2019年1月30日水曜日

1月30日 渡辺幸男の中小企業研究50年史 その5 第4期

渡辺幸男の中小企業研究50年史
1968年〜2018
4
渡辺幸男

第4期 主査としての調査、教科書の出版、中国実態調査本格化
 1998年〜2011
    ウィングバレー協同組合調査、
E中国中小企業発展政策研究、中小企業研究センター、
118委員会中心の科学研究費補助金調査、
東アジア研究所中国自転車産業調査等で、調査の主査を務め、
いくつかの共編著を出版
2001年 小川正博、黒瀬直宏、向山雅夫 3氏との共著で
中小企業論の教科書 『21世紀中小企業論』有斐閣、第1版の出版
2011年 3冊目の単著出版『日本の産業集積研究』慶應義塾大学出版会

博士学位論文提出後
 1998年の博士学位論文提出後、依然として聞き取り調査を中心とした実態調査研究に従事した。ただし、この頃から調査での私の立場が大きく変化し始めた。すなわち、調査チームの一員として参加する状況から、調査チームの主査として参加することが多くなったのである。執筆した論文は、2冊の単著にまとめたことを敷衍したような論文が多く、20世紀中には4本ほど書いた。特に新しい視点のものはなかったと言える。
 他方で、実態調査では、主査としての調査の依頼が、いくつか舞い込んだ。1つは、社団法人中小企業研究センターからの実態調査チームの主査の依頼であった。1998年度の成長中小企業の聞き取り調査を皮切りに、2003年度の東京の印刷業中小企業のデジタル化に関わる実態調査報告書の作成まで、そのうちの5年間について、主査として年ごとのテーマを提案し、メンバーをセンターの担当者とともに決め、1年間で準備の研究会から始まり現地調査を行い、報告書をまとめるという作業を繰り返した。多くの調査は産地型産業集積の研究であり、私にとっては機械工業以外の産地産業をも幅広く学習する機会となった。また、その成果は、当初は中小企業センター内の報告書として刊行されたが、後半の3年間については、同友館から中小企業センター編の著作として公刊された。
 さらに、瀧澤菊太郎名古屋大学名誉教授(当時)から私に対し、岡山県水島の三菱自動車の協力工場の協同組合、ウイングバレー協同組合の今後に向けての実態調査をやってみないかとのお誘いがあり、数年のプロジェクトとして主査を務めることになった。これまで調査を共にした経験を持つ同世代の清晌一郎関東学院大学教授(当時)をはじめとし、多くの調査仲間を誘い、本格的な乗用車向け協力工場企業の現状分析のためと今後についての調査を行なった。
報告書自体は、『協同組合ウイングバレイ経営診断報告書』として1999年にウイングバレイ協同組合から刊行されている。この調査を通して、乗用車産業の巨大さ、日本の乗用車メーカーの中では相対的に小さなメーカーである三菱自動車でさえ、他の機械工業分野の完成品メーカーと比較すれば、極めて巨大なことを痛感し、その地域社会に持つ極めて大きな影響力をまずは実感した。この調査では、協同組合のメンバー企業のみならず、2次サプライヤや地元の他の機械工業関連中小企業、そしてタイの三菱自動車関連で進出した関連工場といったものも含め、地域産業集積と海外化の2つの視点で、より幅広く調査し、協同組合とそのメンバー企業群の存立発展可能性を、より広い視野から検討した。協同組合にとって、我々がおこなった調査がどれほど有効な示唆をもたらしたか、その点はわからないが、我々研究者にとっては、大変多くのことを教えてくれた調査であった。
例えば、協力企業の中の多くが、三菱自動車のみに依存することの危うさに気がつき、関連するが異なる分野の事業へ乗り出す努力をしていた。しかし、それらの中には、経営()の素人の私から見ても、成功しつつあるものと、挫折しているように思えるものが見受けられた。しかも、その差異は、小さくても自立した事業として扱い、本業の状況に左右されずに事業を運営させるか、それとも、本業の状況に応じて新事業への注力を変えるか、この点が極めて大きな影響を与える、といったことが認識された。その他、幾つもの発見があった調査であった。
また、個人としては、このウイングバレイ調査をもとに、岡山県の産業集積について検討する機会を持った。そこから見えてきたことは、岡山県には、三菱自動車に代表される乗用車関連の産業集積や、それと裾野を共有する地元の機械製品生産企業を核とする機械工業関連産業集積が存在するとともに、それとは異質な、産業連関のほとんどない、電気製品の組立等の機械工業関連企業工場が存在し、それらは数としては多く存在するが、地元の機械完成品企業との関連がないだけではなく、それらの企業相互においてもほとんど関連性を持たず、農山村部の豊富な労働力の活用のみを目的に立地していることも確認した。同種の産業企業が同一地域内に多く立地しても、集積の外部経済性が形成されるとは限らないことを実感した調査であった。

中国産業発展研究への研究領域拡大
 2000年代に入って、私の実態調査研究領域の拡大につながる変化が、1999年に生じた。3E研究院プロジェクトへの参加である。当時の中国の朱鎔基首相と日本の橋本龍太郎首相が会い、エネルギー、環境、そして経済の3分野で日中共同の研究プロジェクト、3E研究院を立ち上げることになった。その際、3E研究院のプラットフォームを、それぞれの首相の母校である中国の清華大学と日本の慶應義塾大学におくことになった。その経済分野のテーマの1つが中国中小企業発展政策研究であった。当初、慶應義塾大学商学部の十川廣國教授(当時)が、その研究チームの日本側主査に着任する予定であった。しかし、十川教授が商学部長に就任されたことで、私に日本側主査のお鉢が回ってきた。これが、私のその後の研究生活を大きく変える偶然であった。
 それまで、全く中国に行ったこともない私が、日本の中小企業研究者であるということで、日本側の主査となり、中国の中小企業発展政策研究を、清華大学の教員を中心とした中国側チームとともに、中国中小企業の実態把握から始めることとなった。その際、日本側の委員として丸川知雄アジア経済研究所研究員(当時、現、東京大学教授)や黒瀬直宏専修大学教授(当時、現、嘉悦大学教授)が入っており、また、翌年には駒形哲哉慶應義塾大学経済学部専任講師(当時、現、同教授)も参加し、中国での現地聞き取り調査のベテランも加わった強力チームが形成された。
 この中国中小企業発展政策研究チームは、日中合同で2000年から2003年までの間に、年数回、長い時は2週間、短い時で1週間単位で、中国沿岸部で聞き取り調査を行なった。中心は浙江省温州市で、ここではほぼ毎年、聞き取り調査を実行し、郷鎮企業発展の温州モデルと言われるものが、どのようなものであるか、日本の中小企業研究者の視点から確認した。なお、この聞き取り調査のヒヤリングノートとチームの毎年の報告書は、ジェトロのホームページからダウンロードできるようになっていた。また、最終報告書は、2004年に刊行されている。日本貿易振興機構海外調査部編『3E研究院事業総括報告書「中国中小企業発展政策研究」』(同所、20042)がそれである。またインタビューノートをまとめたものとして、日本貿易振興機構海外調査部編『3E研究院事業総括報告書「中国中小企業発展政策研究」別冊 −企業訪問インタビューノート−』(同所、20042が刊行された。

中小企業についての再認識と
中小企業論の教科書 共著『21世紀中小企業論』(有斐閣、2001年)の執筆
大企業と中小企業との序列的優劣認識の否定
 旧来の認識:大企業と中小企業の相違を競争上、優位と劣位の企業として、その働く場としての特徴を恵まれた職場と恵まれない職場として、序列的に把握する。
 私の実態認識:大企業と中小企業の相違は、多次元的に評価されるものであり、一方が優位で他方が劣位ということはできない。
 論理的帰結:序列的認識ではなく、独自な企業群としての中小企業、独自な大企業のそれとは異なる働く場としての中小企業、という認識に至る。

 私は、1976年から、毎年、事例調査研究のために、大小様々な企業を訪れ、経営者を中心に話を聞く機会を多数持った。現在までに日本国内だけで、機械工業中小企業を中心に千社以上の企業の聴取りを行った。その過程で、中小企業観、中小企業労働観について、当時の中小企業諸研究における認識に対して疑問を感じた。特に私自身がよって立つマルクス経済学での一般的な議論である中小企業弱者論に疑問を感じた。マルクス経済学の当時の議論では、中小企業は弱者であり、救済の対象であると、一方的にされていた。また、働く場としての中小企業も、専ら賃金格差の大きさや長時間労働等の労働条件のみが注目されていた。すなわち、実際に存立する中小企業の積極的意味や、働く場としての内容についての検討、また、そこで働く人々の実態と実感が無視されていた。
 他方で、中小企業のおかれた厳しい現実を無視し、中小企業を賛美する議論についても、素直に受入れられなかった。中小企業とは何か、中小企業で働くこととは何か、大企業に比べて規模が小さいゆえに、不利である。あるいは規模が小さいゆえに大企業ではない良さをもつ。これらの議論に一面で共感を感じながら、同時に、大企業と序列的に比較して、小さいから、どうだという考え方に疑問を感じた。
 実際に中小企業を回って感じ取ったことは、大企業と規模の大小という形で、序列的に評価できないもの、大企業と異質な企業群、大企業と働くことの内容が異なる異質性を感じた。大小の差異を1つの軸だけで意味付け、評価するのではなく、多元的に評価することの必要性、その集合体として、大企業と中小企業の異質性を見る。このような理解に至った。
 企業として大企業と異質な存在としての中小企業群、働く場として大企業と比して独自性をもつ存在としての中小企業群、という理解である。金融面ではどうしようもない不利性を蒙る企業群だが、同時に小回りが利くことでは環境変化に迅速に対応できることである意味での優位性を発揮できる、大企業と決定的に異なる企業群としての中小企業という認識である。ただし、経営者次第で、小回り性が、迅速な環境変化対応成功にも、迅速な対応失敗にも帰結する。また、働く場としての企業の全体像が見え、そこでの自分の位置が見えるのが中小企業であり、自分の位置を見極めにくい大企業とは決定的に異なる働く場である。賃金は少なく長時間労働だが、企業での自分の意味を見出しやすい場である。
 さらに、経済環境により、中小企業群がもつ独自性の意味が異なってくること、これらが認識された。
 このような認識から書いた中小企業論の教科書が、中小企業政策を中心とした黒瀬直宏、中小企業経営の小川正博、中小商業の向山雅夫の3氏と書いた『21世紀中小企業論』(有斐閣、2001年)と、その改訂版である『21世紀中小企業論(新版)』(有斐閣、2006年)と『21世紀中小企業論(3)』(有斐閣、2013年)である。

