2019年1月25日金曜日

1月25日 渡辺幸男の中小企業研究50年史 その4 第3期

渡辺幸男の中小企業研究50年史 
1968年〜2018
第3期
渡辺幸男
第3期 帰国、教授昇格、単著執筆、そして受賞
19874月〜19993
 留学から帰国後、調査研究プロジェクトへの参加とともに、
自前の調査を仲間の院生の協力も得て実行し、単著2冊の出版へ
単著出版後、ウイングバレー協同組合調査、木工機械工業ビジョン等で、
  主査としての本格的実態調査開始
19874月 渡辺幸男研究会の開始
19904月 慶應義塾大学経済学部教授昇格
199712月 最初の単著出版 『日本機械工業の社会的分業構造』有斐閣
199810月 調査関連中心に2冊目の単著
『大都市圏工業集積の実態』慶應義塾大学出版会を出版
19992月 最初の単著で、中小企業研究奨励賞特賞を受賞
 同 3月  同単著で、慶應義塾賞を受賞
 同 3月  同単著を主論文、2冊目の単著の簡易製本版を副論文として、
慶應義塾大学から博士(経済学)の学位を取得

下請制研究のさらなる進展
英国留学から帰国後、留学時の多少の実態調査と資料収集に基づき、英国中小企業に関する論考を数本書いたが、その後は、改めて日本の下請取引関係を中心とした実態調査を再開し、それをも踏まえた自分なりの下請取引関係論の構築に取り組み続けた。
まずは、私が1984年に入会を認められた学術振興会中小企業・産業構造第118委員会が、商工総合研究所からの受託した調査(「産業調整問題と中小企業 −日本学術振興会調査報告−」)の一部を担当し、改めて東京城南地域の機械工業中小企業の存立形態について、商工中金大森支店の協力を得て実態調査を行い、自分なりの見解をより強固なものとした。それが『商工金融』掲載の「東京城南地域機械工業集積の動向−地域中堅・中企業の企業戦略を中心に」(『商工金融』63年度第3号,19886月)である。同じ調査結果を踏まえ、『日本労働協会雑誌』(19887月号)にも、「機械工業中小企業の多様な生き残り戦略 −東京城南地域企業の事例を中心に−」を執筆した。大都市立地の機械工業中小企業の多様な存立形態を確認できた実態調査であった。また翌年も、同じ第118委員会の受託調査「構造変換と中小企業−日本学術振興会調査報告−」の一部も担当することになり、「自社製品製造中堅・中小企業と首都圏の工業集積 −外注利用関係を中心に−」(『商工金融』19898月号)としてまとめた。
これらの実態調査研究の積み重ねの上で、教授昇格論文として執筆したものを『三田学会雑誌』に2回に分け掲載した。それが「日本機械工業の社会的分業構造 −下請制研究の新たな視座をもとめて−」((上)『三田学会雑誌』823, 198910月,(下)『三田学会雑誌』824, 19901月)である。従来の下請制の議論に欠けていた地域視点を組み込み、地域的な分業をも念頭に置いた社会的分業構造として下請制を把握することを提唱した論考である。ここで山脈的構造の発想が示され、私のその後の山脈型社会的分業構造論へとつながる論考となった。
以上のような実態調査と研究を踏まえ、学会報告を毎年行った。1990年には日本中小企業学会東部地区部会で「機械工業の分業構造−山脈構造と地域視点」(1990121日)を報告し、199110月には日本中小企業学会全国大会の統一論題で、「下請関係と社会的分業構造−下請制論の理論的枠組み」(要旨、日本中小企業学会編『企業間関係と中小企業』同友館,1992を報告した。また、この全国大会統一論題の報告に対する予定討論者は港徹雄青山学院大学教授(当時、現同名誉教授)であり、私の報告に対し、正面から批判をしてくださった。この際のコメントを踏まえながら、1997年の最初の単著をまとめることとなる。
(その縁もあり、港教授に『三田学会雑誌』912号、19987月に拙著の書評を書いていただいた。港教授から最初に、このような書評を考えているという素案をいただいた。その内容は、学会報告の際のコメント同様に、方法的な面からの全面的な批判を前提とするものであった。これで行くがよいかという質問もついていたので、当然、構わない、と返答をした。しかし、実際に発刊された学会誌の書評欄に掲載されていたのは、見ていただければわかるのだが、当初の正面から批判している部分のニュアンスを大きく変えた書評であった。港教授によると、三田学会雑誌の他の書評を見たら最初の書評のような全面的な批判を伴うものはないので、書き直したということであった。残念な港教授のご配慮であった。私としては、港教授からの書評の最初の案を常に念頭に置き、その後、それに反論することを志しながら、研究を続けたとも言える。)
 この時期から、元々の私の関心事は、個別の下請取引関係、特に、その中での系列取引関係の形成に関心があったのだが、それらについてだけではなく、それらが全体としてどのような社会的分業構造を形成しているかという点にも広がった。これまでの中小企業を含めた社会的分業構造についての理解の多くは、下請制を念頭に置いた場合、乗用車産業でのピラミッド構造という形で概念図化されるような理解であった。すなわち、そのような理解は、私が東京で見てきた多様な製品の特定加工だけを受注するような企業、しかも下請関係から見れば2次や3次さらに4次の下請として位置づけられるような存在が、多様な製品の特定加工だけを担って再生産している姿は、全く理解できなくなる。いわば各企業について業種分類の都合で特定の業種分類に当てはめてしまったものを、そのまま実態として存在しているとみるような理解、すなわち製品ごとの階層的分業構造理解に陥ってしまっていた。この点を実態調査から批判的に再構成するために、新たな階層的社会的分業構造、それも取引関係の多様性を含めたような構造図を作ることを考え始めた。

