2021年12月20日月曜日
12月20日 本格的冬到来、我家のエントランス
2021年11月28日日曜日
11月28日 初冬の我が家の庭とエントランス
2021年11月18日木曜日
11月18日 晩秋の我が家の庭 ハゼの紅葉とクリスマスカクタスの開花
2021年10月7日木曜日
10月7日 Martin Wolf ‘Threats from China’s real estate bubble’ を読んで
Martin Wolf ‘Threats from China’s real estate bubble’,
(「中国の不動産バブルのもたらす脅威」)FT, 6 Oct. 2021, p.17 を読んで
*この論説記事の私なりの要約
上記のWolf氏の論説記事の小見出しは、小見出し1が、 ‘Property’s great boom has reached its limit −the economy now needs new drivers of demand’ であり、小見出し2が、 ‘Policy should shift spending towards consumption, and away from wasteful investment’ である。住宅建設資産形成によるブームが限界にきており、新たな需要創出が今や必要であると言うのが、第1の小見出しである。投資効率が下がっており、政策は、消費支出増大に向け舵を切るべきである、と言うのが第2の小見出しである。
つまり、Wolf氏は、中国でGDPに占める貯蓄の比率が高く、同時に固定資本形成の比率が極めて高く、しかも近年それが高まっていること、しかし、それにもかかわらず成長率は低下し、投資の効率が顕著に低下していることをまずは指摘している。同時に、家計や非金融企業の負債が高まっていることも指摘している。すなわち、借金の増大で固定資本形成比率が高まっているが、それが成長率の上昇に結びつかず、逆に成長率低下となっていることを指摘している。非効率な投資が増加していることを意味するとしている。
また、住宅については超過供給能力となっており、かつ住宅保有比率も極めて高くなり、不動産ブームの終焉のシグナルが示されている、とも述べている。
それ故、住宅投資を一方の中心とした投資重視の方向から転換し、消費支出拡大、家計と公的の双方の消費支出の構造的改革に基づく拡大こそ、今の中国経済にとって必要なことであると指摘する。固定資本形成、特に住宅投資依存での成長維持の行き詰まりを、恒大集団の不良債権問題の顕在化に見ている論説記事と言える。
*このWolf氏の論説記事を通して考えたこと
住宅としての不動産の建設供給は、近年の効率が低下しているとしても、中国経済成長の1つの核であったが、それも、もう無理であると言うのが、Wolf氏の見立てであろう。GDP成長の中心を、住宅投資を中心とした国内固定資本形成から、公私双方の消費支出の増大へと、大きく構造改革することの必要を述べている。
住宅を中心とした不動産投資は、価格高騰ゆえに販売が困難になり、収益性が低下しているだけではなく、実需自体が価格水準如何を問わず縮小している、と言う見立てをしているのが、Wolf氏である。これは、10月7日付の朝日新聞朝刊6面の中国対外経済貿易大学教授の西村友作氏へのインタビュー記事(西山明宏「中国恒大危機 リーマンとは違う、経済の危機や崩壊 つながらない」同紙13版)とは大きく異なる内容となっている。そこでは、住宅需要に関して、「いまだに実需が強い」とし、「仮に価格が下がっても、・・買いたい人はすぐ出てくるので、下支えされる」としている。
この点で興味深いのは、Wolf氏の記事に掲載されている「住宅はますます投機的資産(increasingly speculative asset)になっている」と題されたグラフである。そこでは、住宅の購入者を、最初の住宅購入か、それとも既に1つの住宅保有、さらにはそれ以上の住宅を保有している人の購入かで分け、それぞれの比率を出している。それを見ると、2015年までは60%前後の事例が最初の住宅の購入者であったのに対し、その後急速にその比率は低下し、2018年には最初の住宅購入者の比率は20%以下を占めるに過ぎないものとなり、2戸以上の住宅をすでに持っている購買者が20%を上回り、両者が逆転している。また、過半を占めているのは、すでに住宅を1戸保有している購入者層である。住宅価格高騰下での住宅購入者層の劇的な変化が示されている。すでに住宅を持っている人々が、運用資産として住宅を購入していることが圧倒的に多いことを思わせる統計である。
問題は、この統計をどう読むかである。Wolf氏は、価格高騰等の要素を考慮しても、これこそ住宅購入者層の本来的な大きな変化を示していると読んでいる。それに対し西村氏の見解は、このグラフはあくまでも価格高騰ゆえに、通常の住宅購入希望者層の手に届かなくなったことの結果(私が勝手に推論して、あえて言うならば)のグラフと、見ていることになろう。どちらが正しいのであろうか。
Wolf氏の主張が妥当であれば、GDPレベルでの何らかの大きな転換を達成できなければ、住宅バブルの崩壊は、中国経済にとっては、生産性は低下しつつあるとしても、経済成長の大きな動力であった住宅投資を一挙に縮小させることになる。結果として、巨大な貯蓄の使い道が失われ、より一層の低成長ないしは停滞に陥ることになろう。恒大集団の不良債権問題は、不良債権として巨大で、それゆえに金融市場への波及を免れないだけではなく、中国経済の成長構造を本格的に変えることができなければ、中国的な経済停滞に陥る可能性を示唆するものとなっている。
低成長化した中国経済にとっての住宅投資のもつ意味の評価そして国民経済上の位置づけが、Wolf氏の議論は先にブログに掲載した私の見解とは異なっている。このような私との差異から、Wolf氏の議論は、中国経済の大きな転換、消費支出主導への転換の必要性を強調する議論となったといえる。
Wolf氏の議論を妥当なものとすれば、その上で、考えるべきは、消費支出増大主導の経済成長への転換は、現在の中国経済にとって可能なのであろうか、ということになる。可能であるとすれば、どのような政策とプロセスで可能となるのであろうか。残念ながら、転換の必要性だけに触れ、これらの点についてWolf氏の記事は触れていない。それしか道はないというWolf氏の主張の反映と言えるかもしれない。
他方、西村氏の理解が妥当ならば、住宅ブームは住宅価格のバブル崩壊し価格がある程度下落し、多くの中国人にとって手の届く価格まで低下すれば、再度、住宅需要が本格的に膨らみ、住宅投資を経済発展の1つの軸とした経済発展の再来が、中国経済にとって見込めるということになろう。が、どうであろうか。
私の前回のブログも、ある意味で西村氏の理解に近いものであった。住宅バブルの崩壊自体は、これまでの中国の経済発展のあり方に大きな変更をもたらさず、金融的にバブル崩壊の余波が解決すれば、一時的な経済縮小要因にとどまり、高度成長が再現することはないとしても、2010年代並みの成長が中国経済で回復する、と言うのが私の理解であった。そこに、1990年代の日本経済のバブル崩壊と金融危機の後の、国内製造業生産構造の大変化を伴った故の長期停滞化との、中国経済の現状との差異を見出した。
