渡辺幸男の中小企業研究50年史
1968年〜2018年
第4期
渡辺幸男
第4期 主査としての調査、教科書の出版、中国実態調査本格化
1998年〜2011年
ウィングバレー協同組合調査、
3E中国中小企業発展政策研究、中小企業研究センター、
第118委員会中心の科学研究費補助金調査、
東アジア研究所中国自転車産業調査等で、調査の主査を務め、
いくつかの共編著を出版
2001年 小川正博、黒瀬直宏、向山雅夫 3氏との共著で
中小企業論の教科書 『21世紀中小企業論』有斐閣、第1版の出版
2011年 3冊目の単著出版『日本の産業集積研究』慶應義塾大学出版会
博士学位論文提出後
1998年の博士学位論文提出後、依然として聞き取り調査を中心とした実態調査研究に従事した。ただし、この頃から調査での私の立場が大きく変化し始めた。すなわち、調査チームの一員として参加する状況から、調査チームの主査として参加することが多くなったのである。執筆した論文は、2冊の単著にまとめたことを敷衍したような論文が多く、20世紀中には4本ほど書いた。特に新しい視点のものはなかったと言える。
他方で、実態調査では、主査としての調査の依頼が、いくつか舞い込んだ。1つは、社団法人中小企業研究センターからの実態調査チームの主査の依頼であった。1998年度の成長中小企業の聞き取り調査を皮切りに、2003年度の東京の印刷業中小企業のデジタル化に関わる実態調査報告書の作成まで、そのうちの5年間について、主査として年ごとのテーマを提案し、メンバーをセンターの担当者とともに決め、1年間で準備の研究会から始まり現地調査を行い、報告書をまとめるという作業を繰り返した。多くの調査は産地型産業集積の研究であり、私にとっては機械工業以外の産地産業をも幅広く学習する機会となった。また、その成果は、当初は中小企業センター内の報告書として刊行されたが、後半の3年間については、同友館から中小企業センター編の著作として公刊された。
さらに、瀧澤菊太郎名古屋大学名誉教授(当時)から私に対し、岡山県水島の三菱自動車の協力工場の協同組合、ウイングバレー協同組合の今後に向けての実態調査をやってみないかとのお誘いがあり、数年のプロジェクトとして主査を務めることになった。これまで調査を共にした経験を持つ同世代の清晌一郎関東学院大学教授(当時)をはじめとし、多くの調査仲間を誘い、本格的な乗用車向け協力工場企業の現状分析のためと今後についての調査を行なった。
報告書自体は、『協同組合ウイングバレイ経営診断報告書』として1999年にウイングバレイ協同組合から刊行されている。この調査を通して、乗用車産業の巨大さ、日本の乗用車メーカーの中では相対的に小さなメーカーである三菱自動車でさえ、他の機械工業分野の完成品メーカーと比較すれば、極めて巨大なことを痛感し、その地域社会に持つ極めて大きな影響力をまずは実感した。この調査では、協同組合のメンバー企業のみならず、2次サプライヤや地元の他の機械工業関連中小企業、そしてタイの三菱自動車関連で進出した関連工場といったものも含め、地域産業集積と海外化の2つの視点で、より幅広く調査し、協同組合とそのメンバー企業群の存立発展可能性を、より広い視野から検討した。協同組合にとって、我々がおこなった調査がどれほど有効な示唆をもたらしたか、その点はわからないが、我々研究者にとっては、大変多くのことを教えてくれた調査であった。
例えば、協力企業の中の多くが、三菱自動車のみに依存することの危うさに気がつき、関連するが異なる分野の事業へ乗り出す努力をしていた。しかし、それらの中には、経営(学)の素人の私から見ても、成功しつつあるものと、挫折しているように思えるものが見受けられた。しかも、その差異は、小さくても自立した事業として扱い、本業の状況に左右されずに事業を運営させるか、それとも、本業の状況に応じて新事業への注力を変えるか、この点が極めて大きな影響を与える、といったことが認識された。その他、幾つもの発見があった調査であった。
また、個人としては、このウイングバレイ調査をもとに、岡山県の産業集積について検討する機会を持った。そこから見えてきたことは、岡山県には、三菱自動車に代表される乗用車関連の産業集積や、それと裾野を共有する地元の機械製品生産企業を核とする機械工業関連産業集積が存在するとともに、それとは異質な、産業連関のほとんどない、電気製品の組立等の機械工業関連企業工場が存在し、それらは数としては多く存在するが、地元の機械完成品企業との関連がないだけではなく、それらの企業相互においてもほとんど関連性を持たず、農山村部の豊富な労働力の活用のみを目的に立地していることも確認した。同種の産業企業が同一地域内に多く立地しても、集積の外部経済性が形成されるとは限らないことを実感した調査であった。
中国産業発展研究への研究領域拡大
2000年代に入って、私の実態調査研究領域の拡大につながる変化が、1999年に生じた。3E研究院プロジェクトへの参加である。当時の中国の朱鎔基首相と日本の橋本龍太郎首相が会い、エネルギー、環境、そして経済の3分野で日中共同の研究プロジェクト、3E研究院を立ち上げることになった。その際、3E研究院のプラットフォームを、それぞれの首相の母校である中国の清華大学と日本の慶應義塾大学におくことになった。その経済分野のテーマの1つが中国中小企業発展政策研究であった。当初、慶應義塾大学商学部の十川廣國教授(当時)が、その研究チームの日本側主査に着任する予定であった。しかし、十川教授が商学部長に就任されたことで、私に日本側主査のお鉢が回ってきた。これが、私のその後の研究生活を大きく変える偶然であった。
それまで、全く中国に行ったこともない私が、日本の中小企業研究者であるということで、日本側の主査となり、中国の中小企業発展政策研究を、清華大学の教員を中心とした中国側チームとともに、中国中小企業の実態把握から始めることとなった。その際、日本側の委員として丸川知雄アジア経済研究所研究員(当時、現、東京大学教授)や黒瀬直宏専修大学教授(当時、現、嘉悦大学教授)が入っており、また、翌年には駒形哲哉慶應義塾大学経済学部専任講師(当時、現、同教授)も参加し、中国での現地聞き取り調査のベテランも加わった強力チームが形成された。
この中国中小企業発展政策研究チームは、日中合同で2000年から2003年までの間に、年数回、長い時は2週間、短い時で1週間単位で、中国沿岸部で聞き取り調査を行なった。中心は浙江省温州市で、ここではほぼ毎年、聞き取り調査を実行し、郷鎮企業発展の温州モデルと言われるものが、どのようなものであるか、日本の中小企業研究者の視点から確認した。なお、この聞き取り調査のヒヤリングノートとチームの毎年の報告書は、ジェトロのホームページからダウンロードできるようになっていた。また、最終報告書は、2004年に刊行されている。日本貿易振興機構海外調査部編『3E研究院事業総括報告書「中国中小企業発展政策研究」』(同所、2004年2月)がそれである。またインタビューノートをまとめたものとして、日本貿易振興機構海外調査部編『3E研究院事業総括報告書「中国中小企業発展政策研究」別冊 −企業訪問インタビューノート−』(同所、2004年2月) が刊行された。
中小企業についての再認識と
中小企業論の教科書 共著『21世紀中小企業論』(有斐閣、2001年)の執筆