下請実態調査の多様・多数化
さらに、1990年代に入って、既存の調査機関の調査メンバーとして参加した実態調査のほか、自主的に設定した実態調査を行うようになった。調査機関の課題設定から対象や問題意識で外れる部分を念頭に、自主的調査を企画したのである。これには慶應義塾の後輩の院生等にも協力してもらい、川崎等での調査を行なった。同じ調査を中心に、レポートをいくつか書くことも、この時期には行ったが、その場合にも、基本的に、主張する内容、議論の視角等においては、それぞれのレポートに特徴を持たせ、内容的に同一と言えるものは書かなかったと自負している。この点を、どこまで貫けたか、当時の執筆本数の多さから多少疑問ではあるが。
1990年代に入って、多少なりとも原稿の依頼が、学術振興会第118委員会関連で執筆する機会をいただいていた『商工金融』以外の、いくつかの調査研究関連の雑誌から来るようになった。この結果、これまで以上に多くの調査レポートを書きながら、それを下請系列研究そして社会的分業構造研究へと、どのように昇華させるか追究することとなった。
その結果、論文と私が考えているものが、90年代前半には8本、最初の単著公刊の年1997年までにはさらに5本という多さである。また公刊された実態調査報告は、1990年代には1996年前半までで18本という数になっている。この中には、地域視点を加味した機械工業関連の下請企業への聞き取り調査が多く含まれるが、そのほかにも1980年代の下請系列研究についてのレビューや機械工業大企業の海外展開の持つ国内下請中小企業への意味といった内容のものも含まれるようになった。今考えれば、私が研究者として、最も多数かつ大量の原稿を書き続けた時期の1つが、この時期であると言える。これらを整理しながら、最初の単著がまとめられたと言える。
単著の基本的なテーマは、機械工業の社会的分業構造を2つの側面から見ていくものであった。すなわち、下請系列取引関係をどのようなものと見、そしてそれの形成の論理をどのように把握するか、という点が第1のテーマであった。第2のテーマは、それらの取引関係も含め、日本の機械工業の社会的分業構造が、地域視点を入れながら、どのような形態で描けるかであり、あるいは広義の機械工業として一体化して社会的分業構造を考える必要があることを示せるか、という課題であった。
下請系列取引関係については、中村精南山大学教授(当時)の準垂直的統合関係という理解を受け継ぐとともに、それを日本の伝統ゆえに形成されたとするのではなく、戦後の日本の機械工業特に中小企業の置かれた環境から説明されるべきものとし、その論理を展開した。同時に、機械工業の社会的分業構造を、各製品ごとのピラミッド構造的に見ることの誤りを明確にし、機械工業の社会的分業構造概念図として、多様な機械工業企業が下請や外注先企業としての底辺部分を共有する姿を、具体的なイメージとして描いた。より具体的にのべれば、以下のようになる。