このようなことから言えることは、中国経済の今後を占うには、1つは、2010年代の経済成長の一方の担い手であった住宅投資の実需がバブル崩壊後に回復可能かどうかが重要である、と言うことであり、また、住宅投資の回復がなくとも、これまでの中国経済の成長を支えてきた住宅投資以外の需要、世界の工業製品の製造拠点としての成長と、消費財のみならず資本財についても巨大化した国内市場の一層の拡大を国内生産が担うことでの成長、これらにより、住宅投資の停滞ないしは縮小をカバーして、それなりの成長を維持できるかどうか、いずれかが可能か、と言うことになる。さらに言えば、Wolf氏流に、消費支出の大幅な増大を何らかの方法で実現するということでも、成長率の回復は見込めるであろう。
ただ、Wolf氏は一方的に消費支出の増大が必要というだけで、その可能性に関わる検討はない。西村氏によれば、住宅投資についても、バブルがはじけ住宅価格がある程度低下すれば、住宅需要は本格的に回復するということになる。そうであれば、従来の成長軌道より多少成長率は下がるとしても、従来の形態で、中国経済の成長が回復し維持されるであろう。私から見れば、西村氏の見解は、住宅需要の回復について極めて楽観的であり、また、Wolf氏の消費支出の増大への期待は、政策的にどのような筋道で可能かが見えてこない。
その上で、従来の構造を前提にしても、住宅投資以外の中国経済の現在持つ可能性が発揮され、ある程度の成長が維持される可能性が高い、というのが、私の考えである。全く裏付けを示さない議論ということでは、Wolf氏の消費支出の増大の必要性の主張の実現可能性と、私の議論は同様であるが、このような可能性が高いと、今のところ考えている。住宅投資バブルの崩壊後、金融的混乱はあるとしても、その後、中国経済の成長は、従来構造を前提に、住宅投資の急回復がなくとも、それなりに回復するのではないか、というのが、私の見立てである。
ある意味、これは「八卦」であるが、「八卦」なりの根拠は、私が2000年から2011年にかけて実際に見てきた中国経済の巨大さ、そこでの民営企業の模索の極めて多数で多様であること、それらを地方政府が支援し、大中小様々な企業が多様な可能性を現実化させていた事実である。このような環境が、習政権の下で大きく損なわれているようなことが生じていないならば、私の「八卦」は当たるのではないかと思っている。
参考記事
Martin Wolf ‘Threats from China’s real estate bubble’,
Financial Times, 6 Oct. 2021, p.17
西山明宏「中国恒大危機 リーマンとは違う、経済の危機や崩壊
つながらない」朝日新聞、10月7日朝刊、13版、6面
(対外経済貿易大学教授の西村友作氏へのインタビュー記事)
2021年9月30日木曜日
9月30日 小論 恒大集団の‘取り付け騒ぎ’ を聞いて
恒大集団の‘取り付け騒ぎ’ を聞いて
渡辺幸男
中国での不動産開発を中心とした急成長巨大企業である恒大集団の債務不履行の可能性と‘取り付け騒ぎ’を聞いて、1990年代初頭のバブル崩壊、そして半ばの住専破綻を契機とした日本の戦後成長の行き詰まりそして金融破綻、いわゆるバブル崩壊とその後の現在に続く日本経済の停滞の継続を思い出した。1991年のバブル崩壊・土地価格暴落の結果として生じた1990年代半ばの金融危機の発生は、住宅金融をめぐる住宅専門金融機関、住専の破綻を契機としていた。
不動産価格の下落、不動産投資が主力の金融機関である住宅金融機関の破綻、それらが、そこに融資をしていた都銀等へと波及し、多くの銀行が経営困難に陥り、倒産が生じた。金融が一気に縮小し、経済全体の縮小へと波及した。これが、90年代後半まで続き、金融状況はその後落ち着きを取り戻した。しかし、日本経済の成長は低成長というかほぼ停滞のまま、90年代初頭から見れば、現状まで、30年間継続していることになる。
中国恒大集団の債務不履行騒ぎに、中国経済の高度成長の終わりの始まりを見るべきか。すなわち、2020年代中国経済に、1990年代半ばの日本の住専破綻に端を発した、北海道拓殖銀行の倒産をはじめとする金融破綻への道、そして経済成長の停滞の四半世紀へと日本経済が辿った道の可能性を見るべきか。これを見ているのが9月24日付のFTでのJ. Tett氏の議論と言えよう。私にとって、興味深いFTの論説員の議論である。
金融破綻の可能性、それが持つ、その後の重苦しい経済停滞長期化の可能性、それを考えるのには、金融破綻だけが日本経済の90年代以降の停滞を規定していたのか、この点を考える必要がある。中国の恒大集団の債務不履行騒ぎは、まさに不動産投資の過熱がはじけたバブル崩壊の本格的開始を合図するものであろう。日本の住専の破綻が示したように。この点は、私にも確かなように見える。
ただし、日本経済の場合の90年代は、バブル崩壊と共に大きな経済構造変化が生じていた。日本経済の成長、高度成長から安定成長へと続いた成長を主導してきた主要製造業のうち、量産型の耐久消費財を中心にした機械類の生産が、まずは日欧米の三極生産体制にシフトし、そのうちの日本の生産体系が基本的に国内完結型の生産体制から東アジア大の生産体制へと本格的に移行する過程であった。同時に、その過程は、韓国・台湾企業の追い上げにより、量産機械の生産での日系企業の全般的な優位性の喪失過程でもあった。
日本国内で設計開発のみならず部材の加工から完成品の生産まですべて行う生産体制が、戦後高度成長過程を主導した日本の製造業の特徴であった。国内生産の日系企業が量産耐久消費財としての機械で国際競争力を獲得し、かつ、国内完結型生産体制化がかつてない水準で実現したのが、1980年代初頭までの日本経済であった。他方で1980年代には、日本、欧州、北米の3大消費地にその生産拠点を展開する生産体系に移行した。そのうちの日本国内の生産体系を構成していた部分から、繊維製品の生産工程、そして量産型機械の完成品組立と部品組立の工程が、日本国内の生産拠点から韓国台湾そして中国へと展開し、国内工場はそれらの母工場化した一部の工場を残し、乗用車産業以外はほぼ量産工場を東アジアのうちの国外に持つという、東アジアを範囲とした生産体系からなるという意味で海外生産化した。これにより3極生産体制化のもとでもかなり維持されていた国内完結型体制の終焉が生じた。これが90年代に生じた日本経済の大きな構造変化であった。
乗用車は例外的に完成車と主要部品の国内生産を維持していたが、その乗用車生産も1990年前後の一千万台規模の国内生産をピークに、波打ちながらも漸減している。国内市場向け国内生産をほぼ維持し、一定部分の輸出向け生産をも維持しているが、90年代以降、生産拡大への展望は消えている。ちなみに日本自動車工業会の資料によれば、2019年の乗用車の国内生産台数は軽自動車を含め830万台余(自動車工業会「表1 四輪車生産台数」より、同所URL,2021年9月28日閲覧)である。