 その1 独自な企業群としての中小企業
 以下では、私の実態調査から把握された中小企業の独自性を、より具体的に見ていく。大企業と共存する現代の事実上の個人企業である中小企業が持つ独自性は、経済学的側面と、経営学的側面の2つの面から把握することが可能である。
 経済学的側面としての独自性は、中小企業のもつ競争上の独自性である。すなわち、現代の大企業は、株式市場等に上場することを通して、不特定多数の人々から幅広く出資を募り、自社の株式資本としてとり込み、自社の競争に自己資本として利用することが可能である。しかし、中小企業にとっては、このような他人資本の自己資本化という形態での資金調達は、中小規模性ゆえに、一般的には不可能である。ここに大企業に対しての競争上の不利性につながる中小企業の独自性が存在する。同時に、このような独自性は、同時に中小企業経営者が、外部の出資者から一定の制約を受けながら経営せざるを得ない多くの上場している大企業と異なり、自らの会社の資産を経営者として外部から制約を受けずに、自由に利用できるという個人企業としての独自性を、実質的に保有できるということも意味する。
 経営学的側面の独自性とは、中小企業が相対的に小規模な組織であることからもたらされる独自性である。大企業は大規模であるがゆえに、組織運営のために階統的な組織を構築せざるを得ない。トップ経営者が末端の現場の被雇用者の状況まで把握することは考えられない。しかしながら、中小企業は中小規模の企業であるがゆえに、階統的な組織に依存することなく経営することが可能である。このような意味で、経営組織上の独自性をもつのが中小企業である。組織がおかれた状況についての迅速な把握を経営者に可能にさせ、経営者の判断の末端までの迅速な浸透を可能にする。
 以上の2点が、中小企業が異質な企業である根本である。さらに、具体的に独自性を見ていくならば、以下のようになる。
 まずは、中小企業の存立する分野の限定性である。中小規模の企業である中小企業は、その中小規模性ゆえに参入し存立できる分野を限定される。中小企業は中小規模であるがゆえに、最低必要資本量が少額ですむ分野にのみ参入可能であり、存立可能なのである。このことは、中小企業が存立できる分野は、特定企業のみが参入可能な大企業分野と異なり、無数といってよい多くの他の中小企業も参入可能な分野であるということになる。
 それゆえ中小企業の中小規模性それ自体が意味することは、中小企業は数多くの参入可能企業との競争に常にさらされることである。製造業を例にとれば、生産技術や製品技術といった面で強力な差別化といった競争を緩和するための何らかの他の手段を講じえないかぎり、特定の少数企業(分野内の既存の競争相手と潜在的参入可能企業双方を合わせた)の動向のみを念頭において行動することは不可能であることを意味する。無数といっていい数で存在する中小企業間の激しい競争に常にさらされる可能性のもとにあるのが、中小企業である。
 中小企業が中小規模であるがゆえの第2の点は、企業経営として特定分野へ専門化する必要性が高い点である。中小規模の企業として、多様な分野に進出するよりも、限定された企業内経営資源を特定分野に集中することが、存立する分野での競争力を維持するために求められる可能性が強い。
 規模の経済性や範囲の経済性が働く製品分野で、大企業と同様な多角化を行えば、たとえ参入可能な分野であっても競争上不利になり、長期存立は困難となる。しかし、個々の製品市場や生産機能に専門化すれば、その部分については最低限必要な規模の経済性を、中小規模の企業でも実現できる可能性が高い。このような専門化は、中小企業がおかれた環境により、その可能性と有効性を大きく変える。例えば、当該企業から見た補完的業務に専門化した(中小)企業が多く存在する環境下では、中小企業が専門化により規模の経済性を実現し、なおかつ補完的業務の企業を利用することにより、範囲の経済性の実現を放棄したことの不利性を多少なりとも回復することが可能となる。補完的業務については、必要なときに必要なだけ外部に求めることで、経営が成り立つことになり、専門化した業務について企業規模に応じた需要量を確保すれば経営として成り立つ。
 このような専門化による補完的業務の外部依存の必要性の高さは、当該企業が関わる分野が大きな変化もなく全体として順調に拡大しているときには、競争上大きな意味を持たない。常に特定の補完的業務が必要とされ、それを内部化しうる大企業の方がより中心的業務に適合的な形で専用化して利用が可能であり、それだけ有利となる。しかしながら、専門化した企業が直面する市場の変化が、頻度や変化の幅で大きければ大きいほど、専門化業務に対して必要とされる補完的業務の内容は大きく変化する。特定の補完的業務を企業内部化することは、必要な補完的業務を必要なときにだけ調達することを困難とする。それゆえ、補完的業務の企業内部化は、変化が激しくなればなるほど、特定分野へ専門化した企業との競争で不利性に変わる可能性が高い。逆に、特定分野に専門化せざるを得ない中小企業にとって、変化の激しい環境のもとでは、専門化せざるをえなかったことが、補完的業務を外部依存しているがゆえに、専門化した分野を軸に環境変化に柔軟に変化に対応する可能性をより与えることになる。中小企業固有の独自性は、存立環境によって、競争上の意味が変化する。
 さらに、中小規模ということは、基本的に使用資本量が少ないことを意味する。このことは同時に、企業内部に雇用できる被雇用者の数が少なくならざるを得ないことを意味する。中小企業とは、使用資本規模が小規模なだけでなく、雇用する労働者の数も量的に限定されている企業である。このことは、中小企業が企業内部に雇用できる人材の多様性が相対的に限定されたものにならざるを得ないことを意味する。その結果、中小企業は企業レベルでは専門化せざるを得ないが、企業内の被雇用者レベルでは、逆に大企業のように専門化することが不可能であり、多くの人材が諸局面で多能化することが不可避となる。それゆえ、環境変化が速くかつ激しく、専門化した人材の組み合わせの変更で対応できないような状況下では、中小企業の人材の量的制約性が、逆に変化への対応力をもたらす可能性が強いことになる。
 中小企業が中小企業としてもつ特性として注目する必要があるもう1つの点は、中小規模であることが経営組織のあり方に決定的な影響を与える点である。
 中小企業にとって、組織的な階統的な管理組織を作る必要性は極めて小さい。中小企業は、企業の協業を形成する各個人が、各個人として相互に認識しあえる組織である。その結果、中小企業では、組織として決定し、組織として行動する必要性が小さくなる。特定の事項を決定するまでに必要な手続きを最小限化し、決定に必要な時間が少なくできる。決定の迅速性である。また、企業として決定したことを迅速に企業内の各個人に浸透させることが、極めて容易である。
 同時に、階統的な組織ではないがゆえに、経営戦略の内容についての多段階的な、多面的なチェックは極めて希薄となる可能性が高い。さらに、決定された事項が迅速に浸透するということは、実施の段階でその妥当性について再検討する余地が極めて小さいことを意味する。中小企業では経営者の裁量の余地が大きく、かつその裁量が急速に浸透するが、その中間段階でのチェックは弱いことになる。
 このような大企業と中小企業の組織形態の違いは、発展の方向が見えているような相対的に安定的拡大過程では、決定とその浸透の迅速性の必要性も余り重要ではなく、またチェック機能の有無も大きな違いを生まないことから、大きな問題点となることはない。しかし、企業の外的環境が激しく急速に変化する状況下では、事態は大きく異る。そこでは企業組織全体としての環境変化への対応のあり方が問題となる。組織全体の方針転換は大企業組織としての階統的管理の枠組みの中で行われざるを得ない。他方で、中小企業の経営組織の持つ特徴、非階統性が、経営者の迅速な決定を可能にし、その決定の組織内への急速な浸透を可能にし、生きてくる。中小企業は大きな環境変化に対して大企業よりより迅速に対応する可能性が、中小企業であるがゆえに高い。中小企業は小回りがきく。
 同時に、この中小企業の決定や対応の迅速性、小回り性は、多段階的なチェック機構の欠如と一体となっている。経営者の裁量の余地が大きく、それが迅速に浸透し、企業がその方向に急速に転身できるということは、経営者のその時々の判断によって中小企業の運命が大きく左右される事を意味する。すなわち、迅速な決定を行う可能性は高いが、その判断の的確さは経営者次第というのが、中小企業の大きな特徴なのである。この点は、中小企業の層としての変化の激しい環境への高い対応能力の存在と、個別中小企業の存立の危うさの共存として把握される。
 中小企業にとって、外部資金調達面での制約は大きく、大企業に対する競争上の不利となる。直接金融は、中小企業にとって依然として極めて利用困難である。中小企業でも利用可能な外部資金調達である銀行借入れ等の間接金融についても、金利等の借り入れ条件で、中小企業が中小企業であるが故に大企業に比して不利な条件を甘受せざるをえないことが多い。
 中小企業はその中小規模性により、一般的には、大企業よりより競争の激しい分野で存立せざるをなく、大企業との取引で不利な関係に立たざるをえない。また、特定機能に専門化し、企業内人材が量的にかつ多様性においても限定される中小企業は、補完的業務機能の専用的利用や専門家の専用的利用の可能性の少なさ、さらには資金調達上の不利性から、大企業に対してより不利な状況の下で競争せざるを得ない。このような中小企業の不利な状況は、経済環境が安定的拡大であればあるほど明確になる。
 それに対して、経済環境が変動の幅の大きさや変動の頻度から変動の激しいものになればなるほど、大企業のもつ規模の経済性の面での中小企業に対する有利性は減じる。それに対して、中小企業の経営組織の非階統性が中小企業に変化に対する迅速対応を可能とし、そのかぎりで変化に対する対応の迅速性で劣る大企業に対して一定の有利性を中小企業に与える。
 このように、中小企業は単に相対的に規模の小さな企業というだけではなく、大企業と異なる企業、「中小企業」なのである。それゆえ、競争上の有利・不利や、環境の変化への対応力で、大企業と単純な序列的関係にある企業なのではなく、異質な企業群として、独自な内容を持つものである。

その2 働く場としての中小企業の独自性
 中小企業の独自性を見る際には、働く場としての独自性も極めて重要である。特に、近年、大卒就職希望者が、大企業に就職できないがゆえに、中小企業を就職の場として考える、という発想で中小企業への就職を選択するのを見るにつけ、働く場としての中小企業のもつ独自性を踏まえ、積極的な意味で、中小企業への就職を考えるべきであること明言すべきであると、私は実態調査を通して認識している。その根拠を以下で示す。
 働く場としての中小企業の特徴の第1は、見える世界ということである。何が見えるのかといえば、それは働いている人が働いている企業における自分の位置や役割が見えるということであり、同時にそれだけではなく自分がかかわっている企業全体が見えるということでもある。大企業のように、組織の中の一員として各自が存在し、組織構成員として全体が見えないまま指示された役割をこなしていくことが、中小企業では可能ではないし、許されない。
 また、そこで働くものにとって、中小企業では、自分や他の人の企業内での役割が見えるだけではなく、その企業の産業内での状況が見えてくる。日常性を通して、その企業が他の企業との競争でどのような状況にあるのかが見える。企業の一員としてその企業の存立に、自分がどのようにかかわっているのかが見えるのが中小企業である。
2の特徴は、何でもやる世界だということである。大企業と異なり、中小企業で働く者は、高度な専門化を追求し、その専門機能を果たす形で働くだけで生きていくことは難しい。規模の小さな企業では、主として行う機能は特定され、その意味では専門化することが求められるが、その機能だけを行えばよいことにはならない。否が応でも、いろいろな形で多様な仕事をこなすことを求められるのが、中小企業で働くということである。
 中小企業で働くということは、多様な仕事を同時に担うことを強制される。便利屋の側面を持たざるを得ない。しかし同時にそのようなことを要求されるがゆえに、高度に専門化した人々の集まりからは生まれないものを作り出すことができる。
 特徴の第3は、やりがいがあるが厳しい世界ということである。大企業が組織として動き、組織として成果をもたらすのに対して、中小企業では企業を構成する個々人の行動が、企業の成果に直接反映する傾向が強い。中小企業では、大企業と異なり、そこで働く個々の人々の日常的成果が、直接企業の成果とどのようにかかわっているかが見えやすい。経営者の判断や個々の従業員のあり方1つで、企業の展望が大きく左右されるのも中小企業である。
 さらに、中小企業では各自の成果が直接経営トップによって評価されるだけではなく、従業員相互に評価することが容易である。自らの成果が企業全体の業績に直結し、しかもその行動が経営トップや同僚に直接評価されるということは、一面で極めてやりがいのある職場であるといえる。同時に、マイナスの評価も個人として受ける可能性が常に高いという意味では、厳しい職場でもある。
 第4の特徴は、地域性が強い世界ということである。大企業は、戦略的にグローバルに展開している。それに対して、中小企業の場合、多くの場合、特定の1地域のみを拠点に活動を行う。たとえ、多地域展開している中小企業の場合でも、一定の経営戦略に基づき、いくつかの地域に限定して多地域展開している。
 それゆえ、中小企業で働くということは、その企業が存立しているいくつかの拠点の地域で働くことを意味する。さらに単一事業所の中小企業の場合には、特定1地域での事業展開が当面不可避であり、その地域の中でどのように事業展開するかが、最大の課題となる。特定地域の中でしか働く場を見いだせないと同時に、当該地域との結びつきを前提に働くことができるのが中小企業である。中小企業で働くことは、多くの場合、その地域の盛衰と一体の形で働くことを意味する。
 5番目の特徴は、相対的に低い賃金水準・平均的にみて悪い労働条件という点である。賃金水準や労働条件については、中小企業の間でのばらつきも大きく、大企業と遜色のない賃金水準や労働条件を実現している中小企業も、絶対数としては数多い。しかし、平均的に見れば、大企業と中小企業の間には明白な格差が存在する。 
 第6の特徴は、創業への近道という点である。中小企業で働くことは、人のキャリア形成に独自な影響を与える。中小企業の従業員や家族従業者は、特定の機能に専門化することが許されず、また身近に経営者を見、経営を知る機会に恵まれている。それゆえ、自ら創業することを、キャリア形成の選択肢として考える可能性が高い。同時に、規模別賃金格差は、中高年になるほど拡大する傾向にある。賃金格差を甘受せず、大企業従業員に負けない収入を得る道の1つが、経営者となり、家族従業者も含めた家族の総所得を増大していくことである。被雇用者としての先行きの収入ののびなやみが見えるとき、積極的に起業を考えることとなる。中小企業の従業員は、大企業の従業員より、起業者になる可能性が高い。
 以上の6つの特徴を働く場としての中小企業はもっている。中小企業は働く場として、一面では賃金や労働条件において大企業に比べ平均的に見て劣悪である。同時に中小企業ならではの働く場としての独自性があり、働く場としての豊かさを、より大きく持ちうる。働く場として相対的に不安定だが、独立創業を考えるものにとっては、創業のために多くの経験を積める場でもある。それゆえ、中小企業で働くことは、積極的な選択肢の1つである。働くことを通して、どのように自己を実現するか考える際、大企業と異なる意味を持つ働く場として、「中小」の企業ではなく、「中小企業」がある。

21世紀中小企業論』の再版
 上記のような発想で中小企業について考え、中小企業論の教科書を、黒瀬直宏、小川正博、向山雅夫の3氏とともに書き、有斐閣から出版した。それから17年、ほぼ毎年のように増刷をし、すでに版も3版となった。執筆者4名が教科書として使用しているとしても、受講者の数は数百名に達するかどうかであるが、毎年千部前後の増刷ということは、我々以外にも、この教科書を使用している大学教員が多くいるということになる。これらの方々は、我々の独自の中小企業観に賛同している方々とも言える。