トピックス1
旧来の下請制論争の論理的枠組みの否定、
 下請制効率性論の論理的可能性の提示
 旧来の認識:下請取引関係で収奪・被収奪関係が存在しているがゆえに、下請中小企業の技術は停滞する。下請中小企業の技術水準が遅れているがゆえに、発注側大企業から収奪される。
 私の実態認識:収奪されている下請中小企業の技術水準が急速に向上し、日本の機械工業の成長に貢献している。
 論理的帰結:下請中小企業の発注側大企業への被収奪下での従属的発展の可能性と、従属的取引関係(下請系列的取引関係)を形成することでの発注側大企業と受注側中小企業の利害の一致が存在し、それゆえ、下請収奪と中小企業の技術的高度化が共存している。

 日本の中小企業研究は戦前からの蓄積があり、在来産業論から始まり、多くの研究成果を生み出しているが、その中でも多くの研究者によって注目され、議論されてきた中小企業研究の課題は、下請制研究であった。
 戦前日本資本主義の近代工業としての未成熟と、その中でも製造業中小企業の発展の遅れ,そして下請中小企業の経営困難という実態を前に、活発にその克服に向けての議論が展開された。戦前来の下請制論争であり、その中心的な論者は、藤田敬三と小宮山琢二の両氏であった。この二人による下請制論争は、戦後の下請系列論争へと引継がれた。小宮山琢二氏は戦中に亡くなり、論争は、藤田敬三氏と、小宮山琢二氏の研究を引継ぐ論者によって行われた。
 日本の下請制論争として、藤田・小宮山論争では、きわめて激しい論争が行われたが、その論争においては、実態としての中小企業の現状についての認識と、それを説明するための論理的枠組みについての認識について、極めて重要な認識の共有性が存在した。下請取引関係で下請中小企業が、発注側企業としての親企業に収奪されているが故に、経営的に不安定であるとともに、技術的停滞に陥っている。すなわち、「下請取引関係での収奪・被収奪関係の存在 ⇔ 下請中小企業の技術的停滞」という認識の共有である。小宮山琢二氏のいうところの日本の製造業中小企業の「二重の隔絶性」が再生産される根拠が、ここに求められた。
 戦後の下請系列論争も、一方の当事者を藤田敬三氏とし、かつこの認識の共有を出発点として展開された。その過程は、高度成長過程でもあり、中小企業の中に、技術的に高度化しながら、急速に成長する企業が多数形成され、また、小零細企業の中にも、規模的には小零細企業に留まりながら、技術水準としては大企業に対するサプライヤとして充分機能する企業群が形成された。技術的な意味で言われていた「二重の隔絶性」の克服が実態として生じた。
 この中小企業の技術的発展の実現の実態的確認から、藤田小宮山論争で共有されていた、「下請取引関係での収奪・被収奪関係の存在 ⇔ 下請企業の技術的停滞」という下請制認識における論理的枠組みを、そのまま前提にし、実態としての大企業・中小企業の取引関係での確認を当面無視し、議論を展開し、既存の下請制収奪論を批判したのが、中村秀一郎『中堅企業論』(東洋経済新報社、1964年)と、清成忠男『中小企業の構造変動』(新評論、1970年)の2著作である。これらの著作は、私の学生生活開始時において、極めて大きな影響力をもった、実態調査研究に基づく著作であり、下請企業の技術的高度化の進展と同時に、下請制下での収奪の依然としての存在を目の当たりにしていたものにとっては、論理的に克服しなければならない著作でもあった。
 これに対し、中央大学経済研究所編『中小企業の階層構造 ―日立製作所下請企業構造の実態分析』(中央大学出版部、1976年)では、日立製作所の階層的下請構造の実態研究によって、日立製作所の日立地域の専属的下請企業層での技術的高度化と、日立製作所による下請中小企業収奪との共存の実態が明らかにされる。すなわち、「下請取引関係での収奪・被収奪関係の存在 ⇔ 下請企業の技術的停滞」という認識の現実的妥当性への疑義、ないしはその不当性が実態的に確認されたのである。
 実態認識から、下請被収奪企業である下請中小企業それ自体の技術的高度化が、ジュニアパートナーとしての発展として存在しうることが確認された。中村秀一郎や清成忠男両氏のように、藤田・小宮山の双方が共有していた論理的枠組みを前提に、実態からの示唆を位置づけるのではなく、藤田・小宮山両当事者に共有された論理的前提、論理的枠組みこそが、実態認識から批判されるべきことが明確となった。両者に共有されていた認識を前提に議論することは、戦前における実態からの誤った論理化を前提することになることが、実態によって確認されたのである。
 ここから、収奪・被収奪関係の存在と被収奪者の技術的高度化の共存の実態確認に基づき、両者の共存の論理の構築が求められることになった。日本の下請制のなかでは、収奪者である発注側大企業にとって、収奪対象の中小企業が、収奪可能であるだけではなく、被収奪者の技術的高度化を必要とすること、さらに、その技術的高度化が収奪の下で可能であること、これがまず論理的に説明される必要があることになる。
