2019年1月25日金曜日

1月25日 渡辺幸男の中小企業研究50年史 その4 第3期

渡辺幸男の中小企業研究50年史 
1968年〜2018
第3期
渡辺幸男
第3期 帰国、教授昇格、単著執筆、そして受賞
19874月〜19993
 留学から帰国後、調査研究プロジェクトへの参加とともに、
自前の調査を仲間の院生の協力も得て実行し、単著2冊の出版へ
単著出版後、ウイングバレー協同組合調査、木工機械工業ビジョン等で、
  主査としての本格的実態調査開始
19874月 渡辺幸男研究会の開始
19904月 慶應義塾大学経済学部教授昇格
199712月 最初の単著出版 『日本機械工業の社会的分業構造』有斐閣
199810月 調査関連中心に2冊目の単著
『大都市圏工業集積の実態』慶應義塾大学出版会を出版
19992月 最初の単著で、中小企業研究奨励賞特賞を受賞
 同 3月  同単著で、慶應義塾賞を受賞
 同 3月  同単著を主論文、2冊目の単著の簡易製本版を副論文として、
慶應義塾大学から博士(経済学)の学位を取得

下請制研究のさらなる進展
英国留学から帰国後、留学時の多少の実態調査と資料収集に基づき、英国中小企業に関する論考を数本書いたが、その後は、改めて日本の下請取引関係を中心とした実態調査を再開し、それをも踏まえた自分なりの下請取引関係論の構築に取り組み続けた。
まずは、私が1984年に入会を認められた学術振興会中小企業・産業構造第118委員会が、商工総合研究所からの受託した調査(「産業調整問題と中小企業 −日本学術振興会調査報告−」)の一部を担当し、改めて東京城南地域の機械工業中小企業の存立形態について、商工中金大森支店の協力を得て実態調査を行い、自分なりの見解をより強固なものとした。それが『商工金融』掲載の「東京城南地域機械工業集積の動向−地域中堅・中企業の企業戦略を中心に」(『商工金融』63年度第3号,19886月)である。同じ調査結果を踏まえ、『日本労働協会雑誌』(19887月号)にも、「機械工業中小企業の多様な生き残り戦略 −東京城南地域企業の事例を中心に−」を執筆した。大都市立地の機械工業中小企業の多様な存立形態を確認できた実態調査であった。また翌年も、同じ第118委員会の受託調査「構造変換と中小企業−日本学術振興会調査報告−」の一部も担当することになり、「自社製品製造中堅・中小企業と首都圏の工業集積 −外注利用関係を中心に−」(『商工金融』19898月号)としてまとめた。
これらの実態調査研究の積み重ねの上で、教授昇格論文として執筆したものを『三田学会雑誌』に2回に分け掲載した。それが「日本機械工業の社会的分業構造 −下請制研究の新たな視座をもとめて−」((上)『三田学会雑誌』823, 198910月,(下)『三田学会雑誌』824, 19901月)である。従来の下請制の議論に欠けていた地域視点を組み込み、地域的な分業をも念頭に置いた社会的分業構造として下請制を把握することを提唱した論考である。ここで山脈的構造の発想が示され、私のその後の山脈型社会的分業構造論へとつながる論考となった。
以上のような実態調査と研究を踏まえ、学会報告を毎年行った。1990年には日本中小企業学会東部地区部会で「機械工業の分業構造−山脈構造と地域視点」(1990121日)を報告し、199110月には日本中小企業学会全国大会の統一論題で、「下請関係と社会的分業構造−下請制論の理論的枠組み」(要旨、日本中小企業学会編『企業間関係と中小企業』同友館,1992を報告した。また、この全国大会統一論題の報告に対する予定討論者は港徹雄青山学院大学教授(当時、現同名誉教授)であり、私の報告に対し、正面から批判をしてくださった。この際のコメントを踏まえながら、1997年の最初の単著をまとめることとなる。
(その縁もあり、港教授に『三田学会雑誌』912号、19987月に拙著の書評を書いていただいた。港教授から最初に、このような書評を考えているという素案をいただいた。その内容は、学会報告の際のコメント同様に、方法的な面からの全面的な批判を前提とするものであった。これで行くがよいかという質問もついていたので、当然、構わない、と返答をした。しかし、実際に発刊された学会誌の書評欄に掲載されていたのは、見ていただければわかるのだが、当初の正面から批判している部分のニュアンスを大きく変えた書評であった。港教授によると、三田学会雑誌の他の書評を見たら最初の書評のような全面的な批判を伴うものはないので、書き直したということであった。残念な港教授のご配慮であった。私としては、港教授からの書評の最初の案を常に念頭に置き、その後、それに反論することを志しながら、研究を続けたとも言える。)
 この時期から、元々の私の関心事は、個別の下請取引関係、特に、その中での系列取引関係の形成に関心があったのだが、それらについてだけではなく、それらが全体としてどのような社会的分業構造を形成しているかという点にも広がった。これまでの中小企業を含めた社会的分業構造についての理解の多くは、下請制を念頭に置いた場合、乗用車産業でのピラミッド構造という形で概念図化されるような理解であった。すなわち、そのような理解は、私が東京で見てきた多様な製品の特定加工だけを受注するような企業、しかも下請関係から見れば2次や3次さらに4次の下請として位置づけられるような存在が、多様な製品の特定加工だけを担って再生産している姿は、全く理解できなくなる。いわば各企業について業種分類の都合で特定の業種分類に当てはめてしまったものを、そのまま実態として存在しているとみるような理解、すなわち製品ごとの階層的分業構造理解に陥ってしまっていた。この点を実態調査から批判的に再構成するために、新たな階層的社会的分業構造、それも取引関係の多様性を含めたような構造図を作ることを考え始めた。

下請実態調査の多様・多数化
さらに、1990年代に入って、既存の調査機関の調査メンバーとして参加した実態調査のほか、自主的に設定した実態調査を行うようになった。調査機関の課題設定から対象や問題意識で外れる部分を念頭に、自主的調査を企画したのである。これには慶應義塾の後輩の院生等にも協力してもらい、川崎等での調査を行なった。同じ調査を中心に、レポートをいくつか書くことも、この時期には行ったが、その場合にも、基本的に、主張する内容、議論の視角等においては、それぞれのレポートに特徴を持たせ、内容的に同一と言えるものは書かなかったと自負している。この点を、どこまで貫けたか、当時の執筆本数の多さから多少疑問ではあるが。
1990年代に入って、多少なりとも原稿の依頼が、学術振興会第118委員会関連で執筆する機会をいただいていた『商工金融』以外の、いくつかの調査研究関連の雑誌から来るようになった。この結果、これまで以上に多くの調査レポートを書きながら、それを下請系列研究そして社会的分業構造研究へと、どのように昇華させるか追究することとなった。
その結果、論文と私が考えているものが、90年代前半には8本、最初の単著公刊の年1997年までにはさらに5本という多さである。また公刊された実態調査報告は、1990年代には1996年前半までで18本という数になっている。この中には、地域視点を加味した機械工業関連の下請企業への聞き取り調査が多く含まれるが、そのほかにも1980年代の下請系列研究についてのレビューや機械工業大企業の海外展開の持つ国内下請中小企業への意味といった内容のものも含まれるようになった。今考えれば、私が研究者として、最も多数かつ大量の原稿を書き続けた時期の1つが、この時期であると言える。これらを整理しながら、最初の単著がまとめられたと言える。
単著の基本的なテーマは、機械工業の社会的分業構造を2つの側面から見ていくものであった。すなわち、下請系列取引関係をどのようなものと見、そしてそれの形成の論理をどのように把握するか、という点が第1のテーマであった。第2のテーマは、それらの取引関係も含め、日本の機械工業の社会的分業構造が、地域視点を入れながら、どのような形態で描けるかであり、あるいは広義の機械工業として一体化して社会的分業構造を考える必要があることを示せるか、という課題であった。
下請系列取引関係については、中村精南山大学教授(当時)の準垂直的統合関係という理解を受け継ぐとともに、それを日本の伝統ゆえに形成されたとするのではなく、戦後の日本の機械工業特に中小企業の置かれた環境から説明されるべきものとし、その論理を展開した。同時に、機械工業の社会的分業構造を、各製品ごとのピラミッド構造的に見ることの誤りを明確にし、機械工業の社会的分業構造概念図として、多様な機械工業企業が下請や外注先企業としての底辺部分を共有する姿を、具体的なイメージとして描いた。より具体的にのべれば、以下のようになる。

トピックス1
旧来の下請制論争の論理的枠組みの否定、
 下請制効率性論の論理的可能性の提示
 旧来の認識:下請取引関係で収奪・被収奪関係が存在しているがゆえに、下請中小企業の技術は停滞する。下請中小企業の技術水準が遅れているがゆえに、発注側大企業から収奪される。
 私の実態認識:収奪されている下請中小企業の技術水準が急速に向上し、日本の機械工業の成長に貢献している。
 論理的帰結:下請中小企業の発注側大企業への被収奪下での従属的発展の可能性と、従属的取引関係(下請系列的取引関係)を形成することでの発注側大企業と受注側中小企業の利害の一致が存在し、それゆえ、下請収奪と中小企業の技術的高度化が共存している。