科研費による国内産業集積研究
2000年代に入って、さらにもう一本の本格的調査を並行して開始した。これが、私が代表となって、日本学術振興会産業構造中小企業第118委員会が中心となり、多くの若手研究者にも参加してもらって行った科学研究費補助金研究である。『新産業時代における集積の本質とその将来展望』というテーマで2003年度から2005年度までの3年間、産業集積について、日本国内と中国やタイといった新興工業国について、幅広く現地聞き取り調査を行った。
国内については、岩手県や山形県、そして熊本県といった1980年代における日本国内での機械工業の周辺地域への拡大の受け入れ地域であった地域が、90年代以降の海外生産化の展開の中で、どのように変容したか、それを確認するための調査を中心に聞き取りを行った。

2000年代前半、多数プロジェクトの同時並行的推進
中小企業研究センターでの毎年テーマを決めての実態調査とその結果の報告書作成さらには出版が、1998年度から2003年度にかけて計5回、1999年度から2003年度にかけて5年間の3E研究院での中国中小企業発展政策研究チームの中国現地調査とその毎年の報告書作成、そしてそのまとめとしての、日本貿易振興機構海外調査部編『3E研究院事業総括報告書「中国中小企業発展政策研究」』(同所 20042)と、日本貿易振興機構海外調査部編『3E研究院事業総括報告書「中国中小企業発展政策研究」別冊』(同所 20042)という報告書の作成、科研費を利用しての2003年度からの3年間の国内産業集積調査とその報告書作成そして渡辺幸男編著『日本と東アジアの産業集積研究』(同友館、2007年)として報告書の公刊と重なり合いながら、大規模プロジェクトでの共同実態調査研究が続いた。
このように、2000年代前半は、夏休みや春休みは日本と中国そしてタイといった形で、現地での聞き取り調査に飛び回っていた。いずれも私が主査を務める調査であり、私の性格から、聞き取り調査の時には、メインインタビュアーを務めなければ気が済まないし、主査として周りからそれを期待されていると、私自身が勝手に思い込んだ状況での調査であった。
 大学の春休みと夏休み、春は入学試験が終わって学内業務が一段落したあととなるが、国内にいても週末以外は、調査で飛び回るような状況であった。そして年度末には、調査報告書の作成を、主査として調査仲間と打ち合わせしながら、自らも自身が興味あるところを中心に量的にかなりの量を執筆していた。
 調査報告書を別として、この時期に論文としてまとめたものだけで、13本の多くを数え、そのうち、中国の産業集積である温州市の産業に関するものが3本であり、後は日本国内の産業集積がらみの論文と下請系列研究のレビュー論文からなっている。また、調査報告書として一部の執筆担当をしたものが、14本となっている。今から見ると、私にとっては、この時期が、研究者として一番激しく調査に飛び回り、そして調査報告書そして論文を多く書き続けた時期であったと言えそうである。
しかも、50の手習いで、慶應義塾外国語学校で中国語の授業を受講し、中国語の勉強を始めたのもこの時期であった。中国で調査をするにあたり、現地の文献や雑誌論文を、現地語である中国語で読みたい、という願望があった。そのための手習いであるが、中国語については、全くこれまで学んでこなかった中で始めた。1年半かけて中国語中級まで進み、一応辞書を引いて専門書であれば読める状態までいった。ただし、私は音痴であることもあり、中国語のイントネーション等を聞き取ることが苦手で、会話は買い物を多少できる程度までで終わってしまった。中国での聞き取りも2011年まで行ったが、断片的な形で、いくつか専門用語を確認することはできるようになったが、通訳なしでは、聞き取りは全くできないままに終わった。ついでに言えば、この時期中国での聞き取りに、多くの場合に通訳としてついてくださった蔡院森氏は大変素晴らしい通訳であり、我々の中国現地での聞き取りの成果の何割かは、氏の通訳のおかげであると言える。

中国自転車産業調査の本格化
 科研費調査の一環として2003年秋に中国天津の機械工業関連企業を、天津市の南開大学に留学経験のある駒形哲哉慶應義塾大学専任講師(当時、現教授)の紹介で調査をしていた際、南開大学の謝思全教授(当時)にお会いし、天津の自転車産業の大きな変化そして急激な発展を紹介された。
 ここから、2004年に中国側が南開大学の謝思全教授と谷雲副教授(当時)と、日本側が駒形哲哉氏と私が中心となった日本と中国の自転車産業研究が始まった。天津での調査を皮切りに、中国華東や華南、日本堺や関東で聞き取り調査を行い、2009年に、渡辺幸男、駒形哲哉、周立群共編著『東アジア自転車産業論 日中台の産業発展と分業の再編』慶應義塾大学出版会、2009年)としてまとめられた。
 以上の過程を通して、実態調査からの新たな、私なりの発見がいくつかあった。その主要なもの3つを取り上げ、少しまとめて紹介する。

産業集積絶対視論批判
日本の産業集積論での集積の経済性に関する絶対視論が存在している。産業集積について相対視することが必要性である。私が理解する旧来の認識では、産業集積は、集積それ自体として、集積であるがゆえに内在的に発展展開可能である、という集積絶対視が一般的である。私の実態調査を通しての認識では、産業集積は、それぞれの市場環境のもとで、それに適合した集積形態をとり、結果として集積の経済性も享受している。それゆえ、集積の経済性を相対視し、集積しているがゆえに、集積として再生産可能であるという集積絶対視を否定すべきである、ということになる。
 機械工業の中小企業を下請取引関係の視点から調査研究していた過程で、気にかかった論点が、産業集積に立地する機械工業中小企業という中小企業把握にかかわる点である。私が調査研究を本格的に開始した1970年代半ばの下請制研究では、発注側大企業、いわゆる親企業と、下請中小企業との取引関係についての議論は豊富に存在したが、受注する側の下請中小企業の立地状況、すなわち京浜地域等の工業地帯に集積して立地していることの意味については、ほとんど議論されていなかった。
 他方で、経済地理の研究者は、地理学でのA.ウェーバー等の影響もあり、近接性の利益の視点から産業集積に注目し、私の当初の研究対象地域であった京浜地域の町工場にとっての集積の利益に言及し、集積している中小零細企業群の存在の重要性を指摘していた。しかし、集積地域に立地する小零細企業にとっての集積の経済性の内容を、具体的に解明する努力はほとんどなかった。
 私は町工場と呼ばれる機械金属工業関連の特定加工に専門化した小零細企業の話を聞く中で、これらの企業は、孤立した存在として発注側企業との取引を行っているのではないことを理解した。それらの特定加工に専門化した小零細企業間でも、「仲間取引」に代表されるような、多様な取引関係を形成し、情報交換を行っており、小零細企業群として存立し、それゆえに独自の機能を発揮していることを確認した。
 産業集積の概念を、日本の機械工業の社会的分業構造把握の中に位置づける必要性を認識した。このような認識から、私の実態調査研究は、取引関係についてとともに、地域的な産業の集積についての視点を持つものとなった。
 他方で、1990年代に入り、日本国内の製造業が、いわゆる「産業空洞化」と呼ばれるような、激しい構造変化を蒙る中で、製造業の国内立地の維持と国内での発展の場として、産業集積が、産業政策や中小企業政策の視点から注目されるようになった。中小企業白書でも、ここ20年間ほど、大きなトピックスの1つとして、産業集積が取上げられ、検討が加えられてきた。私が実態調査を通して実感していた中小企業にとっての産業集積の重要性が、政策的にも重要な意味を持つものとして取上げられ始めた。
 ただし、産業集積に注目した政策担当者、及びその政策担当者に対して理論的裏付けを提供する産業集積研究者の産業集積理解は、私の実態調査を通して把握してきた産業集積理解とは、大きくズレていた。すなわち、中小企業白書等では、日本国内に製造業中小企業が立地し続けることを可能とする、絶対的に有効な集積の経済性をもつ産業集積(形態)探しが、開始されたのである。私の理解では、少なくとも日本の製造業の産業集積に関する実態調査研究を踏まえる限り、それぞれの産業集積は、それぞれの産業集積が形成された広い意味での市場環境、すなわち歴史的、制度的環境を含めた市場環境に対応して形成された、それぞれなりの産業集積形態を持っている。その集積形態を前提として、集積の経済性を享受していると見るべきである。それゆえ、市場環境の大きな変化の下では、それぞれの産業集積それ自体が激しい構造変化を蒙らざるを得ない。このことは、どのような産業集積であろうと妥当である、というのが、私の産業集積認識である。
 しかしながら、中小企業白書や、白書の議論を支える産業集積論研究者は、このような相対化された産業集積の有効性と、集積の経済性についての認識に基づこうとしていない。いわゆる「産業空洞化」と呼ばれるような激しい外的市場環境の変化のなかでも、集積の内的論理、当該集積のもつ集積の経済性ゆえに、集積の再生産が保証されるような、絶対的な産業集積の形態が存在することを前提とし、究極の産業集積探しが行われている。
 私は、日本の製造業の産業集積に関する実態調査研究を踏まえ、少なくとも日本の既存の産業集積を前提とする限り、中小企業白書や多くの産業集積論者の集積論が追究する産業集積絶対視の論理的枠組みは無効であると考え、このような産業集積論を産業集積絶対視論と命名し、それが不可能な根拠を、実態調査研究から提示しはじめた。
 実態調査研究から、集積の経済性を考えるならば、その存在は、多様な市場環境に対応した多様な集積形態として存在し、それぞれの集積形態が、集積しているがゆえに、それぞれなりに集積の経済性を実現している。同時に、まずは、市場環境が大きく変化しない限り、内的には集積としての再生産が困難になることはないが、特定の集積形態ゆえに、市場環境が大きく変化する中では、集積としての再生産が困難になるのが一般的である。
 さらに、集積というのは、あくまでも地理的広がりを持った概念であり、多様な集積の経済性が存在し、それぞれ産業インフラ等の水準により、それぞれの集積の経済性が実現できる広がりは変化するし、多様な広がりを持ちうる。集積の経済性が実現できるとしても、集積が存在する地域の一般的立地条件も、また立地要因として重要な意味を持ち、集積外立地企業との競争を考えるうえでは、集積の経済性と一般的立地条件の差異とを秤量して考える必要がある。さらに、産業集積は、同一産業内に複数存在するのが通常であり、集積間競合が存在する可能性は高い、それゆえ、集積としての経済性が実現できても、他の集積との競合で劣位となれば、集積としての再生産も困難となる。
 以上のような意味において、集積の経済性を実現していることがもつ集積の優位性は、相対化される必要がある。私は、先の集積の絶対視論に対し、私のこの理解を集積の相対視論と命名した。集積していることにより、集積の経済性は存在するが、それはあくまでも他の経営資源等と組み合わさって機能する経済性であり、相対的な存在なのである。多くの企業が集積しているが故に集積の経済性が発揮され、優位に存立し、集積は内在的論理に従い、自生的に転態するとするような、集積の絶対視論は誤っている。
 以上の産業集積に関する実態研究からの帰納的論理が、『21世紀中小企業論』から10年近くの年月をかけ、実態調査研究を付け加えてまとめた、私の3冊目の単著『現代日本の産業集積研究 ―実態調査研究と理論的含意―』(慶應義塾大学出版会、2011年)として結実した。
 そこでの、実態調査からの帰納的帰結を、より具体的に示せば、以下のようになる。
 私の実態調査から示唆される、日本国内の産業集積についての研究のための論理的枠組みについては、少なくとも8つの要素で考えることができる。このことを前提に、国内産業の振興、それを通した国内の地域経済振興という政策的課題を、産業集積を核に考える時に留意すべきことは何か、これらを、以下で示す。
 まず第1には、日本の産業集積の存立を考える際に、日本国内市場向けの産業集積についても、東アジア大での競合を考慮に入れる必要だということである。かつて日本の製造業が国内完結型の下にあった状況で考えられた形で、産業集積の展望や市場環境変化を考えることは、全く不可能である。国内市場向けの生産であっても、常に東アジアを範囲とした集積間競合や企業間競争を考える必要がある。この下で政策立案することが不可欠である。国内の範囲内で他産業集積・他地域に対し優位に立つことだけでは、国内市場を確保することはできない。
 競争相手がより広域化している下で、集積間競合や企業間競争を考える方向で、政策的発想の転換を行うことが不可欠である。その上で、東アジア大の地域分業生産体制の下で、国内産業集積として、どのような優位を発揮できるかを考えることが、国内産業振興政策の一環として、地域振興政策の一環として産業集積支援政策を実施する際には、不可欠である。
 第2の指摘は、産業集積が関わる主要な市場・需要と当該産業集積の集積形態との関係をまずは考えるべきだということである。このことからは、政策立案の際の基本的現状認識のための重点がどこにあるかが示唆される。すなわち、集積に内在し、その集積としての存立状況を、集積内社会的分業構造として把握するだけではなく、その集積が存立している市場環境と、その変化の方向の確認が極めて重要だということである。特定の市場環境に適合した産業集積として、それぞれの産業集積は存立している。適合した市場環境とその動向を抜きにして、個々の集積の存立・発展展望を考えることはできない。
 個々の産業集積が、そもそもどのような市場環境に適合したものとして形成され、その市場がどのような方向へと変化しているのかを認識し、その方向と現状の集積形態のズレの内容を確認することが、個々の産業集積を前提とした産業振興策や地域振興策の政策的前提となる。当該集積が適合している、あるいは適合していた市場環境の分析を抜きに、抽象的なあるべき産業集積形態を探し出し、それと当該産業集積の存立形態とを比較し、今後の当該産業集積の発展方向をみいだそうという政策的思考そして志向は、百害あって一利無しである。
 第3の点は、各企業が立地する集積間競合と、集積内に立地する企業と域内に立地しない企業との競争とを、集積の経済性が存在することと、どのように関係づけるかということからの示唆である。ここで何よりも重要なのは、競合する集積を東アジア大に確認し、また東アジア大で集積外立地する企業の存在をも確認し、集積内立地企業との競争可能企業群を明確に把握することである。この点の把握を前提に、はじめて、競合する集積や競争する企業との集積の経済性での差異や競争上の優劣を多元的に確認することが可能となる。このことを通して、当該集積内立地の企業の特定市場での存立展望や、必要な政策的課題がみえてくる。
 第4の指摘は、集積の経済性の多様性と地理的多層性という点である。このことが示唆することは、産業集積の経済性は、多層化しながら、広域化している。集積の経済性を考える際の地理的広がりは、行政単位とは関係ないし、多くの場合行政単位を超えた存在である。このことを前提に、個別地方自治体は産業集積を通しての産業振興策、地域振興策を考える必要がある。地域の産業集積の振興、活性化には、関連する地方自治体の連携が必要である。また、国内産業の振興策として、産業集積対策・政策を考える際には、日本国内の産業インフラの一層の高度化を、まずは政策的課題とすべきということも意味する。
 5つ目は、市場環境を中心とした特定の経済環境の変化と集積形態の転換の困難性が意味することである。産業集積の転換を可能とする産業集積内の特定要素や特定集積形態を専ら探すことで、集積の転換可能性や、変化の中での発展を考えるべきでない。必要なことは、そうではなく、市場環境を中心とした経済環境の変化と、その下での既存集積形態の必要な変化の内容を解明することである。そして、そのために必要な要素を集積内に導入する方法を模索することが有効である。集積のおかれた環境の変化に対しての対応策としては、外的にその方向性を模索するよりも、内部の諸企業による多様な模索を促進し、そのなかから新たな地域の産業の発展する方向性をみいだすことが最も有効な場合も、多く存在する。
 いずれにしても、どのような形態の産業集積であろうと、大きな市場環境変化の下では、産業集積として新たな発展展望をもつためには、大きな困難を伴うことを前提とすべきである。また、産業集積としての転換が不可能であり、集積内の個別企業次元での対応のみ可能な状況もあることを、認識すべきである。結果的には、地域の産業集積を保持していた雇用規模等については、大きく減少することも生じる可能性も大きい。しかし個別企業の多様な模索の結果として、個別企業の中に新たな展望をみいだす企業が形成されることは、地域経済として、新たな発展の芽を作り出すことを意味する。それゆえ、既存の産業集積の転換・再生にあくまでもこだわることが、最良の政策の方向性であるかどうかについても、再検討を加えながら、市場環境変化に対峙していくことが必要である。
 6つ目は、同種企業の多数近接立地が必ず集積の経済性の存在をもたらすものではないことの意味である。集積の経済性を議論する際に、特定地域内の同業企業の数をもって集積の存在とし、その存在の経済的効果を測定すること等が行われることも多い。しかし、単純に事業所の数の多さを、集積の存在、そして集積の経済性の存在の証しとして議論することには、政策的に意味が無い。産業振興政策や地域振興政策を産業集積の持つ経済性を活かす形で考える際には、単に存在する事業所の数ではなく、それらの事業所の質的関連を確認し、そのことのもつ集積の経済性を把握することが不可欠である。
 7番目の点は、市場環境条件の変化の方向性は、より狭域的な集積の再構築をもたらす可能性も存在するということの意味である。市場環境の変化の方向をきちんと見極め、国内産業集積の再生・再発展の可能性を、改めて検討することが常に必要であるということを示唆していよう。
 8番目は、デジタル化は集積形態に大きな影響を与える要素であるということの含意である。市場環境と技術的高度化の双方が、既存の産業集積での社会的分業のあり方を、大きく変える要因であることを認識する必要性を示すものといえよう。
 以上をも踏まえ、私の議論の政策的含意を、全体として示せば、下記のようになろう。国内の産業振興政策を、東アジア大の地域分業生産体制を前提に考える時、この地域分業の中で、製造業事業所が日本国内に立地することに、どのような意義をみいだすのか、これを見極めることが極めて重要である。この国内立地の優位性を与える可能性をもつ要素のうち、極めて重要な要素の1つが産業集積内立地により集積の経済性を確保することである。この集積の経済性を確保し、それと個別企業の独自性とを組合せることで、東アジア大の地域分業生産体制の中で、日本国外への立地では実現することのできない優位性を実現する。このことが可能となれば、国内産業集積を核にした国内産業振興政策が有効に機能することになる。
 同時に、産業集積していること自体を絶対視し、理念的な意味で最適な産業集積を形成さえすれば、それ自体で、市場環境等の変化の中でも、国内産業の発展が保証されるという認識にたち、政策的展開を行うことは誤りである。そうではなく、それぞれの産業集積としての存立可能性、あるいは転換の必要性とそのための必要な要素等を確認し、集積の経済性をも活かす形での国内産業振興政策を行ってこそ、国内産業集積を活かした形で、国内産業の振興、その結果としての産業の構造転換のなかでの国内産業の産業集積を通しての発展が可能となる。
 以上が、日本の産業集積の実態研究を通して把握した、産業集積把握の理論的枠組みと、その政策的含意である。