 これらのことから、実態から示唆される状況を説明可能とする論理の必要性が生じ、マルクス経済学的な競争についての把握の論理的枠組みのもとで、説明の試みがなされるようになった。すなわち、売り手の存立実態と売り手間の競争、買い手の存立実態と買い手間の競争を基本的な論理の軸として、この関係の組合せの中で、下請取引関係での収奪と、被収奪中小企業すなわち売り手の中小企業の技術的高度化の可能性の余地の存在を説明する努力が試みられた。結果として、発注側大企業にとって、支配従属対象の中小企業の技術的高度化の必要性とともに、技術的高度化のために従属と被収奪を甘受する売り手側の下請中小企業の論理が、実態を踏まえて確認された。すなわち、支配従属下での下請系列的取引関係の形成であり、被収奪者である下請中小企業の、被収奪下での技術的高度化の余地の存在の論理的確認が行われた。ジュニアパートナーとしての下請中小企業把握であり、従属的下請系列取引関係と私が呼んだ関係の論理的確認である。
 私が実態認識を通して解明した下請系列取引関係とはどのように認識されるものであるか、多少より具体的に述べるならば、以下のようになろう。
 大都市圏産業集積地域や特定巨大企業の城下町型産業集積として、それぞれ地域内で完結した生産機能を保有した産業集積内で、日本独自とも言える下請系列取引関係は形成された。この下請系列取引関係が、何故、戦後日本で形成される必要があったのか、形成されたのか、発注側企業と受注側企業の双方からの必要性を通してみていく必要がある。
 より具体的には、まずは、発注側大企業の側にとって、高度成長過程で下請系列化の必要性は、高度成長過程の生産拡大と技術水準高度化のもとでの量的・質的両面での生産能力の確保にあった。高度成長過程は、急激な生産拡大を伴い、なかでも機械工業はより急速な生産増大を実現した。そのため、大企業は、この需要の拡大に対し、自社内では自社の戦略的中核的部分の生産能力の拡大で手一杯の状況であり、周辺的な部品や加工の生産能力は慢性的な不足状態にあった。この周辺的な生産部分の優先的な生産供給源を確保することが、需要の増大に対応するためには必要不可欠であった。
 同時に、単なる量的確保だけではなく、周辺的部分とはいえ、常に技術的高度化をともないながらの量的供給能力の拡大を求める必要があった。しかし、大企業よりさらに遅れた企業のみ利用可能な状況下にあり、発注側大企業にとっては、発注側大企業の技術的高度化について行く意欲のある優良な受注生産型中小企業を選抜し、周辺的部分での供給能力を量質両面で高度化させることが必要とされた。
 それゆえ、相対的に優良な中小企業が大企業との従属的下請取引関係、被系列化を受け入れた理由は何かが、次ぎに問題となる。この点を抜きには、所有的に自立した企業間の取引関係で、支配従属関係が形成され、再生産されることはありえない。まずは、戦後状況の中で独立開業が急増し、中小企業間の激しい競争が存在したことが重要である。激しい中小企業間の競争の中で、中小企業が生き残り成長するのに必要なのは、成長市場の確保と、他の中小企業の技術水準を上回るための技術水準向上の機会である。成長市場を確保し、同時に技術水準のより急速な向上を実現するために最も有効な手段の1つが、有力な発注側大企業と従属的取引関係に入ることであった。
 しかも、当時の技術水準向上は、先進国からの技術導入が中心であり、この導入が可能なのは、ほぼ大企業に限定されていた。中小企業としては、技術導入能力があり成長著しい大企業に従属し、そのジュニアパートナーとして、周辺的技術の向上を担い、企業成長を目指すことが、激しい中小企業間の競争を勝ち抜くための最も有効な手段の1つであった。それゆえにこそ、当時の中小企業層内で相対的に優秀な部分の中小企業が、積極的に発注側大企業に従属し、自立的な展開を断念し、ジュニアパートナーの地位を甘受したのである。
 このような内容が、私の下請系列化を通しての日本の機械工業の急速な発展の論理であり、中小企業の実態研究から、マルクス経済学の競争論を媒介として把握した論理である。一定の時代環境において、日本の機械工業がおかれた独自な状況下で、下請系列取引関係は機械工業全体の生産性上昇、効率化に極めて有効に機能したということが確認された。同時に、このことは、一定の環境下で機能したのであり、環境が変化すれば、その関係そのものの再生産の基盤の喪失が生じ、生産性上昇への有効性も大きく変わることを示唆している。既存理論の演繹的活用のみで、下請系列関係の意味を議論したのではないがゆえに、下請系列取引関係の有効性と限界性を見ることができた。日本経済がおかれた時代的環境という前提を抜きに、「日本的」取引慣行として、下請系列取引関係を把握することの不当性が、実態を通して認識された論理により、示唆される。