大企業と中小企業との序列的優劣認識の否定
旧来の認識:大企業と中小企業の相違を競争上、優位と劣位の企業として、その働く場としての特徴を恵まれた職場と恵まれない職場として、序列的に把握する。
私の実態認識:大企業と中小企業の相違は、多次元的に評価されるものであり、一方が優位で他方が劣位ということはできない。
論理的帰結:序列的認識ではなく、独自な企業群としての中小企業、独自な大企業のそれとは異なる働く場としての中小企業、という認識に至る。
私は、1976年から、毎年、事例調査研究のために、大小様々な企業を訪れ、経営者を中心に話を聞く機会を多数持った。現在までに日本国内だけで、機械工業中小企業を中心に千社以上の企業の聴取りを行った。その過程で、中小企業観、中小企業労働観について、当時の中小企業諸研究における認識に対して疑問を感じた。特に私自身がよって立つマルクス経済学での一般的な議論である中小企業弱者論に疑問を感じた。マルクス経済学の当時の議論では、中小企業は弱者であり、救済の対象であると、一方的にされていた。また、働く場としての中小企業も、専ら賃金格差の大きさや長時間労働等の労働条件のみが注目されていた。すなわち、実際に存立する中小企業の積極的意味や、働く場としての内容についての検討、また、そこで働く人々の実態と実感が無視されていた。
他方で、中小企業のおかれた厳しい現実を無視し、中小企業を賛美する議論についても、素直に受入れられなかった。中小企業とは何か、中小企業で働くこととは何か、大企業に比べて規模が小さいゆえに、不利である。あるいは規模が小さいゆえに大企業ではない良さをもつ。これらの議論に一面で共感を感じながら、同時に、大企業と序列的に比較して、小さいから、どうだという考え方に疑問を感じた。
実際に中小企業を回って感じ取ったことは、大企業と規模の大小という形で、序列的に評価できないもの、大企業と異質な企業群、大企業と働くことの内容が異なる異質性を感じた。大小の差異を1つの軸だけで意味付け、評価するのではなく、多元的に評価することの必要性、その集合体として、大企業と中小企業の異質性を見る。このような理解に至った。
企業として大企業と異質な存在としての中小企業群、働く場として大企業と比して独自性をもつ存在としての中小企業群、という理解である。金融面ではどうしようもない不利性を蒙る企業群だが、同時に小回りが利くことでは環境変化に迅速に対応できることである意味での優位性を発揮できる、大企業と決定的に異なる企業群としての中小企業という認識である。ただし、経営者次第で、小回り性が、迅速な環境変化対応成功にも、迅速な対応失敗にも帰結する。また、働く場としての企業の全体像が見え、そこでの自分の位置が見えるのが中小企業であり、自分の位置を見極めにくい大企業とは決定的に異なる働く場である。賃金は少なく長時間労働だが、企業での自分の意味を見出しやすい場である。
さらに、経済環境により、中小企業群がもつ独自性の意味が異なってくること、これらが認識された。
このような認識から書いた中小企業論の教科書が、中小企業政策を中心とした黒瀬直宏、中小企業経営の小川正博、中小商業の向山雅夫の3氏と書いた『21世紀中小企業論』(有斐閣、2001年)と、その改訂版である『21世紀中小企業論(新版)』(有斐閣、2006年)と『21世紀中小企業論(第3版)』(有斐閣、2013年)である。
その1 独自な企業群としての中小企業
以下では、私の実態調査から把握された中小企業の独自性を、より具体的に見ていく。大企業と共存する現代の事実上の個人企業である中小企業が持つ独自性は、経済学的側面と、経営学的側面の2つの面から把握することが可能である。
経済学的側面としての独自性は、中小企業のもつ競争上の独自性である。すなわち、現代の大企業は、株式市場等に上場することを通して、不特定多数の人々から幅広く出資を募り、自社の株式資本としてとり込み、自社の競争に自己資本として利用することが可能である。しかし、中小企業にとっては、このような他人資本の自己資本化という形態での資金調達は、中小規模性ゆえに、一般的には不可能である。ここに大企業に対しての競争上の不利性につながる中小企業の独自性が存在する。同時に、このような独自性は、同時に中小企業経営者が、外部の出資者から一定の制約を受けながら経営せざるを得ない多くの上場している大企業と異なり、自らの会社の資産を経営者として外部から制約を受けずに、自由に利用できるという個人企業としての独自性を、実質的に保有できるということも意味する。
経営学的側面の独自性とは、中小企業が相対的に小規模な組織であることからもたらされる独自性である。大企業は大規模であるがゆえに、組織運営のために階統的な組織を構築せざるを得ない。トップ経営者が末端の現場の被雇用者の状況まで把握することは考えられない。しかしながら、中小企業は中小規模の企業であるがゆえに、階統的な組織に依存することなく経営することが可能である。このような意味で、経営組織上の独自性をもつのが中小企業である。組織がおかれた状況についての迅速な把握を経営者に可能にさせ、経営者の判断の末端までの迅速な浸透を可能にする。
以上の2点が、中小企業が異質な企業である根本である。さらに、具体的に独自性を見ていくならば、以下のようになる。
まずは、中小企業の存立する分野の限定性である。中小規模の企業である中小企業は、その中小規模性ゆえに参入し存立できる分野を限定される。中小企業は中小規模であるがゆえに、最低必要資本量が少額ですむ分野にのみ参入可能であり、存立可能なのである。このことは、中小企業が存立できる分野は、特定企業のみが参入可能な大企業分野と異なり、無数といってよい多くの他の中小企業も参入可能な分野であるということになる。
それゆえ中小企業の中小規模性それ自体が意味することは、中小企業は数多くの参入可能企業との競争に常にさらされることである。製造業を例にとれば、生産技術や製品技術といった面で強力な差別化といった競争を緩和するための何らかの他の手段を講じえないかぎり、特定の少数企業(分野内の既存の競争相手と潜在的参入可能企業双方を合わせた)の動向のみを念頭において行動することは不可能であることを意味する。無数といっていい数で存在する中小企業間の激しい競争に常にさらされる可能性のもとにあるのが、中小企業である。
中小企業が中小規模であるがゆえの第2の点は、企業経営として特定分野へ専門化する必要性が高い点である。中小規模の企業として、多様な分野に進出するよりも、限定された企業内経営資源を特定分野に集中することが、存立する分野での競争力を維持するために求められる可能性が強い。
規模の経済性や範囲の経済性が働く製品分野で、大企業と同様な多角化を行えば、たとえ参入可能な分野であっても競争上不利になり、長期存立は困難となる。しかし、個々の製品市場や生産機能に専門化すれば、その部分については最低限必要な規模の経済性を、中小規模の企業でも実現できる可能性が高い。このような専門化は、中小企業がおかれた環境により、その可能性と有効性を大きく変える。例えば、当該企業から見た補完的業務に専門化した(中小)企業が多く存在する環境下では、中小企業が専門化により規模の経済性を実現し、なおかつ補完的業務の企業を利用することにより、範囲の経済性の実現を放棄したことの不利性を多少なりとも回復することが可能となる。補完的業務については、必要なときに必要なだけ外部に求めることで、経営が成り立つことになり、専門化した業務について企業規模に応じた需要量を確保すれば経営として成り立つ。
