介入は、すでに、カラカスで使用されたモデルから劇的に乖離している」というものである。

 そして、その小論の結論部分の最後の2つのパラグラフで、「トランプは明確に敗北している場合でも、勝利を主張することのできるという極めてユニークな能力を保持している」とし、「事態の一層の追求と迅速な撤退との選択を迫られたとき、彼の気質と政治的利害は、損切りへの選択を目指すであろう」と述べる。ただ、「イランでの勝利を宣言し、撤退するのはそれほど単純なことではないであろう」とし、その理由として「当該地域には、米国の軍事基地群、経済的諸資産、傷つきやすい同盟諸国があり、4万人の米兵がおり、トランプは好きなときに戦争を始められるが、同様に好き勝手なときに戦争を終えることはできず、‘Operation Epic Fury’は、‘an epic failure(大失敗)となるリスクがある」と締め括っている。

 

 まさにロシアのプーチン大統領が4年ほど前に踏み込んだ道と、トランプ大統領のイラン侵略戦争開始は、あまりにも共通している。ただ、プーチンとトランプでは、性格が大きく異なることを、ラックマン氏は最後に指摘し、トランプが、プーチンとは異なり、不利な戦況のもとでも、勝手に勝利宣言し撤退する可能性を指摘している。が、しかし、両者におけるその性格に違いも、イラン侵略の際の中東での米国の置かれた環境下では発揮され難く、プーチン同様に戦争の長期化、泥沼化へとつながる道を歩まざるを得なくなるかもしれないと、ラックマン氏は締め括っているのである。

 

 帝国主義者としての似たもの同士、プーチンロシア大統領とトランプ米国大統領、ともに、第2次大戦後の世界で保持していた帝国主義的覇権がほころび始めたときに政権につき、帝国主義国としての再興を目指した。その結果が、プーチンの場合は、ロシア以外の旧ソ連諸国でのロシア人居住地域の分離独立、そしてウクライナ政府の傀儡政権化ないしはロシア人居住地域である東部ウクライナの分離、ロシアへの併合となった。また、トランプ大統領の場合では、WTOのルールを無視した高関税による自国内再工業化の試み、そして西半球の米国にとっての勢力圏宣言と、グローバル規模での反米勢力支配の国家の武力による解体の試みとなったといえよう。

 ただし、奇妙とも言えるのは、第2次大戦後のような覇権国家、帝国主義国家間の対立としての米ソ(今の米露)対決となっていないことである。ロシアがグローバルな覇権国家としての力を失ったこと、旧ソ連、そして旧ロシア帝国領土の回復を目指すに留まらざるを得ないことが、このような米露対決とはなっていない理由であろう。21世紀20年代の覇権国家は、米国と中国ということなのであろう。

 覇権国家から脱落した旧ソ連の継承国家としてロシア、そして覇権国家としての存立が怪しくなってきた米国、その両者に似たような帝国主義的志向の大統領が生まれ、それがウクライナ侵略戦争を引き起こし、イラン侵略戦争を引き起こしたのであろう。

 

 いずれにしても、今、注目すべきは、トランプがラックマン氏のいうように、とにかく勝手に勝利宣言を出し、一方的に対イラン戦争から撤退することができるかどうかであろう。それが可能であり、その可能性を選択しえるのがトランプであるとも言えるのであるから。泥沼にハマらざるを得なかったプーチンとの大きな違いである。

 同じ穴のムジナであるプーチンとトランプであるが、同じムジナでも性格が大きく異なる。自らの思惑外れた時、失敗の締めくくり方が、両者で大きく変わるかもしれない。あるいは、性格が大きく異なるムジナだが、環境がもたらす強制力の方が強く、それが性格の異なるムジナの行動を最終的に決め、結局、両者で同じような結果、戦争の長期化をもたらすのであろうか。

 このような状況がもたらす結果は、他人事ではなく、我々の生活がかかっていることではある。が、興味深いことでもある。