産業空洞化論批判、日本製造業の東アジア化
 旧来の認識は、主力産業企業の工場群の海外移転により、日本国内の物づくり機能が空洞化しつつあるというものである。私の実態認識は、日本国内の物づくり機能が、全面的に海外移転しているのではなく、かつて日本国内を範囲に進行した物づくりの広域化が、より広域的に東アジアを範囲に展開していると考える。その論理的帰結は、生じていることは産業空洞化ではなく、日本国内を含めた広域的な地域分業体制の構築が、東アジアを範囲とするものとなったという意味での東アジア化が進展し、結果として、国内中小企業にとっては「大田区化=オータナイゼーション」が生じている、ということである。
 1970年代半ばから、1980年代、1990年代と、日本の機械工業を中心とした中小企業の存立実態の変化を追いかけてきた中で、日本の中小企業の中間財を中心とした取引の広がり、存立空間の広がりが大きく変わってきたことを確信した。これをどのように把握するか、この点については論理的にきちんと整理されていなかった。単純に「広域化」として把握されるだけであった。しかし、1990年代、電気機械製造業や精密機械製造業で、突然「産業空洞化」が叫ばれ始めた。
 私は、取引関係の広域化は、一般的立地条件の旧来の産業集積地域での悪化の下で、産業インフラの高度化が進展すれば、ある意味で必然であると理解していたのであるが、それが、何か突然生じた現象のごとく、しかも、特定の政策的含意をもつ形で「産業空洞化」と呼ばれ始めたのである。実態としての取引関係の広域化と、それが国境を越えたものとなった途端に、「空洞化」と認識される。それまでの広域化の過程で、既存産業地域での空洞化は生じなかったのかといった反省もないまま、国境を越えることで構造変化についての認識が大きく変化した。
 そこで、私にとって、改めて、1990年代以降、日本の製造業で生じている激しい構造変化を、実態を通してみた時に、どのように把握すればよいのかを示すことが課題となった。私の視点は、あくまでも日本の製造業の1960年代からの長期的な構造変化の一環として、近年のいわゆる「産業空洞化」も位置づけ、このような長期的な変化を把握する論理的枠組みのなかで、90年代以降の構造変化も把握するものである。この視点からすれば、既存産業地域での製造業の生産活動をも含めた形で、中間財取引の範囲が広域化したこと、それがついに国境を越え、東アジアを範囲としたものとなりつつあること、ということになる。すなわち、日本の製造業の国内広域化、そして東アジア化ということになる。
 このような視点と、中国での内生的産業発展の視点との接点、両者の混合の中で東アジアでの産業発展を議論することが可能であったのが、自転車産業である。中国産業発展を研究対象とする研究者と、日本の製造業の発展研究を課題とする研究者による共同研究が、自転車産業を対象に行われ、その成果が、渡辺幸男・周立群・駒形哲哉共編著『東アジア自転車産業論 日中台における産業発展と分業の再編』(慶應義塾大学出版会、2009年)となった。この分析の際の日本側の産業展開把握の論理的枠組みとして、東アジア化と、その結果としての東アジア大の地域分業構造生産体制を使用した。
 このような日本の製造業の「東アジア化」の論理的枠組みをより具体的に示せば、以下のようになる。
 日本製造業の戦後の生産体制の特徴の重要な1つは、日本国内完結型の生産体制であった。より厳密にいえば、国内完結型化が戦後に本格化し、1970年代から1980年代まで進展し、ほぼ国内完結型の生産体制を構築したといえる。すなわち、日本の製造業は、戦前来、後進工業として欧米の先進工業に追いつくことを目指した。そして、漸く、戦後の復興から高度成長の時期にかけて、米欧から先進的技術を導入することを通して、工作機械等を含め、ほぼすべての工業製品で、先進的な製品を国内で生産できる体制を構築することに成功した。
 戦後の日本の製造業の特徴は、単にすべての先進的な工業製品を国内で生産できるようになっただけではない。それに加え、大きな特徴は、欧州諸国と大きく異なり、素原料のほとんどを海外に依存しているが、その1次加工から最終製品までのほぼすべてを、国内で加工した部材を使用して生産する体制を構築したことである。1次加工品、各種の中間材料・部品等の中間製品、そしてほぼすべての最終完成品を、資本財・消費財について、自国内だけで生産する体制が、1970年代にほぼでき上がった。すなわち、工業において日本国内完結型の生産体制がほぼできあがった。この国内完結型が進展する間に、日本国内の生産体制は、旧来の産業集積地域内での拡大から、より広域的な地域分業構造を、日本国内で構築した。
 国内完結型の日本の製造業の生産体制は、1980年代に本格化した機械関連産業の大企業を中心とした米欧への直接海外投資の進展により、最初の大きな変化を被った。しかし、この過程での海外進出は、主要輸出先の米欧に、もう1セットの生産体系を構築することを中心としており、国内完結型という国内での生産体制に関しては、大きな変化を生まなかった。日・米・欧の三極生産体制を生み出したにとどまる。
 しかし、プラザ合意後の1980年代後半には、日本以外の東アジア地域の政治的安定と産業インフラの整備が進むとともに、日本以外の東アジア諸地域に比較して日本国内の一般的立地条件が、円高もあり、極度に悪化した。賃金水準、必要な労働者数の確保、地価水準、必要な工業用地の確保といった点で、日本国内諸地域は、他の東アジア諸地域に比較して、極端に工業立地条件が悪化した。そのため、日系企業は、これまで日本国内で最適立地を求めていた工場立地について、東アジアを範囲として検討するようになった。その結果が1990年代のいわゆる「産業空洞化」といわれた激しい構造変化である。
 その構造変化の実際の内容は、日系企業にとっては、日本国内を範囲とした地域分業の広域化から、東アジアを範囲とする広域的地域分業生産体制の構築へと移行することを意味した。すなわち、日系企業の工場立地が、日本を含めた東アジアを範囲とした地域内で最適立地を求めるという意味で、広域化した。この構造変化が東アジア化である。
 ここで重要なのは、日本国内にはこれまでの先進工業化する過程で蓄積された多様な高度な人材が存在し、企業が立地していることである。それゆえ、日系企業にとって、特定の製品の生産においては、一般的立地条件が最悪な日本国内立地を捨てることはできないし、また、広域的展開可能な製品の生産においても、特定の機能は日本国内立地を必要とすることになる。1990年代に顕著に進展した、日本の製造業の立地地城の構造変化は、日本からの製造機能の喪失ではなく、日本国内立地を核とした広域化なのである。これは、1960年代に、日本国内の旧工業集積地域から、大都市とその周辺地域の一般的立地条件の悪化に伴って、より周辺的な地域に特定の製品の生産や生産機能が転出した日本国内での広域化の延長線上のものである。
 このような東アジア化の下で、日系の製造業企業にとって、日本国内完結型の地域分業構造が崩れ、東アジア全域との地域分業構造を形成する過程で、日本国内に生産立地する必要がある生産機能は以下のようにまとめられる。
 産業インフラが整備されていることが前提であるが、一般的立地条件だけが立地条件となるような製品の生産や生産機能については、日本国内に新規立地する可能性はほぼ存在しない。すなわち、日本国内に新規立地する、あるいは日本国内立地を維持する製品の生産や生産機能は、このような日本以外の東アジアの産業インフラの整った地域に対し、極端な一般的立地条件の悪さを超える立地上の優位が見込まれる製品の生産であり、生産にかかわる諸機能である。
 このような立地上の優位が見込まれる製品の生産や生産にかかわる諸機能には、まずは、日本という1億人余の豊かな市場への近接を必要とする製品の生産や生産関連機能があげられる。日本国内市場への即時供給のための生産機能であり、日本市場の動向と生に接することが必要な開発絡みの機能、すなわち企画・開発・試作等にかかわる機能、さらにはそれらに関連する生産機能である。
 今1つは、広義の高度産業集積の存在を不可欠とする製品の生産や生産にかかわる諸機能である。今後とも拡大可能な生産にかかわる機能といえる。変化の頻度と変化の幅の双方からみて需要の変化が激しい製品の生産がその1つである。もう1つは、本来的に、需要の変化が激しい開発絡みの生産にかかわる諸機能である。すなわち、企画・開発・試作・量産立ち上げ等の機能である。これらは、高度な生産機能を必要とし、かつ変化の激しい需要は、高度な産業集積を利用することで、より柔軟に、より迅速に、相対的に安価に供給対応可能となる。
 このような国内の産業集積を活かして初めて対応可能となるような変化や変動の激しい需要に国内需要が限定されること、そのもとで多様な形で多様な需要に対応して存立していた機械工業関連中小企業の存立基盤が、このような需要への対応に限定されることを、私は「大田区化=オータナイゼーション」と呼んだ。すなわち、1960年代後半以降、大田区を中心とした東京城南の機械工業集積に立地する中小企業の存立基盤の変化が、東アジア化の中での日本国内機械工業中小企業全般に生じているという認識である。ただし、産業集積としてみると、それ自体も産業インフラの高度化により、1960年代とは大きく異なり、広域化している。このことを前提とした「大田区化=オータナイゼーション」といえる。そこでは、変化や変動の激しい需要への対応を、広義の産業集積を利用しながら実現していくしか、国内機械工業中小企業には、存立基盤がないことを示した概念でもある。このような認識は、機械工業中小企業に限定されず、変化や変動の激しい需要がかなりの規模存在する分野の場合には、同様に当嵌ると考えている。
 これらの日本国内に生産立地する理由のうち、市場への迅速供給の必要性故に、日本国内生産立地する生産にかかわる機能については、それらの市場は当然のことながら日本国内に限定され、日本国内市場でこれらの需要が拡大するかどうかで、その生産にかかわる機能が日本国内に立地する程度、拡大展望が限定される。
 それに対して、生産基盤の独自性、高度な産業集積の存在故に可能となる、変化と変動が激しく高度な生産能力を必要とする需要への対応能力については、その生産能力が対応する需要は、日本国内に限定されるものではない。安定的な量産的需要に対応する生産能力を保有していても、このような需要に対応する生産能力を保有していないような地域から、幅広く、日本国内に存在する高度な産業集積に需要が集まってくることになる。
 特に急激に製造業生産が拡大している東アジアには、変化や変動の激しい需要に対応する生産能力をもつ、このような高度な産業集積がいまだ存在しない。すなわち、かつて国内完結型の社会的分業構造であった時代に、国内地域間で棲み分けしていた生産機能が、2000年代には、東アジア大での地域分業構造生産体制となり、その中で、国内製造業そして国内製造業中小企業が棲み分けることになる。そして国内に立地する生産にかかわる諸機能は、かつては旧来の工業地帯を中心として対応していた、東京城南地域に典型的に見られた、変化や変動の激しい高度な生産能力を必要とするような需要に対応する生産にかかわる諸機能ということになる。同時に、国内において、かつては旧来の工業地帯を中心とせざるを得なかったこのような生産にかかわる諸機能も、国内産業インフラの更なる高度化により、より広域的なものとなり、国内のかなりの地域で立地対応可能となっている。このような状況が、日本から見た1990年代の激しい構造変化の結果として生じた2000年代そして2010年代の製造業の地域分業構造なのである。