このような専門化による補完的業務の外部依存の必要性の高さは、当該企業が関わる分野が大きな変化もなく全体として順調に拡大しているときには、競争上大きな意味を持たない。常に特定の補完的業務が必要とされ、それを内部化しうる大企業の方がより中心的業務に適合的な形で専用化して利用が可能であり、それだけ有利となる。しかしながら、専門化した企業が直面する市場の変化が、頻度や変化の幅で大きければ大きいほど、専門化業務に対して必要とされる補完的業務の内容は大きく変化する。特定の補完的業務を企業内部化することは、必要な補完的業務を必要なときにだけ調達することを困難とする。それゆえ、補完的業務の企業内部化は、変化が激しくなればなるほど、特定分野へ専門化した企業との競争で不利性に変わる可能性が高い。逆に、特定分野に専門化せざるを得ない中小企業にとって、変化の激しい環境のもとでは、専門化せざるをえなかったことが、補完的業務を外部依存しているがゆえに、専門化した分野を軸に環境変化に柔軟に変化に対応する可能性をより与えることになる。中小企業固有の独自性は、存立環境によって、競争上の意味が変化する。
さらに、中小規模ということは、基本的に使用資本量が少ないことを意味する。このことは同時に、企業内部に雇用できる被雇用者の数が少なくならざるを得ないことを意味する。中小企業とは、使用資本規模が小規模なだけでなく、雇用する労働者の数も量的に限定されている企業である。このことは、中小企業が企業内部に雇用できる人材の多様性が相対的に限定されたものにならざるを得ないことを意味する。その結果、中小企業は企業レベルでは専門化せざるを得ないが、企業内の被雇用者レベルでは、逆に大企業のように専門化することが不可能であり、多くの人材が諸局面で多能化することが不可避となる。それゆえ、環境変化が速くかつ激しく、専門化した人材の組み合わせの変更で対応できないような状況下では、中小企業の人材の量的制約性が、逆に変化への対応力をもたらす可能性が強いことになる。
中小企業が中小企業としてもつ特性として注目する必要があるもう1つの点は、中小規模であることが経営組織のあり方に決定的な影響を与える点である。
中小企業にとって、組織的な階統的な管理組織を作る必要性は極めて小さい。中小企業は、企業の協業を形成する各個人が、各個人として相互に認識しあえる組織である。その結果、中小企業では、組織として決定し、組織として行動する必要性が小さくなる。特定の事項を決定するまでに必要な手続きを最小限化し、決定に必要な時間が少なくできる。決定の迅速性である。また、企業として決定したことを迅速に企業内の各個人に浸透させることが、極めて容易である。
同時に、階統的な組織ではないがゆえに、経営戦略の内容についての多段階的な、多面的なチェックは極めて希薄となる可能性が高い。さらに、決定された事項が迅速に浸透するということは、実施の段階でその妥当性について再検討する余地が極めて小さいことを意味する。中小企業では経営者の裁量の余地が大きく、かつその裁量が急速に浸透するが、その中間段階でのチェックは弱いことになる。
このような大企業と中小企業の組織形態の違いは、発展の方向が見えているような相対的に安定的拡大過程では、決定とその浸透の迅速性の必要性も余り重要ではなく、またチェック機能の有無も大きな違いを生まないことから、大きな問題点となることはない。しかし、企業の外的環境が激しく急速に変化する状況下では、事態は大きく異る。そこでは企業組織全体としての環境変化への対応のあり方が問題となる。組織全体の方針転換は大企業組織としての階統的管理の枠組みの中で行われざるを得ない。他方で、中小企業の経営組織の持つ特徴、非階統性が、経営者の迅速な決定を可能にし、その決定の組織内への急速な浸透を可能にし、生きてくる。中小企業は大きな環境変化に対して大企業よりより迅速に対応する可能性が、中小企業であるがゆえに高い。中小企業は小回りがきく。
同時に、この中小企業の決定や対応の迅速性、小回り性は、多段階的なチェック機構の欠如と一体となっている。経営者の裁量の余地が大きく、それが迅速に浸透し、企業がその方向に急速に転身できるということは、経営者のその時々の判断によって中小企業の運命が大きく左右される事を意味する。すなわち、迅速な決定を行う可能性は高いが、その判断の的確さは経営者次第というのが、中小企業の大きな特徴なのである。この点は、中小企業の層としての変化の激しい環境への高い対応能力の存在と、個別中小企業の存立の危うさの共存として把握される。
中小企業にとって、外部資金調達面での制約は大きく、大企業に対する競争上の不利となる。直接金融は、中小企業にとって依然として極めて利用困難である。中小企業でも利用可能な外部資金調達である銀行借入れ等の間接金融についても、金利等の借り入れ条件で、中小企業が中小企業であるが故に大企業に比して不利な条件を甘受せざるをえないことが多い。
中小企業はその中小規模性により、一般的には、大企業よりより競争の激しい分野で存立せざるをなく、大企業との取引で不利な関係に立たざるをえない。また、特定機能に専門化し、企業内人材が量的にかつ多様性においても限定される中小企業は、補完的業務機能の専用的利用や専門家の専用的利用の可能性の少なさ、さらには資金調達上の不利性から、大企業に対してより不利な状況の下で競争せざるを得ない。このような中小企業の不利な状況は、経済環境が安定的拡大であればあるほど明確になる。
それに対して、経済環境が変動の幅の大きさや変動の頻度から変動の激しいものになればなるほど、大企業のもつ規模の経済性の面での中小企業に対する有利性は減じる。それに対して、中小企業の経営組織の非階統性が中小企業に変化に対する迅速対応を可能とし、そのかぎりで変化に対する対応の迅速性で劣る大企業に対して一定の有利性を中小企業に与える。
このように、中小企業は単に相対的に規模の小さな企業というだけではなく、大企業と異なる企業、「中小企業」なのである。それゆえ、競争上の有利・不利や、環境の変化への対応力で、大企業と単純な序列的関係にある企業なのではなく、異質な企業群として、独自な内容を持つものである。
その2 働く場としての中小企業の独自性
中小企業の独自性を見る際には、働く場としての独自性も極めて重要である。特に、近年、大卒就職希望者が、大企業に就職できないがゆえに、中小企業を就職の場として考える、という発想で中小企業への就職を選択するのを見るにつけ、働く場としての中小企業のもつ独自性を踏まえ、積極的な意味で、中小企業への就職を考えるべきであること明言すべきであると、私は実態調査を通して認識している。その根拠を以下で示す。
働く場としての中小企業の特徴の第1は、見える世界ということである。何が見えるのかといえば、それは働いている人が働いている企業における自分の位置や役割が見えるということであり、同時にそれだけではなく自分がかかわっている企業全体が見えるということでもある。大企業のように、組織の中の一員として各自が存在し、組織構成員として全体が見えないまま指示された役割をこなしていくことが、中小企業では可能ではないし、許されない。
