渡辺幸男の中小企業研究50年史
1968年〜2018年
第1期
渡辺幸男
第1期 学生・院生時代 1968年〜1977年3月
1968年4月 慶應義塾大学経済学部伊東岱吉研究会 入会
中小企業研究の開始
1970年4月 慶應義塾大学大学院経済学研究科修士課程経済政策専攻 入学
1972年3月 経済学修士
1972年4月 慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程 入学
実態調査研究を渉猟し、自ら実態調査を行うことの必要を痛感
1974年秋 1本の論文原稿のみで慶應義塾大学経済学部助手採用試験に応募
見事に不合格
1976年 本格的実態調査開始
東京都労働局委託 「家内労働の実情」での参加を通して、
機械金属工業の零細企業の実態調査を本格的に開始
秋 慶應義塾大学経済学部助手採用試験に2回目の応募で採用内定
慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程5年目
1977年3月 慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学
伊東岱吉研究会への道
私の中小企業研究への第一歩は、伊東岱吉研究会に入会を許可されたことから始まる。1968年4月のことである。私が生まれ育った家は、私の祖父が創業した川崎市の建築業者であり、地場の企業としては、そこそこ有力な企業であった。大正の初めに創業した企業の地場企業の2代目である父の長男として生まれた。私の周囲の人々は、将来的には私が家業の3代目を継ぐと見ていた。ただ、私自身は、当時から、経営者としての必須能力、経営的決断力と経営者としての強い意志を持つことができないと感じており、高校そして大学へと進学する過程ですでに迷っていた。中でも強烈な印象を持ったのが、私が高校生の時に生じた1965年の不況の際に、父の会社が経営危機に陥り、我が家の家計も一定の影響を受けたことであった。父は、経営者としてみれば、極めて真面目な人であり、業界での人望もあったと私は見ていたが、それでも会社は経営危機に陥った。家業を継ぐために必要とされる能力の自身にとっての欠如を一層感じた次第である。同時に、なぜ真面目に経営していても経営の危機に瀕することになるのか、中小企業という存在を経済学的に研究したくなった。研究者志向の第一歩だと言えるかもしれない。同時に、自分が経営者として向いていないと感じていたことから、経営学的な意味での中小企業研究には、全く関心がなかった。
1965年不況の翌年、慶應義塾高等学校から慶應義塾大学経済学部へと進学した。大学ではサークル等には全く所属せず、高校時代以来であるが、岩波新書そして翻訳書といったものを中心に広い意味での社会科学関連の本を読み漁っていた。その過程で、高校時代にはすでに国富論に目を通していたし、サミュエルソンの「経済学」も読んだが、その当時の近代経済学への関心には繋がらず、マルクス経済学に関心を持ち始め、学部の日吉時代に『資本論』も全巻一応読んだ、あるいは目を通した。また、2年生の時には白井厚助教授(当時)の社会思想史の少人数の講義に出席し、白井厚著『空想より科学へ 講義』という本を輪読し、その中で白井助教授が批判的に取り上げたカントの不可知論に関心を持ち始め、カントの翻訳書をいくつか、これまた目を通した。抽象的な論理で、社会について理解する努力を自分なりにしていた時期であったと、今から見ると思われる。
大学生時代、中小企業経営者である父と、社会問題等で度々議論するのだが、父の発言の最後は、決まって「世の中、理屈通りにはいかない」というものであった。父は、戦中に国立大学の建築科を卒業し、大手建設会社勤務後、自分の希望に反して祖父の病気のため家業を承継せざるを得なくなるという、当時としては珍しい経歴の持ち主であった。父は、自分が大学等で建築学を通して学んだことを素直に実現できないもどかしさを感じていたと、今からは思われる。それゆえの、「理屈通りにはいかない」という発言につながったと、いまでは思っている。しかし、当時の私にとっては、これが一番きつい否定であった。実態を知らないで理論を振りかざし、理屈をこねていた学生として、これにきちんと反論したくなった。そのきっかけと、そして反論能力を与えてくれると考えられたのが、3年生から始まる研究会、俗にいうゼミであった。