 日本の中小企業研究は戦前からの蓄積があり、在来産業論から始まり、多くの研究成果を生み出しているが、その中でも多くの研究者によって注目され、議論されてきた中小企業研究の課題は、下請制研究であった。
 戦前日本資本主義の近代工業としての未成熟と、その中でも製造業中小企業の発展の遅れ,そして下請中小企業の経営困難という実態を前に、活発にその克服に向けての議論が展開された。戦前来の下請制論争であり、その中心的な論者は、藤田敬三と小宮山琢二の両氏であった。この二人による下請制論争は、戦後の下請系列論争へと引継がれた。小宮山琢二氏は戦中に亡くなり、論争は、藤田敬三氏と、小宮山琢二氏の研究を引継ぐ論者によって行われた。
 日本の下請制論争として、藤田・小宮山論争では、きわめて激しい論争が行われたが、その論争においては、実態としての中小企業の現状についての認識と、それを説明するための論理的枠組みについての認識について、極めて重要な認識の共有性が存在した。下請取引関係で下請中小企業が、発注側企業としての親企業に収奪されているが故に、経営的に不安定であるとともに、技術的停滞に陥っている。すなわち、「下請取引関係での収奪・被収奪関係の存在 ⇔ 下請中小企業の技術的停滞」という認識の共有である。小宮山琢二氏のいうところの日本の製造業中小企業の「二重の隔絶性」が再生産される根拠が、ここに求められた。
 戦後の下請系列論争も、一方の当事者を藤田敬三氏とし、かつこの認識の共有を出発点として展開された。その過程は、高度成長過程でもあり、中小企業の中に、技術的に高度化しながら、急速に成長する企業が多数形成され、また、小零細企業の中にも、規模的には小零細企業に留まりながら、技術水準としては大企業に対するサプライヤとして充分機能する企業群が形成された。技術的な意味で言われていた「二重の隔絶性」の克服が実態として生じた。
 この中小企業の技術的発展の実現の実態的確認から、藤田小宮山論争で共有されていた、「下請取引関係での収奪・被収奪関係の存在 ⇔ 下請企業の技術的停滞」という下請制認識における論理的枠組みを、そのまま前提にし、実態としての大企業・中小企業の取引関係での確認を当面無視し、議論を展開し、既存の下請制収奪論を批判したのが、中村秀一郎『中堅企業論』(東洋経済新報社、1964年)と、清成忠男『中小企業の構造変動』(新評論、1970年)の2著作である。これらの著作は、私の学生生活開始時において、極めて大きな影響力をもった、実態調査研究に基づく著作であり、下請企業の技術的高度化の進展と同時に、下請制下での収奪の依然としての存在を目の当たりにしていたものにとっては、論理的に克服しなければならない著作でもあった。
 これに対し、中央大学経済研究所編『中小企業の階層構造 ―日立製作所下請企業構造の実態分析』(中央大学出版部、1976年)では、日立製作所の階層的下請構造の実態研究によって、日立製作所の日立地域の専属的下請企業層での技術的高度化と、日立製作所による下請中小企業収奪との共存の実態が明らかにされる。すなわち、「下請取引関係での収奪・被収奪関係の存在 ⇔ 下請企業の技術的停滞」という認識の現実的妥当性への疑義、ないしはその不当性が実態的に確認されたのである。
 実態認識から、下請被収奪企業である下請中小企業それ自体の技術的高度化が、ジュニアパートナーとしての発展として存在しうることが確認された。中村秀一郎や清成忠男両氏のように、藤田・小宮山の双方が共有していた論理的枠組みを前提に、実態からの示唆を位置づけるのではなく、藤田・小宮山両当事者に共有された論理的前提、論理的枠組みこそが、実態認識から批判されるべきことが明確となった。両者に共有されていた認識を前提に議論することは、戦前における実態からの誤った論理化を前提することになることが、実態によって確認されたのである。
 ここから、収奪・被収奪関係の存在と被収奪者の技術的高度化の共存の実態確認に基づき、両者の共存の論理の構築が求められることになった。日本の下請制のなかでは、収奪者である発注側大企業にとって、収奪対象の中小企業が、収奪可能であるだけではなく、被収奪者の技術的高度化を必要とすること、さらに、その技術的高度化が収奪の下で可能であること、これがまず論理的に説明される必要があることになる。
 これらのことから、実態から示唆される状況を説明可能とする論理の必要性が生じ、マルクス経済学的な競争についての把握の論理的枠組みのもとで、説明の試みがなされるようになった。すなわち、売り手の存立実態と売り手間の競争、買い手の存立実態と買い手間の競争を基本的な論理の軸として、この関係の組合せの中で、下請取引関係での収奪と、被収奪中小企業すなわち売り手の中小企業の技術的高度化の可能性の余地の存在を説明する努力が試みられた。結果として、発注側大企業にとって、支配従属対象の中小企業の技術的高度化の必要性とともに、技術的高度化のために従属と被収奪を甘受する売り手側の下請中小企業の論理が、実態を踏まえて確認された。すなわち、支配従属下での下請系列的取引関係の形成であり、被収奪者である下請中小企業の、被収奪下での技術的高度化の余地の存在の論理的確認が行われた。ジュニアパートナーとしての下請中小企業把握であり、従属的下請系列取引関係と私が呼んだ関係の論理的確認である。
 私が実態認識を通して解明した下請系列取引関係とはどのように認識されるものであるか、多少より具体的に述べるならば、以下のようになろう。
 大都市圏産業集積地域や特定巨大企業の城下町型産業集積として、それぞれ地域内で完結した生産機能を保有した産業集積内で、日本独自とも言える下請系列取引関係は形成された。この下請系列取引関係が、何故、戦後日本で形成される必要があったのか、形成されたのか、発注側企業と受注側企業の双方からの必要性を通してみていく必要がある。
 より具体的には、まずは、発注側大企業の側にとって、高度成長過程で下請系列化の必要性は、高度成長過程の生産拡大と技術水準高度化のもとでの量的・質的両面での生産能力の確保にあった。高度成長過程は、急激な生産拡大を伴い、なかでも機械工業はより急速な生産増大を実現した。そのため、大企業は、この需要の拡大に対し、自社内では自社の戦略的中核的部分の生産能力の拡大で手一杯の状況であり、周辺的な部品や加工の生産能力は慢性的な不足状態にあった。この周辺的な生産部分の優先的な生産供給源を確保することが、需要の増大に対応するためには必要不可欠であった。
 同時に、単なる量的確保だけではなく、周辺的部分とはいえ、常に技術的高度化をともないながらの量的供給能力の拡大を求める必要があった。しかし、大企業よりさらに遅れた企業のみ利用可能な状況下にあり、発注側大企業にとっては、発注側大企業の技術的高度化について行く意欲のある優良な受注生産型中小企業を選抜し、周辺的部分での供給能力を量質両面で高度化させることが必要とされた。
 それゆえ、相対的に優良な中小企業が大企業との従属的下請取引関係、被系列化を受け入れた理由は何かが、次ぎに問題となる。この点を抜きには、所有的に自立した企業間の取引関係で、支配従属関係が形成され、再生産されることはありえない。まずは、戦後状況の中で独立開業が急増し、中小企業間の激しい競争が存在したことが重要である。激しい中小企業間の競争の中で、中小企業が生き残り成長するのに必要なのは、成長市場の確保と、他の中小企業の技術水準を上回るための技術水準向上の機会である。成長市場を確保し、同時に技術水準のより急速な向上を実現するために最も有効な手段の1つが、有力な発注側大企業と従属的取引関係に入ることであった。
 しかも、当時の技術水準向上は、先進国からの技術導入が中心であり、この導入が可能なのは、ほぼ大企業に限定されていた。中小企業としては、技術導入能力があり成長著しい大企業に従属し、そのジュニアパートナーとして、周辺的技術の向上を担い、企業成長を目指すことが、激しい中小企業間の競争を勝ち抜くための最も有効な手段の1つであった。それゆえにこそ、当時の中小企業層内で相対的に優秀な部分の中小企業が、積極的に発注側大企業に従属し、自立的な展開を断念し、ジュニアパートナーの地位を甘受したのである。
 このような内容が、私の下請系列化を通しての日本の機械工業の急速な発展の論理であり、中小企業の実態研究から、マルクス経済学の競争論を媒介として把握した論理である。一定の時代環境において、日本の機械工業がおかれた独自な状況下で、下請系列取引関係は機械工業全体の生産性上昇、効率化に極めて有効に機能したということが確認された。同時に、このことは、一定の環境下で機能したのであり、環境が変化すれば、その関係そのものの再生産の基盤の喪失が生じ、生産性上昇への有効性も大きく変わることを示唆している。既存理論の演繹的活用のみで、下請系列関係の意味を議論したのではないがゆえに、下請系列取引関係の有効性と限界性を見ることができた。日本経済がおかれた時代的環境という前提を抜きに、「日本的」取引慣行として、下請系列取引関係を把握することの不当性が、実態を通して認識された論理により、示唆される。

トピックス2
下請制を含めた社会的分業構造把握のための論理的枠組みの欠落批判、
 山脈構造型社会的分業構造概念図の提示
 旧来の認識:機械工業の社会的分業を、下請取引関係中心に、それもピラミッド型の社会的分業関係で表現する。
 私の実態認識:ピラミッド型での下請取引関係では表現できない、日本の機械工業における多様な社会的分業関係が存在する。
 論理的帰結:より多様な社会的分業関係を包含する山脈構造型社会的分業構造図で、日本の機械工業の社会的分業を表現する。

 さらに、下請制の検討を通して、私は、下請制を機械工業の社会的分業構造の大きな枠組みの中に位置づける必要性を痛感した。機械工業における取引関係は下請取引関係や下請系列取引関係とは異なる取引関係を、中小企業絡みでも多く含んでいることを、実態調査を通して感じ取った。しかし、より一般的な取引関係を表現する場ないしは概念図がなかった。当時の中小企業がからんだ機械工業の取引関係を表現する典型的な模式図が、ピラミッド型下請取引構造図ともいうべきもので、巨大企業の完成品生産企業を頂点に据え、その下に末広がりに1次、2次、3次と下請企業群を位置づける、特定企業、ないしは特定企業群の下での階層的下請構造を示す概念図しかなかった。
 これを通しては、ニッチ市場向けに特殊機械を開発供給する中小の機械完成品メーカーや、多様な業種の多数の企業に供給する特定加工に専門化した中小企業等、多様な存立形態を持つ機械工業中小企業の存立実態を位置づけることは、全く不可能になる。実際に、大田区の機械工業小零細企業を調査してみると、極めて多様な存立形態が存在し、ピラミッド型下請取引構造からはみ出てしまう企業の方が多数派であることが理解された。
 この点の問題点を克服し、現実の多様な機械工業の中小企業の存立形態を、より表現可能にするものとして提示したのが、山脈構造型社会的分業構造図である。ピラミッド型下請取引構造に表現される下請系列取引関係や下請取引関係を包摂するとともに、中小の完成品機械メーカーや、特定業種の受注先にのみ依存しない特定加工に専門化した中小企業の存在を位置づけられる図となっている。 