また、そこで働くものにとって、中小企業では、自分や他の人の企業内での役割が見えるだけではなく、その企業の産業内での状況が見えてくる。日常性を通して、その企業が他の企業との競争でどのような状況にあるのかが見える。企業の一員としてその企業の存立に、自分がどのようにかかわっているのかが見えるのが中小企業である。
第2の特徴は、何でもやる世界だということである。大企業と異なり、中小企業で働く者は、高度な専門化を追求し、その専門機能を果たす形で働くだけで生きていくことは難しい。規模の小さな企業では、主として行う機能は特定され、その意味では専門化することが求められるが、その機能だけを行えばよいことにはならない。否が応でも、いろいろな形で多様な仕事をこなすことを求められるのが、中小企業で働くということである。
中小企業で働くということは、多様な仕事を同時に担うことを強制される。便利屋の側面を持たざるを得ない。しかし同時にそのようなことを要求されるがゆえに、高度に専門化した人々の集まりからは生まれないものを作り出すことができる。
特徴の第3は、やりがいがあるが厳しい世界ということである。大企業が組織として動き、組織として成果をもたらすのに対して、中小企業では企業を構成する個々人の行動が、企業の成果に直接反映する傾向が強い。中小企業では、大企業と異なり、そこで働く個々の人々の日常的成果が、直接企業の成果とどのようにかかわっているかが見えやすい。経営者の判断や個々の従業員のあり方1つで、企業の展望が大きく左右されるのも中小企業である。
さらに、中小企業では各自の成果が直接経営トップによって評価されるだけではなく、従業員相互に評価することが容易である。自らの成果が企業全体の業績に直結し、しかもその行動が経営トップや同僚に直接評価されるということは、一面で極めてやりがいのある職場であるといえる。同時に、マイナスの評価も個人として受ける可能性が常に高いという意味では、厳しい職場でもある。
第4の特徴は、地域性が強い世界ということである。大企業は、戦略的にグローバルに展開している。それに対して、中小企業の場合、多くの場合、特定の1地域のみを拠点に活動を行う。たとえ、多地域展開している中小企業の場合でも、一定の経営戦略に基づき、いくつかの地域に限定して多地域展開している。
それゆえ、中小企業で働くということは、その企業が存立しているいくつかの拠点の地域で働くことを意味する。さらに単一事業所の中小企業の場合には、特定1地域での事業展開が当面不可避であり、その地域の中でどのように事業展開するかが、最大の課題となる。特定地域の中でしか働く場を見いだせないと同時に、当該地域との結びつきを前提に働くことができるのが中小企業である。中小企業で働くことは、多くの場合、その地域の盛衰と一体の形で働くことを意味する。
5番目の特徴は、相対的に低い賃金水準・平均的にみて悪い労働条件という点である。賃金水準や労働条件については、中小企業の間でのばらつきも大きく、大企業と遜色のない賃金水準や労働条件を実現している中小企業も、絶対数としては数多い。しかし、平均的に見れば、大企業と中小企業の間には明白な格差が存在する。
第6の特徴は、創業への近道という点である。中小企業で働くことは、人のキャリア形成に独自な影響を与える。中小企業の従業員や家族従業者は、特定の機能に専門化することが許されず、また身近に経営者を見、経営を知る機会に恵まれている。それゆえ、自ら創業することを、キャリア形成の選択肢として考える可能性が高い。同時に、規模別賃金格差は、中高年になるほど拡大する傾向にある。賃金格差を甘受せず、大企業従業員に負けない収入を得る道の1つが、経営者となり、家族従業者も含めた家族の総所得を増大していくことである。被雇用者としての先行きの収入ののびなやみが見えるとき、積極的に起業を考えることとなる。中小企業の従業員は、大企業の従業員より、起業者になる可能性が高い。
以上の6つの特徴を働く場としての中小企業はもっている。中小企業は働く場として、一面では賃金や労働条件において大企業に比べ平均的に見て劣悪である。同時に中小企業ならではの働く場としての独自性があり、働く場としての豊かさを、より大きく持ちうる。働く場として相対的に不安定だが、独立創業を考えるものにとっては、創業のために多くの経験を積める場でもある。それゆえ、中小企業で働くことは、積極的な選択肢の1つである。働くことを通して、どのように自己を実現するか考える際、大企業と異なる意味を持つ働く場として、「中小」の企業ではなく、「中小企業」がある。
『21世紀中小企業論』の再版
上記のような発想で中小企業について考え、中小企業論の教科書を、黒瀬直宏、小川正博、向山雅夫の3氏とともに書き、有斐閣から出版した。それから17年、ほぼ毎年のように増刷をし、すでに版も3版となった。執筆者4名が教科書として使用しているとしても、受講者の数は数百名に達するかどうかであるが、毎年千部前後の増刷ということは、我々以外にも、この教科書を使用している大学教員が多くいるということになる。これらの方々は、我々の独自の中小企業観に賛同している方々とも言える。
科研費による国内産業集積研究
2000年代に入って、さらにもう一本の本格的調査を並行して開始した。これが、私が代表となって、日本学術振興会産業構造中小企業第118委員会が中心となり、多くの若手研究者にも参加してもらって行った科学研究費補助金研究である。『新産業時代における集積の本質とその将来展望』というテーマで2003年度から2005年度までの3年間、産業集積について、日本国内と中国やタイといった新興工業国について、幅広く現地聞き取り調査を行った。
国内については、岩手県や山形県、そして熊本県といった1980年代における日本国内での機械工業の周辺地域への拡大の受け入れ地域であった地域が、90年代以降の海外生産化の展開の中で、どのように変容したか、それを確認するための調査を中心に聞き取りを行った。
2000年代前半、多数プロジェクトの同時並行的推進
中小企業研究センターでの毎年テーマを決めての実態調査とその結果の報告書作成さらには出版が、1998年度から2003年度にかけて計5回、1999年度から2003年度にかけて5年間の3E研究院での中国中小企業発展政策研究チームの中国現地調査とその毎年の報告書作成、そしてそのまとめとしての、日本貿易振興機構海外調査部編『3E研究院事業総括報告書「中国中小企業発展政策研究」』(同所 2004年2月)と、日本貿易振興機構海外調査部編『3E研究院事業総括報告書「中国中小企業発展政策研究」別冊』(同所 2004年2月)という報告書の作成、科研費を利用しての2003年度からの3年間の国内産業集積調査とその報告書作成そして渡辺幸男編著『日本と東アジアの産業集積研究』(同友館、2007年)として報告書の公刊と重なり合いながら、大規模プロジェクトでの共同実態調査研究が続いた。
このように、2000年代前半は、夏休みや春休みは日本と中国そしてタイといった形で、現地での聞き取り調査に飛び回っていた。いずれも私が主査を務める調査であり、私の性格から、聞き取り調査の時には、メインインタビュアーを務めなければ気が済まないし、主査として周りからそれを期待されていると、私自身が勝手に思い込んだ状況での調査であった。