そのような経験から、経済学部で中小企業について実態調査を含めた研究をし、しかもそれを経済学的に行っていたゼミとしての伊東岱吉研究会の存在を知り、伊東ゼミへの入ゼミを目指すこととなった。
伊東ゼミでの出来事
無事、伊東ゼミ18名の3年生のゼミ生のひとりとなった。というより、前年応募者が多かったせいか、この年は18名の応募で、全員が入ゼミ合格となったという幸運な年であった。当時の伊東ゼミ3年の中心テーマは、ゼミ3年生全員による、自分たちが選んだ共通テーマのもとでの中小企業実態調査研究であった。我々は、日産・プリンス合併をめぐるプリンス側の協力工場のその後について、質問票をベースにした聞き取り調査を行った。方法的には、日産とプリンスの双方の協力企業への飛び込み調査という形をとり、ゼミ仲間の石黒君と私は神奈川県に立地する企業を担当し、夏休みを中心に10件程度の企業からの聞き取りに成功した。それらの聞き取りから、日産プリンスの合併で、それぞれの協力(中小)企業が、どのような状況になっているか、特に、相対的に小規模であったプリンスとその協力工場に注目しての調査であった。
結果として見えてきたのは、当時の日産の1次協力工場と、プリンスの1次協力工場では、企業としての大きさや技術力が大きく異なり、プリンスの協力工場は、その多くが日産の1次協力工場の2次下請に組み込まれることとなった、ということが確認された。それなりに、実態調査を通して、具体的に生じたことを確認し、その意味を我々になりに考え報告書としてまとめ、慶應義塾大学の学園祭である三田祭で発表した。
中でも協力的に応じてもらえたのは、経営者のご子息が慶應の経済学部のOBで、かつ伊東ゼミと近しい黒川ゼミ出身であり、本社工場の幹部をしていたそのご子息にお会いすることができた時であった。当然のことながら、学生が突然現れ、聞き取り調査をお願いするのであるから、門前払いは当然であった。しかし、学生であることで、かなりの確率で聞き取りに応じてもらえた。
ゼミ員18名で、報告書をまとめた。この聞き取りをもとに報告書をまとめる際には、下請企業であること自体から、全ての企業が発注側企業に対し取引上不利になるとは、必ずしも言えないのではないか、という疑問を感じ始めた。当時の伊東ゼミの一般的な考え方ではなかったと記憶している。何れにしても大事なのは、実態を踏まえ、それを論理的に説明することであり、既存の議論を先験的に前提するのは不適切であるということを認識したと言える。また、実態調査それ自体の面白さを垣間見た調査でもあった。
また3年生の時はチューター付きのサブゼミで『資本論』を輪読した。当初のチューターは植草益助手(当時)で、植草助手の米国留学後の後期は、増田壽男院生(当時)であった。植草さんは帰国後、隅谷三喜男東京大学教授(当時)により東京大学に産業組織論担当として誘われ、東京大学教授になられたし、増田さんは法政大学に就職し、総長を務められた方で、先日訃報が新聞で報じられた。何れにしても、個性豊かなチューターであり、お二人の議論は、方向性は異なるが、ともに大変魅力的であった。中でも、増田さんのラディカルな発言には、大変大きな刺激を受けた。
ただ、研究者としての研究姿勢は、お二人とは全く異なる道を、自らは歩むこととなった。これは、上述した「世の中、理屈通りにはいかない」という父の発言への反発が大きかったと思う。植草さんを通して米国の産業実態から生まれた産業組織論の理論を学ぶよりも、増田さんに倣ってラディカルな左翼思想を主張するよりも、実態を見て議論したいという気持ちが、当時からあったのではと、今からみれば、思う次第である。
卒業論文は『中小企業分野における過度競争についての考察』というタイトルで、実態調査での経験もあり、中小企業の競争をどう考えるか、という点を考察するものであったと記憶している。ただし、その際、改めて幅広く調査をするというより、競争についてのマルクス経済学系統の既存の理論的な議論を整理し、検討するものにとどまっていたと覚えている。修士論文でも、それをより論理的に緻密に考えたとしても、同じ水準の論考にとどまっていた。