1 山脈構造型社会的分業構造図
:山脈構造型社会的分業構造概念図2.pdf

 この山脈構造型社会的分業構造図は、図1のように、企業規模と、各企業の専門化の状況そして加工段階別の企業間での物の流れの方向を、大づかみに概念図化したものである。縦軸には企業規模をとり、下部ほど小規模な企業が位置づけられ、上部は日本を代表するような完成品の巨大企業が位置づけられる。この図全体で日本国内に立地する20万余の大小様々な工場を保有する日本の機械工業の企業群全体を表現している。
 横軸は機械工業のそれぞれの市場の広がりの念頭におくものである。点線等の直線はいずれも取引関係を表現している。ここでは取引関係の対等性の有無を念頭におき、それらを使い分けている。また、楕円で表現されているものは、完成品生産企業と完成部品生産企業の場合は、それぞれの製品に関する競争相手の範囲、すなわち直接的競争企業群の範囲を示している。それに対して受注生産型の特定加工専門化企業の場合、特定企業からの受注を巡り競争する直接的競争企業群ではなく、楕円の範囲はそれぞれの特定加工に専門化した企業群全体を示す準直接的競争企業群の範囲を示している。(なお、準直接的競争とは、専門化した加工等の業務内容を大きく変化することなく、ある程度の受注開拓努力を行えば、完成品での業種を越えて相互に参入可能な企業間における競争を指している。この概念も、同一企業から受注している同種の加工に専門化した企業間の競争(直接的競争)と区別し、同時に本格的な異部門参入とも異なる競争関係を、実態に基づき表現したものである。)
この山脈の数多くの頂き部分は、様々な機械工業の完成品市場へ供給している企業群、すなわちそれぞれの頂きがそれぞれの完成品生産企業群を表現している。頂きの高さには高低様々なものが存在している。それは、機械完成品市場に供給する企業には、大小様々な多様な企業からなる諸製品分野が存在することを表現している。しかも、多くの場合、巨大企業が専ら供給する市場は市場規模も巨大である。また、中小規模の企業が供給する市場は市場規模としても中小規模の市場が多く、専ら中小規模の企業群によって供給されている傾向が強い。それゆえ、高い頂きの部分は巨大企業によって専ら供給されている市場に供給する巨大企業群を表現し、低い頂きは中小企業が供給している完成品市場に供給する中小企業群を表現している。機械工業には大小様々な企業によって供給される多様な完成品市場があるということを、明示している。また、その数は、分野数でみても企業数でみても極めて多く存在する。
山脈からつきだした頂きの中腹部分は、それぞれの頂き部分の完成品生産企業へ専ら供給している完成部品生産企業群からなる。これらの完成部品については、特定製品用に専門化された部品ということで、完成品生産企業群とともに独立した峰を構成している。また、多様な製品分野に供給するような完成部品供給企業群は、多くの峰が共有している山腹部分に位置づけられる。また、大企業の完成部品生産企業が外注取引関係を通して、中小企業の完成品生産企業へ部品を供給している場合も多く存在するが、この図では描ききれていない。
山脈の山腹の大部分を占めるのは、中小零細企業を中心とした特定加工に専門化した受注生産企業群である。それぞれの専門化した加工分野ごとに準直接的競争関係にある企業群を構成している。山脈の最底辺部には熟練工が開業した一人親方の特定加工専門化零細経営や、さらには家庭内職との境界にあるような夫婦だけの不熟練組立加工専門化零細経営が位置づけられる。これらの特定加工に専門化した受注生産型の企業群は、多様な分野の完成品生産企業や完成部品生産企業そして特定加工専門化企業から特定部分だけの加工を受注し存立している企業群である。
これらの特定加工専門化企業群は、個別の企業としてみれば、特定製品分野へ専門化している企業が多く存在する。しかし、専門化しているのは、特定加工にであり、多くの場合特定製品関連の加工のみを行っているということは、その製品分野に専門化していることを意味せず、環境が変われば、そのまま他の製品分野の同一加工の仕事を受注することになる。それゆえ、競争している企業群としてみれば、すべての機械工業関連分野、そして家具や暖房器具といった多くの金属使用製品分野の共有の当該の加工専門化企業群となっている。いわゆる、底辺産業や基盤産業といわれるものを指している。
このような形で機械工業の社会的分業構造を描いたことで、多様な取引関係、存立形態の存在を位置づけることができるとともに、どの企業がどの企業と競争しているかも、きちんと認識可能となった。これまで、乗用車の部品の加工をしている中小企業の競争相手は、先験的に同じ製品の生産に係わる企業に限定されて考えられてきた。しかし、それは、あくまでも業種分類上の結果に過ぎず、実態としては、同じ機能を他の製品の部品の加工にも応用できるのであれば、専門化した加工分野の幅広い企業と競争しているのである。このことが、中小企業の存立に極めて重要な影響を与えているのであり、このような関係を理解可能にしたのが、本構造図ということができる。まさに実態を通して確認したがゆえに、このような図を書くことが可能となった。業種分類を前提に議論を始めるならば、そのこと自体から、このような把握は不可能となる。理論どころか、統計把握のための便宜的な類型分けが、実態を見えなくしているのであり、実態から統計上の類型分けの意味を検討することが不可欠なのである。

トピックス1とトピックス2の集約
 このような論理的枠組みからの日本の機械工業での私の下請制研究が、20年をかけ、拙著『日本機械工業の社会的分業構造 階層構造・産業集積からの下請制把握』(有斐閣、1997年)に結実した。

博士学位取得と受賞
1997年に上記単著を発刊し、それとともに、1998年に慶應義塾大学出版会から、同著の実態調査編ともいうべき『大都市圏工業集積の実態 日本機械工業の社会的分業構造 実態分析編1』を出版した。最初の著作とこの2番目の著作の簡易製本版を主論文と副論文として、博士学位を申請した。
私が博士課程を単位取得退学した時期には、課程博士の論文提出期限はなかったと記憶しているが、私が教授昇格をし、経済学研究科委員に就任する前の時期に慶應義塾大学院経済学研究科では、課程博士学位論文の提出期限を博士課程入学6年以内と限定したようである。その結果、私の学位は課程博士ではなく、論文博士の申請となった。また、当時は、博士学位を取得していなくとも、教授に昇格することは、教授昇格論文を提出し、それが昇格を認めるに値すると認められれば、可能であった。そのため、私の場合は、1990年4月に教授に昇格してから8年経った1998年に、先の2つの著作で博士学位を申請することとなった。
学位審査の主査は、島田晴雄経済学部教授(当時)で、副査は中小企業研究の専門家で東京都家内労働調査の時から実態調査研究について学ばせてもらってきた池田正孝中央大学教授(当時)と北村洋基経済学部教授(当時)であった。なお、佐藤芳雄教授が健在であれば、当然副査に入ってもらいたかったのだが、残念ながら、すでに病にたおられ、お願いすることができなかった。また、当時はまだ外国語文献についての読解能力も審査対象であり、杉山伸也経済学部教授(当時)が英語審査を担当し、丸山徹経済学部教授(当時)がドイツ語審査を担当した。杉山教授には文献を指定されての翻訳の提出をし、丸山教授は、好きなドイツ語文献を翻訳することを課題とされ、VWの生産ラインについての文献を翻訳し、提出した記憶がある。
結果、同世代の3人によっても審査されたことになる。何れにしても、語学力も含め、合格ということで、1999年3月に慶應義塾大学で博士(経済学)の学位を取得した。同時に、この最初の単著で、財団法人(当時)商工総合研究所の中小企業研究奨励賞の特賞を受賞し、また慶應義塾賞の受賞の栄にも浴した。中小企業研究奨励賞の授賞式の際に、ここでも父の言葉を思い出し、挨拶に入れた。すなわち、自らの存在評価は、自分ではできない、他の人の評価により決まるのだという、父の口癖がおもいだされ、審査委員長の瀧澤菊太郎名古屋大学名誉教授(当時、故人)の前で、ようやく自分も研究者として認められたと自覚できたと話した。また、豊橋創造大学学長を務められていた鈴木安昭青山学院名誉教授(当時、故人)から、過分とも言える審査員選評を書いていただいた。私としては、50歳を過ぎ、20歳で中小企業研究に関わり始めてから30年余の歳月を過ごし、中小企業研究奨励賞特賞の受賞で、中小企業研究者として認められ、自らを一人前の中小企業研究者と自認しても良いと、ようやく実感できたのである。
なお、最初の著作を出版する1年前の1996年度には、初めての特別研究期間を1年間取得した。ゼミの担当はやめなかったが、他の講義や学部業務等の義務を全て免除され、著作をまとめあげることに集中することを許された。1996年度の1年間は、私の研究で欠けていた、統計的にすなわち量的に自ら発見したことの重要性を確認する作業に従事できた。そのため、産業連関表を加工し、業種分類を前提しての話であるが、機械製品の生産をめぐる企業間取引が機械工業と呼ばれるものを越えて幅広く存在していること等も明らかにした。産業連関表を作ることはできないが、必要に応じて加工利用することはできることを実感した。その成果が、「日本機械工業の範囲と統計的推移の分析 ―社会的分業構造把握のために―」(『三田学会雑誌』901号、19974月)である。

2019年1月20日日曜日

1月20日 渡辺幸男の中小企業研究50年史 その3 第2期

渡辺幸男の中小企業研究50年史
1968年〜2018
第2期

渡辺幸男


第2期 慶應義塾大学経済学部助手・助教授昇格・英国留学
 19774月〜19873
 英国留学前、実態調査がらみの研究調査プロジェクトに一メンバーとして
積極的に参加、調査報告書にも数多く執筆
19774月 慶應義塾大学経済学部助手に就任
19822月 佐藤芳雄編著『巨大都市の零細工業』(日本経済評論社)で、
      執筆者の一人として中小企業研究奨励賞本賞を受賞
19834月 慶應義塾大学経済学部 助教授昇格
19844月 日本学術振興会産業構造・中小企業第118委員会委員に就任
19853月 慶應義塾福澤基金により英国ロンドン大学LSEに留学開始
19873月 同 留学より帰国

 慶應義塾大学経済学部の助手に採用されてからも、講義等の義務はなく、院生時代の最後の時期と同様に、もっぱら調査に飛び回り、そこからの成果を調査報告書としてまとめ、自らの論文へと昇華することが許された。
1977年には、これまた佐藤芳雄教授が窓口となって受託した港区の実態調査に参加することができた。その調査、「港区における中小企業の実態と問題点」 [I, 港区における中小企業の生成と特色,III-3, 機械金属工業の構造変化,IV-4,建設業の動向]  ( 港区役所『港区中小企業実態調査報告書』19783月所収では、港区の機械工業中小企業の聞き取り調査を本格的に行うことができた。港区は、城南の機械工業集積の発祥の地だが、大都市中心部への組み込みの中で、質的変化をしていることを確認した。特に白金地区などでそれが顕著であった。旧来の東京城南の機械工業集積の残存部分とともに、大都市中心部の本社の開発がらみの仕事を受託する企業も目立った。同じ城南地域にありながら、その集積の中核地域となっていた大田区と、都心化し集積としては周辺化しつつあった港区では、その存立のあり方も微妙に異なることを確認した。
さらに、佐藤芳雄教授が委員長を務めた、墨田区の製造業事業所全数アンケート調査の個票を分析する機会を、墨田区の好意で与えられ、大都市の零細企業が、個別企業として、零細企業層として、多様な製品分野の多数の取引先と取引している実態を、統計的に確認することができた。その統計分析の結果が、「墨田区金属プレス加工零細経営の分析()  −統計分析 −」(『三田学会雑誌』726, 197912である。これにより、事例調査では確認できない規模で、プレス加工に専門化している零細企業が、零細規模でありながら、多様な製品分野の企業から受託している実態を量的に確認できた。
その上で、実際に墨田区のプレス加工零細企業が、個別企業としてどのような受注先を開拓し、また時系列的に変化してきたかを、10数件の規模であるが、聞き取り調査を行うことで、より具体的に確認したのが、「墨田区金属プレス加工零細経営の分析()  −事例分析 −」『三田学会雑誌』734, 19808)としてまとめられた、1980年の聞き取り調査結果であった。
 ここにまで漸くたどり着いたのは、1970年代の末あるいは1980年代初めであり、その成果は、まずは、佐藤芳雄編著『巨大都市の零細工業 都市型末端産業の構造変化』(日本経済評論社,1981)の「章 城東・城南の機械・金属加工業集積立地の機能と存立基盤」としてまとめられた。博士課程に入り、零細企業を中心とした中小企業の実態調査研究を本格的に志した1972年から数えれば、足掛け10年かかったことになる。
 なお、この著作で、我々は、中小企業研究奨励賞本賞を受賞した。
 補論 この東京の小零細企業集積の独自な機能については、私の1993年の諏訪地域のコンベアシステムメーカーでの聞き取りで、地域外の企業にとって、東京の集積がどのような存在であるか、再確認された。すなわち、同社は、諏訪地域で100社規模の外注先を利用しているのだが、当時でも首都圏の方が単価は諏訪地域と比較して2割ほど高いにもかかわらず、川口市にある同社の工場を経由して、埼玉や東京の機械加工や板金加工の企業も外注利用していた。その理由としては、諏訪では個別に外注しているものを、首都圏ではまとめて外注できるという点を指摘していた。それは首都圏の外注先が自らのネットワークを持っていて、一貫受注した加工に迅速かつ品質的に問題なく対応できるためであるとしていた。それゆえ、同社は納期のないものについて、首都圏の外注企業に依存し、納期に余裕のあるものについては、諏訪の地元の外注先を利用していた。(渡辺幸男、1997『日本機械工業の社会的分業構造 階層構造・産業集積からの下請制把握』(有斐閣)のp.217参照)