大学の春休みと夏休み、春は入学試験が終わって学内業務が一段落したあととなるが、国内にいても週末以外は、調査で飛び回るような状況であった。そして年度末には、調査報告書の作成を、主査として調査仲間と打ち合わせしながら、自らも自身が興味あるところを中心に量的にかなりの量を執筆していた。
調査報告書を別として、この時期に論文としてまとめたものだけで、13本の多くを数え、そのうち、中国の産業集積である温州市の産業に関するものが3本であり、後は日本国内の産業集積がらみの論文と下請系列研究のレビュー論文からなっている。また、調査報告書として一部の執筆担当をしたものが、14本となっている。今から見ると、私にとっては、この時期が、研究者として一番激しく調査に飛び回り、そして調査報告書そして論文を多く書き続けた時期であったと言えそうである。
しかも、50の手習いで、慶應義塾外国語学校で中国語の授業を受講し、中国語の勉強を始めたのもこの時期であった。中国で調査をするにあたり、現地の文献や雑誌論文を、現地語である中国語で読みたい、という願望があった。そのための手習いであるが、中国語については、全くこれまで学んでこなかった中で始めた。1年半かけて中国語中級まで進み、一応辞書を引いて専門書であれば読める状態までいった。ただし、私は音痴であることもあり、中国語のイントネーション等を聞き取ることが苦手で、会話は買い物を多少できる程度までで終わってしまった。中国での聞き取りも2011年まで行ったが、断片的な形で、いくつか専門用語を確認することはできるようになったが、通訳なしでは、聞き取りは全くできないままに終わった。ついでに言えば、この時期中国での聞き取りに、多くの場合に通訳としてついてくださった蔡院森氏は大変素晴らしい通訳であり、我々の中国現地での聞き取りの成果の何割かは、氏の通訳のおかげであると言える。
中国自転車産業調査の本格化
科研費調査の一環として2003年秋に中国天津の機械工業関連企業を、天津市の南開大学に留学経験のある駒形哲哉慶應義塾大学専任講師(当時、現教授)の紹介で調査をしていた際、南開大学の謝思全教授(当時)にお会いし、天津の自転車産業の大きな変化そして急激な発展を紹介された。
ここから、2004年に中国側が南開大学の謝思全教授と谷雲副教授(当時)と、日本側が駒形哲哉氏と私が中心となった日本と中国の自転車産業研究が始まった。天津での調査を皮切りに、中国華東や華南、日本堺や関東で聞き取り調査を行い、2009年に、渡辺幸男、駒形哲哉、周立群共編著『東アジア自転車産業論 日中台の産業発展と分業の再編』(慶應義塾大学出版会、2009年)としてまとめられた。
以上の過程を通して、実態調査からの新たな、私なりの発見がいくつかあった。その主要なもの3つを取り上げ、少しまとめて紹介する。
産業集積絶対視論批判
日本の産業集積論での集積の経済性に関する絶対視論が存在している。産業集積について相対視することが必要性である。私が理解する旧来の認識では、産業集積は、集積それ自体として、集積であるがゆえに内在的に発展展開可能である、という集積絶対視が一般的である。私の実態調査を通しての認識では、産業集積は、それぞれの市場環境のもとで、それに適合した集積形態をとり、結果として集積の経済性も享受している。それゆえ、集積の経済性を相対視し、集積しているがゆえに、集積として再生産可能であるという集積絶対視を否定すべきである、ということになる。
機械工業の中小企業を下請取引関係の視点から調査研究していた過程で、気にかかった論点が、産業集積に立地する機械工業中小企業という中小企業把握にかかわる点である。私が調査研究を本格的に開始した1970年代半ばの下請制研究では、発注側大企業、いわゆる親企業と、下請中小企業との取引関係についての議論は豊富に存在したが、受注する側の下請中小企業の立地状況、すなわち京浜地域等の工業地帯に集積して立地していることの意味については、ほとんど議論されていなかった。
他方で、経済地理の研究者は、地理学でのA.ウェーバー等の影響もあり、近接性の利益の視点から産業集積に注目し、私の当初の研究対象地域であった京浜地域の町工場にとっての集積の利益に言及し、集積している中小零細企業群の存在の重要性を指摘していた。しかし、集積地域に立地する小零細企業にとっての集積の経済性の内容を、具体的に解明する努力はほとんどなかった。
私は町工場と呼ばれる機械金属工業関連の特定加工に専門化した小零細企業の話を聞く中で、これらの企業は、孤立した存在として発注側企業との取引を行っているのではないことを理解した。それらの特定加工に専門化した小零細企業間でも、「仲間取引」に代表されるような、多様な取引関係を形成し、情報交換を行っており、小零細企業群として存立し、それゆえに独自の機能を発揮していることを確認した。
産業集積の概念を、日本の機械工業の社会的分業構造把握の中に位置づける必要性を認識した。このような認識から、私の実態調査研究は、取引関係についてとともに、地域的な産業の集積についての視点を持つものとなった。
他方で、1990年代に入り、日本国内の製造業が、いわゆる「産業空洞化」と呼ばれるような、激しい構造変化を蒙る中で、製造業の国内立地の維持と国内での発展の場として、産業集積が、産業政策や中小企業政策の視点から注目されるようになった。中小企業白書でも、ここ20年間ほど、大きなトピックスの1つとして、産業集積が取上げられ、検討が加えられてきた。私が実態調査を通して実感していた中小企業にとっての産業集積の重要性が、政策的にも重要な意味を持つものとして取上げられ始めた。
ただし、産業集積に注目した政策担当者、及びその政策担当者に対して理論的裏付けを提供する産業集積研究者の産業集積理解は、私の実態調査を通して把握してきた産業集積理解とは、大きくズレていた。すなわち、中小企業白書等では、日本国内に製造業中小企業が立地し続けることを可能とする、絶対的に有効な集積の経済性をもつ産業集積(形態)探しが、開始されたのである。私の理解では、少なくとも日本の製造業の産業集積に関する実態調査研究を踏まえる限り、それぞれの産業集積は、それぞれの産業集積が形成された広い意味での市場環境、すなわち歴史的、制度的環境を含めた市場環境に対応して形成された、それぞれなりの産業集積形態を持っている。その集積形態を前提として、集積の経済性を享受していると見るべきである。それゆえ、市場環境の大きな変化の下では、それぞれの産業集積それ自体が激しい構造変化を蒙らざるを得ない。このことは、どのような産業集積であろうと妥当である、というのが、私の産業集積認識である。
しかしながら、中小企業白書や、白書の議論を支える産業集積論研究者は、このような相対化された産業集積の有効性と、集積の経済性についての認識に基づこうとしていない。いわゆる「産業空洞化」と呼ばれるような激しい外的市場環境の変化のなかでも、集積の内的論理、当該集積のもつ集積の経済性ゆえに、集積の再生産が保証されるような、絶対的な産業集積の形態が存在することを前提とし、究極の産業集積探しが行われている。
私は、日本の製造業の産業集積に関する実態調査研究を踏まえ、少なくとも日本の既存の産業集積を前提とする限り、中小企業白書や多くの産業集積論者の集積論が追究する産業集積絶対視の論理的枠組みは無効であると考え、このような産業集積論を産業集積絶対視論と命名し、それが不可能な根拠を、実態調査研究から提示しはじめた。