修士課程への進学
1970年3月に学部を卒業するのであるが、就職する気は全くなく、とりあえず大学院経済学研究科に行くか、それがダメなら、趣味の鯉の養殖を本業にするために他大学の水産学部に学士入学するか、どちらかを考えていた。いずれ、家業を継がなければならない、それまで、もう少し勉強をしたいという程度であったかもしれない。本格的な研究者になることに憧れはあったと思うが、なれるかどうか極めて不安であり、家業承継候補になることの「執行猶予」としての修士課程進学とも言える。
ただ、大学院に入り、単に時間つぶしをしていたわけではなく、今から考えても極めて真面目に、自分なりの研究努力をしていた。まず、大学院修士課程の1年目にしたことは、中小企業研究、特に製造業中小企業の存立の論理を追究することを考え始め、図書館にこもって、基本的には国内の著作に限定されるが、これらに関わる著作論文を『経済学文献季報』の該当欄を利用してリストアップし、ノート1冊分の自分用の文献リストを作り、それを元にリストアップされ、かつ慶應の図書館に収蔵されている全ての著作と論文(実際にはリストアップしたほとんどの著作と論文が慶應義塾図書館には収蔵されていた)に目を通し、必要と考えた文献についてはノートも取るという作業を1年をかけて行ったことである。
その結果として、私の修士論文は、最初の1年間を既存研究の包括的レビュー、というより文献への目通しと、従来の研究の概要把握といったほうが良い行動に終始し、そのため、現状分析としての中小企業研究を目指しながら、2年目に具体的な課題を設定し、本格的な調査を行うといった余裕も全くなかった。当時の中小企業間競争における特定の理解をいくつかとりあげ、それを「過度競争」の視点から整理するにとどまるものであった。極めて視野の狭い、抽象的に論理的一貫性を議論するだけの、現状分析とは程遠い論文にとどまった。これが『中小資本部門での競争について』という1972年に提出した修士学位論文である。結果、まともに調査等をしていなかったこともあり、論文の草稿は、提出期限よりずっと早く、1971年の年末には出来上がっていた。
すなわち、本来的には、自ら実態を見、それを通して議論すべき中小企業研究であるにも関わらず、私自身が当時できたことは、既存の理論的考察の比較検討に過ぎなかった。レビュー論文といえば言える程度のものであった。修士論文は、建前としては、慶應義塾図書館に保存され公開されることになっているので、バラバラに崩れていなければ、まだ存在し、入館できる人であれば、誰でも見ることができるはずである。
博士課程での実態研究への移行
零細企業急増の実態研究へ
ただ、修士課程で修士論文を書いている中で、自分としての方向性、少なくとも中小企業研究者として人生を過ごしてみたい、という気持ちは極めて強くなった。中小企業の理論的なレビューを自分なりに行い、分かったつもりになったが、そこから実態研究成果を見ると、わからないことだらけ、説明のつかないことだらけ、そんな気持ちになり、もっと突っ込んで中小企業研究をしたくなったのである。この時点で、家業を継ぐことは考えなくなり、それを父に告げ、許してもらった。当時、父の会社には叔父が専務として勤務しており、その時点で、父は、叔父に事業承継することを決意したようである。
このような修士論文の抽象性と、中小企業研究としての限界を感じ、博士課程に入ってからは、実態を見ることを通して議論を展開したいと思い、既存の実態調査による現状分析研究を渉猟することとなった。その際、最初に注目した事象は、製造業で零細企業の数が急増し始めたという現象であった。ただし、ここでも、まだ実際に中小企業での聞き取り調査を行うどころか、見ることさえままならない状況であった。