多様な調査への参加と下請制研究への道
 同時にこの間も、既存の統計や報告書等をもとに、機械工業の投資動向の実態調査を行った。「最近の中小企業の設備投資動向  −機械工業を中心に中小企業研究センター『調査研究報告No.2019783がそれである。
さらに、この時期から、佐藤芳雄教授がらみの委託調査への参加のみならず、日本労働協会での調査研究等に関しても声がかかるようになった。その報告書への一文が、「鉄鋼業における雇用調整の実態」(神代和欣編『単調労働産業における労働時間を規定する要因に関する研究』日本労働協会、19793月所収)である。
私としては、このような調査に関しては、声がかかれば、基本的には応じることにしていた。これは院生仲間の黒川和美さん(元法政大学教授、故人)が、彼の指導教授であった加藤寛教授(当時)から、「若いうちは、依頼があった仕事は断らないこと」と言われた、というのを伝え聞き、私も実践することにしたことによる。加藤寛教授のようには多数の仕事は来なかったが、私なりに、毎年色々な組織からの仕事も引き受け、何百枚かの調査報告書を書き続けた。
(なお、私は、こういっても、これまでの中で2回ほど、オファーされた調査がらみの委員への就任を断ったことがある。1回目は、東京都の仕事で、地場の製品の中で、地場の特性を生かした優れた製品と思われるものに、東京都のお墨付きを与えるといった中で、製品の選考の委員がらみのものである。委員になった最初の年、2000年ごろだとおもうが、その時には依頼の趣旨を踏まえ、真面目にいくつかの製品を選考した。当時、都知事が石原慎太郎氏になり、それ自体は評価していなかったが、中小企業の振興策とは別の次元の出来事と考え、趣旨に従い選考を行ったのである。が、その結果は完全に無視され、石原知事が選考製品を全面的に入れ替えてしまった。そのこと自体については委員長には連絡が入ったらしいが、委員である私は全く知らされなかった。それにもかかわらず、都から中小企業振興絡みの委員会への委員就任を打診された。委員を全く信頼しない、また無視する都知事のもとで、委員として振興策を検討することの虚しさを感じ、委員への就任を断った。それ以来、東京都からは中小企業がらみの委員会や調査委員への就任の依頼は全く無くなった。
また、同様に港区の中小企業振興のための施策に関わる委員会、多分港区中小企業振興審議会だと思うが、この委員会では佐藤芳雄教授の跡を継ぎ、当初委員として参加したが途中から委員長ということで参加し、ほぼ毎年諮問された課題に対し答申を行ってきた委員会である。その審議会だが、数年開催が途絶えた。ただ、審議会の存在とその審議会の委員長が私であることには変わりがなかった。その中で、数年音沙汰がなかった審議会が再度開催されることになり、委員長として対応するように港区から求められた。私としても、これまでも担当してきたこと、慶應の地元の港区の中小企業の振興策についての審議会であり、佐藤芳雄教授のもとで港区の中小企業振興策策定のための本格的実態調査も行ったこともあり、当初は、積極的に応じるつもりであった。
しかし、委員会の打ち合わせに出席して、何故、数年にわたりこの審議会が開催されなかったのか、担当者の長に尋ねたところ、「港区の中小企業に問題がなかったから、開催する必要がなかった」という回答であった。これは1990年代のことである。中小企業に、港区といえども問題がないどころか、問題が山積していたことは明白である。それにもかかわらず、このような発言を担当部局の長がした。呆れて、このような中小企業認識の役所では、中小企業振興施策についての検討を行うことは、私としてはできないと判断して、その場でその年度の委員長への就任を断った。
結果、何も事情をご存知なかった、青山学院大学の港徹雄教授(当時)にお鉢が回ったようである。ご迷惑をかけてしまったが、私としては、港区行政当局の地元中小企業についての基本的認識とそれに基づく姿勢に賛同できず、委員長を継続することはできなかったのである。これまた、私の本務校、慶應義塾大学の地元の区であるにも関わらず、その後、中小企業関係の委員への就任についての打診は、全くなくなった。)
また、零細企業についての実態調査研究の成果の要約版を、当時の中小企業研究の大きな流れの1つを担っていた渡辺睦明治大学教授(当時、故人)等のグループの中小企業研究書のシリーズの1つの章として掲載することを許された。それが「大都市における零細工業の役割」(渡辺睦編『80年代の中小企業問題』新評論, 19824月所収)である。同時に、この成果を学会報告した。1980年時点では、日本中小企業学会の全国大会は始まっておらず、日本経済政策学会での報告であった。「大都市金属加工零細経営の存立基盤  −東京の城東・城南地域の場合 −」(日本経済政策学会第37回大会, 19805月)というテーマでの報告で、要旨は、日本経済政策学会年報XXIX 『経済政策の国際協調と日本経済』(勁草書房, 19815)に掲載されている。この学会では、できるだけ資料を見てもらおうと、B4用紙にいくつものグラフや表を細かく多数載せて、コピーして配布し、同時に多くを語りたく、いつも以上の早口で喋った。終了後、伊東岱吉教授から、 資料は細かすぎて見にくいし、報告は早口すぎて聞き取れなかった、と言われ、大いに反省した。しかし、早口については、その後も多少はゆっくりになったと思うが、興奮すると戻ってしまい、いつものように早くなり、なかなか直すことはできなかった。
 日本経済政策学会で報告した翌年には、1980年に発足した日本中小企業学会の第1回の東部部会で報告した。「下請機械工業の最近の動向  −現状とその理論的含意」(日本中小企業学会、第1回東部地区部会、19815月)がそれである。下請系列取引関係へと研究関心を膨らませていく過程のものであったと記憶している。同じ年には、中小企業事業団中小企業大学校での仕事として、全国の下請中小企業に対して聞き取り調査を行うとともに、『下請企業の経営戦略』(同所、1980年度)の第1章「下請企業の地位」を書く機会にも恵まれた。この下請中小企業への視野を広げていく形の調査研究は、機械振興協会経済研究所や全国中小企業団体中央会の調査グループに参加し、調査をするとともに、幾つもの小論ないしは調査レポートを書く機会を与えれら、より深まっていくことになる。 
それが、『機械および繊維産業における技術革新と下請生産構造の変化』(機械振興協会経済研究所、19823)で書いた「第2部、第2章、電気機械産業(民生用機器・同部品) B 下請企業」、『組合による異業種連携の効果的進め方に関する調査研究報告書』(全国中小企業団体中央会、19833)「第1部 第2異業種連携組合における業種構成と事業のあり方」、『下請組合の実態及びその課題と方向』(全国中小企業団体中央会, 19833)での「第2I, 下請企業を取り巻く近年の環境変化と対応の方向」、『都市における工業集積と域内再配置の研究』(中小企業事業団・中小企業大学校中小企業研究所, 19833)の「本編2(2)東京の機械金属型工業の実態, (3)東京の印刷型工業の実態」、『京浜工業地帯 −その生成と発展−』(神奈川県自治総合研究センター, 19833月)の「第3編,1 (2) 神奈川県の工業と下請中小企業」、『技術革新下における下請中小企業の対応に関する調査研究』(機械振興協会経済研究所, 19835)2, 5大都市機械工業小零細下請企業」、「下請取引関係をめぐる競争と下請政策」(『日本の機械産業の構造変化と下請分業構造』機械振興協会経済研究所、19845月)、「3.下請比率別と第1位納入先依存度別の分析」(『わが国の機械産業における下請分業構造についての調査研究』機械振興協会経済研究所、19855月)といった小論である。これらは、実態調査を踏まえながら、それを通して何が言えるかを、自ら考察した部分を含む論考である。

取引関係としての下請制理解の深化
その結果は、いくつかの下請制についての研究論文へと昇華した。すなわち「下請企業の競争と存立形態 −「自立」的下請関係の形成をめぐって」( ()『三田学会雑誌』762号、19836月、()『同』765号、198312月、()『同』773号、19848)と、「日本機械工業の下請生産システム  − 効率性論の意味するもの」(『商工金融』352号、19852月)とが、それである。
前者の上中下に分けて掲載した「自立」的下請関係についての議論は、下請取引関係について、下請関係というべき「対等ならざる外注取引関係」の中に、「従属」的な取引関係と「自立」的な取引関係、そして「従属」的な関係にも入れないレベルの「浮動」的下請関係の3種類の取引関係が存在することを、実態調査を踏まえ主張したものである。これが、私の助教授昇格論文であった。いわば、下請取引関係理解についての私の独自な見解表明の第1歩となる論考であった。
同時に、この時期に、日本の中小企業研究の本格的なレビューを、滝澤菊太郎名古屋大学教授(当時、故人)が中心となり中小企業学会のメンバーを動員してまとめるプロジェクトが、当時の中小企業事業団の事業として行われることになった。その事業に、私も佐藤芳雄教授(当時、故人)の紹介で参加することになった。これにより、担当した下請系列取引関係について、本格的レビュー論文を書く機会に恵まれた。これが「下請・系列中小企業」(中小企業事業団・中小企業研究所編『日本の中小企業研究  第1巻<成果と課題>』有斐閣、19856月所収)である。修士課程への進学以来の文献レビューを見直し、改めて主要著作を取り出し、全面的に読み直し、一定程度蓄積した私なりの実態調査での下請系列理解をも念頭に、レビュー論文として書いたものである。
これらの論考での議論は、やがて10年余を経て、私の博士学位論文の下請系列理解へとつながるものであった。
さらに、1982年からは、これまでの国内機械工業下請中小企業に関する調査報告が中心であったが、それとは異なる海外の中小企業に関する調査研究のレビューにも参加する機会を得た。その最初のものが、「中小工業の存立実態と問題性」(中小企業事業団・中小企業大学校中小企業研究所『アメリカの中小企業に関する研究』19833月所収)と題してアメリカの中小企業研究を紹介した小論であった。そして、「イギリスの工業と新規中小企業形成」(中小企業事業団・中小企業大学校中小企業研究所編『欧米諸国の中小企業に関する研究(イギリス編19843月所収)を担当し、佐藤芳雄教授との共同論文として「アメリカの寡占体制とスモール・ビジネス」(前川恭一・渡辺睦共編『現代中小企業研究(下)』大月書店, 19845月所収)をまとめた。いずれも現地の実態調査研究論文を探し出し、それを紹介し、かつそれを通して、それぞれの国の中小企業の存立実態を描こうとしたものである。実際に自ら調査したわけのものではないので、隔靴掻痒の感が否めないものではあった
また、1985年3月からの英国留学を前に、実態調査報告として「貿易摩擦の部品産業への影響  −カラーテレビと関連部品産業の事例研究」(日本労働協会編『貿易摩擦と雇用・労使関係』日本労働協会、19863月所収)を担当し、機械工業での中小企業のあり方についての視野を広げていった。