2019年1月25日金曜日

1月25日 渡辺幸男の中小企業研究50年史 その4 第3期

渡辺幸男の中小企業研究50年史 
1968年〜2018
第3期
渡辺幸男
第3期 帰国、教授昇格、単著執筆、そして受賞
19874月〜19993
 留学から帰国後、調査研究プロジェクトへの参加とともに、
自前の調査を仲間の院生の協力も得て実行し、単著2冊の出版へ
単著出版後、ウイングバレー協同組合調査、木工機械工業ビジョン等で、
  主査としての本格的実態調査開始
19874月 渡辺幸男研究会の開始
19904月 慶應義塾大学経済学部教授昇格
199712月 最初の単著出版 『日本機械工業の社会的分業構造』有斐閣
199810月 調査関連中心に2冊目の単著
『大都市圏工業集積の実態』慶應義塾大学出版会を出版
19992月 最初の単著で、中小企業研究奨励賞特賞を受賞
 同 3月  同単著で、慶應義塾賞を受賞
 同 3月  同単著を主論文、2冊目の単著の簡易製本版を副論文として、
慶應義塾大学から博士(経済学)の学位を取得

下請制研究のさらなる進展
英国留学から帰国後、留学時の多少の実態調査と資料収集に基づき、英国中小企業に関する論考を数本書いたが、その後は、改めて日本の下請取引関係を中心とした実態調査を再開し、それをも踏まえた自分なりの下請取引関係論の構築に取り組み続けた。
まずは、私が1984年に入会を認められた学術振興会中小企業・産業構造第118委員会が、商工総合研究所からの受託した調査(「産業調整問題と中小企業 −日本学術振興会調査報告−」)の一部を担当し、改めて東京城南地域の機械工業中小企業の存立形態について、商工中金大森支店の協力を得て実態調査を行い、自分なりの見解をより強固なものとした。それが『商工金融』掲載の「東京城南地域機械工業集積の動向−地域中堅・中企業の企業戦略を中心に」(『商工金融』63年度第3号,19886月)である。同じ調査結果を踏まえ、『日本労働協会雑誌』(19887月号)にも、「機械工業中小企業の多様な生き残り戦略 −東京城南地域企業の事例を中心に−」を執筆した。大都市立地の機械工業中小企業の多様な存立形態を確認できた実態調査であった。また翌年も、同じ第118委員会の受託調査「構造変換と中小企業−日本学術振興会調査報告−」の一部も担当することになり、「自社製品製造中堅・中小企業と首都圏の工業集積 −外注利用関係を中心に−」(『商工金融』19898月号)としてまとめた。
これらの実態調査研究の積み重ねの上で、教授昇格論文として執筆したものを『三田学会雑誌』に2回に分け掲載した。それが「日本機械工業の社会的分業構造 −下請制研究の新たな視座をもとめて−」((上)『三田学会雑誌』823, 198910月,(下)『三田学会雑誌』824, 19901月)である。従来の下請制の議論に欠けていた地域視点を組み込み、地域的な分業をも念頭に置いた社会的分業構造として下請制を把握することを提唱した論考である。ここで山脈的構造の発想が示され、私のその後の山脈型社会的分業構造論へとつながる論考となった。
以上のような実態調査と研究を踏まえ、学会報告を毎年行った。1990年には日本中小企業学会東部地区部会で「機械工業の分業構造−山脈構造と地域視点」(1990121日)を報告し、199110月には日本中小企業学会全国大会の統一論題で、「下請関係と社会的分業構造−下請制論の理論的枠組み」(要旨、日本中小企業学会編『企業間関係と中小企業』同友館,1992を報告した。また、この全国大会統一論題の報告に対する予定討論者は港徹雄青山学院大学教授(当時、現同名誉教授)であり、私の報告に対し、正面から批判をしてくださった。この際のコメントを踏まえながら、1997年の最初の単著をまとめることとなる。
(その縁もあり、港教授に『三田学会雑誌』912号、19987月に拙著の書評を書いていただいた。港教授から最初に、このような書評を考えているという素案をいただいた。その内容は、学会報告の際のコメント同様に、方法的な面からの全面的な批判を前提とするものであった。これで行くがよいかという質問もついていたので、当然、構わない、と返答をした。しかし、実際に発刊された学会誌の書評欄に掲載されていたのは、見ていただければわかるのだが、当初の正面から批判している部分のニュアンスを大きく変えた書評であった。港教授によると、三田学会雑誌の他の書評を見たら最初の書評のような全面的な批判を伴うものはないので、書き直したということであった。残念な港教授のご配慮であった。私としては、港教授からの書評の最初の案を常に念頭に置き、その後、それに反論することを志しながら、研究を続けたとも言える。)
 この時期から、元々の私の関心事は、個別の下請取引関係、特に、その中での系列取引関係の形成に関心があったのだが、それらについてだけではなく、それらが全体としてどのような社会的分業構造を形成しているかという点にも広がった。これまでの中小企業を含めた社会的分業構造についての理解の多くは、下請制を念頭に置いた場合、乗用車産業でのピラミッド構造という形で概念図化されるような理解であった。すなわち、そのような理解は、私が東京で見てきた多様な製品の特定加工だけを受注するような企業、しかも下請関係から見れば2次や3次さらに4次の下請として位置づけられるような存在が、多様な製品の特定加工だけを担って再生産している姿は、全く理解できなくなる。いわば各企業について業種分類の都合で特定の業種分類に当てはめてしまったものを、そのまま実態として存在しているとみるような理解、すなわち製品ごとの階層的分業構造理解に陥ってしまっていた。この点を実態調査から批判的に再構成するために、新たな階層的社会的分業構造、それも取引関係の多様性を含めたような構造図を作ることを考え始めた。

下請実態調査の多様・多数化
さらに、1990年代に入って、既存の調査機関の調査メンバーとして参加した実態調査のほか、自主的に設定した実態調査を行うようになった。調査機関の課題設定から対象や問題意識で外れる部分を念頭に、自主的調査を企画したのである。これには慶應義塾の後輩の院生等にも協力してもらい、川崎等での調査を行なった。同じ調査を中心に、レポートをいくつか書くことも、この時期には行ったが、その場合にも、基本的に、主張する内容、議論の視角等においては、それぞれのレポートに特徴を持たせ、内容的に同一と言えるものは書かなかったと自負している。この点を、どこまで貫けたか、当時の執筆本数の多さから多少疑問ではあるが。
1990年代に入って、多少なりとも原稿の依頼が、学術振興会第118委員会関連で執筆する機会をいただいていた『商工金融』以外の、いくつかの調査研究関連の雑誌から来るようになった。この結果、これまで以上に多くの調査レポートを書きながら、それを下請系列研究そして社会的分業構造研究へと、どのように昇華させるか追究することとなった。
その結果、論文と私が考えているものが、90年代前半には8本、最初の単著公刊の年1997年までにはさらに5本という多さである。また公刊された実態調査報告は、1990年代には1996年前半までで18本という数になっている。この中には、地域視点を加味した機械工業関連の下請企業への聞き取り調査が多く含まれるが、そのほかにも1980年代の下請系列研究についてのレビューや機械工業大企業の海外展開の持つ国内下請中小企業への意味といった内容のものも含まれるようになった。今考えれば、私が研究者として、最も多数かつ大量の原稿を書き続けた時期の1つが、この時期であると言える。これらを整理しながら、最初の単著がまとめられたと言える。
単著の基本的なテーマは、機械工業の社会的分業構造を2つの側面から見ていくものであった。すなわち、下請系列取引関係をどのようなものと見、そしてそれの形成の論理をどのように把握するか、という点が第1のテーマであった。第2のテーマは、それらの取引関係も含め、日本の機械工業の社会的分業構造が、地域視点を入れながら、どのような形態で描けるかであり、あるいは広義の機械工業として一体化して社会的分業構造を考える必要があることを示せるか、という課題であった。
下請系列取引関係については、中村精南山大学教授(当時)の準垂直的統合関係という理解を受け継ぐとともに、それを日本の伝統ゆえに形成されたとするのではなく、戦後の日本の機械工業特に中小企業の置かれた環境から説明されるべきものとし、その論理を展開した。同時に、機械工業の社会的分業構造を、各製品ごとのピラミッド構造的に見ることの誤りを明確にし、機械工業の社会的分業構造概念図として、多様な機械工業企業が下請や外注先企業としての底辺部分を共有する姿を、具体的なイメージとして描いた。より具体的にのべれば、以下のようになる。

トピックス1
旧来の下請制論争の論理的枠組みの否定、
 下請制効率性論の論理的可能性の提示
 旧来の認識:下請取引関係で収奪・被収奪関係が存在しているがゆえに、下請中小企業の技術は停滞する。下請中小企業の技術水準が遅れているがゆえに、発注側大企業から収奪される。
 私の実態認識:収奪されている下請中小企業の技術水準が急速に向上し、日本の機械工業の成長に貢献している。
 論理的帰結:下請中小企業の発注側大企業への被収奪下での従属的発展の可能性と、従属的取引関係(下請系列的取引関係)を形成することでの発注側大企業と受注側中小企業の利害の一致が存在し、それゆえ、下請収奪と中小企業の技術的高度化が共存している。