実態調査研究から、集積の経済性を考えるならば、その存在は、多様な市場環境に対応した多様な集積形態として存在し、それぞれの集積形態が、集積しているがゆえに、それぞれなりに集積の経済性を実現している。同時に、まずは、市場環境が大きく変化しない限り、内的には集積としての再生産が困難になることはないが、特定の集積形態ゆえに、市場環境が大きく変化する中では、集積としての再生産が困難になるのが一般的である。
さらに、集積というのは、あくまでも地理的広がりを持った概念であり、多様な集積の経済性が存在し、それぞれ産業インフラ等の水準により、それぞれの集積の経済性が実現できる広がりは変化するし、多様な広がりを持ちうる。集積の経済性が実現できるとしても、集積が存在する地域の一般的立地条件も、また立地要因として重要な意味を持ち、集積外立地企業との競争を考えるうえでは、集積の経済性と一般的立地条件の差異とを秤量して考える必要がある。さらに、産業集積は、同一産業内に複数存在するのが通常であり、集積間競合が存在する可能性は高い、それゆえ、集積としての経済性が実現できても、他の集積との競合で劣位となれば、集積としての再生産も困難となる。
以上のような意味において、集積の経済性を実現していることがもつ集積の優位性は、相対化される必要がある。私は、先の集積の絶対視論に対し、私のこの理解を集積の相対視論と命名した。集積していることにより、集積の経済性は存在するが、それはあくまでも他の経営資源等と組み合わさって機能する経済性であり、相対的な存在なのである。多くの企業が集積しているが故に集積の経済性が発揮され、優位に存立し、集積は内在的論理に従い、自生的に転態するとするような、集積の絶対視論は誤っている。
以上の産業集積に関する実態研究からの帰納的論理が、『21世紀中小企業論』から10年近くの年月をかけ、実態調査研究を付け加えてまとめた、私の3冊目の単著『現代日本の産業集積研究 ―実態調査研究と理論的含意―』(慶應義塾大学出版会、2011年)として結実した。
そこでの、実態調査からの帰納的帰結を、より具体的に示せば、以下のようになる。
私の実態調査から示唆される、日本国内の産業集積についての研究のための論理的枠組みについては、少なくとも8つの要素で考えることができる。このことを前提に、国内産業の振興、それを通した国内の地域経済振興という政策的課題を、産業集積を核に考える時に留意すべきことは何か、これらを、以下で示す。
まず第1には、日本の産業集積の存立を考える際に、日本国内市場向けの産業集積についても、東アジア大での競合を考慮に入れる必要だということである。かつて日本の製造業が国内完結型の下にあった状況で考えられた形で、産業集積の展望や市場環境変化を考えることは、全く不可能である。国内市場向けの生産であっても、常に東アジアを範囲とした集積間競合や企業間競争を考える必要がある。この下で政策立案することが不可欠である。国内の範囲内で他産業集積・他地域に対し優位に立つことだけでは、国内市場を確保することはできない。
競争相手がより広域化している下で、集積間競合や企業間競争を考える方向で、政策的発想の転換を行うことが不可欠である。その上で、東アジア大の地域分業生産体制の下で、国内産業集積として、どのような優位を発揮できるかを考えることが、国内産業振興政策の一環として、地域振興政策の一環として産業集積支援政策を実施する際には、不可欠である。
第2の指摘は、産業集積が関わる主要な市場・需要と当該産業集積の集積形態との関係をまずは考えるべきだということである。このことからは、政策立案の際の基本的現状認識のための重点がどこにあるかが示唆される。すなわち、集積に内在し、その集積としての存立状況を、集積内社会的分業構造として把握するだけではなく、その集積が存立している市場環境と、その変化の方向の確認が極めて重要だということである。特定の市場環境に適合した産業集積として、それぞれの産業集積は存立している。適合した市場環境とその動向を抜きにして、個々の集積の存立・発展展望を考えることはできない。
個々の産業集積が、そもそもどのような市場環境に適合したものとして形成され、その市場がどのような方向へと変化しているのかを認識し、その方向と現状の集積形態のズレの内容を確認することが、個々の産業集積を前提とした産業振興策や地域振興策の政策的前提となる。当該集積が適合している、あるいは適合していた市場環境の分析を抜きに、抽象的なあるべき産業集積形態を探し出し、それと当該産業集積の存立形態とを比較し、今後の当該産業集積の発展方向をみいだそうという政策的思考そして志向は、百害あって一利無しである。
第3の点は、各企業が立地する集積間競合と、集積内に立地する企業と域内に立地しない企業との競争とを、集積の経済性が存在することと、どのように関係づけるかということからの示唆である。ここで何よりも重要なのは、競合する集積を東アジア大に確認し、また東アジア大で集積外立地する企業の存在をも確認し、集積内立地企業との競争可能企業群を明確に把握することである。この点の把握を前提に、はじめて、競合する集積や競争する企業との集積の経済性での差異や競争上の優劣を多元的に確認することが可能となる。このことを通して、当該集積内立地の企業の特定市場での存立展望や、必要な政策的課題がみえてくる。
第4の指摘は、集積の経済性の多様性と地理的多層性という点である。このことが示唆することは、産業集積の経済性は、多層化しながら、広域化している。集積の経済性を考える際の地理的広がりは、行政単位とは関係ないし、多くの場合行政単位を超えた存在である。このことを前提に、個別地方自治体は産業集積を通しての産業振興策、地域振興策を考える必要がある。地域の産業集積の振興、活性化には、関連する地方自治体の連携が必要である。また、国内産業の振興策として、産業集積対策・政策を考える際には、日本国内の産業インフラの一層の高度化を、まずは政策的課題とすべきということも意味する。
5つ目は、市場環境を中心とした特定の経済環境の変化と集積形態の転換の困難性が意味することである。産業集積の転換を可能とする産業集積内の特定要素や特定集積形態を専ら探すことで、集積の転換可能性や、変化の中での発展を考えるべきでない。必要なことは、そうではなく、市場環境を中心とした経済環境の変化と、その下での既存集積形態の必要な変化の内容を解明することである。そして、そのために必要な要素を集積内に導入する方法を模索することが有効である。集積のおかれた環境の変化に対しての対応策としては、外的にその方向性を模索するよりも、内部の諸企業による多様な模索を促進し、そのなかから新たな地域の産業の発展する方向性をみいだすことが最も有効な場合も、多く存在する。
いずれにしても、どのような形態の産業集積であろうと、大きな市場環境変化の下では、産業集積として新たな発展展望をもつためには、大きな困難を伴うことを前提とすべきである。また、産業集積としての転換が不可能であり、集積内の個別企業次元での対応のみ可能な状況もあることを、認識すべきである。結果的には、地域の産業集積を保持していた雇用規模等については、大きく減少することも生じる可能性も大きい。しかし個別企業の多様な模索の結果として、個別企業の中に新たな展望をみいだす企業が形成されることは、地域経済として、新たな発展の芽を作り出すことを意味する。それゆえ、既存の産業集積の転換・再生にあくまでもこだわることが、最良の政策の方向性であるかどうかについても、再検討を加えながら、市場環境変化に対峙していくことが必要である。