英国留学とそこでの成果
私は、慶應義塾大学からの福澤基金による海外留学の機会を与えられ、1985年3月から2年間、英国ロンドンに滞在し、ロンドン大学LSEにリサーチ・スカラーという在籍料を支払う資格で籍を置き、英国の中小企業の実態を多少なりとも見ることができた。最初の20ヶ月は、家族とともにロンドンで生活し、多少の聞き取り調査を行うとともに、現地でしか手に入らないような、中小企業の現状についての調査資料類を収集することに努めた。
この英国留学中の調査と資料収集を基に執筆した論文が、「英国工業中小企業の動向  − 中小企業政策の意味するもの」(『三田学会雑誌』803, 19878月)、「英国中小企業政策の最近の動向とその特徴」(『商工金融』198711月)、「英国の機械工業中小企業  −自動車工業の外注構造を中心に」(『中小企業季報』19874号)である。これらを踏まえ、中小企業学会全国大会で報告をした。そのタイトルは、「英国中小企業政策と工業中小企業」(日本中小企業学会  第7回全国大会,198710月)で、(要旨は、日本中小企業学会編『産業構造調整と中小企業』(同友館,19884月所収)に掲載されている。
また帰国後の資料収集も加味して執筆したのが、「第1章,英国経済における中小企業の地位,第3章4,地域振興施策,7,産業別振興施策」(中小企業事業団・中小企業大学校中小企業研究所編『中小企業の国際比較研究 −イギリス編−』19893)である。現場主義の傾向が強い私としては、その後イギリスを訪ねることはなかったこともあり、イギリスへの留学を契機として多少なりとも深まったイギリス中小企業についての研究の成果物は、これらの論考で全てということになった。
ただ、イギリスで現場を見たこと、そしてそれを踏まえて現地で作成された多くの資料に目を通したことは、かつて文献を通して海外の中小企業を研究していた先学の理解の限界を知ることができ、その意味では、その後の私の中小企業研究にとっては、大きな意味を持った。例えば、下請代金遅延等防止法が存在するように、日本での下請取引関係では、下請代金の遅払いが大きな問題であった。その議論がされる際、「欧米」では、日本とは異なり契約社会であるから、このような契約に基づかない「遅払い」など存在しないはずだ、という議論が日本の学会では蔓延していた。しかし、実際に英国に滞在し、現地のフィナンシャル・タイムズや経済誌等を見ていると、その遅払いのレベルややり方は別として、契約に従わず代金の支払いを遅らす行為が、実際に ‘Late Payment’ として社会問題化していることが確認された。抽象的な理念型としての建前に基づく議論と、実際に生じている現象とには、大きな差がある可能性が存在することを、そのことを通じて確認した次第である。素直に実態を見、そして自分の目で見た実態を踏まえ、既存の議論を検討し直しながら、自らのものとすることの重要性を、ここでも実感した。
(余談であるが、英国留学の痕跡として、帰国後もFT(Financial Times)をまずは図書館で読み続け、日本で発売されるようになった際には、すぐさま定期購読を申し込んだ。その後、30年近くたつ現在も、定期購読を続けている。自らの日本や中国での実態調査の対象を、別の眼で見るような記事もあり、また日本の経済紙では取り上げない地域・産業の紹介分析もあり、自分の視野を広げる上では、極めて有効な存在である。研究者としての私にとっては、このFT購読の継続が、英国留学の最大の成果といえるかもしれない)

2019年1月15日火曜日

1月15日 渡辺幸男の中小企業研究50年史 その2 第1期

渡辺幸男の中小企業研究50年史
1968年〜2018
第1期
渡辺幸男

第1期 学生・院生時代 1968年〜19773
19684月 慶應義塾大学経済学部伊東岱吉研究会 入会
      中小企業研究の開始
19704月 慶應義塾大学大学院経済学研究科修士課程経済政策専攻 入学
19723月 経済学修士
19724月 慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程 入学
      実態調査研究を渉猟し、自ら実態調査を行うことの必要を痛感
1974年秋 1本の論文原稿のみで慶應義塾大学経済学部助手採用試験に応募
        見事に不合格
1976年   本格的実態調査開始
 東京都労働局委託 「家内労働の実情」での参加を通して、
機械金属工業の零細企業の実態調査を本格的に開始
   秋  慶應義塾大学経済学部助手採用試験に2回目の応募で採用内定
慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程5年目
19773月 慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学

伊東岱吉研究会への道
 私の中小企業研究への第一歩は、伊東岱吉研究会に入会を許可されたことから始まる。19684月のことである。私が生まれ育った家は、私の祖父が創業した川崎市の建築業者であり、地場の企業としては、そこそこ有力な企業であった。大正の初めに創業した企業の地場企業の2代目である父の長男として生まれた。私の周囲の人々は、将来的には私が家業の3代目を継ぐと見ていた。ただ、私自身は、当時から、経営者としての必須能力、経営的決断力と経営者としての強い意志を持つことができないと感じており、高校そして大学へと進学する過程ですでに迷っていた。中でも強烈な印象を持ったのが、私が高校生の時に生じた1965年の不況の際に、父の会社が経営危機に陥り、我が家の家計も一定の影響を受けたことであった。父は、経営者としてみれば、極めて真面目な人であり、業界での人望もあったと私は見ていたが、それでも会社は経営危機に陥った。家業を継ぐために必要とされる能力の自身にとっての欠如を一層感じた次第である。同時に、なぜ真面目に経営していても経営の危機に瀕することになるのか、中小企業という存在を経済学的に研究したくなった。研究者志向の第一歩だと言えるかもしれない。同時に、自分が経営者として向いていないと感じていたことから、経営学的な意味での中小企業研究には、全く関心がなかった。
1965年不況の翌年、慶應義塾高等学校から慶應義塾大学経済学部へと進学した。大学ではサークル等には全く所属せず、高校時代以来であるが、岩波新書そして翻訳書といったものを中心に広い意味での社会科学関連の本を読み漁っていた。その過程で、高校時代にはすでに国富論に目を通していたし、サミュエルソンの「経済学」も読んだが、その当時の近代経済学への関心には繋がらず、マルクス経済学に関心を持ち始め、学部の日吉時代に『資本論』も全巻一応読んだ、あるいは目を通した。また、2年生の時には白井厚助教授(当時)の社会思想史の少人数の講義に出席し、白井厚著『空想より科学へ 講義』という本を輪読し、その中で白井助教授が批判的に取り上げたカントの不可知論に関心を持ち始め、カントの翻訳書をいくつか、これまた目を通した。抽象的な論理で、社会について理解する努力を自分なりにしていた時期であったと、今から見ると思われる。
大学生時代、中小企業経営者である父と、社会問題等で度々議論するのだが、父の発言の最後は、決まって「世の中、理屈通りにはいかない」というものであった。父は、戦中に国立大学の建築科を卒業し、大手建設会社勤務後、自分の希望に反して祖父の病気のため家業を承継せざるを得なくなるという、当時としては珍しい経歴の持ち主であった。父は、自分が大学等で建築学を通して学んだことを素直に実現できないもどかしさを感じていたと、今からは思われる。それゆえの、「理屈通りにはいかない」という発言につながったと、いまでは思っている。しかし、当時の私にとっては、これが一番きつい否定であった。実態を知らないで理論を振りかざし、理屈をこねていた学生として、これにきちんと反論したくなった。そのきっかけと、そして反論能力を与えてくれると考えられたのが、3年生から始まる研究会、俗にいうゼミであった。
そのような経験から、経済学部で中小企業について実態調査を含めた研究をし、しかもそれを経済学的に行っていたゼミとしての伊東岱吉研究会の存在を知り、伊東ゼミへの入ゼミを目指すこととなった。

伊東ゼミでの出来事
 無事、伊東ゼミ18名の3年生のゼミ生のひとりとなった。というより、前年応募者が多かったせいか、この年は18名の応募で、全員が入ゼミ合格となったという幸運な年であった。当時の伊東ゼミ3年の中心テーマは、ゼミ3年生全員による、自分たちが選んだ共通テーマのもとでの中小企業実態調査研究であった。我々は、日産・プリンス合併をめぐるプリンス側の協力工場のその後について、質問票をベースにした聞き取り調査を行った。方法的には、日産とプリンスの双方の協力企業への飛び込み調査という形をとり、ゼミ仲間の石黒君と私は神奈川県に立地する企業を担当し、夏休みを中心に10件程度の企業からの聞き取りに成功した。それらの聞き取りから、日産プリンスの合併で、それぞれの協力(中小)企業が、どのような状況になっているか、特に、相対的に小規模であったプリンスとその協力工場に注目しての調査であった。
結果として見えてきたのは、当時の日産の1次協力工場と、プリンスの1次協力工場では、企業としての大きさや技術力が大きく異なり、プリンスの協力工場は、その多くが日産の1次協力工場の2次下請に組み込まれることとなった、ということが確認された。それなりに、実態調査を通して、具体的に生じたことを確認し、その意味を我々になりに考え報告書としてまとめ、慶應義塾大学の学園祭である三田祭で発表した。
中でも協力的に応じてもらえたのは、経営者のご子息が慶應の経済学部のOBで、かつ伊東ゼミと近しい黒川ゼミ出身であり、本社工場の幹部をしていたそのご子息にお会いすることができた時であった。当然のことながら、学生が突然現れ、聞き取り調査をお願いするのであるから、門前払いは当然であった。しかし、学生であることで、かなりの確率で聞き取りに応じてもらえた。
 ゼミ員18名で、報告書をまとめた。この聞き取りをもとに報告書をまとめる際には、下請企業であること自体から、全ての企業が発注側企業に対し取引上不利になるとは、必ずしも言えないのではないか、という疑問を感じ始めた。当時の伊東ゼミの一般的な考え方ではなかったと記憶している。何れにしても大事なのは、実態を踏まえ、それを論理的に説明することであり、既存の議論を先験的に前提するのは不適切であるということを認識したと言える。また、実態調査それ自体の面白さを垣間見た調査でもあった。
 また3年生の時はチューター付きのサブゼミで『資本論』を輪読した。当初のチューターは植草益助手(当時)で、植草助手の米国留学後の後期は、増田壽男院生(当時)であった。植草さんは帰国後、隅谷三喜男東京大学教授(当時)により東京大学に産業組織論担当として誘われ、東京大学教授になられたし、増田さんは法政大学に就職し、総長を務められた方で、先日訃報が新聞で報じられた。何れにしても、個性豊かなチューターであり、お二人の議論は、方向性は異なるが、ともに大変魅力的であった。中でも、増田さんのラディカルな発言には、大変大きな刺激を受けた。
ただ、研究者としての研究姿勢は、お二人とは全く異なる道を、自らは歩むこととなった。これは、上述した「世の中、理屈通りにはいかない」という父の発言への反発が大きかったと思う。植草さんを通して米国の産業実態から生まれた産業組織論の理論を学ぶよりも、増田さんに倣ってラディカルな左翼思想を主張するよりも、実態を見て議論したいという気持ちが、当時からあったのではと、今からみれば、思う次第である。
 卒業論文は『中小企業分野における過度競争についての考察』というタイトルで、実態調査での経験もあり、中小企業の競争をどう考えるか、という点を考察するものであったと記憶している。ただし、その際、改めて幅広く調査をするというより、競争についてのマルクス経済学系統の既存の理論的な議論を整理し、検討するものにとどまっていたと覚えている。修士論文でも、それをより論理的に緻密に考えたとしても、同じ水準の論考にとどまっていた。