1960年代、特にその後半以降、日本経済での初めての人手不足が生じ、その下で、機械工業そして繊維産業で、また大都市と農村で、零細企業の増加が目立っていた。この現象について当時の中小企業研究者達が注目した。人手不足が生じているように雇用機会が急増している高度経済成長過程にあるにも関わらず、何故、零細企業が増加しているのか、と言う疑問である。
その背景には、これまで零細自営業、特に新規開業の多くを、窮迫的自立、すなわち他の就業機会がないゆえに、自ら自営業を創業したのが零細企業経営者という見方が支配的であったことによる。雇用機会に恵まれないから、仕方なく自営業を開業する。だから、低収入ないしは低所得であり、(大)企業等での安定した雇用機会をみいだせれば、被雇用者化する層と想定されていた。
瀧澤・清成論争批判
1960年代後半以降、機械工業等で零細企業が急増したことをうけ、窮迫的自立とは異なる説明が必要となり、当時の中小企業研究の第一人者である瀧澤菊太郎名古屋大学教授(当時、故人)と清成忠男法政大学助教授(当時)が、それぞれ新たな説明を提唱し、両者を中心とした論争が生じた。
瀧澤氏は、低賃金相当の工賃収入であるが、労働時間の法的規制のある被雇用者よりも、自営業主は自営業主故に長時間労働を実行することが可能となることに着目した。一人当り労働時間を柔軟に増大できるゆえに、大手工場の人手不足の解決策の一環として直接・間接に外注先として零細企業を利用することが拡大した。その結果、創業が増加し、それゆえに零細企業層が拡大というのである。
他方で、清成氏は、最新技術を利用した零細企業の生産性の高さ故に、外注利用が増え、単なる低賃金相当の工賃支払いのためではなく創業が増え、それゆえに零細企業層が増加していると主張した。
この論争では、まずはどちらの議論が正しいかという論点からの零細企業研究への関心が、中小企業研究、特に小零細企業の実態分析に向かわせる私にとっての直接の契機となった。博士課程の最初の1年余、とりあえず、この両氏の議論の妥当性を検討するために、零細企業創業についての実態調査を踏まえた既存の議論や、日本各地の各産業での実態調査研究をレビューし、自ら統計的事実の確認を工業統計表や、就業構造基本調査等を通しておこなった。
工業統計表等の統計的事実を確認しただけでも、両氏の議論がいずれも間違っていると思われることを発見した。零細規模での新規創業は高度成長期の前半からすでに多かった。しかし、高度成長期前半においては、創業企業が雇用者を増加させることは容易であり、経営の拡大に応じて従業者規模の増加が多くの創業企業で生じ、零細規模層での滞留は限定的であった。この状況が人手不足で変化し、従業者規模の拡大が相対的に困難となり、零細企業として滞留し、結果として零細企業層の企業数の増加をもたらした、と統計的な確認を通して把握できた。それゆえ、それぞれ上記のような理由で零細企業層の増加を論じた両氏の議論は、どちらの議論も妥当なものではないことが明らかになった。しかし、どのような企業が実際に創業し、従業者規模を増加せずに零細企業層として再生産しているのか、これらのことは統計的事実の確認からだけでは、全く把握できなかった。
何故、創業が大都市や農村でも多く、多様な産業で多かったのであろうか。またそのような企業はどのような理由で創業可能であったのであろうか、といった疑問には、全く答えることができなかった。自らによるフィールドワークがないまま、池田正孝氏の伊那や諏訪の機械工業の調査や、丹野平三郎氏や青野壽彦氏の繊維産業の調査等を利用することで、創業が多様な地域や産業で多いことについて、それぞれ独自な理由がありそうで、何か1つの論理で多様な産業での零細企業の増加を、零細企業の増加であるということだけで説明することには無理があるということを、推測するにとどまっていた。
1960年代後半以降の零細企業の増加という興味深い現象について、何故の一定の積み重ねをしたが、ここまでで終わったのが、私の最初の公刊査読論文「零細規模経営増加についての分析」(『三田学会雑誌』67巻10号、1974年10月)の事実上の内容であった。私なりの検討を加え、独自な仮説を構築するべく努力したが、曲がりなりにも独自なものとして構築した仮説・論理的説明は、既存の主要な主張の否定を統計的事実で説明するに留まり、積極的な主張を伴う仮説・論理的説明の構築には至らなかった。