 日本の中小企業研究は戦前からの蓄積があり、在来産業論から始まり、多くの研究成果を生み出しているが、その中でも多くの研究者によって注目され、議論されてきた中小企業研究の課題は、下請制研究であった。
 戦前日本資本主義の近代工業としての未成熟と、その中でも製造業中小企業の発展の遅れ,そして下請中小企業の経営困難という実態を前に、活発にその克服に向けての議論が展開された。戦前来の下請制論争であり、その中心的な論者は、藤田敬三と小宮山琢二の両氏であった。この二人による下請制論争は、戦後の下請系列論争へと引継がれた。小宮山琢二氏は戦中に亡くなり、論争は、藤田敬三氏と、小宮山琢二氏の研究を引継ぐ論者によって行われた。
 日本の下請制論争として、藤田・小宮山論争では、きわめて激しい論争が行われたが、その論争においては、実態としての中小企業の現状についての認識と、それを説明するための論理的枠組みについての認識について、極めて重要な認識の共有性が存在した。下請取引関係で下請中小企業が、発注側企業としての親企業に収奪されているが故に、経営的に不安定であるとともに、技術的停滞に陥っている。すなわち、「下請取引関係での収奪・被収奪関係の存在 ⇔ 下請中小企業の技術的停滞」という認識の共有である。小宮山琢二氏のいうところの日本の製造業中小企業の「二重の隔絶性」が再生産される根拠が、ここに求められた。
 戦後の下請系列論争も、一方の当事者を藤田敬三氏とし、かつこの認識の共有を出発点として展開された。その過程は、高度成長過程でもあり、中小企業の中に、技術的に高度化しながら、急速に成長する企業が多数形成され、また、小零細企業の中にも、規模的には小零細企業に留まりながら、技術水準としては大企業に対するサプライヤとして充分機能する企業群が形成された。技術的な意味で言われていた「二重の隔絶性」の克服が実態として生じた。
 この中小企業の技術的発展の実現の実態的確認から、藤田小宮山論争で共有されていた、「下請取引関係での収奪・被収奪関係の存在 ⇔ 下請企業の技術的停滞」という下請制認識における論理的枠組みを、そのまま前提にし、実態としての大企業・中小企業の取引関係での確認を当面無視し、議論を展開し、既存の下請制収奪論を批判したのが、中村秀一郎『中堅企業論』(東洋経済新報社、1964年)と、清成忠男『中小企業の構造変動』(新評論、1970年)の2著作である。これらの著作は、私の学生生活開始時において、極めて大きな影響力をもった、実態調査研究に基づく著作であり、下請企業の技術的高度化の進展と同時に、下請制下での収奪の依然としての存在を目の当たりにしていたものにとっては、論理的に克服しなければならない著作でもあった。
 これに対し、中央大学経済研究所編『中小企業の階層構造 ―日立製作所下請企業構造の実態分析』(中央大学出版部、1976年)では、日立製作所の階層的下請構造の実態研究によって、日立製作所の日立地域の専属的下請企業層での技術的高度化と、日立製作所による下請中小企業収奪との共存の実態が明らかにされる。すなわち、「下請取引関係での収奪・被収奪関係の存在 ⇔ 下請企業の技術的停滞」という認識の現実的妥当性への疑義、ないしはその不当性が実態的に確認されたのである。
 実態認識から、下請被収奪企業である下請中小企業それ自体の技術的高度化が、ジュニアパートナーとしての発展として存在しうることが確認された。中村秀一郎や清成忠男両氏のように、藤田・小宮山の双方が共有していた論理的枠組みを前提に、実態からの示唆を位置づけるのではなく、藤田・小宮山両当事者に共有された論理的前提、論理的枠組みこそが、実態認識から批判されるべきことが明確となった。両者に共有されていた認識を前提に議論することは、戦前における実態からの誤った論理化を前提することになることが、実態によって確認されたのである。
 ここから、収奪・被収奪関係の存在と被収奪者の技術的高度化の共存の実態確認に基づき、両者の共存の論理の構築が求められることになった。日本の下請制のなかでは、収奪者である発注側大企業にとって、収奪対象の中小企業が、収奪可能であるだけではなく、被収奪者の技術的高度化を必要とすること、さらに、その技術的高度化が収奪の下で可能であること、これがまず論理的に説明される必要があることになる。
 これらのことから、実態から示唆される状況を説明可能とする論理の必要性が生じ、マルクス経済学的な競争についての把握の論理的枠組みのもとで、説明の試みがなされるようになった。すなわち、売り手の存立実態と売り手間の競争、買い手の存立実態と買い手間の競争を基本的な論理の軸として、この関係の組合せの中で、下請取引関係での収奪と、被収奪中小企業すなわち売り手の中小企業の技術的高度化の可能性の余地の存在を説明する努力が試みられた。結果として、発注側大企業にとって、支配従属対象の中小企業の技術的高度化の必要性とともに、技術的高度化のために従属と被収奪を甘受する売り手側の下請中小企業の論理が、実態を踏まえて確認された。すなわち、支配従属下での下請系列的取引関係の形成であり、被収奪者である下請中小企業の、被収奪下での技術的高度化の余地の存在の論理的確認が行われた。ジュニアパートナーとしての下請中小企業把握であり、従属的下請系列取引関係と私が呼んだ関係の論理的確認である。
 私が実態認識を通して解明した下請系列取引関係とはどのように認識されるものであるか、多少より具体的に述べるならば、以下のようになろう。
 大都市圏産業集積地域や特定巨大企業の城下町型産業集積として、それぞれ地域内で完結した生産機能を保有した産業集積内で、日本独自とも言える下請系列取引関係は形成された。この下請系列取引関係が、何故、戦後日本で形成される必要があったのか、形成されたのか、発注側企業と受注側企業の双方からの必要性を通してみていく必要がある。
 より具体的には、まずは、発注側大企業の側にとって、高度成長過程で下請系列化の必要性は、高度成長過程の生産拡大と技術水準高度化のもとでの量的・質的両面での生産能力の確保にあった。高度成長過程は、急激な生産拡大を伴い、なかでも機械工業はより急速な生産増大を実現した。そのため、大企業は、この需要の拡大に対し、自社内では自社の戦略的中核的部分の生産能力の拡大で手一杯の状況であり、周辺的な部品や加工の生産能力は慢性的な不足状態にあった。この周辺的な生産部分の優先的な生産供給源を確保することが、需要の増大に対応するためには必要不可欠であった。
 同時に、単なる量的確保だけではなく、周辺的部分とはいえ、常に技術的高度化をともないながらの量的供給能力の拡大を求める必要があった。しかし、大企業よりさらに遅れた企業のみ利用可能な状況下にあり、発注側大企業にとっては、発注側大企業の技術的高度化について行く意欲のある優良な受注生産型中小企業を選抜し、周辺的部分での供給能力を量質両面で高度化させることが必要とされた。
 それゆえ、相対的に優良な中小企業が大企業との従属的下請取引関係、被系列化を受け入れた理由は何かが、次ぎに問題となる。この点を抜きには、所有的に自立した企業間の取引関係で、支配従属関係が形成され、再生産されることはありえない。まずは、戦後状況の中で独立開業が急増し、中小企業間の激しい競争が存在したことが重要である。激しい中小企業間の競争の中で、中小企業が生き残り成長するのに必要なのは、成長市場の確保と、他の中小企業の技術水準を上回るための技術水準向上の機会である。成長市場を確保し、同時に技術水準のより急速な向上を実現するために最も有効な手段の1つが、有力な発注側大企業と従属的取引関係に入ることであった。
 しかも、当時の技術水準向上は、先進国からの技術導入が中心であり、この導入が可能なのは、ほぼ大企業に限定されていた。中小企業としては、技術導入能力があり成長著しい大企業に従属し、そのジュニアパートナーとして、周辺的技術の向上を担い、企業成長を目指すことが、激しい中小企業間の競争を勝ち抜くための最も有効な手段の1つであった。それゆえにこそ、当時の中小企業層内で相対的に優秀な部分の中小企業が、積極的に発注側大企業に従属し、自立的な展開を断念し、ジュニアパートナーの地位を甘受したのである。
 このような内容が、私の下請系列化を通しての日本の機械工業の急速な発展の論理であり、中小企業の実態研究から、マルクス経済学の競争論を媒介として把握した論理である。一定の時代環境において、日本の機械工業がおかれた独自な状況下で、下請系列取引関係は機械工業全体の生産性上昇、効率化に極めて有効に機能したということが確認された。同時に、このことは、一定の環境下で機能したのであり、環境が変化すれば、その関係そのものの再生産の基盤の喪失が生じ、生産性上昇への有効性も大きく変わることを示唆している。既存理論の演繹的活用のみで、下請系列関係の意味を議論したのではないがゆえに、下請系列取引関係の有効性と限界性を見ることができた。日本経済がおかれた時代的環境という前提を抜きに、「日本的」取引慣行として、下請系列取引関係を把握することの不当性が、実態を通して認識された論理により、示唆される。

トピックス2
下請制を含めた社会的分業構造把握のための論理的枠組みの欠落批判、
 山脈構造型社会的分業構造概念図の提示
 旧来の認識:機械工業の社会的分業を、下請取引関係中心に、それもピラミッド型の社会的分業関係で表現する。
 私の実態認識:ピラミッド型での下請取引関係では表現できない、日本の機械工業における多様な社会的分業関係が存在する。
 論理的帰結:より多様な社会的分業関係を包含する山脈構造型社会的分業構造図で、日本の機械工業の社会的分業を表現する。

 さらに、下請制の検討を通して、私は、下請制を機械工業の社会的分業構造の大きな枠組みの中に位置づける必要性を痛感した。機械工業における取引関係は下請取引関係や下請系列取引関係とは異なる取引関係を、中小企業絡みでも多く含んでいることを、実態調査を通して感じ取った。しかし、より一般的な取引関係を表現する場ないしは概念図がなかった。当時の中小企業がからんだ機械工業の取引関係を表現する典型的な模式図が、ピラミッド型下請取引構造図ともいうべきもので、巨大企業の完成品生産企業を頂点に据え、その下に末広がりに1次、2次、3次と下請企業群を位置づける、特定企業、ないしは特定企業群の下での階層的下請構造を示す概念図しかなかった。
 これを通しては、ニッチ市場向けに特殊機械を開発供給する中小の機械完成品メーカーや、多様な業種の多数の企業に供給する特定加工に専門化した中小企業等、多様な存立形態を持つ機械工業中小企業の存立実態を位置づけることは、全く不可能になる。実際に、大田区の機械工業小零細企業を調査してみると、極めて多様な存立形態が存在し、ピラミッド型下請取引構造からはみ出てしまう企業の方が多数派であることが理解された。
 この点の問題点を克服し、現実の多様な機械工業の中小企業の存立形態を、より表現可能にするものとして提示したのが、山脈構造型社会的分業構造図である。ピラミッド型下請取引構造に表現される下請系列取引関係や下請取引関係を包摂するとともに、中小の完成品機械メーカーや、特定業種の受注先にのみ依存しない特定加工に専門化した中小企業の存在を位置づけられる図となっている。 