修士課程への進学
19703月に学部を卒業するのであるが、就職する気は全くなく、とりあえず大学院経済学研究科に行くか、それがダメなら、趣味の鯉の養殖を本業にするために他大学の水産学部に学士入学するか、どちらかを考えていた。いずれ、家業を継がなければならない、それまで、もう少し勉強をしたいという程度であったかもしれない。本格的な研究者になることに憧れはあったと思うが、なれるかどうか極めて不安であり、家業承継候補になることの「執行猶予」としての修士課程進学とも言える。
ただ、大学院に入り、単に時間つぶしをしていたわけではなく、今から考えても極めて真面目に、自分なりの研究努力をしていた。まず、大学院修士課程の1年目にしたことは、中小企業研究、特に製造業中小企業の存立の論理を追究することを考え始め、図書館にこもって、基本的には国内の著作に限定されるが、これらに関わる著作論文を『経済学文献季報』の該当欄を利用してリストアップし、ノート1冊分の自分用の文献リストを作り、それを元にリストアップされ、かつ慶應の図書館に収蔵されている全ての著作と論文(実際にはリストアップしたほとんどの著作と論文が慶應義塾図書館には収蔵されていた)に目を通し、必要と考えた文献についてはノートも取るという作業を1年をかけて行ったことである。
 その結果として、私の修士論文は、最初の1年間を既存研究の包括的レビュー、というより文献への目通しと、従来の研究の概要把握といったほうが良い行動に終始し、そのため、現状分析としての中小企業研究を目指しながら、2年目に具体的な課題を設定し、本格的な調査を行うといった余裕も全くなかった。当時の中小企業間競争における特定の理解をいくつかとりあげ、それを「過度競争」の視点から整理するにとどまるものであった。極めて視野の狭い、抽象的に論理的一貫性を議論するだけの、現状分析とは程遠い論文にとどまった。これが『中小資本部門での競争について』という1972年に提出した修士学位論文である。結果、まともに調査等をしていなかったこともあり、論文の草稿は、提出期限よりずっと早く、1971年の年末には出来上がっていた。
すなわち、本来的には、自ら実態を見、それを通して議論すべき中小企業研究であるにも関わらず、私自身が当時できたことは、既存の理論的考察の比較検討に過ぎなかった。レビュー論文といえば言える程度のものであった。修士論文は、建前としては、慶應義塾図書館に保存され公開されることになっているので、バラバラに崩れていなければ、まだ存在し、入館できる人であれば、誰でも見ることができるはずである。

博士課程での実態研究への移行
零細企業急増の実態研究へ
 ただ、修士課程で修士論文を書いている中で、自分としての方向性、少なくとも中小企業研究者として人生を過ごしてみたい、という気持ちは極めて強くなった。中小企業の理論的なレビューを自分なりに行い、分かったつもりになったが、そこから実態研究成果を見ると、わからないことだらけ、説明のつかないことだらけ、そんな気持ちになり、もっと突っ込んで中小企業研究をしたくなったのである。この時点で、家業を継ぐことは考えなくなり、それを父に告げ、許してもらった。当時、父の会社には叔父が専務として勤務しており、その時点で、父は、叔父に事業承継することを決意したようである。
このような修士論文の抽象性と、中小企業研究としての限界を感じ、博士課程に入ってからは、実態を見ることを通して議論を展開したいと思い、既存の実態調査による現状分析研究を渉猟することとなった。その際、最初に注目した事象は、製造業で零細企業の数が急増し始めたという現象であった。ただし、ここでも、まだ実際に中小企業での聞き取り調査を行うどころか、見ることさえままならない状況であった。
1960年代、特にその後半以降、日本経済での初めての人手不足が生じ、その下で、機械工業そして繊維産業で、また大都市と農村で、零細企業の増加が目立っていた。この現象について当時の中小企業研究者達が注目した。人手不足が生じているように雇用機会が急増している高度経済成長過程にあるにも関わらず、何故、零細企業が増加しているのか、と言う疑問である。
 その背景には、これまで零細自営業、特に新規開業の多くを、窮迫的自立、すなわち他の就業機会がないゆえに、自ら自営業を創業したのが零細企業経営者という見方が支配的であったことによる。雇用機会に恵まれないから、仕方なく自営業を開業する。だから、低収入ないしは低所得であり、(大)企業等での安定した雇用機会をみいだせれば、被雇用者化する層と想定されていた。

瀧澤・清成論争批判
 1960年代後半以降、機械工業等で零細企業が急増したことをうけ、窮迫的自立とは異なる説明が必要となり、当時の中小企業研究の第一人者である瀧澤菊太郎名古屋大学教授(当時、故人)と清成忠男法政大学助教授(当時)が、それぞれ新たな説明を提唱し、両者を中心とした論争が生じた。
 瀧澤氏は、低賃金相当の工賃収入であるが、労働時間の法的規制のある被雇用者よりも、自営業主は自営業主故に長時間労働を実行することが可能となることに着目した。一人当り労働時間を柔軟に増大できるゆえに、大手工場の人手不足の解決策の一環として直接・間接に外注先として零細企業を利用することが拡大した。その結果、創業が増加し、それゆえに零細企業層が拡大というのである。      
 他方で、清成氏は、最新技術を利用した零細企業の生産性の高さ故に、外注利用が増え、単なる低賃金相当の工賃支払いのためではなく創業が増え、それゆえに零細企業層が増加していると主張した。                
 この論争では、まずはどちらの議論が正しいかという論点からの零細企業研究への関心が、中小企業研究、特に小零細企業の実態分析に向かわせる私にとっての直接の契機となった。博士課程の最初の1年余、とりあえず、この両氏の議論の妥当性を検討するために、零細企業創業についての実態調査を踏まえた既存の議論や、日本各地の各産業での実態調査研究をレビューし、自ら統計的事実の確認を工業統計表や、就業構造基本調査等を通しておこなった。
 工業統計表等の統計的事実を確認しただけでも、両氏の議論がいずれも間違っていると思われることを発見した。零細規模での新規創業は高度成長期の前半からすでに多かった。しかし、高度成長期前半においては、創業企業が雇用者を増加させることは容易であり、経営の拡大に応じて従業者規模の増加が多くの創業企業で生じ、零細規模層での滞留は限定的であった。この状況が人手不足で変化し、従業者規模の拡大が相対的に困難となり、零細企業として滞留し、結果として零細企業層の企業数の増加をもたらした、と統計的な確認を通して把握できた。それゆえ、それぞれ上記のような理由で零細企業層の増加を論じた両氏の議論は、どちらの議論も妥当なものではないことが明らかになった。しかし、どのような企業が実際に創業し、従業者規模を増加せずに零細企業層として再生産しているのか、これらのことは統計的事実の確認からだけでは、全く把握できなかった。
 何故、創業が大都市や農村でも多く、多様な産業で多かったのであろうか。またそのような企業はどのような理由で創業可能であったのであろうか、といった疑問には、全く答えることができなかった。自らによるフィールドワークがないまま、池田正孝氏の伊那や諏訪の機械工業の調査や、丹野平三郎氏や青野壽彦氏の繊維産業の調査等を利用することで、創業が多様な地域や産業で多いことについて、それぞれ独自な理由がありそうで、何か1つの論理で多様な産業での零細企業の増加を、零細企業の増加であるということだけで説明することには無理があるということを、推測するにとどまっていた。
 1960年代後半以降の零細企業の増加という興味深い現象について、何故の一定の積み重ねをしたが、ここまでで終わったのが、私の最初の公刊査読論文「零細規模経営増加についての分析」(『三田学会雑誌』6710号、197410)の事実上の内容であった。私なりの検討を加え、独自な仮説を構築するべく努力したが、曲がりなりにも独自なものとして構築した仮説・論理的説明は、既存の主要な主張の否定を統計的事実で説明するに留まり、積極的な主張を伴う仮説・論理的説明の構築には至らなかった。

助手採用試験への2回の応募
落選そしてギリギリ採用へ
 上記の論文、それも公刊前の原稿段階のそれ1本で、博士課程2年目に慶應義塾経済学部の助手採用試験に応募した。結果は見事に落選であった。この最初の助手試験応募の際に、伊東教授の指導を受けていた先輩院生も応募した。先輩は、マルクス経済学の理論研究をしており、その成果を応募論文として提出した。伊東教授に近いマルクス経済学の理論研究者の若手教授が、この2名の応募論文を読み、私の論文を相対的に高く評価してくれていると、その若手教授に近い院生仲間が教えてくれた。落選はしたが、この評価を受けたことで、再度、助手試験を受けることを考えるようになった。
ただし、慶應に助手として残れる可能性は低いという指導教授の判断で、他大学の教員採用試験にも応募した。下記の2回目の応募の際も、同時並行的に、都内の某有名私大の中小企業論担当者募集に応募していた。この他大学への応募の方が早く結論が出るということで、もしそちらに合格したら、その時点で慶應の助手試験の応募を辞退するように、伊東教授に近い教授から言われていた。私も、早く決まった方に行くことについて、なんら異論はなかった。しかし、結果は、他大学への応募の方は、見事落選であった。その理由の1つが、私には調査研究の実績がないことであると、当大学の方の話が、私が親しい慶應の教授を通して伝わってきた。実際にその時当該大学の中小企業論担当者として採用された方は、調査研究の経験が豊富な、私より多少年齢の上の方であった。
最初の助手試験応募から3年、オーバードクター2年目での助手採用試験への再挑戦した。その間に、2本の論文もどきの論考を執筆して、先の論文の査読後公刊となった論文と合わせ、3本をまとめて助手応募論文とした。追加の2本は、高須賀義博氏の生産性上昇率格差論がらみで『高成長過程と中小企業の資本蓄積 −高須賀義博「生産性格差インフレ論」の検討−」というタイトルの未公刊のものと、もう1本は院生が自分たちのために発行していた論集に投稿した「高成長と機械工業中小企業の問題性」(『三田経済学研究』12/13 , 1975年度)である。この際、3本をまとめて応募論文とするために、それら3本の私の研究上での位置付けを書いたメモを付け加えた。このメモについて、当時指導を受けていた一人である井村喜代子教授(当時)に、このような3本をよく一貫したものとして表現できた、と褒められた(私にはそう思えたのだが)。これが、これまでの井村教授との長い付き合いの中で、褒められた唯一の例であったと記憶している。
また、この年から助手採用試験の際の合格基準が緩和され、緩和された条件ギリギリで合格順3位に滑り込み、博士課程5年目で慶應義塾大学経済学部助手への採用が決定した。19774月に助手に採用され、当時最初の3年間は、給与だけもらい、なんら講義等の義務がなく、助手後半の3年間でも、教養課程の学生向けのプレゼミ的なものや原書講読といった科目を2つほど担当すればよいという、極めて恵まれた助手生活を35歳までの6年間も過ごすこととなる。何しろ、当時は、助手6年目にならなければ助教授昇格試験に応募できないと同時に、給与は一応年齢並みにいただけるという決まりであった。精神的にも余裕が多少でき、次に見るように、佐藤教授をはじめ、先輩の手助けもあり、積極的に調査に飛び回り、調査報告や論文を本格的に書き始めることができるようになった。