もちろん、他方で、乗用車生産が国内生産水準をある程度維持していること、量産機械の企画開発が国内に残り、量産工場もいくつかは日本国内に残っており、耐久消費財としての電子・電気製品の日系企業の国際競争力は、大きく減退しているが、産業機械等の資本財生産は多くの分野で優位性を維持し、グローバルな需要に依然として国内生産で応えている。これらの部門では内部には栄枯盛衰があるが、全体としてはかなり拡大していること等で、対外貿易収支の赤字化は回避され、かつ海外進出企業の収益増から等で、国際収支バランスは依然として黒字基調であり続けた。その限りで、日系企業のグローバル市場での相対的後退にもかかわらず、日本製造業の東アジア化は、日系企業群に発展可能性を与えたが、同時に、日本経済の低成長化さらには停滞化をもたらした。その下での国民経済単位での、ある意味での安定をもたらした。国内経済としての成長率でみると、量的には明らかに停滞基調であったが、製造業を中心とした国内経済活動の内容は大きく変化し、ICT化等の高度化が進展し、インターネットや携帯電話そしてスマートフォンの普及に見られるように、国内の消費者の生活も大きく変化した。日本の国内経済のこの30年間は、すなわち量的に停滞したが、激しい構造変化を被りながらも縮小することなく、質的に高度化が進展したと言える。少なくとも経済の縮小・衰退の30年間ではなかった。
それゆえ、日本経済の30年間にわたる停滞が生じた点の中核は、金融機関の機能不全ではなく、国内完結型の産業構造が東アジア大の地域間分業へとシフトし、日系企業の得意分野で日系企業以外の東アジア系企業の台頭が見られたことにある。金融機関の機能不全は短期的には大きな影響を与えたが、30年間にわたる日本国内経済の量的停滞要因ではない。
この30年間で、我々日本国内の消費者が主として使用する家電製品の圧倒的部分が、部品から完成品までの国内生産の製品から、完成品組立だけではなく、量産部品も含めた、海外、主として東アジア生産体制へと移行し、さらには生産者が日系企業かどうかに関わりない形態へと、移行したのである。大量生産の衣料品は、ほぼすべて海外生産製品であるし、テレビ、テレビの液晶表示装置、スマートフォン、エアコン、そして最先端の半導体等々、多くの量産耐久消費財とその主要部品も海外生産化している。この変化が、この30年間に生じた。また、海外生産化した量産機械等に変わる、国内経済の順調な拡大を可能とする担い手、巨大な拡大を持続する国内立地の新産業部門あるいは新産業部門群等は形成されなかった。結果、経済の質的高度化は進展したが、経済規模の拡大は鈍く、ほぼ停滞を続けた。
このように見てくるならば、今の中国の中長期的展望を考える際に重要なのは、今から生じてくるであろう不動産バブルの大崩壊、その不動産バブルの大きさは80年代末に日本どころではないことが、具体的な数字で、9月27日付の日経の1面の記事、「中国、不動産バブル懸念、かつての日本超す」(日本経済新聞、9月27日、第12版)に示されているが、その大きさ自体ではないと言えそうである。なお、現状では、中国政府は、不動産価格高騰に関しての政府批判拡大を踏まえ、価格のこれ以上の高騰を抑制しつつ、他方で、国有の金融機関、中央政府と地方政府の国有銀行や国有投資会社を動員して、不動産バブル崩壊の全面化に対する抑制努力を展開している。まさにその象徴が、日経の記事 (1) で報じられた、地方政府所有国有企業による恒大集団が保有する地方銀行の株式の買収であろう。まずは、本格的なバブル崩壊とならないよう、国有企業を動員しての政策的対応が全面化し始めている、と言える。
今の中国経済は、そして中国政府は、政策的に、一方で住宅を中心とした不動産価格の高騰を抑制する一方で、その影響として不動産バブルの崩壊を防ぐ、その正念場に至っていると見ることができる。これらの政策が有効に機能して、不動産相場が安定化するとともに、不動産バブルを崩壊させることなく萎ませることが、中国政府の狙いであろう。しかし、バブルはバブルである。多様な、かつ多数の国有企業という他の資本主義諸国の多くが手にしていない巨大な介入手段があるとしても、市場経済、資本主義経済でのバブルの本格化を、軟着陸させることは容易なことではない。まずは無理であろう。不動産価格の今後の急騰を期待できないことは、政策的に中央政府から示されている。急騰を前提に投資を行ってきた不動産民間企業の資金繰りを、たとえ国有企業を総動員したとしても、不動産価格の急落につながらないように、そして金融不安を生じさせないように救済することは、可能だとは、私には思えない。
日本株式会社と呼ばれ経済介入が大好きな日本政府でも、90年代の日本経済の不動産価格の急落に端を発した金融危機の本格化を阻止できなかったことが、今回の中国政府の介入の有効性の限界を示唆するものと言えよう。中央政府は、不動産価格のこれ以上の高騰を避けることを、主要な政策的目標としているのであるから、不動産価格の再高騰はあり得ず、それがなければ、不動産価格高騰を前提として投資行動をしていた不動産関連企業の資金繰りの行き詰まりは、恒大集団に限られたものではない。これからも次から次へと現れる可能性が大であることが、既に示唆されている。その結果は、バブル崩壊が不可避ということである。これが最も可能性の高いシナリオであろう。
このバブル崩壊を転機に、中国経済の成長を主導した諸産業、これらに、どのような変化が生じるか、あるいは変化が生じないで、再度従来通りの成長過程を辿れるか、あるいは、新たに巨大な成長部門が、内外の需要に対応して中国国内に形成されるかどうか、ということになろう。
2010年代の中国経済の発展は、世界の量産機械、特に耐久消費財としての諸機械の最終生産の拠点としての発展と、10数億人の急成長する巨大国内市場、典型的には世界最大の乗用車生産と市場すなわち国内消費水準、それに巨大な住宅建設投資に表現されているが、今回は、このうちの住宅建設投資の担い手である恒大集団の破綻(いまのところ多分と言うべきだが)となった。その中身は日本の場合と異なり土地売買すなわち土地の投機的売買ではなく、住宅建設としての資本財の投資である。その意味で、不動産投資のバブル崩壊は、単純な住宅価格の下落による金融機関への大打撃だけではなく、住宅建設投資用の巨大な鉄鋼やセメントといった資材需要への波及も存在している。それらの建設資材の生産への影響も巨大であると考えられる。
中国国内経済の発展持続可能性は、それらの住宅関連部門を含めた中国国内産業諸部門の国内での発展が維持されるかどうかに関わるといえよう。日本の国内市場も、欧州各国や東アジアの新興工業国に比べれば、市場として十分大きく、乗用車等の生産での規模の経済性実現について、当時としては十分な大きさを持ち、国内需要依存でまずは高度成長を維持したが、80年代には海外市場の開拓が、その主要な経済成長の要因となっていた。
それに対し、中国経済は、現時点でも国内市場の開拓余地が巨大に存在し、国内市場の拡大が成長の一方の柱であることを失っていない。さらに、国際的な生産体系の中での中国の生産拠点としての存在意義も大きく失われてはいない。例えば、鴻海精密工業のようなEMSの主力工場の急激な中国外への転出は見られていない。90年代の日本では、国内の東北地方等の周辺地域へと進出していた日系企業の量産分工場群が、一斉に海外特に東アジア地域へと転出したのである。主力量産基地としての日本国内地方工場の存在意義は、衣服等の軽工業製品のみだけではなく量産機械製品でも、日系企業にとってもほぼ完全に失われた。ほぼ全ての量産製品の生産が90年代を通して海外化し、乗用車以外は東アジア化したと言える。