助手採用試験への2回の応募
落選そしてギリギリ採用へ
上記の論文、それも公刊前の原稿段階のそれ1本で、博士課程2年目に慶應義塾経済学部の助手採用試験に応募した。結果は見事に落選であった。この最初の助手試験応募の際に、伊東教授の指導を受けていた先輩院生も応募した。先輩は、マルクス経済学の理論研究をしており、その成果を応募論文として提出した。伊東教授に近いマルクス経済学の理論研究者の若手教授が、この2名の応募論文を読み、私の論文を相対的に高く評価してくれていると、その若手教授に近い院生仲間が教えてくれた。落選はしたが、この評価を受けたことで、再度、助手試験を受けることを考えるようになった。
ただし、慶應に助手として残れる可能性は低いという指導教授の判断で、他大学の教員採用試験にも応募した。下記の2回目の応募の際も、同時並行的に、都内の某有名私大の中小企業論担当者募集に応募していた。この他大学への応募の方が早く結論が出るということで、もしそちらに合格したら、その時点で慶應の助手試験の応募を辞退するように、伊東教授に近い教授から言われていた。私も、早く決まった方に行くことについて、なんら異論はなかった。しかし、結果は、他大学への応募の方は、見事落選であった。その理由の1つが、私には調査研究の実績がないことであると、当大学の方の話が、私が親しい慶應の教授を通して伝わってきた。実際にその時当該大学の中小企業論担当者として採用された方は、調査研究の経験が豊富な、私より多少年齢の上の方であった。
最初の助手試験応募から3年、オーバードクター2年目での助手採用試験への再挑戦した。その間に、2本の論文もどきの論考を執筆して、先の論文の査読後公刊となった論文と合わせ、3本をまとめて助手応募論文とした。追加の2本は、高須賀義博氏の生産性上昇率格差論がらみで『高成長過程と中小企業の資本蓄積 −高須賀義博「生産性格差インフレ論」の検討−」というタイトルの未公刊のものと、もう1本は院生が自分たちのために発行していた論集に投稿した「高成長と機械工業中小企業の問題性」(『三田経済学研究』12/13 号, 1975年度)である。この際、3本をまとめて応募論文とするために、それら3本の私の研究上での位置付けを書いたメモを付け加えた。このメモについて、当時指導を受けていた一人である井村喜代子教授(当時)に、このような3本をよく一貫したものとして表現できた、と褒められた(私にはそう思えたのだが)。これが、これまでの井村教授との長い付き合いの中で、褒められた唯一の例であったと記憶している。
また、この年から助手採用試験の際の合格基準が緩和され、緩和された条件ギリギリで合格順3位に滑り込み、博士課程5年目で慶應義塾大学経済学部助手への採用が決定した。1977年4月に助手に採用され、当時最初の3年間は、給与だけもらい、なんら講義等の義務がなく、助手後半の3年間でも、教養課程の学生向けのプレゼミ的なものや原書講読といった科目を2つほど担当すればよいという、極めて恵まれた助手生活を35歳までの6年間も過ごすこととなる。何しろ、当時は、助手6年目にならなければ助教授昇格試験に応募できないと同時に、給与は一応年齢並みにいただけるという決まりであった。精神的にも余裕が多少でき、次に見るように、佐藤教授をはじめ、先輩の手助けもあり、積極的に調査に飛び回り、調査報告や論文を本格的に書き始めることができるようになった。
零細企業の実態調査研究の開始
また、助手採用への2回目の応募の前後には、佐藤芳雄教授(当時)の引きで、いくつかの実態調査研究に従事できるようになった。最初は、「神奈川県中小企業の動向(製造業編)−神奈川県製造業の構造の特質と問題点−」( 神奈川県商工指導センター, 1976年3月) という報告書の一部として、II,産業小分類別動態分析、III, 機械工業の動向、IV,軽工業の動向、という形でまとめたもので、神奈川県の製造業について統計的に分析をするという調査であった。1976年には、いよいよ本格的な聞き取りを中心とした実態調査研究に取り組む機会を得ることになった。すなわち、増加する零細企業の実態を、自分で見て自らの目で確認できないまま過ごしてきた、清成氏が注目し、自らの零細企業増加に関する仮説・論理的説明の根拠の1つとしていた、大田区等の東京の機械工業関連零細企業についての実態調査の機会を得たのである。