トピックス2
下請制を含めた社会的分業構造把握のための論理的枠組みの欠落批判、
 山脈構造型社会的分業構造概念図の提示
 旧来の認識:機械工業の社会的分業を、下請取引関係中心に、それもピラミッド型の社会的分業関係で表現する。
 私の実態認識:ピラミッド型での下請取引関係では表現できない、日本の機械工業における多様な社会的分業関係が存在する。
 論理的帰結:より多様な社会的分業関係を包含する山脈構造型社会的分業構造図で、日本の機械工業の社会的分業を表現する。

 さらに、下請制の検討を通して、私は、下請制を機械工業の社会的分業構造の大きな枠組みの中に位置づける必要性を痛感した。機械工業における取引関係は下請取引関係や下請系列取引関係とは異なる取引関係を、中小企業絡みでも多く含んでいることを、実態調査を通して感じ取った。しかし、より一般的な取引関係を表現する場ないしは概念図がなかった。当時の中小企業がからんだ機械工業の取引関係を表現する典型的な模式図が、ピラミッド型下請取引構造図ともいうべきもので、巨大企業の完成品生産企業を頂点に据え、その下に末広がりに1次、2次、3次と下請企業群を位置づける、特定企業、ないしは特定企業群の下での階層的下請構造を示す概念図しかなかった。
 これを通しては、ニッチ市場向けに特殊機械を開発供給する中小の機械完成品メーカーや、多様な業種の多数の企業に供給する特定加工に専門化した中小企業等、多様な存立形態を持つ機械工業中小企業の存立実態を位置づけることは、全く不可能になる。実際に、大田区の機械工業小零細企業を調査してみると、極めて多様な存立形態が存在し、ピラミッド型下請取引構造からはみ出てしまう企業の方が多数派であることが理解された。
 この点の問題点を克服し、現実の多様な機械工業の中小企業の存立形態を、より表現可能にするものとして提示したのが、山脈構造型社会的分業構造図である。ピラミッド型下請取引構造に表現される下請系列取引関係や下請取引関係を包摂するとともに、中小の完成品機械メーカーや、特定業種の受注先にのみ依存しない特定加工に専門化した中小企業の存在を位置づけられる図となっている。 