以上のように日本のバブル崩壊後の停滞を理解すれば、1990年代の日本国内で生じたような、経済発展のあり方を大きく変え、設備投資を海外化させ、国内設備投資の大幅減退をもたらすような、大きな構造変化が中国経済に生じるとは考えにくい。もしこのような大きな変化が生じなければ、中国経済は、今回の不動産バブルの後の不動産不況を核とした一時的不況は、不況としては極めて深刻なものだとしても、その後に長期にわたる経済停滞に陥ることはないであろう。
日本の1990年代以降の経験から言えることは、不動産バブルの崩壊といった景気循環的な事象と、中長期にわたる経済動向、経済停滞の長期化といった事象とは、その要因が異なることを認識し、分けて考える必要があると言うことである。そこからの結論は、中国の中長期の経済展望は、90年代に日本経済が陥った停滞状況とは、大きく異なる、ということであろう。
ただ、近年の中国経済の発展論理とそれをもたらしている経済構造の分析を追究していない身としては、推論の積み重ねに過ぎない議論だとしても、これ以上の議論は不可能である。現状分析に従事している中国経済研究者の分析の成果を待つだけである。ただ、この後何が生じるか、中国経済の再度の発展がどのような形で生じるのかを見ていくことは、日本のバブル崩壊後の30年にわたる停滞を、研究者として経験してきた身としては、大変興味深いところである。
参考記事
Gillian Tett, ‘Look to Japan for lessons on Evergrande’
Financial Times, 24 September 2021, Asia, p.17
川手伊織「中国、不動産バブル懸念 かつての日本超す」
日本経済新聞、2021年9月27日、12版、1面
注
(1) 土井倫之・木原雄士「中国恒大、地銀株を売却 1700億円、資金繰り確保急務」日本経済新聞、2001年9月30日、12版、17面
2021年9月18日土曜日
9月18日 丸川他著『タバコ産業の政治経済』の2 丸川知雄さんとのやりとり
丸川・李・徐・河野共著『タバコ産業の政治経済』への感想文
ブログアップ後の丸川知雄さんとのやりとり
渡辺幸男
はじめに
以下は、9月11日付の丸川他著についての感想文をブログに掲載する際に、同内容を丸川さんと徐さんに送付し、丸川さんからいただいた返信メールと、その後の丸川さんと私とのやりとりを、丸川さんの許可を得て、ほぼそのまま掲載したものです。
このやり取りを通して、丸川他著についての私の読み込みの足りなさを指摘していただき、改めて丸川他著の当該部分に目を通し、私の理解の足りなさを痛感し、その上で、同書から得られた私なりの感想を再確認した形になっています。
このブログでのこれまでの掲載文でも触れていますが、丸川さんとは、1999年から始まった、日中合同調査研究チームである3E研究院の中の、中国中小企業発展政策研究チームの日本側メンバーとして、5年間にわたり中国の中小企業現地調査を共にした仲でした。3E研究院の2000年初春に開催された中国北京清華大学での研究会で、当時アジア経済研究所におられ、中国産業企業の現地調査を活発に行われていた丸川さんに、北京市近郊の浙江村と呼ばれた市場とその周辺に立地する町工場を、研究会の合間をぬって案内していただきました。
特に飛び込みで訪問した従業者3名の刺繍工場の印象が強烈でした。その工場は、年代物の中国産の刺繍機にフローピーディクの情報を読み込むNC機をつけた、ワンポイント刺繍用の、いちおうNC刺繍機と言えるものを2台ほど置いた工場でした。その自動機械に、経営者の妻と山東省出身の10代の女工さんとが、糸切れ対応人員として1台ごとに張り付き、動かしていました。これを見せていただき、中国産業の底辺の状況、自前でNC化することが可能だが、先端の機械としてではなく、中古機械を生かしそれなりに自動化し、安い労働力でその機械の欠点を補うという姿、これをみたのが、その後、10数年にわたり中国現地調査にのめり込む、そもそものきっかけでした。
私は、2011年をもって、中国現地調査を終了し、中国産業発展について現場で追いかけるのをやめましたが、東大社研教授になられた丸川さんは、当然のことながら、現役の研究者で、中国での調査も継続されています。丸川さんの調査のあり方やそれのまとめ方を、調査にご一緒させてもらうことでそれなりに理解しているつもりの私にとって、今回の中国タバコ産業の調査研究は、大変興味深く、そこでの成果から多くを学びました。その際の文献の読み方の浅さを、今回のやりとりで指摘いただき、さらに理解を深めることができたと感じています。
1、2021年9月15日付け 丸川さんからのメール
渡辺先生:
書評をいただき、誠にありがとうございました。
精読していただき、感激しております。
やや複雑な経緯でタバコ産業を研究することになりましたが、中国のタバコについて事前の予想より情報が多かったですし、ずいぶん親切な中国の先生たちに恵まれて、楽しく研究しました。
私にとっては、何よりも中国の農業についてずいぶん学びました。それは、一緒に調査に行った張馨元、李海訓の両名からの教えも大きいのですが。
最後の方のご指摘についてですが、タバコは長期的には衰退するのは確実ですが、短期的には最も安定しています。第10章でコンビニになぞらえておりますが、煙草公司の指示通りに草を抜いたり、農薬を散布したりしていけば、確実に収入になるという感じがしました。調査で訪れた河南省の黄土台地の上とか、四川省の山の中とか、なかなか葉タバコ以外に有力な作物はなさそうに思いました。
雲南省はコーヒーや茶や漢方薬材など特産品は多いのですが、特産品の需要は波があり、かつ名産地になれる場所は限られています。中国の内陸でワイン用ブドウに活路を見出そうとしている地域は多いのですが、中国の人たちが高価なワインを鯨飲するようにならない限り、なかなか将来性はないのではないかと思いました。というのも、中国産のいいワインと言われて飲むと確かにボルドーとかに比肩できるのですが、お値段がボルドーの何倍もして、これよりは1000円のボルドーを買うだろうなと思ってしまいます。特産品はどれも需要量が少ないので、個性的な作物を選ばないとならないのだと思います。
『現代中国経済・新版』とも合わせ、お読みいただき、誠にありがとうございました。
丸川知雄
2、2021年9月16日付け 丸川さんへのメール
丸川知雄様
勝手な報告へのお返事、ありがとうございます。たばこ栽培の中国周辺地域での栽培の意味、興味深く拝見しました。たばこ以外に安定した農作物が、現在のたばこ栽培地域にないとすると、やはり、中長期的には厳しい状況へと回帰してしまうのではないかと思う次第です。
また、「煙草公司の指示通りの」栽培、という場合の「煙草公司」とは、各地域に設置された子会社ないし孫会社と理解すれば良いのでしょうか。それぞれの地域の子会社が地域利害をも加味し、地元農家を指導する。そんな姿なのでしょうか。中国全体を見渡し、多様な視点から見た最適な地域を探して栽培を指導するというより、省単位の利害を共にする子会社等が、地域利害を踏まえて指導する。地域間競争がそのような指導でも生まれている、ということでしょうか。
いずれにしても、地方単位の主体による市場競争(新古典派的な市場競争ではないが、市場のダイナミズムを生み出すような競争)が、単一国有巨大企業傘下でも生じうるのが、巨大な市場の存在する中国、この点は、中国のタバコ専売制度を通して、再確認した、最大の点だと、今も感じています。ありがとうございます。
渡辺幸男
3、2021年9月17日付け 丸川さんからのメール
渡辺先生