東京都労働局(当時)の委託調査である「東京の家内労働調査」を、佐藤芳雄慶應義塾大学商学部教授(当時)が主査として受託し、当時大学院で実態研究に踏み込む機会を得ないまま他の研究者の調査研究に依存しながら中小企業研究をしていた院生であった私たちを、実態調査のメンバーとして動員してくれた。「佐藤マフィア」と当時自称していたグループの誕生である。佐藤教授を中心に、池田正孝中央大学教授、伊藤公一千葉商科大学専任講師、大林弘道神奈川大学専任講師、三井逸友院生と私からなる調査チーム(職位等は、いずれも上記の調査参加時点でのものである)である。
この実態調査研究の一環として、私は、大田区を中心とした東京城南地域の機械工業関連自営業者と墨田区を中心とした東京城東地域の螺子製造関連自営業者の、いずれも東京の機械工業関連零細企業の存立状況の実態調査を担当することとなった。これ自体の報告書は、『家内労働の実情−東京都家内工業業種別実態調査結果報告書−』(東京都労働局、1977年3月)として刊行されている。私は、この報告書では、「金属加工業−城南地区−」と「金属製品(ねじ・挽物)製造業—城東地区—」を担当執筆した。
この調査研究の一環として、東京都労働局の協力を得ながら、助手採用試験を受験する中の1976年であったが、その1夏で大田区と墨田区等の城東地区の零細企業(特に夫婦2名の自営業)中心に、50社強での聴取り調査を、佐藤ゼミの学生らの協力を得ながら自ら行うことができた。この実態調査研究に参加したことを通して、私自身としては、東京の機械工業関連零細企業層の増加の論理の解明を目指すことになった。漸く、「何故」を、実態調査を通して追究できる状況が生まれたのである。
東京の零細企業研究の結果
<受注工賃の地域間での差異の発見>
この実態調査を通して、自ら、何故、大田区等、大都市東京の機械工業で零細企業が増加しうるのか、発見し、確認する作業に取り掛かることができた。
当時、旋盤加工の零細経営の受注工賃は、大田区では1時間当り1,100円(普通旋盤、被雇用者なし自営業)から1,500円(フライス盤加工、被雇用者なし自営業)という状況が、まずは確認された。他方で、中央大学経済研究所の日立地域の日立製作所の下請中小企業の調査によれば、日立地域の下請中小企業の受注工賃に関して、1時間当り500円以下(普通旋盤、被雇用者ありの中小企業の場合)と報告されていた(中央大学経済研究所編『中小企業の階層構造 −日立製作所下請企業構造の実態分析−』(中央大学出版部、1976年)の53ページ)。また、日立製作所の日立地域の下請企業の受注工賃が例外的に安いのではなく、京浜地域が例外的に高いということも、他の調査報告書等を通して確認された。
何故、日立地域等での中小企業の受注工賃と東京の零細企業の受注工賃とに、このような大きな差があるのに、東京の零細企業に下請加工の仕事が発注されるのか。これがそこから生まれた最大の疑問であり、それを論理的に説明するために、より突っ込んだ実態調査研究とその分析が必要とされた。
<実態調査を通して確認されたその他の事実>
実態調査を通して、受注工賃以外の点についても、東京の大田区等の機械工業小零細企業の持つ独自性が確認された。大田区等の東京の小零細企業の仕事は下請的部分加工についての受注生産であり、加工そのものとしては技術的に日立地域での汎用旋盤等の機械加工等と大きく変わるものではない。ただし、大きく異なるのは、受注内容、すなわち同一の受注内容の仕事の継続性、同一企業からの受注の継続性、受注ロットのサイズの大きさと安定性といった点である。大田区等の東京の零細企業の受注には継続性がないものが多く、ロットサイズは小ロットサイズに偏った上に大小様々であり、かつロットサイズにも安定性が無いという特徴が見られた。受注の質が異なり、特定の企業から、安定的に受注を確保、それも同様な受注内容の仕事を継続的に確保できる状況とは、大きく異なる状況にあることが確認された。取引先企業の変動も含めて、きわめて変化の激しい受注に依存していることが明らかになった。