1 山脈構造型社会的分業構造図
:山脈構造型社会的分業構造概念図2.pdf

 この山脈構造型社会的分業構造図は、図1のように、企業規模と、各企業の専門化の状況そして加工段階別の企業間での物の流れの方向を、大づかみに概念図化したものである。縦軸には企業規模をとり、下部ほど小規模な企業が位置づけられ、上部は日本を代表するような完成品の巨大企業が位置づけられる。この図全体で日本国内に立地する20万余の大小様々な工場を保有する日本の機械工業の企業群全体を表現している。
 横軸は機械工業のそれぞれの市場の広がりの念頭におくものである。点線等の直線はいずれも取引関係を表現している。ここでは取引関係の対等性の有無を念頭におき、それらを使い分けている。また、楕円で表現されているものは、完成品生産企業と完成部品生産企業の場合は、それぞれの製品に関する競争相手の範囲、すなわち直接的競争企業群の範囲を示している。それに対して受注生産型の特定加工専門化企業の場合、特定企業からの受注を巡り競争する直接的競争企業群ではなく、楕円の範囲はそれぞれの特定加工に専門化した企業群全体を示す準直接的競争企業群の範囲を示している。(なお、準直接的競争とは、専門化した加工等の業務内容を大きく変化することなく、ある程度の受注開拓努力を行えば、完成品での業種を越えて相互に参入可能な企業間における競争を指している。この概念も、同一企業から受注している同種の加工に専門化した企業間の競争(直接的競争)と区別し、同時に本格的な異部門参入とも異なる競争関係を、実態に基づき表現したものである。)
この山脈の数多くの頂き部分は、様々な機械工業の完成品市場へ供給している企業群、すなわちそれぞれの頂きがそれぞれの完成品生産企業群を表現している。頂きの高さには高低様々なものが存在している。それは、機械完成品市場に供給する企業には、大小様々な多様な企業からなる諸製品分野が存在することを表現している。しかも、多くの場合、巨大企業が専ら供給する市場は市場規模も巨大である。また、中小規模の企業が供給する市場は市場規模としても中小規模の市場が多く、専ら中小規模の企業群によって供給されている傾向が強い。それゆえ、高い頂きの部分は巨大企業によって専ら供給されている市場に供給する巨大企業群を表現し、低い頂きは中小企業が供給している完成品市場に供給する中小企業群を表現している。機械工業には大小様々な企業によって供給される多様な完成品市場があるということを、明示している。また、その数は、分野数でみても企業数でみても極めて多く存在する。
山脈からつきだした頂きの中腹部分は、それぞれの頂き部分の完成品生産企業へ専ら供給している完成部品生産企業群からなる。これらの完成部品については、特定製品用に専門化された部品ということで、完成品生産企業群とともに独立した峰を構成している。また、多様な製品分野に供給するような完成部品供給企業群は、多くの峰が共有している山腹部分に位置づけられる。また、大企業の完成部品生産企業が外注取引関係を通して、中小企業の完成品生産企業へ部品を供給している場合も多く存在するが、この図では描ききれていない。
山脈の山腹の大部分を占めるのは、中小零細企業を中心とした特定加工に専門化した受注生産企業群である。それぞれの専門化した加工分野ごとに準直接的競争関係にある企業群を構成している。山脈の最底辺部には熟練工が開業した一人親方の特定加工専門化零細経営や、さらには家庭内職との境界にあるような夫婦だけの不熟練組立加工専門化零細経営が位置づけられる。これらの特定加工に専門化した受注生産型の企業群は、多様な分野の完成品生産企業や完成部品生産企業そして特定加工専門化企業から特定部分だけの加工を受注し存立している企業群である。
これらの特定加工専門化企業群は、個別の企業としてみれば、特定製品分野へ専門化している企業が多く存在する。しかし、専門化しているのは、特定加工にであり、多くの場合特定製品関連の加工のみを行っているということは、その製品分野に専門化していることを意味せず、環境が変われば、そのまま他の製品分野の同一加工の仕事を受注することになる。それゆえ、競争している企業群としてみれば、すべての機械工業関連分野、そして家具や暖房器具といった多くの金属使用製品分野の共有の当該の加工専門化企業群となっている。いわゆる、底辺産業や基盤産業といわれるものを指している。
このような形で機械工業の社会的分業構造を描いたことで、多様な取引関係、存立形態の存在を位置づけることができるとともに、どの企業がどの企業と競争しているかも、きちんと認識可能となった。これまで、乗用車の部品の加工をしている中小企業の競争相手は、先験的に同じ製品の生産に係わる企業に限定されて考えられてきた。しかし、それは、あくまでも業種分類上の結果に過ぎず、実態としては、同じ機能を他の製品の部品の加工にも応用できるのであれば、専門化した加工分野の幅広い企業と競争しているのである。このことが、中小企業の存立に極めて重要な影響を与えているのであり、このような関係を理解可能にしたのが、本構造図ということができる。まさに実態を通して確認したがゆえに、このような図を書くことが可能となった。業種分類を前提に議論を始めるならば、そのこと自体から、このような把握は不可能となる。理論どころか、統計把握のための便宜的な類型分けが、実態を見えなくしているのであり、実態から統計上の類型分けの意味を検討することが不可欠なのである。

トピックス1とトピックス2の集約
 このような論理的枠組みからの日本の機械工業での私の下請制研究が、20年をかけ、拙著『日本機械工業の社会的分業構造 階層構造・産業集積からの下請制把握』(有斐閣、1997年)に結実した。

博士学位取得と受賞
1997年に上記単著を発刊し、それとともに、1998年に慶應義塾大学出版会から、同著の実態調査編ともいうべき『大都市圏工業集積の実態 日本機械工業の社会的分業構造 実態分析編1』を出版した。最初の著作とこの2番目の著作の簡易製本版を主論文と副論文として、博士学位を申請した。
私が博士課程を単位取得退学した時期には、課程博士の論文提出期限はなかったと記憶しているが、私が教授昇格をし、経済学研究科委員に就任する前の時期に慶應義塾大学院経済学研究科では、課程博士学位論文の提出期限を博士課程入学6年以内と限定したようである。その結果、私の学位は課程博士ではなく、論文博士の申請となった。また、当時は、博士学位を取得していなくとも、教授に昇格することは、教授昇格論文を提出し、それが昇格を認めるに値すると認められれば、可能であった。そのため、私の場合は、1990年4月に教授に昇格してから8年経った1998年に、先の2つの著作で博士学位を申請することとなった。
学位審査の主査は、島田晴雄経済学部教授(当時)で、副査は中小企業研究の専門家で東京都家内労働調査の時から実態調査研究について学ばせてもらってきた池田正孝中央大学教授(当時)と北村洋基経済学部教授(当時)であった。なお、佐藤芳雄教授が健在であれば、当然副査に入ってもらいたかったのだが、残念ながら、すでに病にたおられ、お願いすることができなかった。また、当時はまだ外国語文献についての読解能力も審査対象であり、杉山伸也経済学部教授(当時)が英語審査を担当し、丸山徹経済学部教授(当時)がドイツ語審査を担当した。杉山教授には文献を指定されての翻訳の提出をし、丸山教授は、好きなドイツ語文献を翻訳することを課題とされ、VWの生産ラインについての文献を翻訳し、提出した記憶がある。
結果、同世代の3人によっても審査されたことになる。何れにしても、語学力も含め、合格ということで、1999年3月に慶應義塾大学で博士(経済学)の学位を取得した。同時に、この最初の単著で、財団法人(当時)商工総合研究所の中小企業研究奨励賞の特賞を受賞し、また慶應義塾賞の受賞の栄にも浴した。中小企業研究奨励賞の授賞式の際に、ここでも父の言葉を思い出し、挨拶に入れた。すなわち、自らの存在評価は、自分ではできない、他の人の評価により決まるのだという、父の口癖がおもいだされ、審査委員長の瀧澤菊太郎名古屋大学名誉教授(当時、故人)の前で、ようやく自分も研究者として認められたと自覚できたと話した。また、豊橋創造大学学長を務められていた鈴木安昭青山学院名誉教授(当時、故人)から、過分とも言える審査員選評を書いていただいた。私としては、50歳を過ぎ、20歳で中小企業研究に関わり始めてから30年余の歳月を過ごし、中小企業研究奨励賞特賞の受賞で、中小企業研究者として認められ、自らを一人前の中小企業研究者と自認しても良いと、ようやく実感できたのである。
なお、最初の著作を出版する1年前の1996年度には、初めての特別研究期間を1年間取得した。ゼミの担当はやめなかったが、他の講義や学部業務等の義務を全て免除され、著作をまとめあげることに集中することを許された。1996年度の1年間は、私の研究で欠けていた、統計的にすなわち量的に自ら発見したことの重要性を確認する作業に従事できた。そのため、産業連関表を加工し、業種分類を前提しての話であるが、機械製品の生産をめぐる企業間取引が機械工業と呼ばれるものを越えて幅広く存在していること等も明らかにした。産業連関表を作ることはできないが、必要に応じて加工利用することはできることを実感した。その成果が、「日本機械工業の範囲と統計的推移の分析 ―社会的分業構造把握のために―」(『三田学会雑誌』901号、19974月)である。

2019年1月20日日曜日

1月20日 渡辺幸男の中小企業研究50年史 その3 第2期

渡辺幸男の中小企業研究50年史
1968年〜2018
第2期

渡辺幸男


第2期 慶應義塾大学経済学部助手・助教授昇格・英国留学
 19774月〜19873
 英国留学前、実態調査がらみの研究調査プロジェクトに一メンバーとして
積極的に参加、調査報告書にも数多く執筆
19774月 慶應義塾大学経済学部助手に就任
19822月 佐藤芳雄編著『巨大都市の零細工業』(日本経済評論社)で、
      執筆者の一人として中小企業研究奨励賞本賞を受賞
19834月 慶應義塾大学経済学部 助教授昇格
19844月 日本学術振興会産業構造・中小企業第118委員会委員に就任
19853月 慶應義塾福澤基金により英国ロンドン大学LSEに留学開始
19873月 同 留学より帰国

 慶應義塾大学経済学部の助手に採用されてからも、講義等の義務はなく、院生時代の最後の時期と同様に、もっぱら調査に飛び回り、そこからの成果を調査報告書としてまとめ、自らの論文へと昇華することが許された。
1977年には、これまた佐藤芳雄教授が窓口となって受託した港区の実態調査に参加することができた。その調査、「港区における中小企業の実態と問題点」 [I, 港区における中小企業の生成と特色,III-3, 機械金属工業の構造変化,IV-4,建設業の動向]  ( 港区役所『港区中小企業実態調査報告書』19783月所収では、港区の機械工業中小企業の聞き取り調査を本格的に行うことができた。港区は、城南の機械工業集積の発祥の地だが、大都市中心部への組み込みの中で、質的変化をしていることを確認した。特に白金地区などでそれが顕著であった。旧来の東京城南の機械工業集積の残存部分とともに、大都市中心部の本社の開発がらみの仕事を受託する企業も目立った。同じ城南地域にありながら、その集積の中核地域となっていた大田区と、都心化し集積としては周辺化しつつあった港区では、その存立のあり方も微妙に異なることを確認した。
さらに、佐藤芳雄教授が委員長を務めた、墨田区の製造業事業所全数アンケート調査の個票を分析する機会を、墨田区の好意で与えられ、大都市の零細企業が、個別企業として、零細企業層として、多様な製品分野の多数の取引先と取引している実態を、統計的に確認することができた。その統計分析の結果が、「墨田区金属プレス加工零細経営の分析()  −統計分析 −」(『三田学会雑誌』726, 197912である。これにより、事例調査では確認できない規模で、プレス加工に専門化している零細企業が、零細規模でありながら、多様な製品分野の企業から受託している実態を量的に確認できた。
その上で、実際に墨田区のプレス加工零細企業が、個別企業としてどのような受注先を開拓し、また時系列的に変化してきたかを、10数件の規模であるが、聞き取り調査を行うことで、より具体的に確認したのが、「墨田区金属プレス加工零細経営の分析()  −事例分析 −」『三田学会雑誌』734, 19808)としてまとめられた、1980年の聞き取り調査結果であった。
 ここにまで漸くたどり着いたのは、1970年代の末あるいは1980年代初めであり、その成果は、まずは、佐藤芳雄編著『巨大都市の零細工業 都市型末端産業の構造変化』(日本経済評論社,1981)の「章 城東・城南の機械・金属加工業集積立地の機能と存立基盤」としてまとめられた。博士課程に入り、零細企業を中心とした中小企業の実態調査研究を本格的に志した1972年から数えれば、足掛け10年かかったことになる。
 なお、この著作で、我々は、中小企業研究奨励賞本賞を受賞した。
 補論 この東京の小零細企業集積の独自な機能については、私の1993年の諏訪地域のコンベアシステムメーカーでの聞き取りで、地域外の企業にとって、東京の集積がどのような存在であるか、再確認された。すなわち、同社は、諏訪地域で100社規模の外注先を利用しているのだが、当時でも首都圏の方が単価は諏訪地域と比較して2割ほど高いにもかかわらず、川口市にある同社の工場を経由して、埼玉や東京の機械加工や板金加工の企業も外注利用していた。その理由としては、諏訪では個別に外注しているものを、首都圏ではまとめて外注できるという点を指摘していた。それは首都圏の外注先が自らのネットワークを持っていて、一貫受注した加工に迅速かつ品質的に問題なく対応できるためであるとしていた。それゆえ、同社は納期のないものについて、首都圏の外注企業に依存し、納期に余裕のあるものについては、諏訪の地元の外注先を利用していた。(渡辺幸男、1997『日本機械工業の社会的分業構造 階層構造・産業集積からの下請制把握』(有斐閣)のp.217参照)