「煙草公司の指示通りに」というときの煙草公司とは何か、という点に関してですが、お手元に本があれば187ページの図8-2をご覧ください。
このうち、左から3本目のラインが中煙工業で、その下にかつては100社以上あり、今は27社に絞られてきたシガレットメーカーがあります。
さらに左から4本目のラインがあり、そこには省ー市ー県と連なっております。これが私の言う「煙草公司」です。
こちらは何をするところかといいますと、葉タバコ栽培の指導と買い付けおよび販売、そしてシガレットの販売です。
つまり、シガレット製造の系列と、葉タバコ農業・シガレット流通の系列とを分けたところに、中国のタバコ産業の独特なところがあり、そこはシガレット製造と販売が一本化され、葉タバコ農業に対しても買い手独占となっている日本の専売制・JTと大きく違うところです。
二つの系列は、地域ごとにブロックとして固まっているわけではなく、独立しています。例えば雲南省では製造メーカーとして紅塔と紅雲紅河という2大メーカーがあり、もう一つの系列は地域ごとに例えば石林煙草局がありますが、二つの系列はそれぞれ独立の企業として自由に契約を結んでおり、後者が紅塔や紅雲紅河を葉タバコ供給を優先したり、シガレットの販売において紅塔などを優先するということは今はなくなったようです。(かつてはありました)
産地の煙草局とシガレットメーカーは長期的な契約を結ぶことが多く、上海や広東など沿海部の有力メーカーも雲南省などの産地の煙草局と長期契約を結んで安定した供給を受けています。
葉タバコ栽培は、メーカー側の利害とは独立しており、国全体の計画に基づいて、各地域に作付面積や生産量が割り当てられて、煙草局の管理のもとで行われております。新たな葉タバコ産地が勝手に参入して競争が激しくなることは原理的になく、指示されたとおりにまじめに作業すれば、収穫期には必ず予定した通りの収入になる、という感じです。天候不順によって不作になっても保険があったと思います。
丸川
4、2021年9月17日付け 丸川さんへのメール
丸川知雄様
ご指摘、ありがとうございます。改めて、該当箇所を読み、私が思い込みをし、読み飛ばしをし、誤解していたことがわかりました。
競争的な関係について、たばこ栽培と製造が別系統で、それぞれの子会社が、経営判断を一定程度できる「企業」、しかもそれなりに「自立した企業群」であり、葉タバコ調達でも立地地域を超えて栽培・販売系と製造系それぞれの販売・調達競争があり、また同時に製造子会社間にも販売競争が葉タバコ栽培産地を越えてあることが、理解できました。
思っていた、あるいは思い込んでいた以上に、葉たばこ産地ごとの競争という形を越えた競争が多面的であることがわかりました。ありがとうございます。
中国の葉タバコ専売制度とは、市場競争のプレイヤーそのものが特定化され、栽培総量が中央で決定されている、ということに尽きるようにも感じました。また、それらの特定化されたプレイヤーは多数存在し、相互に競争的であり、かつ川上と川下の取引関係も子会社たる各プレイヤーの裁量の範囲内であり、極めて競争的であると、改めて感じた次第です。巨大市場を前提に、生産の大枠だけ決め、後は多数ある各子会社の裁量に任せる、子会社たるプレイヤーにとって参入退出についての自由はないが、その他は極めて競争的な市場ということを、改めて痛感した次第です。
参入退出のみが規制されている巨大市場での多数企業の競争、これをどのような競争的市場と評価すべきなのでしょうか。少なくとも独占的市場というべきではなく、競争的市場といえることだけは確かに思えますが。資本主義のダイナミズムをもたらす市場「競争」とはどのような「競争」か、新古典派の言う「市場競争」ではないことだけは確かだとは思うのですが。いずれにしても、制度の中身と運用内容をきちんと具体的にみないで、「専売」だ「国有」だということで、競争や企業行動のあり方を先験的に決めつけることだけは避けるべきだと、改めて感じた次第です。
長文のご指摘、本当にありがとうございます。
渡辺幸男
2021年9月11日土曜日
9月11日 丸川他『タバコ産業の政治経済学』を読んで
丸川知雄・李海訓・徐一睿・河野正『タバコ産業の政治経済学
世界的展開と中国の現状』昭和堂、2021年
を読んで 渡辺幸男
目次
序章 シガレットの世紀
第Ⅰ部 タバコ産業の世界的潮流
第1章 タバコの生産プロセス
第2章 タバコ産業の現代史 −BATが世界に与えた影響
第3章 タバコ課税の世界的潮流と中国の税制改革
第4章 タバコと健康の政治
第Ⅱ部 現代中国のシガレット産業と葉タバコ農業
第5章 計画経済体制下のたばこ産業
第6章 シガレット産業の成長と「計画」の難航
第7章 2000年代以降のシガレット産業の再編と競争
第8章 葉タバコ産地の変遷
第9章 救貧作物としての葉タバコ −雲南省を中心に
第10章 葉タバコ農業の大規模化
*サブタイトルと目次を見れば明らかなように、本書は、紙巻きタバコ、シガレットを中心とした、タバコ産業のグローバルな歴史的概観と、中国でのタバコ産業の戦後の展開についての議論の2つを中心テーマとした著作である。グローバルなタバコ産業史の概観ののち、現代中国においての葉タバコ農業を含めたタバコ産業全体の展開がまず述べられ、その上で、周辺農村地域での貧困問題解決の重要な手段としてのタバコ産業の展開が、具体的な現地調査を踏まえて紹介され、議論されている。
すなわち、世界のタバコ産業史を前提に、農産物としてのタバコ栽培からシガレットとしてのタバコ販売の専売制のあり方とそこでのタバコ加工製造子会社間の競争に至るまでの、トータルな中国タバコ産業論を展開することを意図した著作ともいえる。私が久しぶりに巡り会えた、実態調査を踏まえた産業論の著作と言える。
(なお、本書の存在を、本書の著者の一人である丸川知雄氏の近著、『現代中国経済 新版』(有斐閣、2021年)の参考文献で知り、購入した。『現代中国経済』についても、何か書きたかったのだが、最近の私の状況では、どこから噛み付いて良いのか、うまく手を出すことができず、その後に購入し読んだ本書をとりあえず、自分なりにコメントを書く対象の著作として選んだ。最近も、毎月何冊もネット購入し、乱読している。が、自分の蓄積から、自分風にコメントを書くことができる分野の著作というより、コメントできる分野そのものが、縮小してきていることを痛感している。ブログに書いてきた勝手な感想文も、私なりに過去の蓄積を取り崩しながら書いてきたのだと、近頃は感じる次第である)
*中国でのタバコ産業それ自体の展開、タバコ栽培から加工そして販売に至るタバコ産業全体の変遷の紹介がされると同時に、そこでのタバコ栽培農家、地方政府と加工工場、そして中国でのタバコ専売制のあり方等が、具体的に歴史的展開を含め紹介され、日本の専売公社によるタバコ専売制とは、全く異なる中国のたばこ専売制のあり方が示されている。そして、その下での各省に立地するタバコ子会社間の競争の独自なあり方と、それが持つ意味が紹介されている。
*私自身が本書の中で最も興味を持ったのは、中国でのタバコ専売制の実態である。
日本のたばこの専売公社は、日本全体市場を占有し、かつ葉タバコの栽培についての農家に対する徹底したタバコ葉一枚に至るまでの管理監督から、自らによるタバコ葉の加工、シガレットを中心としたタバコの自社工場での生産、そして自社ブランドでのタバコの小売店への供給、そして小売店群の管理まで行う、タバコ栽培と小売以外を直接自社内に取り込み、栽培と小売も統一的に管理する単一主体である。当然のことながら、日本国内のタバコ市場には、企業間競争はなかった。まさに単一の公社による専売、市場独占そのものであった。