6つ目は、同種企業の多数近接立地が必ず集積の経済性の存在をもたらすものではないことの意味である。集積の経済性を議論する際に、特定地域内の同業企業の数をもって集積の存在とし、その存在の経済的効果を測定すること等が行われることも多い。しかし、単純に事業所の数の多さを、集積の存在、そして集積の経済性の存在の証しとして議論することには、政策的に意味が無い。産業振興政策や地域振興政策を産業集積の持つ経済性を活かす形で考える際には、単に存在する事業所の数ではなく、それらの事業所の質的関連を確認し、そのことのもつ集積の経済性を把握することが不可欠である。
7番目の点は、市場環境条件の変化の方向性は、より狭域的な集積の再構築をもたらす可能性も存在するということの意味である。市場環境の変化の方向をきちんと見極め、国内産業集積の再生・再発展の可能性を、改めて検討することが常に必要であるということを示唆していよう。
8番目は、デジタル化は集積形態に大きな影響を与える要素であるということの含意である。市場環境と技術的高度化の双方が、既存の産業集積での社会的分業のあり方を、大きく変える要因であることを認識する必要性を示すものといえよう。
以上をも踏まえ、私の議論の政策的含意を、全体として示せば、下記のようになろう。国内の産業振興政策を、東アジア大の地域分業生産体制を前提に考える時、この地域分業の中で、製造業事業所が日本国内に立地することに、どのような意義をみいだすのか、これを見極めることが極めて重要である。この国内立地の優位性を与える可能性をもつ要素のうち、極めて重要な要素の1つが産業集積内立地により集積の経済性を確保することである。この集積の経済性を確保し、それと個別企業の独自性とを組合せることで、東アジア大の地域分業生産体制の中で、日本国外への立地では実現することのできない優位性を実現する。このことが可能となれば、国内産業集積を核にした国内産業振興政策が有効に機能することになる。
同時に、産業集積していること自体を絶対視し、理念的な意味で最適な産業集積を形成さえすれば、それ自体で、市場環境等の変化の中でも、国内産業の発展が保証されるという認識にたち、政策的展開を行うことは誤りである。そうではなく、それぞれの産業集積としての存立可能性、あるいは転換の必要性とそのための必要な要素等を確認し、集積の経済性をも活かす形での国内産業振興政策を行ってこそ、国内産業集積を活かした形で、国内産業の振興、その結果としての産業の構造転換のなかでの国内産業の産業集積を通しての発展が可能となる。
以上が、日本の産業集積の実態研究を通して把握した、産業集積把握の理論的枠組みと、その政策的含意である。
産業空洞化論批判、日本製造業の東アジア化
旧来の認識は、主力産業企業の工場群の海外移転により、日本国内の物づくり機能が空洞化しつつあるというものである。私の実態認識は、日本国内の物づくり機能が、全面的に海外移転しているのではなく、かつて日本国内を範囲に進行した物づくりの広域化が、より広域的に東アジアを範囲に展開していると考える。その論理的帰結は、生じていることは産業空洞化ではなく、日本国内を含めた広域的な地域分業体制の構築が、東アジアを範囲とするものとなったという意味での東アジア化が進展し、結果として、国内中小企業にとっては「大田区化=オータナイゼーション」が生じている、ということである。
1970年代半ばから、1980年代、1990年代と、日本の機械工業を中心とした中小企業の存立実態の変化を追いかけてきた中で、日本の中小企業の中間財を中心とした取引の広がり、存立空間の広がりが大きく変わってきたことを確信した。これをどのように把握するか、この点については論理的にきちんと整理されていなかった。単純に「広域化」として把握されるだけであった。しかし、1990年代、電気機械製造業や精密機械製造業で、突然「産業空洞化」が叫ばれ始めた。
私は、取引関係の広域化は、一般的立地条件の旧来の産業集積地域での悪化の下で、産業インフラの高度化が進展すれば、ある意味で必然であると理解していたのであるが、それが、何か突然生じた現象のごとく、しかも、特定の政策的含意をもつ形で「産業空洞化」と呼ばれ始めたのである。実態としての取引関係の広域化と、それが国境を越えたものとなった途端に、「空洞化」と認識される。それまでの広域化の過程で、既存産業地域での空洞化は生じなかったのかといった反省もないまま、国境を越えることで構造変化についての認識が大きく変化した。
そこで、私にとって、改めて、1990年代以降、日本の製造業で生じている激しい構造変化を、実態を通してみた時に、どのように把握すればよいのかを示すことが課題となった。私の視点は、あくまでも日本の製造業の1960年代からの長期的な構造変化の一環として、近年のいわゆる「産業空洞化」も位置づけ、このような長期的な変化を把握する論理的枠組みのなかで、90年代以降の構造変化も把握するものである。この視点からすれば、既存産業地域での製造業の生産活動をも含めた形で、中間財取引の範囲が広域化したこと、それがついに国境を越え、東アジアを範囲としたものとなりつつあること、ということになる。すなわち、日本の製造業の国内広域化、そして東アジア化ということになる。
このような視点と、中国での内生的産業発展の視点との接点、両者の混合の中で東アジアでの産業発展を議論することが可能であったのが、自転車産業である。中国産業発展を研究対象とする研究者と、日本の製造業の発展研究を課題とする研究者による共同研究が、自転車産業を対象に行われ、その成果が、渡辺幸男・周立群・駒形哲哉共編著『東アジア自転車産業論 日中台における産業発展と分業の再編』(慶應義塾大学出版会、2009年)となった。この分析の際の日本側の産業展開把握の論理的枠組みとして、東アジア化と、その結果としての東アジア大の地域分業構造生産体制を使用した。
このような日本の製造業の「東アジア化」の論理的枠組みをより具体的に示せば、以下のようになる。
日本製造業の戦後の生産体制の特徴の重要な1つは、日本国内完結型の生産体制であった。より厳密にいえば、国内完結型化が戦後に本格化し、1970年代から1980年代まで進展し、ほぼ国内完結型の生産体制を構築したといえる。すなわち、日本の製造業は、戦前来、後進工業として欧米の先進工業に追いつくことを目指した。そして、漸く、戦後の復興から高度成長の時期にかけて、米欧から先進的技術を導入することを通して、工作機械等を含め、ほぼすべての工業製品で、先進的な製品を国内で生産できる体制を構築することに成功した。
戦後の日本の製造業の特徴は、単にすべての先進的な工業製品を国内で生産できるようになっただけではない。それに加え、大きな特徴は、欧州諸国と大きく異なり、素原料のほとんどを海外に依存しているが、その1次加工から最終製品までのほぼすべてを、国内で加工した部材を使用して生産する体制を構築したことである。1次加工品、各種の中間材料・部品等の中間製品、そしてほぼすべての最終完成品を、資本財・消費財について、自国内だけで生産する体制が、1970年代にほぼでき上がった。すなわち、工業において日本国内完結型の生産体制がほぼできあがった。この国内完結型が進展する間に、日本国内の生産体制は、旧来の産業集積地域内での拡大から、より広域的な地域分業構造を、日本国内で構築した。