多様な調査への参加と下請制研究への道
 同時にこの間も、既存の統計や報告書等をもとに、機械工業の投資動向の実態調査を行った。「最近の中小企業の設備投資動向  −機械工業を中心に中小企業研究センター『調査研究報告No.2019783がそれである。
さらに、この時期から、佐藤芳雄教授がらみの委託調査への参加のみならず、日本労働協会での調査研究等に関しても声がかかるようになった。その報告書への一文が、「鉄鋼業における雇用調整の実態」(神代和欣編『単調労働産業における労働時間を規定する要因に関する研究』日本労働協会、19793月所収)である。
私としては、このような調査に関しては、声がかかれば、基本的には応じることにしていた。これは院生仲間の黒川和美さん(元法政大学教授、故人)が、彼の指導教授であった加藤寛教授(当時)から、「若いうちは、依頼があった仕事は断らないこと」と言われた、というのを伝え聞き、私も実践することにしたことによる。加藤寛教授のようには多数の仕事は来なかったが、私なりに、毎年色々な組織からの仕事も引き受け、何百枚かの調査報告書を書き続けた。
(なお、私は、こういっても、これまでの中で2回ほど、オファーされた調査がらみの委員への就任を断ったことがある。1回目は、東京都の仕事で、地場の製品の中で、地場の特性を生かした優れた製品と思われるものに、東京都のお墨付きを与えるといった中で、製品の選考の委員がらみのものである。委員になった最初の年、2000年ごろだとおもうが、その時には依頼の趣旨を踏まえ、真面目にいくつかの製品を選考した。当時、都知事が石原慎太郎氏になり、それ自体は評価していなかったが、中小企業の振興策とは別の次元の出来事と考え、趣旨に従い選考を行ったのである。が、その結果は完全に無視され、石原知事が選考製品を全面的に入れ替えてしまった。そのこと自体については委員長には連絡が入ったらしいが、委員である私は全く知らされなかった。それにもかかわらず、都から中小企業振興絡みの委員会への委員就任を打診された。委員を全く信頼しない、また無視する都知事のもとで、委員として振興策を検討することの虚しさを感じ、委員への就任を断った。それ以来、東京都からは中小企業がらみの委員会や調査委員への就任の依頼は全く無くなった。
また、同様に港区の中小企業振興のための施策に関わる委員会、多分港区中小企業振興審議会だと思うが、この委員会では佐藤芳雄教授の跡を継ぎ、当初委員として参加したが途中から委員長ということで参加し、ほぼ毎年諮問された課題に対し答申を行ってきた委員会である。その審議会だが、数年開催が途絶えた。ただ、審議会の存在とその審議会の委員長が私であることには変わりがなかった。その中で、数年音沙汰がなかった審議会が再度開催されることになり、委員長として対応するように港区から求められた。私としても、これまでも担当してきたこと、慶應の地元の港区の中小企業の振興策についての審議会であり、佐藤芳雄教授のもとで港区の中小企業振興策策定のための本格的実態調査も行ったこともあり、当初は、積極的に応じるつもりであった。
しかし、委員会の打ち合わせに出席して、何故、数年にわたりこの審議会が開催されなかったのか、担当者の長に尋ねたところ、「港区の中小企業に問題がなかったから、開催する必要がなかった」という回答であった。これは1990年代のことである。中小企業に、港区といえども問題がないどころか、問題が山積していたことは明白である。それにもかかわらず、このような発言を担当部局の長がした。呆れて、このような中小企業認識の役所では、中小企業振興施策についての検討を行うことは、私としてはできないと判断して、その場でその年度の委員長への就任を断った。
結果、何も事情をご存知なかった、青山学院大学の港徹雄教授(当時)にお鉢が回ったようである。ご迷惑をかけてしまったが、私としては、港区行政当局の地元中小企業についての基本的認識とそれに基づく姿勢に賛同できず、委員長を継続することはできなかったのである。これまた、私の本務校、慶應義塾大学の地元の区であるにも関わらず、その後、中小企業関係の委員への就任についての打診は、全くなくなった。)
また、零細企業についての実態調査研究の成果の要約版を、当時の中小企業研究の大きな流れの1つを担っていた渡辺睦明治大学教授(当時、故人)等のグループの中小企業研究書のシリーズの1つの章として掲載することを許された。それが「大都市における零細工業の役割」(渡辺睦編『80年代の中小企業問題』新評論, 19824月所収)である。同時に、この成果を学会報告した。1980年時点では、日本中小企業学会の全国大会は始まっておらず、日本経済政策学会での報告であった。「大都市金属加工零細経営の存立基盤  −東京の城東・城南地域の場合 −」(日本経済政策学会第37回大会, 19805月)というテーマでの報告で、要旨は、日本経済政策学会年報XXIX 『経済政策の国際協調と日本経済』(勁草書房, 19815)に掲載されている。この学会では、できるだけ資料を見てもらおうと、B4用紙にいくつものグラフや表を細かく多数載せて、コピーして配布し、同時に多くを語りたく、いつも以上の早口で喋った。終了後、伊東岱吉教授から、 資料は細かすぎて見にくいし、報告は早口すぎて聞き取れなかった、と言われ、大いに反省した。しかし、早口については、その後も多少はゆっくりになったと思うが、興奮すると戻ってしまい、いつものように早くなり、なかなか直すことはできなかった。
 日本経済政策学会で報告した翌年には、1980年に発足した日本中小企業学会の第1回の東部部会で報告した。「下請機械工業の最近の動向  −現状とその理論的含意」(日本中小企業学会、第1回東部地区部会、19815月)がそれである。下請系列取引関係へと研究関心を膨らませていく過程のものであったと記憶している。同じ年には、中小企業事業団中小企業大学校での仕事として、全国の下請中小企業に対して聞き取り調査を行うとともに、『下請企業の経営戦略』(同所、1980年度)の第1章「下請企業の地位」を書く機会にも恵まれた。この下請中小企業への視野を広げていく形の調査研究は、機械振興協会経済研究所や全国中小企業団体中央会の調査グループに参加し、調査をするとともに、幾つもの小論ないしは調査レポートを書く機会を与えれら、より深まっていくことになる。 
それが、『機械および繊維産業における技術革新と下請生産構造の変化』(機械振興協会経済研究所、19823)で書いた「第2部、第2章、電気機械産業(民生用機器・同部品) B 下請企業」、『組合による異業種連携の効果的進め方に関する調査研究報告書』(全国中小企業団体中央会、19833)「第1部 第2異業種連携組合における業種構成と事業のあり方」、『下請組合の実態及びその課題と方向』(全国中小企業団体中央会, 19833)での「第2I, 下請企業を取り巻く近年の環境変化と対応の方向」、『都市における工業集積と域内再配置の研究』(中小企業事業団・中小企業大学校中小企業研究所, 19833)の「本編2(2)東京の機械金属型工業の実態, (3)東京の印刷型工業の実態」、『京浜工業地帯 −その生成と発展−』(神奈川県自治総合研究センター, 19833月)の「第3編,1 (2) 神奈川県の工業と下請中小企業」、『技術革新下における下請中小企業の対応に関する調査研究』(機械振興協会経済研究所, 19835)2, 5大都市機械工業小零細下請企業」、「下請取引関係をめぐる競争と下請政策」(『日本の機械産業の構造変化と下請分業構造』機械振興協会経済研究所、19845月)、「3.下請比率別と第1位納入先依存度別の分析」(『わが国の機械産業における下請分業構造についての調査研究』機械振興協会経済研究所、19855月)といった小論である。これらは、実態調査を踏まえながら、それを通して何が言えるかを、自ら考察した部分を含む論考である。

取引関係としての下請制理解の深化
その結果は、いくつかの下請制についての研究論文へと昇華した。すなわち「下請企業の競争と存立形態 −「自立」的下請関係の形成をめぐって」( ()『三田学会雑誌』762号、19836月、()『同』765号、198312月、()『同』773号、19848)と、「日本機械工業の下請生産システム  − 効率性論の意味するもの」(『商工金融』352号、19852月)とが、それである。
前者の上中下に分けて掲載した「自立」的下請関係についての議論は、下請取引関係について、下請関係というべき「対等ならざる外注取引関係」の中に、「従属」的な取引関係と「自立」的な取引関係、そして「従属」的な関係にも入れないレベルの「浮動」的下請関係の3種類の取引関係が存在することを、実態調査を踏まえ主張したものである。これが、私の助教授昇格論文であった。いわば、下請取引関係理解についての私の独自な見解表明の第1歩となる論考であった。
同時に、この時期に、日本の中小企業研究の本格的なレビューを、滝澤菊太郎名古屋大学教授(当時、故人)が中心となり中小企業学会のメンバーを動員してまとめるプロジェクトが、当時の中小企業事業団の事業として行われることになった。その事業に、私も佐藤芳雄教授(当時、故人)の紹介で参加することになった。これにより、担当した下請系列取引関係について、本格的レビュー論文を書く機会に恵まれた。これが「下請・系列中小企業」(中小企業事業団・中小企業研究所編『日本の中小企業研究  第1巻<成果と課題>』有斐閣、19856月所収)である。修士課程への進学以来の文献レビューを見直し、改めて主要著作を取り出し、全面的に読み直し、一定程度蓄積した私なりの実態調査での下請系列理解をも念頭に、レビュー論文として書いたものである。
これらの論考での議論は、やがて10年余を経て、私の博士学位論文の下請系列理解へとつながるものであった。
さらに、1982年からは、これまでの国内機械工業下請中小企業に関する調査報告が中心であったが、それとは異なる海外の中小企業に関する調査研究のレビューにも参加する機会を得た。その最初のものが、「中小工業の存立実態と問題性」(中小企業事業団・中小企業大学校中小企業研究所『アメリカの中小企業に関する研究』19833月所収)と題してアメリカの中小企業研究を紹介した小論であった。そして、「イギリスの工業と新規中小企業形成」(中小企業事業団・中小企業大学校中小企業研究所編『欧米諸国の中小企業に関する研究(イギリス編19843月所収)を担当し、佐藤芳雄教授との共同論文として「アメリカの寡占体制とスモール・ビジネス」(前川恭一・渡辺睦共編『現代中小企業研究(下)』大月書店, 19845月所収)をまとめた。いずれも現地の実態調査研究論文を探し出し、それを紹介し、かつそれを通して、それぞれの国の中小企業の存立実態を描こうとしたものである。実際に自ら調査したわけのものではないので、隔靴掻痒の感が否めないものではあった
また、1985年3月からの英国留学を前に、実態調査報告として「貿易摩擦の部品産業への影響  −カラーテレビと関連部品産業の事例研究」(日本労働協会編『貿易摩擦と雇用・労使関係』日本労働協会、19863月所収)を担当し、機械工業での中小企業のあり方についての視野を広げていった。

英国留学とそこでの成果
私は、慶應義塾大学からの福澤基金による海外留学の機会を与えられ、1985年3月から2年間、英国ロンドンに滞在し、ロンドン大学LSEにリサーチ・スカラーという在籍料を支払う資格で籍を置き、英国の中小企業の実態を多少なりとも見ることができた。最初の20ヶ月は、家族とともにロンドンで生活し、多少の聞き取り調査を行うとともに、現地でしか手に入らないような、中小企業の現状についての調査資料類を収集することに努めた。
この英国留学中の調査と資料収集を基に執筆した論文が、「英国工業中小企業の動向  − 中小企業政策の意味するもの」(『三田学会雑誌』803, 19878月)、「英国中小企業政策の最近の動向とその特徴」(『商工金融』198711月)、「英国の機械工業中小企業  −自動車工業の外注構造を中心に」(『中小企業季報』19874号)である。これらを踏まえ、中小企業学会全国大会で報告をした。そのタイトルは、「英国中小企業政策と工業中小企業」(日本中小企業学会  第7回全国大会,198710月)で、(要旨は、日本中小企業学会編『産業構造調整と中小企業』(同友館,19884月所収)に掲載されている。
また帰国後の資料収集も加味して執筆したのが、「第1章,英国経済における中小企業の地位,第3章4,地域振興施策,7,産業別振興施策」(中小企業事業団・中小企業大学校中小企業研究所編『中小企業の国際比較研究 −イギリス編−』19893)である。現場主義の傾向が強い私としては、その後イギリスを訪ねることはなかったこともあり、イギリスへの留学を契機として多少なりとも深まったイギリス中小企業についての研究の成果物は、これらの論考で全てということになった。
ただ、イギリスで現場を見たこと、そしてそれを踏まえて現地で作成された多くの資料に目を通したことは、かつて文献を通して海外の中小企業を研究していた先学の理解の限界を知ることができ、その意味では、その後の私の中小企業研究にとっては、大きな意味を持った。例えば、下請代金遅延等防止法が存在するように、日本での下請取引関係では、下請代金の遅払いが大きな問題であった。その議論がされる際、「欧米」では、日本とは異なり契約社会であるから、このような契約に基づかない「遅払い」など存在しないはずだ、という議論が日本の学会では蔓延していた。しかし、実際に英国に滞在し、現地のフィナンシャル・タイムズや経済誌等を見ていると、その遅払いのレベルややり方は別として、契約に従わず代金の支払いを遅らす行為が、実際に ‘Late Payment’ として社会問題化していることが確認された。抽象的な理念型としての建前に基づく議論と、実際に生じている現象とには、大きな差がある可能性が存在することを、そのことを通じて確認した次第である。素直に実態を見、そして自分の目で見た実態を踏まえ、既存の議論を検討し直しながら、自らのものとすることの重要性を、ここでも実感した。
(余談であるが、英国留学の痕跡として、帰国後もFT(Financial Times)をまずは図書館で読み続け、日本で発売されるようになった際には、すぐさま定期購読を申し込んだ。その後、30年近くたつ現在も、定期購読を続けている。自らの日本や中国での実態調査の対象を、別の眼で見るような記事もあり、また日本の経済紙では取り上げない地域・産業の紹介分析もあり、自分の視野を広げる上では、極めて有効な存在である。研究者としての私にとっては、このFT購読の継続が、英国留学の最大の成果といえるかもしれない)