しかし、中国での専売は、当然のことながら国家としての中央政府による専売ではあるが、その具体的なあり方は、大きく異なっていた。1つは栽培農家に対する管理の甘さともいうべきものが本書で再三指摘されている。地方政府にとっての税収増が絡み、闇葉タバコ栽培が頻発したことがそれである。
しかし、最も私が興味をそそられたのは、各地方政府の管轄地域に設置された、タバコ製造と販売の子会社群という存在である。すべてのタバコの生産工場等は、中国煙草総公司の下にある、という点では日本専売公社と変わりはない。しかし、中国の場合、国内の各地方に置かれているのは、総公司が直接管理する工場ではなく、総公司がそれぞれの地方に設置した法人格のある子会社である。それらが直接、さらにはさらなる子会社と通して間接に所有している形で、工場が存立している。かつそれらの子会社がそれぞれシガレットの自社ブランドを保有し、自社ブランドのタバコを生産し販売し、あるいは他の子会社からの受託生産をしている。総公司ではなく、総公司の下にある子会社群が、中国タバコ市場での生産販売での意思決定主体なのである。
これに、子会社が立地する地域の地方政府が、地方政府にとっての税収との関連で絡み、各子会社の収益が、それぞれの地方政府にとっては極めて重要な意味を持っていたとのことである。すなわち、ブランド戦略を立て、市場を確保し、利潤を上げる主体は、煙草総公司ではなく、その傘下にある各地方にある地方政府と利害の絡む子会社あるいは孫会社なのである。まさに、専売でありながら、子会社・孫会社間の競争、タバコ市場での企業間競争が存在し、その成果が子会社の業績のみではなく地方政府の税収に反映してくるという仕組みが存在していた(本書、162・163ページ)。
ここから見えてくることは、日本同様に中国でも国家独占というべき専売制度が存在していたとしても、日本と異なり、中国では、企業間競争がシガレット販売市場で存在していたということになる。私はかつて現役教員であった時代、中国語の原書講読を、中国出身の若手教員、確か本書の著者の一人でもある徐一睿さんだったと思うが、彼とともに担当した際に、中国のタバコ産業関連の中国語論文を読んだような記憶がある。その際に感じた違和感の第一は、専売制下のタバコ市場でありながら、地域間競争があるというような指摘に遭遇したことである。同じ会社の中で「企業間」競争があるような奇妙な感覚を覚えた。しかし、本書を読み、中国のたばこ専売制度のあり方を知り、その違和感も解消した。
ここから言えることは、国家専売制度下にあれば、当該国内でのその財についての市場競争は全く存在し得ない、というような先験的な理解は、各国の経済状況について、具体的に見ていく際、すなわち現状分析をする際には不適切である、ということであろう。専売制度のもとにあるということでは、同じ状況にあると言える各国経済間でも、その専売制の制度的内容によっては、広い意味での企業間競争とも言える状況が生み出されうるというのが、中国の事例が示唆していることであろう。
ましてや、専売制度といった国有企業1社独占下での国有企業ではなく、国有企業一般についてであれば、その企業が置かれた環境は、その企業が置かれた国民経済の状況や、国民経済内でのそれぞれの産業の環境により、大きく異なる可能性がある。このことは、「国有企業だから・・・」といった先験的な認識に基づき、各国経済でのその存在の大きさを単に数的に比較し、各国経済の差異を云々するような議論が、ほぼ無意味であるということを、示唆している。
中国で現地調査を10数年行ってきて最も感じていたことは、制度的環境が異なると、例えば私の研究対象である製造業「中小企業」であっても、その行動様式が大きく異なるということであった。制度的環境次第で同じ形式の経済主体でもその行動様式は大きく異なることもあることを、今回もこの中国タバコ産業での専売制のあり方の紹介を通して、確認した次第である。
*最終章の第10章では、河南省で筆者らが訪問調査を行った、大規模化したタバコ栽培合作社や家庭農場の例が紹介されている。それと同時に、雲南省では、個別農家ごとに細分化されたタバコ農家の事例も紹介している。大規模化した事例が、必ずしもたばこ栽培としての規模の経済性、あるいは規模の拡大による機械化の実現とその優位性を体現しているものではないことも、事例を通して指摘している。河南省では、農村在留人口の高齢化、個別農家ごとの労働力数の減少への対応という側面が強く、より生産性の高いたばこ農業ということはできず、雲南省の個別農家中心の経営に対し、将来的により積極的な経営展望を持つものとは言えないとしている。
ただ、本書での議論はここまでで、本書は締め括られ、たばこ農業の中国での全体的な展望は、よく見えてこないまま、本書の叙述は終わっている。
*2000年から始めた私の中国での現地調査の当初、中国では、当時の日本とは異なり、まだ、多くの男性が、常習的に喫煙をしていた。喫煙習慣の全くなかった私にとって、中国では喫煙者と同席する機会が多くあり、かつ調査の主任として、相手側からタバコを勧められることもかなりあった。が、それを常に断らざるを得ず、中国調査での、最大の問題点となった。ただ、その中国でも、近年は、喫煙者の数が大きく減少したようである。その意味で、中国といえども、タバコ産業は、そのための葉タバコ栽培を含め、将来展望のない縮小産業といえよう。
そのタバコ産業向けの葉タバコ栽培が、中国の農村山間部での貧困撲滅の有効な手段になっていた実態が、本書では終わりの章で紹介されている。衰退が見通されるタバコ産業分野の原材料の生産を担う形で、貧困地帯が解消されてきている。このことが、葉タバコ需要の減退により、葉タバコ栽培の衰退、葉タバコの価格暴落を生じせしめ、貧困地帯の再形成へと繋がらないためには、葉タバコ栽培に替わる、山間地でも競争力のある栽培が可能な農産物の開発、さらにはその加工拠点の開発が不可欠といえよう。しかし、本書の叙述は、そこへとは進んでいない。2021年にまとめられた著作としては、残念に思える点でもある。
*本書の結論は、なんであろうか。終章なり、結論と称した章は、本書には存在しない。上述のように、最後の2章、第9章と第10章で述べられているのは、葉タバコ栽培の貧困対策としての有効性と、大規模化栽培の存在の確認とその経済的有効性についての疑問の呈示があるのみである。それが、結論的部分なのであろうか。
本書の議論からすれば、地域経済対策や貧困対策として、衰退産業としてのシガレット産業への依存が持つ問題性の確認と、その問題の解決に向けての展望の検討こそが、結論部分として必要であったのではないか。
2021年8月30日月曜日
8月30日 鬱蒼とした庭を彩る百日紅と芙蓉
2021年8月15日日曜日
8月15日 日経記事「ホンダ早期退職 EV化の波映す」を読んで
山田遼太郎、阿部晃太朗「ホンダ早期退職 EV化の波映す」
(日本経済新聞記事、2021年8月7日、12版、p.7)
小見出し「部品半減、雇用8万人減」「サービス分野シフト急務」
「エンジン不要に」「ピラミッド崩壊」
*この記事の注目点