国内完結型の日本の製造業の生産体制は、1980年代に本格化した機械関連産業の大企業を中心とした米欧への直接海外投資の進展により、最初の大きな変化を被った。しかし、この過程での海外進出は、主要輸出先の米欧に、もう1セットの生産体系を構築することを中心としており、国内完結型という国内での生産体制に関しては、大きな変化を生まなかった。日・米・欧の三極生産体制を生み出したにとどまる。
しかし、プラザ合意後の1980年代後半には、日本以外の東アジア地域の政治的安定と産業インフラの整備が進むとともに、日本以外の東アジア諸地域に比較して日本国内の一般的立地条件が、円高もあり、極度に悪化した。賃金水準、必要な労働者数の確保、地価水準、必要な工業用地の確保といった点で、日本国内諸地域は、他の東アジア諸地域に比較して、極端に工業立地条件が悪化した。そのため、日系企業は、これまで日本国内で最適立地を求めていた工場立地について、東アジアを範囲として検討するようになった。その結果が1990年代のいわゆる「産業空洞化」といわれた激しい構造変化である。
その構造変化の実際の内容は、日系企業にとっては、日本国内を範囲とした地域分業の広域化から、東アジアを範囲とする広域的地域分業生産体制の構築へと移行することを意味した。すなわち、日系企業の工場立地が、日本を含めた東アジアを範囲とした地域内で最適立地を求めるという意味で、広域化した。この構造変化が東アジア化である。
ここで重要なのは、日本国内にはこれまでの先進工業化する過程で蓄積された多様な高度な人材が存在し、企業が立地していることである。それゆえ、日系企業にとって、特定の製品の生産においては、一般的立地条件が最悪な日本国内立地を捨てることはできないし、また、広域的展開可能な製品の生産においても、特定の機能は日本国内立地を必要とすることになる。1990年代に顕著に進展した、日本の製造業の立地地城の構造変化は、日本からの製造機能の喪失ではなく、日本国内立地を核とした広域化なのである。これは、1960年代に、日本国内の旧工業集積地域から、大都市とその周辺地域の一般的立地条件の悪化に伴って、より周辺的な地域に特定の製品の生産や生産機能が転出した日本国内での広域化の延長線上のものである。
このような東アジア化の下で、日系の製造業企業にとって、日本国内完結型の地域分業構造が崩れ、東アジア全域との地域分業構造を形成する過程で、日本国内に生産立地する必要がある生産機能は以下のようにまとめられる。
産業インフラが整備されていることが前提であるが、一般的立地条件だけが立地条件となるような製品の生産や生産機能については、日本国内に新規立地する可能性はほぼ存在しない。すなわち、日本国内に新規立地する、あるいは日本国内立地を維持する製品の生産や生産機能は、このような日本以外の東アジアの産業インフラの整った地域に対し、極端な一般的立地条件の悪さを超える立地上の優位が見込まれる製品の生産であり、生産にかかわる諸機能である。
このような立地上の優位が見込まれる製品の生産や生産にかかわる諸機能には、まずは、日本という1億人余の豊かな市場への近接を必要とする製品の生産や生産関連機能があげられる。日本国内市場への即時供給のための生産機能であり、日本市場の動向と生に接することが必要な開発絡みの機能、すなわち企画・開発・試作等にかかわる機能、さらにはそれらに関連する生産機能である。
今1つは、広義の高度産業集積の存在を不可欠とする製品の生産や生産にかかわる諸機能である。今後とも拡大可能な生産にかかわる機能といえる。変化の頻度と変化の幅の双方からみて需要の変化が激しい製品の生産がその1つである。もう1つは、本来的に、需要の変化が激しい開発絡みの生産にかかわる諸機能である。すなわち、企画・開発・試作・量産立ち上げ等の機能である。これらは、高度な生産機能を必要とし、かつ変化の激しい需要は、高度な産業集積を利用することで、より柔軟に、より迅速に、相対的に安価に供給対応可能となる。
このような国内の産業集積を活かして初めて対応可能となるような変化や変動の激しい需要に国内需要が限定されること、そのもとで多様な形で多様な需要に対応して存立していた機械工業関連中小企業の存立基盤が、このような需要への対応に限定されることを、私は「大田区化=オータナイゼーション」と呼んだ。すなわち、1960年代後半以降、大田区を中心とした東京城南の機械工業集積に立地する中小企業の存立基盤の変化が、東アジア化の中での日本国内機械工業中小企業全般に生じているという認識である。ただし、産業集積としてみると、それ自体も産業インフラの高度化により、1960年代とは大きく異なり、広域化している。このことを前提とした「大田区化=オータナイゼーション」といえる。そこでは、変化や変動の激しい需要への対応を、広義の産業集積を利用しながら実現していくしか、国内機械工業中小企業には、存立基盤がないことを示した概念でもある。このような認識は、機械工業中小企業に限定されず、変化や変動の激しい需要がかなりの規模存在する分野の場合には、同様に当嵌ると考えている。
これらの日本国内に生産立地する理由のうち、市場への迅速供給の必要性故に、日本国内生産立地する生産にかかわる機能については、それらの市場は当然のことながら日本国内に限定され、日本国内市場でこれらの需要が拡大するかどうかで、その生産にかかわる機能が日本国内に立地する程度、拡大展望が限定される。
それに対して、生産基盤の独自性、高度な産業集積の存在故に可能となる、変化と変動が激しく高度な生産能力を必要とする需要への対応能力については、その生産能力が対応する需要は、日本国内に限定されるものではない。安定的な量産的需要に対応する生産能力を保有していても、このような需要に対応する生産能力を保有していないような地域から、幅広く、日本国内に存在する高度な産業集積に需要が集まってくることになる。
特に急激に製造業生産が拡大している東アジアには、変化や変動の激しい需要に対応する生産能力をもつ、このような高度な産業集積がいまだ存在しない。すなわち、かつて国内完結型の社会的分業構造であった時代に、国内地域間で棲み分けしていた生産機能が、2000年代には、東アジア大での地域分業構造生産体制となり、その中で、国内製造業そして国内製造業中小企業が棲み分けることになる。そして国内に立地する生産にかかわる諸機能は、かつては旧来の工業地帯を中心として対応していた、東京城南地域に典型的に見られた、変化や変動の激しい高度な生産能力を必要とするような需要に対応する生産にかかわる諸機能ということになる。同時に、国内において、かつては旧来の工業地帯を中心とせざるを得なかったこのような生産にかかわる諸機能も、国内産業インフラの更なる高度化により、より広域的なものとなり、国内のかなりの地域で立地対応可能となっている。このような状況が、日本から見た1990年代の激しい構造変化の結果として生じた2000年代そして2010年代の製造業の地域分業構造なのである。
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