1 山脈構造型社会的分業構造図
:山脈構造型社会的分業構造概念図2.pdf

 この山脈構造型社会的分業構造図は、図1のように、企業規模と、各企業の専門化の状況そして加工段階別の企業間での物の流れの方向を、大づかみに概念図化したものである。縦軸には企業規模をとり、下部ほど小規模な企業が位置づけられ、上部は日本を代表するような完成品の巨大企業が位置づけられる。この図全体で日本国内に立地する20万余の大小様々な工場を保有する日本の機械工業の企業群全体を表現している。
 横軸は機械工業のそれぞれの市場の広がりの念頭におくものである。点線等の直線はいずれも取引関係を表現している。ここでは取引関係の対等性の有無を念頭におき、それらを使い分けている。また、楕円で表現されているものは、完成品生産企業と完成部品生産企業の場合は、それぞれの製品に関する競争相手の範囲、すなわち直接的競争企業群の範囲を示している。それに対して受注生産型の特定加工専門化企業の場合、特定企業からの受注を巡り競争する直接的競争企業群ではなく、楕円の範囲はそれぞれの特定加工に専門化した企業群全体を示す準直接的競争企業群の範囲を示している。(なお、準直接的競争とは、専門化した加工等の業務内容を大きく変化することなく、ある程度の受注開拓努力を行えば、完成品での業種を越えて相互に参入可能な企業間における競争を指している。この概念も、同一企業から受注している同種の加工に専門化した企業間の競争(直接的競争)と区別し、同時に本格的な異部門参入とも異なる競争関係を、実態に基づき表現したものである。)
この山脈の数多くの頂き部分は、様々な機械工業の完成品市場へ供給している企業群、すなわちそれぞれの頂きがそれぞれの完成品生産企業群を表現している。頂きの高さには高低様々なものが存在している。それは、機械完成品市場に供給する企業には、大小様々な多様な企業からなる諸製品分野が存在することを表現している。しかも、多くの場合、巨大企業が専ら供給する市場は市場規模も巨大である。また、中小規模の企業が供給する市場は市場規模としても中小規模の市場が多く、専ら中小規模の企業群によって供給されている傾向が強い。それゆえ、高い頂きの部分は巨大企業によって専ら供給されている市場に供給する巨大企業群を表現し、低い頂きは中小企業が供給している完成品市場に供給する中小企業群を表現している。機械工業には大小様々な企業によって供給される多様な完成品市場があるということを、明示している。また、その数は、分野数でみても企業数でみても極めて多く存在する。
山脈からつきだした頂きの中腹部分は、それぞれの頂き部分の完成品生産企業へ専ら供給している完成部品生産企業群からなる。これらの完成部品については、特定製品用に専門化された部品ということで、完成品生産企業群とともに独立した峰を構成している。また、多様な製品分野に供給するような完成部品供給企業群は、多くの峰が共有している山腹部分に位置づけられる。また、大企業の完成部品生産企業が外注取引関係を通して、中小企業の完成品生産企業へ部品を供給している場合も多く存在するが、この図では描ききれていない。
山脈の山腹の大部分を占めるのは、中小零細企業を中心とした特定加工に専門化した受注生産企業群である。それぞれの専門化した加工分野ごとに準直接的競争関係にある企業群を構成している。山脈の最底辺部には熟練工が開業した一人親方の特定加工専門化零細経営や、さらには家庭内職との境界にあるような夫婦だけの不熟練組立加工専門化零細経営が位置づけられる。これらの特定加工に専門化した受注生産型の企業群は、多様な分野の完成品生産企業や完成部品生産企業そして特定加工専門化企業から特定部分だけの加工を受注し存立している企業群である。
これらの特定加工専門化企業群は、個別の企業としてみれば、特定製品分野へ専門化している企業が多く存在する。しかし、専門化しているのは、特定加工にであり、多くの場合特定製品関連の加工のみを行っているということは、その製品分野に専門化していることを意味せず、環境が変われば、そのまま他の製品分野の同一加工の仕事を受注することになる。それゆえ、競争している企業群としてみれば、すべての機械工業関連分野、そして家具や暖房器具といった多くの金属使用製品分野の共有の当該の加工専門化企業群となっている。いわゆる、底辺産業や基盤産業といわれるものを指している。
このような形で機械工業の社会的分業構造を描いたことで、多様な取引関係、存立形態の存在を位置づけることができるとともに、どの企業がどの企業と競争しているかも、きちんと認識可能となった。これまで、乗用車の部品の加工をしている中小企業の競争相手は、先験的に同じ製品の生産に係わる企業に限定されて考えられてきた。しかし、それは、あくまでも業種分類上の結果に過ぎず、実態としては、同じ機能を他の製品の部品の加工にも応用できるのであれば、専門化した加工分野の幅広い企業と競争しているのである。このことが、中小企業の存立に極めて重要な影響を与えているのであり、このような関係を理解可能にしたのが、本構造図ということができる。まさに実態を通して確認したがゆえに、このような図を書くことが可能となった。業種分類を前提に議論を始めるならば、そのこと自体から、このような把握は不可能となる。理論どころか、統計把握のための便宜的な類型分けが、実態を見えなくしているのであり、実態から統計上の類型分けの意味を検討することが不可欠なのである。