ホンダがEV化への移行から、大幅な人員削減を行うという話がまくらとなり、EV化が国内既存乗用車産業にとって何を意味するかを紹介している記事である。EV化はエンジンを必要としなくなるということで、1台の車に必要とされる部品点数が大幅に減るということ、そのためホンダ自身も大幅な人員削減を必要とするということ、大手完成車メーカーがこれまで構築してきた「産業ピラミッドの重要性が薄れ」ること、開発設計に専念し、生産を他企業に委託するような異業種からの参入が増える可能性があること(これを「水平分業」と呼んでいる)、ホンダのみではなく乗用車産業全体で雇用が減る可能性が高いこと、などが述べられている。
「産業構造」と題した下記の図では、ガソリン車の「垂直統合(ピラミッド)」からEVの「水平分業」へと移行するという図が掲げられている。
図 日経に掲載された乗用車の「産業構造」の図
出所:日本経済新聞URL、2021年8月14日閲覧
*気になる点1
相変わらずの「垂直統合」と「水平分業」という概念と、その使い分け
まずは、車大手の乗用車産業の構造を、「垂直統合(ピラミッド)」というのは、日経風に言っても不適切であろう。車メーカーと大手部品メーカー、そして中小部品メーカーというピラミッドになっているが、企業的にはあくまでも独立した企業であり、あえていうのであれば「垂直準統合」と「準」を入れることが必要であろう。日系企業の特徴は、垂直統合ではなく、独立企業であるサプライヤを系列化し、従属させることにあるのであるから。垂直統合というのであれば、かつての米系企業、GMやフォードの主要部品の内製化状況を意味してしまう。
他方、全く訳がわからないのが、EVの分業図である。垂直関係の際には、発注と納品が別の矢印となっているのに対し、EVではメーカー間の関係が「受発注・納品」として一体化され双方向となっている。また、「IT大手など新興・異業種」も消費者に販売するというのであるが、同じレベルで「車メーカー」があり、これとも双方向に「受発注・納品」するとなり、また「部品メーカー大手」が車メーカーとやはり双方向に受発注するという絵になっている。ボッシュなどの大手部品メーカーが自社で独自部品を開発し販売している姿を念頭に置いているようだが、直に消費者に販売する、というのも奇妙である。
内容的に私なりに理解すれば、異業種の大手企業の最終製品開発・設計そして組立てを受託組立て専門企業に委託する姿を、1つは描きたかったのであろう。そうであれば、組立て委託先は既存の車メーカーの場合もあれば、記事でも触れられているような鴻海精密工業のようなEMSという場合も考えられよう。
また、右側の「水平分業」の図では、部品メーカーと並び、半導体メーカーがサプライヤ側に来ている。ピラミッドでの「中小部品」は、多くは特定加工に専門化した中小企業であるが、ここでの部品メーカーと半導体メーカーは、どのような存在と言いたいのであろうか。半導体メーカーは、半導体の組立てだけのファウンドリといった受託生産企業なのか、それとも開発設計も行う企業なのか。少なくとも、左図の中小部品の多くは、発注側の指示に従い、部品の特定の加工を行う受託生産企業であり、部品の開発・設計機能は限られている企業である。
左右で企業関係は、どのように違うのであろうか。左図では、下部の企業は上部の企業の作成した図面に従って、受託した加工を行う企業群である。右の図には、そのような存在では無くなったということであろうか。自社で開発設計する企業ばかりということか。2次や3次のサプライヤの存在としては、EV化しても加工サービスを提供する企業が中心であり、部品の開発・設計とは無縁の企業群であろう。ただ、その受託先の企業群が大きく変わり、より広域的に受発注関係が展開する可能性が高い。
*気になる点2
垂直準統合としての系列の解体と、EV化によるサプライヤの全面的な再編・大幅減少とは、まったく異なる現象な筈だが?
日本の乗用車産業でかつて主要な関係であった系列関係は、トヨタ以外は、すでにほぼ完全に解体している。
しかも、EV化は、系列企業であるかどうかには関係なく、必要なサプライヤ層の内容を大きく変えることは確かであり、また、必要な量も変える可能性が大である。これまでの金属の加工中心の2次サプライヤ層は、大きく、その必要性を減らし、電気、電子関連の部品メーカーやサプライヤ層に大きく入れ替わる。
このような変化と、もうすでにトヨタ系以外は解体してしまっている系列関係の変化とが、同時に進行しているかの如く、あるいは表裏一体の現象であるかのように描いていることが、下請系列問題を議論してきた私から見たら、この記事の最もおかしな部分、奇妙さの中核である。
EV化は、従来の乗用車の生産体系を、誰が担っているか、系列化されているか、内製部門であるか等とは関係なく、その生産体系を根本的に変える。また完成車を設計・開発し、かつ最重要部品であるエンジンを開発生産している現在の完成車メーカーの主導的な立場を大きく変える可能性が存在する。そのような状況変化の可能性に抗い、完成車メーカーとして、従来からの主導権を維持しようとしているのが、トヨタ自動車とその系列部品メーカー、すなわちトヨタグループであり、日系完成車メーカーで唯一、そのために莫大な開発投資をしているというのが、40年来の研究仲間である清晌一郎関東学院大名誉教授による、この8月の中小企業学会東部部会での報告の主張の1つである。
系列関係は、日系完成車メーカーに見られた特徴的な分業構造であったが、すでに大きく変質し、トヨタグループ以外では、存在しなくなったといえる。その象徴が、日産系列の中心部品メーカーであったカルソニックカンセイが、米国の投資会社KKRの子会社に2017年に買収され、2019年に商号としてもマレリとなったことであろう。
また、多国籍企業化した乗用車メーカーといえども、日系乗用車メーカーの場合、日本国内の主力工場は機械工業関連の国内基盤産業を前提に、そこの中で系列取引関係を構築していたといえる。EV化は、国内基盤産業をサプライヤ層再編の1つの前提にしているのであり、電気・電子機械工業関連中心の活用へと基盤産業内での利用が大きく再編されるものと、国内生産については見ることができよう。
*気になる点3
乗用車産業の基盤産業での東アジア大への広がりと、モジュール化の可能性
基盤産業としてみると、電気・電子機械関連のそれは、これまでの乗用車関連の基盤産業以上に、より広域的に、東アジア全域に広がっているとみることができる。調達範囲が地理的により広域的なものが、その製品の性格から多いといえる。同時に、物理的な機能に対し、電気・電子的な機能は、標準化され、全体との関連のもとですり合わせ的に開発される必要性は低く、モジュール化しやすいと言えそうである。それゆえ、標準品をベースに多少の補足的改良を加えることで、個別的需要に対応可能となるし、そうすることで、極端に単位当たりコストを低くすることが可能であるという特徴を持つ。
既存の内燃機関の乗用車でも、バッテリーやプラグといった電気部品あるいはタイヤといった部品は標準化され、モジュール化されている部品である。EV化ということは、このようなタイプの部分が、駆動部分を始め、制御系統で多数化し、するということであろう。外観を規定する車体部品については、車種ごとの開発ということになろうが。中身は、モジュール部品中心となり、基本的にモーターと制御機器とそれを格納する車台として、規格化が業界横断的に進むであろう。いまでも、企業ごとには規格化が進んでいる部分が、EV化を機に、業界横断的にこれまで以上にグローバル大で進展するということであろう。