零細企業の実態調査研究の開始
 また、助手採用への2回目の応募の前後には、佐藤芳雄教授(当時)の引きで、いくつかの実態調査研究に従事できるようになった。最初は、「神奈川県中小企業の動向(製造業編)−神奈川県製造業の構造の特質と問題点−」神奈川県商工指導センター, 19763)  という報告書の一部として、II,産業小分類別動態分析、III, 機械工業の動向、IV,軽工業の動向、という形でまとめたもので、神奈川県の製造業について統計的に分析をするという調査であった。1976年には、いよいよ本格的な聞き取りを中心とした実態調査研究に取り組む機会を得ることになった。すなわち、増加する零細企業の実態を、自分で見て自らの目で確認できないまま過ごしてきた、清成氏が注目し、自らの零細企業増加に関する仮説・論理的説明の根拠の1つとしていた、大田区等の東京の機械工業関連零細企業についての実態調査の機会を得たのである。
東京都労働局(当時)の委託調査である「東京の家内労働調査」を、佐藤芳雄慶應義塾大学商学部教授(当時)が主査として受託し、当時大学院で実態研究に踏み込む機会を得ないまま他の研究者の調査研究に依存しながら中小企業研究をしていた院生であった私たちを、実態調査のメンバーとして動員してくれた。「佐藤マフィア」と当時自称していたグループの誕生である。佐藤教授を中心に、池田正孝中央大学教授、伊藤公一千葉商科大学専任講師、大林弘道神奈川大学専任講師、三井逸友院生と私からなる調査チーム(職位等は、いずれも上記の調査参加時点でのものである)である。
 この実態調査研究の一環として、私は、大田区を中心とした東京城南地域の機械工業関連自営業者と墨田区を中心とした東京城東地域の螺子製造関連自営業者の、いずれも東京の機械工業関連零細企業の存立状況の実態調査を担当することとなった。これ自体の報告書は、『家内労働の実情東京都家内工業業種別実態調査結果報告書(東京都労働局、19773)として刊行されている。私は、この報告書では、「金属加工業城南地区」と「金属製品(ねじ・挽物)製造業城東地区」を担当執筆した。
 この調査研究の一環として、東京都労働局の協力を得ながら、助手採用試験を受験する中の1976年であったが、その1夏で大田区と墨田区等の城東地区の零細企業(特に夫婦2名の自営業)中心に、50社強での聴取り調査を、佐藤ゼミの学生らの協力を得ながら自ら行うことができた。この実態調査研究に参加したことを通して、私自身としては、東京の機械工業関連零細企業層の増加の論理の解明を目指すことになった。漸く、「何故」を、実態調査を通して追究できる状況が生まれたのである。

東京の零細企業研究の結果
<受注工賃の地域間での差異の発見>
 この実態調査を通して、自ら、何故、大田区等、大都市東京の機械工業で零細企業が増加しうるのか、発見し、確認する作業に取り掛かることができた。
 当時、旋盤加工の零細経営の受注工賃は、大田区では1時間当り1,100(普通旋盤、被雇用者なし自営業)から1,500(フライス盤加工、被雇用者なし自営業)という状況が、まずは確認された。他方で、中央大学経済研究所の日立地域の日立製作所の下請中小企業の調査によれば、日立地域の下請中小企業の受注工賃に関して、1時間当り500円以下(普通旋盤、被雇用者ありの中小企業の場合)と報告されていた(中央大学経済研究所編『中小企業の階層構造 日立製作所下請企業構造の実態分析(中央大学出版部、1976)53ページ)。また、日立製作所の日立地域の下請企業の受注工賃が例外的に安いのではなく、京浜地域が例外的に高いということも、他の調査報告書等を通して確認された。
 何故、日立地域等での中小企業の受注工賃と東京の零細企業の受注工賃とに、このような大きな差があるのに、東京の零細企業に下請加工の仕事が発注されるのか。これがそこから生まれた最大の疑問であり、それを論理的に説明するために、より突っ込んだ実態調査研究とその分析が必要とされた。
<実態調査を通して確認されたその他の事実>
 実態調査を通して、受注工賃以外の点についても、東京の大田区等の機械工業小零細企業の持つ独自性が確認された。大田区等の東京の小零細企業の仕事は下請的部分加工についての受注生産であり、加工そのものとしては技術的に日立地域での汎用旋盤等の機械加工等と大きく変わるものではない。ただし、大きく異なるのは、受注内容、すなわち同一の受注内容の仕事の継続性、同一企業からの受注の継続性、受注ロットのサイズの大きさと安定性といった点である。大田区等の東京の零細企業の受注には継続性がないものが多く、ロットサイズは小ロットサイズに偏った上に大小様々であり、かつロットサイズにも安定性が無いという特徴が見られた。受注の質が異なり、特定の企業から、安定的に受注を確保、それも同様な受注内容の仕事を継続的に確保できる状況とは、大きく異なる状況にあることが確認された。取引先企業の変動も含めて、きわめて変化の激しい受注に依存していることが明らかになった。
 東京の零細企業が受注している仕事は、受注単価は高いが、不安定でロットサイズも小さい、しかも、個別の取引関係としても安定しない受注内容であるといえる。多少単価が高いにしても、このような変化の激しい不安定な仕事で、何故経営を維持できるのであろうか、と言うのが次の何故であり、疑問であった。1つは個別の取引関係が継続的かつ安定的でないのに、何故経営が成立つのか、と言う疑問である。今1つは、常に変化する仕事に、加工を受託する側が、どのような工夫をすることで、対応可能となるのか、という疑問である。
 海外生産化が進展する以前の当時の日立地域のように、日立製作所関連の仕事を安定的に確保し、大ロットサイズの仕事を継続的に受注可能であれば、受注が途切れることもなく、また頻繁に段取り替えする等の手間もかからず、ある幅の中で発注され受注される内容的に安定した仕事の加工に集中することで、充分経営を維持することが可能となる。下請企業としての特定の取引先との関係維持のための経営努力は必要だが、それ以上の経営努力を常時おこなう必要は少なく、新規の受注先開拓をする必要も限定的である。
 他方で、京浜地域の不安定な受注に依存している小零細企業は、業主自らが加工を担当するのが当り前の自営業主でありながら、多様な取引先と絶えず交渉することが必要となる。すなわち、新規受注開拓と言った経営努力を含めたような経営が必要となる。また、変化する仕事内容に対応する、単なる加工能力の習熟に留まらない、加工内容の頻繁な変化に迅速に対応するような熟練技能が必要となる。
 調査から私が把握した結論を先取りして要約的に言えば、以下のようになる。柔軟かつ迅速な段取り替えに関する熟練が形成され、そして、より一層の柔軟対応を可能とする「仲間」が存在し、「仲間」が相互に受発注することで、総量としての需要が安定的に拡大していれば、有無相通じ、柔軟に需要に対応することが可能となる。結果として、半端な仕事が、単価が高いのに関東一円から集まる状況が形成された。このことが、東京の小零細企業が不安定な受注に依存しながら、層として再生産され、1960年代後半から1970年代にかけて層として拡大した理由である。
 多少単価が高いが、手間がかかる、安定しない仕事内容の加工とは、安定した仕事を充分確保できている他の地域の受託加工企業にとっては、通常と異なる習熟を必要とし、そのような習熟がなければ面倒なだけの仕事であり、引受けようとはしない仕事である。それでは、何故、京浜地域の零細企業は、他の地域の企業が引受けないような、そのような面倒な仕事を引受けるのであろうか。さらには、引受けることができたのであろうか。
 このような状況が生じたのは、何故か。零細企業経営者が望んで、積極的にそのような需要を開拓したのではない、というのが、聞き取り調査をした結果であった。かつては、京浜地域の零細企業も、地域内に多数立地していた量産工場からの仕事のうちの一定部分を受注し、経営を成立させていた。特定企業との安定した取引的繋がりの中で、相対的に小ロットサイズの仕事を受注の中心とすることで経営を成立させていた。それが、1960年代後半からの量産工場の域外転出で、特定取引先との安定的な取引関係を維持することが、地域に立地する中小零細企業全体として困難になった。他方で、本社機能や研究所が多く立地しかつその機能、そこから生まれる開発や試作、量産立ち上げといった仕事は拡大し、また一品生産の重電工場や造船所等が依然として立地を継続していたこともあり、小ロットサイズの変化の激しい仕事の受注機会は、相対的に豊富にかつ増加傾向で存在していた。
 その結果、京浜地域の小零細企業は、日本国内の機械工業集積地の中で、はじめて安定的な量産工場に依存して立地することができない環境下におかれ、かつ不安定な仕事そのものは増加傾向にある状況におかれた。市場環境の変化に強制され、生き残るために、量産工場の転出に追随せず京浜地域に残った機械工業小零細企業は、安定的な受注に依存せず、変化の激しい受注に依存して生き残る方向で、まずは個別経営として対応する努力を始めた。
 しかも、変化の激しい受注内容の仕事に、柔軟かつ迅速に対応するのには、個別小零細企業の経営内努力では、大きな限界がある。同時に、周辺には、同様な加工内容の小零細企業や、それぞれ得意な加工内容を異にする小零細企業が、多数存在し、同様な悩みを抱えていた、さらに、これらの企業の経営者は、出身企業でのかつての同僚であったり、機械商や材料商を介しての知り合いであったり、さらには近所の飲み屋仲間であったりして、直接、間接に相互に知り合い、かつ一定の信頼関係を形成していた。「仲間」と零細企業の経営者達が呼んでいるものがそれである。
 各小零細企業とその経営者にとって、それぞれにとっての「仲間」が10人前後の規模で存在する。「仲間」はクローズドな小集団ではなく、それぞれの企業家ないしは自営業者にとって、それぞれ存在するものであり、「仲間」の「仲間」といった形でネットワーク状に広がっている。一定の信頼関係が存在することで、必要に応じて、自ら受注した仕事に対する能力不足を補い、また自社ではできない加工部分を含めた仕事を受注し、できない部分を「仲間」に依頼する。前者は量的補完であり、後者は質的補完であるといえる。これが、「仲間」の間では双方向で行われる。特定の企業だけが受注窓口になるのではなく、小零細企業の誰かが、仕事ごとに窓口になり、その仕事を「仲間」で仕上げる。その窓口が取引先により柔軟に変わる、と言う形でも表現可能な関係といえる。
 すなわち、何故、不安定的な仕事が大田区に来るのか、という疑問に対して発見された解答は、多数の多様な小零細企業が層として存在し、単価は相対的に高いが、小ロットサイズの発注、不規則な発注、面倒な仕事内容の発注、急ぎの発注といった、安定的な受注を中心に生産をしている受注生産型中小零細企業では引き受けたがらない仕事を、何でも嫌がらずに引き受けてくれるからということである。
 それが何故可能なのかという疑問に対する解答は、多様に専門化した小零細企業が多数存在し、それらが「仲間」を通して相互に仕事をやり取りすることで、迅速にどんな仕事も対応可能であることによるということである。すなわち、「仲間」の間で仕事をやり取りすることで、個別には不安定な半端な仕事に依存していたも、総量として仕事が安定し、東京の機械工業小零細企業全体として、層として受注する総量が安定的に拡大すれば、変化の激しい仕事に依存していても、個別経営としても経営が安定することになる。
 この「仲間」の存在の確認と、その独自な機能の(私による)発見が、実態調査を通して初めて可能となった。集積論の視点から議論すれば、仲間取引という一種の集積の外部経済性が機能して、半端な仕事に迅速に対応できるということになる。だから高くても半端な時間のない仕事は、関東一円から大田区等に発注される。他方で、半端な不安定な仕事に依存していても、総量として安定拡大するものであれば、それが企業間で融通され、京浜地域の小零細企業の経営が安定する。さらには、零細企業だと、より柔軟に対応でき、経営が安定しやすい。結果として、大工場のワーカーとして勤務可能な熟練工が、独立する。このように見ることができるのである。
 このように見てくると、少なくとも東京の大田区等の零細企業の増加は、瀧澤氏の言うように、低工賃だけど長時間労働故に、外注利用されるか増加しているというのではない。単価が高く、総量としては仕事量が多いので、企業としての収入は高く、大企業の工場労働者として勤務するより、独立したほうがよい零細企業が、層として、東京で増加しているといえることになる。また、清成氏のいうような、増加するのは生産性が高いからといった、単純な話ではなく、歴史的経緯で形成された集積の独自な機能ゆえに、大田区等の東京でこそ独自な零細企業が増加しているのである。これを実態調査を通して発見し、論理的な説明をおこなった。