トピックス1とトピックス2の集約
 このような論理的枠組みからの日本の機械工業での私の下請制研究が、20年をかけ、拙著『日本機械工業の社会的分業構造 階層構造・産業集積からの下請制把握』(有斐閣、1997年)に結実した。

博士学位取得と受賞
1997年に上記単著を発刊し、それとともに、1998年に慶應義塾大学出版会から、同著の実態調査編ともいうべき『大都市圏工業集積の実態 日本機械工業の社会的分業構造 実態分析編1』を出版した。最初の著作とこの2番目の著作の簡易製本版を主論文と副論文として、博士学位を申請した。
私が博士課程を単位取得退学した時期には、課程博士の論文提出期限はなかったと記憶しているが、私が教授昇格をし、経済学研究科委員に就任する前の時期に慶應義塾大学院経済学研究科では、課程博士学位論文の提出期限を博士課程入学6年以内と限定したようである。その結果、私の学位は課程博士ではなく、論文博士の申請となった。また、当時は、博士学位を取得していなくとも、教授に昇格することは、教授昇格論文を提出し、それが昇格を認めるに値すると認められれば、可能であった。そのため、私の場合は、1990年4月に教授に昇格してから8年経った1998年に、先の2つの著作で博士学位を申請することとなった。
学位審査の主査は、島田晴雄経済学部教授(当時)で、副査は中小企業研究の専門家で東京都家内労働調査の時から実態調査研究について学ばせてもらってきた池田正孝中央大学教授(当時)と北村洋基経済学部教授(当時)であった。なお、佐藤芳雄教授が健在であれば、当然副査に入ってもらいたかったのだが、残念ながら、すでに病にたおられ、お願いすることができなかった。また、当時はまだ外国語文献についての読解能力も審査対象であり、杉山伸也経済学部教授(当時)が英語審査を担当し、丸山徹経済学部教授(当時)がドイツ語審査を担当した。杉山教授には文献を指定されての翻訳の提出をし、丸山教授は、好きなドイツ語文献を翻訳することを課題とされ、VWの生産ラインについての文献を翻訳し、提出した記憶がある。
結果、同世代の3人によっても審査されたことになる。何れにしても、語学力も含め、合格ということで、1999年3月に慶應義塾大学で博士(経済学)の学位を取得した。同時に、この最初の単著で、財団法人(当時)商工総合研究所の中小企業研究奨励賞の特賞を受賞し、また慶應義塾賞の受賞の栄にも浴した。中小企業研究奨励賞の授賞式の際に、ここでも父の言葉を思い出し、挨拶に入れた。すなわち、自らの存在評価は、自分ではできない、他の人の評価により決まるのだという、父の口癖がおもいだされ、審査委員長の瀧澤菊太郎名古屋大学名誉教授(当時、故人)の前で、ようやく自分も研究者として認められたと自覚できたと話した。また、豊橋創造大学学長を務められていた鈴木安昭青山学院名誉教授(当時、故人)から、過分とも言える審査員選評を書いていただいた。私としては、50歳を過ぎ、20歳で中小企業研究に関わり始めてから30年余の歳月を過ごし、中小企業研究奨励賞特賞の受賞で、中小企業研究者として認められ、自らを一人前の中小企業研究者と自認しても良いと、ようやく実感できたのである。
なお、最初の著作を出版する1年前の1996年度には、初めての特別研究期間を1年間取得した。ゼミの担当はやめなかったが、他の講義や学部業務等の義務を全て免除され、著作をまとめあげることに集中することを許された。1996年度の1年間は、私の研究で欠けていた、統計的にすなわち量的に自ら発見したことの重要性を確認する作業に従事できた。そのため、産業連関表を加工し、業種分類を前提しての話であるが、機械製品の生産をめぐる企業間取引が機械工業と呼ばれるものを越えて幅広く存在していること等も明らかにした。産業連関表を作ることはできないが、必要に応じて加工利用することはできることを実感した。その成果が、「日本機械工業の範囲と統計的推移の分析 ―社会的分業構造把握のために―」(『三田学会雑誌』901号、19974月)である。

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