東京の零細企業が受注している仕事は、受注単価は高いが、不安定でロットサイズも小さい、しかも、個別の取引関係としても安定しない受注内容であるといえる。多少単価が高いにしても、このような変化の激しい不安定な仕事で、何故経営を維持できるのであろうか、と言うのが次の何故であり、疑問であった。1つは個別の取引関係が継続的かつ安定的でないのに、何故経営が成立つのか、と言う疑問である。今1つは、常に変化する仕事に、加工を受託する側が、どのような工夫をすることで、対応可能となるのか、という疑問である。
海外生産化が進展する以前の当時の日立地域のように、日立製作所関連の仕事を安定的に確保し、大ロットサイズの仕事を継続的に受注可能であれば、受注が途切れることもなく、また頻繁に段取り替えする等の手間もかからず、ある幅の中で発注され受注される内容的に安定した仕事の加工に集中することで、充分経営を維持することが可能となる。下請企業としての特定の取引先との関係維持のための経営努力は必要だが、それ以上の経営努力を常時おこなう必要は少なく、新規の受注先開拓をする必要も限定的である。
他方で、京浜地域の不安定な受注に依存している小零細企業は、業主自らが加工を担当するのが当り前の自営業主でありながら、多様な取引先と絶えず交渉することが必要となる。すなわち、新規受注開拓と言った経営努力を含めたような経営が必要となる。また、変化する仕事内容に対応する、単なる加工能力の習熟に留まらない、加工内容の頻繁な変化に迅速に対応するような熟練技能が必要となる。
調査から私が把握した結論を先取りして要約的に言えば、以下のようになる。柔軟かつ迅速な段取り替えに関する熟練が形成され、そして、より一層の柔軟対応を可能とする「仲間」が存在し、「仲間」が相互に受発注することで、総量としての需要が安定的に拡大していれば、有無相通じ、柔軟に需要に対応することが可能となる。結果として、半端な仕事が、単価が高いのに関東一円から集まる状況が形成された。このことが、東京の小零細企業が不安定な受注に依存しながら、層として再生産され、1960年代後半から1970年代にかけて層として拡大した理由である。
多少単価が高いが、手間がかかる、安定しない仕事内容の加工とは、安定した仕事を充分確保できている他の地域の受託加工企業にとっては、通常と異なる習熟を必要とし、そのような習熟がなければ面倒なだけの仕事であり、引受けようとはしない仕事である。それでは、何故、京浜地域の零細企業は、他の地域の企業が引受けないような、そのような面倒な仕事を引受けるのであろうか。さらには、引受けることができたのであろうか。
このような状況が生じたのは、何故か。零細企業経営者が望んで、積極的にそのような需要を開拓したのではない、というのが、聞き取り調査をした結果であった。かつては、京浜地域の零細企業も、地域内に多数立地していた量産工場からの仕事のうちの一定部分を受注し、経営を成立させていた。特定企業との安定した取引的繋がりの中で、相対的に小ロットサイズの仕事を受注の中心とすることで経営を成立させていた。それが、1960年代後半からの量産工場の域外転出で、特定取引先との安定的な取引関係を維持することが、地域に立地する中小零細企業全体として困難になった。他方で、本社機能や研究所が多く立地しかつその機能、そこから生まれる開発や試作、量産立ち上げといった仕事は拡大し、また一品生産の重電工場や造船所等が依然として立地を継続していたこともあり、小ロットサイズの変化の激しい仕事の受注機会は、相対的に豊富にかつ増加傾向で存在していた。
その結果、京浜地域の小零細企業は、日本国内の機械工業集積地の中で、はじめて安定的な量産工場に依存して立地することができない環境下におかれ、かつ不安定な仕事そのものは増加傾向にある状況におかれた。市場環境の変化に強制され、生き残るために、量産工場の転出に追随せず京浜地域に残った機械工業小零細企業は、安定的な受注に依存せず、変化の激しい受注に依存して生き残る方向で、まずは個別経営として対応する努力を始めた。