2019年1月14日月曜日

1月14日 渡辺幸男の中小企業研究50年史 その1 時期区分

 これから数回にわたり、私、渡辺幸男の中小企業研究50年を振り返った、勝手な研究史を掲載していく。幸運に恵まれ、自らが選んだ、中小企業の研究に半世紀にわたり携わってこれた。このことに感謝しながら、5期に分け、自らの研究内容を振り返ってみたい。


渡辺幸男の中小企業研究50年史
1968年〜2018
渡辺幸男

 今から改めて振り返ると、2018年4月に、私は、中小企業研究に関わり始めて、ちょうど50年経ったことになる。慶應義塾大学経済学部の3年生となり、伊東岱吉教授の研究会に入会を許可されたのが、1968年4月であった。それから約50年、結果的に見れば、広い意味での中小企業の研究にこだわり続けてきた。
 そして、今、研究者としては、季節労働で中小企業研究奨励賞の審査を担当しているのみのような状況にあり、積極的に自らの研究成果を発信することはなくなった。余裕ができ、この研究者としての半世紀、何を発見し、どのような主張をしてきたのか、時期を区分しながら、回顧したくなった。回顧すること、そしてそれをブログで公開すること、このことに何か意味があるのか、自問している。私はこんなことを行い、そこから自分なりにこんな風に発見をし、こんなことを考えてきた、ということを、他の方、特に若い研究者の方に知ってもらいたい、という願望があることによるのかもしれない。
 まずは、50年間を5つの時期に区切り、それぞれの時期について、研究活動とそこでの成果を、ブログで順に紹介していくつもりである。

第1期 学生・院生時代 19684月〜19773
19684月 慶應義塾大学経済学部伊東岱吉研究会 入会
      中小企業研究の開始
19704月 慶應義塾大学大学院経済学研究科修士課程経済政策専攻 入学
19723月 経済学修士
19724月 慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程 入学
     実態調査研究論文を渉猟し、自ら実態調査を行うことの必要を痛感
1974年秋 1本の論文原稿のみで慶應義塾大学経済学部助手採用試験に応募
        見事に不合格
1976年夏  本格的実態調査開始
 東京都労働局委託調査研究 「家内労働の実情」に参加し、
東京の機械金属工業零細企業の実態調査を本格的に開始
   秋  慶應義塾大学経済学部助手採用試験に2回目の応募で採用内定
       慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程5年目
19773月 慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学

第2期 慶應義塾大学経済学部助手就任・助教授昇格・英国留学 
19774月〜19873
 英国留学前、実態調査がらみの研究調査プロジェクトに一メンバーとして
積極的に参加、調査報告書にも数多く執筆
19774月 慶應義塾大学経済学部 助手に就任
19822月 佐藤芳雄編著『巨大都市の零細工業』(日本経済評論社)で、
      執筆者の一人として中小企業研究奨励賞本賞を受賞
19834月 慶應義塾大学経済学部 助教授昇格
19844月 日本学術振興会産業構造・中小企業第118委員会委員に就任
19853月 慶應義塾福澤基金により英国ロンドン大学LSEに留学
19873月 同 留学より帰国

第3期 帰国、教授昇格、単著執筆、そして受賞
19874月〜19993
 留学から帰国後、調査研究プロジェクトへの参加とともに、
自前の調査を仲間の院生の協力も得て実行し、単著2冊の出版へ
単著出版後、ウィングバレー協同組合調査、木工機械工業ビジョン等で
主査としての本格的実態調査開始、
19874月 渡辺幸男研究会の開始、定年退職まで担当し、25期に及ぶ
19904月 慶應義塾大学経済学部教授昇格
199712月 最初の単著出版 『日本機械工業の社会的分業構造』(有斐閣)
199810月 調査関連中心に2冊目の単著
『大都市圏工業集積の実態』(慶應義塾大学出版会)を出版
19992月 最初の単著で、中小企業研究奨励賞特賞を受賞
 同 3月  同単著で、慶應義塾賞を受賞
 同 3月  同単著を主論文、2冊目の単著の簡易製本版を副論文として、
慶應義塾大学から博士(経済学)の学位を取得

第4期 主査としての調査、教科書の出版、中国実態調査本格化
 1998年〜2011
   ウィングバレー協同組合調査、
E研究院中国中小企業発展政策研究、中小企業研究センター、
118委員会中心の科学研究費補助金調査、
東アジア研究所中国自転車産業調査等で、
大規模実態調査の主査を務め、
報告書のみならず、何冊かの共編著を出版、そして3冊目の単著出版
20011月 小川正博、黒瀬直宏、向山雅夫の3氏との共著で
中小企業論の教科書 『21世紀中小企業論』(有斐閣)第1版の出版
2011年7月 3冊目の単著出版『日本の産業集積研究』(慶應義塾大学出版会)

第5期 実態調査からの引退、定年退職 2012年〜2018
    2011年、中国での調査を最後に、(知的)体力の限界を感じ、
実態調査に参加することをやめた
    2011年までの中国調査をもとに単著出版、あとはブログに雑文をup
20133月 慶應義塾大学を定年退職し、慶應義塾大学名誉教授になる
20163月 4冊目の単著出版
『現代中国産業発展の研究』(慶應義塾大学出版会)

付録
研究業績一覧(ジャンル別、年次順)

2019年1月1日火曜日

己亥元旦 新年のご挨拶

謹 賀 新 年
己亥 元旦
 昨年3月で満70歳になりました。70歳を迎えるにあたり、昨年の年賀葉書にも書きましたが、ハガキによる新年の皆様へのご挨拶はやめることにし、ブログに、新年の挨拶をアップすることにしました。これがその第1回のものとなります。還暦をとっくに過ぎたということは、2回目の「己亥」、前回の記憶がある2回目を迎えていることになります。
 1回目の「己亥」の正月は、小学5年生、翌年の中学受験を控え、かなりピリピリしていた頃であったとの記憶があります。それから60年、その後、慶應義塾普通部入学、そして経済学部の伊東岱吉研究会入会、大学院進学、そして中小企業研究者の道に、いずれの時も緊張していたのですが、小学生時の訳のわからないピリピリとは違って、自分なりに選択をし、それなりに前を向いて今日まで過ごしてきたとも感じています。
 2013年に慶應義塾を定年退職し、2016年3月をもって非常勤講師の職も終えました。それから3年近く、多摩川を越えて三田など東京に出かけることも、月に複数回あれば多い方になりました。このブログにもアップしてきたように、池の鯉の世話、水槽を使ってのメダカの養殖、庭いじりでの花、それも毎年同じ花を咲かせ、できれば増やし、それを玄関先に飾るといったことを繰り返しています。私と相性がいい花々は、ますます数が増え、冬を越させる場所を確保するのが大変な状況となっています。
 また、魚の方は、メダカを増やすだけではなく、緋鯉も増やし始めてしまいました。産卵があると、採卵したくなってしまうのです。要は、暇があり、魚を育て、増やすのが好きなせいだと自覚しています。メダカの寿命は4年程度、しかも、妻の関係の教会のバザーで皆さんに10100円でお分けし、売り上げを教会の土曜学校に寄付をする形で、毎年300匹以上を、他の方にお譲りしているので、あまり自宅の水槽の中は増えないです。が、緋鯉は、数十匹程度ですが、数十年と長生きしますし、増えたものをどうするか、悩みながら新年を迎えました。外来魚である緋鯉、近所の川に放すわけにもいきません。神社の池等でもらってくださると助かるのですが。なお、孵化した緋鯉には、錦鯉と言える鯉はほとんど育っておらず、緋鯉そのものなので、観賞用として、お分けすることができる代物ではありません。
 何れにしても、中小企業研究奨励賞の審査委員といった季節労働以外は、勝手なことをブログに書くことと、花と魚の維持管理と増殖、これで昨年も1年をほぼ過ごしました。今年も元気であれば、時々、日本中小企業学会、中国経済経営学会、そして学術振興会産業構造・中小企業第118委員会等にも出席するつもりですが、このような日常を過ごし、折々ブログに、四季の花々や魚の様子、そして学会報告への勝手なコメント等をアップするつもりです。
 なお、今は、ようやく西洋サクラソウの花がエントランスで咲き始めたところです。我が家で増えているノースポールとビオラは、まだほとんどが花の咲く大きさに育っていません。そしてクリスマスローズには蕾はつきましたが、開花には、今しばらく時間がかかりそうです。早く、春がきて、これらが咲き誇り、また、ビニールカーテンの内側で冬を越しているゼラニウムやサルビアを、表に出す。そんな時を待ち焦がれ、うずうずしています。が、あと2ヶ月半。霜の降りない季節は、二宮でもまだまだ先です。
 この間、是非読みたい著作や書きたいテーマがあるので、勝手なコメント等を、ブログにアップできたらと思っています。
 本年もよろしくお願いします。
渡辺幸男

2018年12月19日水曜日

12月19日 我が家の今年最後の紅葉

我が家のエントランスと庭、初冬迎え、
すでに2回ほど霜がおりました。
今年の紅葉、最後のモミジが色づきました。

夕闇が迫り、庭園等を点灯したら、
見た目より空が明るく写り、
庭園灯の明かりととも照らされ、
幻想的な紅葉となりました。

このモミジの紅葉で、
我が家の庭とエントランスの秋は終わります。
次は、冬のエントランスとなり、
西洋サクラソウ、ノースポール、そしてビオラ
これらの花が咲き始めるはずです。

ポットの準備は進んでいるのですが、
賑やかさには程遠い、初冬のエントランスです。