トヨタとそのグループ企業群はこのようなEV化の部分に抵抗することは目に見えているが、トヨタといえども、グローバルな意味での乗用車産業でのシェアは過半には程遠い、GAFAの世界ではない。低価格化されモジュール化された車台が広範化すれば、かつて半導体で見られたように、標準化された低価格品をベースに開発された製品が、見た目の差別化を伴いつつも、一般化するであろう。MTK(メディアテック)によるプラットフォーム提供下での山寨携帯のように。特に巨大化した中国市場と巨大化するとみられるインド市場では。
携帯電話の後のスマートフォンでは、アイフォーンが高級少数派であり、トヨタが目指せるのは少数派としての高級機種、「アイフォーン」レベルの少数派ということかもしれない。量的な多数派は、アンドロイドを使用し、クアルコムそしてMTK(メディアテック)等を利用した中価格や低価格スマホであるというのと同様に、ニーズに応じた機能面で差別化を実行しつつ、基本は同じ部材を使用した乗用車群ということになるかもしれない。
あるいは、インテル・インサイドの世界の乗用車版の出現か。最先端の駆動システム、PCでのインテルMPU、自転車でのシマノの駆動システム、これが乗用車で生じることも、十分ありうる。ここでも、アップルはPCでも特異機種であり、一定のシェアを確保する少数派、これがトヨタの目指すものか。それでもグローバルに実現できれば、十分な大きさとなる。アップルのMacのように。
*気になる点4
EV化を中小企業との関連で、どのような視点から考えるべきか
1つは、基盤産業との関連の変化が問題である。東アジア大の基盤産業の中で国内の基盤産業も位置付けられる可能性が大きい。この点が基盤産業を構成する日系中小企業にとっての大きな問題となろう。もう1つは、日本市場でのEV化を主導する企業はどのようなタイプの企業であるかが、大きく日系基盤産業中小企業の中での命運の差異に関わってくる。
日系企業の場合、乗用車と電子・電気機器完成品の巨大既存企業中心であり、テスラタイプの企業の登場は困難だし、中国のようなLEV(簡易型EV)メーカーの簇生の余地・見通しはない。またその発展系だと私は勝手に想像しているのであるが、低価格EV、中国の柳州五菱の宏光のEVのように極端な低価格の街乗りEVが、中国系メーカーに伍して日本国内で発展し量産を実現するとは思われない。佐川急便が採用しようとしている小型EVも、中国製EVをベースとした一部改造特注品のようである。
このように見ると、携帯の二の舞が、トヨタ以外では起こる、というのが日系乗用車メーカーのEV化下の、最も可能性の高いシナリオかもしれない。日系企業で残るのは、トヨタを除けば、例えば、日本電産のような関連部材メーカーであり、半導体製造設備メーカーのような関連設備機械メーカーだけかもしれない。ただ、それらの日系企業の開発拠点は日本国内に残るとしても、主力生産工場は、EV市場の最も大きな中国や北米となるのかもしれない。すでに日本電産の工場がそうであるように。そして、トヨタにとっての可能性は、EV化乗用車でのアイフォーンになれるかどうか、これが生き残りにかかっているということかもしれない。
ちなみに、アイフォーンの生産は、企画開発と販売は、アップル社の本社のある米国だが、生産はEMS大手鴻海精密工業等への委託生産で、製造現場は中国中心となっている。同様に、トヨタの主力生産拠点が日本に残る理由は、ますますなくなる。今でもトヨタ車の過半の生産は非日本立地工場群が担っているのであるが、それが主力工場の立地の1つとしての日本国内もなくなる可能性も、大といえよう。世界中から電子・電気部品を調達し、主要販売市場近くで、組立て販売し、車体関連の部材の加工工場群は組立工場の近くに立地する。これが一層乗用車生産では当たり前になる可能性が大である。日本市場は、その意味では中規模であり、中国、北米、EUそして近未来のインド市場の大きさには至らないことは確かであり、日本国内立地の工場が主要工場として残るかどうか。かつてオーストラリアに大手乗用車メーカーの組立工場が複数立地し、オーストラリア市場を確保しようとした。しかし、今は、より大きな市場内に工場立地し、そこで生産し、オーストラリアに輸出する形となっている。これがEV化で、相対的により大きな日本のような市場でも生じる可能性が、大である。インドでの乗用車生産工場の新規立地は考えられても、日本国内でほとんど考えられない。むしろ、旧来工場の陳腐化につれ、オーストラリア市場なみに組立工場の撤退となる可能性が大きいのである。開発がらみの工場を1つは日本国内に残すとしても。
こうなると、サプライヤ層のアジア大での分散立地どころではない。現在の国内主力産業である乗用車産業の量産工場の国内からの消滅ないしは急減ということになる。自国系乗用車だが、完成車としては輸入産業化するということになる。アメリカでは、アップル社が典型であるように、世界市場で覇を唱える「製造業企業」が、開発設計と販売に特化し、生産は国外の最適立地工場、さらには海外企業の海外工場に任せることが一般化している。TSMCや鴻海精密工業に依存しているように、他企業の海外工場に依存する。これが乗用車でも生じる可能性が示唆される。乗用車の場合は、EV化しても、輸送コストの大きさから、集中製造拠点が、台湾ではなく巨大市場である中国や北米といった主要乗用車市場に限定されるという違いはあると思うが。
*まとめにかえて
近未来としての状況可能性の検討のために必要な事項
現在の乗用車産業ないしは四輪自動車産業が、産業連関的に、国内において製造設備機械産業や基盤産業に対しどのような大きさ、位置を占めているか、まずはそれをきちんと確認することが必要であろう。現在でも、海外調達の部分が金型等を含め部品でもあるはずであるから、日系企業かどうかを別にして、どこから調達しているかを、国内から調達しているかどうかを軸に整理する必要があろう。業種別の生産額ではなく、少なくとも産業連関表的に、部材調達を国内でどの程度しているか、それを確認する必要があろう。
その上で、必要なのは、電子・電気部品に置き換わったとき、その調達が国内でどの程度となり、海外調達へシフトするものがどの程度か、より具体的に部材を想定して、議論する必要があろう。
利用される基盤産業が機械加工的なもの中心から、電気・電子部品関連のものへとシフトするだけではなく、調達される地域も国内外でのウエイトが大きく変わる可能性がある。この点も考慮することが、国内基盤産業中小企業にとっては、極めて重要である。そのための一応の想定としては、国内生産の乗用車台数は大きく変わらないことが指摘される。しかし、当然のことながら、本来、これも大きく変わる可能性がある。部材の調達がより地理的制約を受けないのであれば、アッセンブリー工場の地理的立地も大きく変わるであろうから。
さらに、中期的には、アッセンブリー工場が乗用車巨大市場へとシフトした場合、どの部分が国内生産として維持発展するのであろうか、量産電子機器の歴史的推移を念頭に、改めて考察する必要があろう。
以上、日経の記事から、私なりに勝手な発想の展開を行った。これまでの議論との繰り返しも多いが、少しは、新たな論点が加わったのではないかと、勝手に思い、ブログに掲載した次第である。