しかも、変化の激しい受注内容の仕事に、柔軟かつ迅速に対応するのには、個別小零細企業の経営内努力では、大きな限界がある。同時に、周辺には、同様な加工内容の小零細企業や、それぞれ得意な加工内容を異にする小零細企業が、多数存在し、同様な悩みを抱えていた、さらに、これらの企業の経営者は、出身企業でのかつての同僚であったり、機械商や材料商を介しての知り合いであったり、さらには近所の飲み屋仲間であったりして、直接、間接に相互に知り合い、かつ一定の信頼関係を形成していた。「仲間」と零細企業の経営者達が呼んでいるものがそれである。
各小零細企業とその経営者にとって、それぞれにとっての「仲間」が10人前後の規模で存在する。「仲間」はクローズドな小集団ではなく、それぞれの企業家ないしは自営業者にとって、それぞれ存在するものであり、「仲間」の「仲間」といった形でネットワーク状に広がっている。一定の信頼関係が存在することで、必要に応じて、自ら受注した仕事に対する能力不足を補い、また自社ではできない加工部分を含めた仕事を受注し、できない部分を「仲間」に依頼する。前者は量的補完であり、後者は質的補完であるといえる。これが、「仲間」の間では双方向で行われる。特定の企業だけが受注窓口になるのではなく、小零細企業の誰かが、仕事ごとに窓口になり、その仕事を「仲間」で仕上げる。その窓口が取引先により柔軟に変わる、と言う形でも表現可能な関係といえる。
すなわち、何故、不安定的な仕事が大田区に来るのか、という疑問に対して発見された解答は、多数の多様な小零細企業が層として存在し、単価は相対的に高いが、小ロットサイズの発注、不規則な発注、面倒な仕事内容の発注、急ぎの発注といった、安定的な受注を中心に生産をしている受注生産型中小零細企業では引き受けたがらない仕事を、何でも嫌がらずに引き受けてくれるからということである。
それが何故可能なのかという疑問に対する解答は、多様に専門化した小零細企業が多数存在し、それらが「仲間」を通して相互に仕事をやり取りすることで、迅速にどんな仕事も対応可能であることによるということである。すなわち、「仲間」の間で仕事をやり取りすることで、個別には不安定な半端な仕事に依存していたも、総量として仕事が安定し、東京の機械工業小零細企業全体として、層として受注する総量が安定的に拡大すれば、変化の激しい仕事に依存していても、個別経営としても経営が安定することになる。
この「仲間」の存在の確認と、その独自な機能の(私による)発見が、実態調査を通して初めて可能となった。集積論の視点から議論すれば、仲間取引という一種の集積の外部経済性が機能して、半端な仕事に迅速に対応できるということになる。だから高くても半端な時間のない仕事は、関東一円から大田区等に発注される。他方で、半端な不安定な仕事に依存していても、総量として安定拡大するものであれば、それが企業間で融通され、京浜地域の小零細企業の経営が安定する。さらには、零細企業だと、より柔軟に対応でき、経営が安定しやすい。結果として、大工場のワーカーとして勤務可能な熟練工が、独立する。このように見ることができるのである。
このように見てくると、少なくとも東京の大田区等の零細企業の増加は、瀧澤氏の言うように、低工賃だけど長時間労働故に、外注利用されるか増加しているというのではない。単価が高く、総量としては仕事量が多いので、企業としての収入は高く、大企業の工場労働者として勤務するより、独立したほうがよい零細企業が、層として、東京で増加しているといえることになる。また、清成氏のいうような、増加するのは生産性が高いからといった、単純な話ではなく、歴史的経緯で形成された集積の独自な機能ゆえに、大田区等の東京でこそ独自な零細企業が増加しているのである。これを実態調査を通して発見し、論理的な説明をおこなった。
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