安達祐子『現代ロシア経済 資源・国家・企業統治』
(名古屋大学出版会、2016年) を読んで、考えたこと
本書は、「現代ロシア経済」をメインタイトルとした著作であるが、内容的には、ロシア経済その自体を論じたものではなく、著者がロシア経済の主要な担い手と見做している資源産業を中核とした垂直統合型の巨大企業(民営企業と国有企業の双方を含む)の形成過程と現状について紹介している著作である。この内容であれば、同じ著者が2010年に英文で書いた著作として、上智大学の教員紹介で業績として示されている“Building
big business in Russia:the impact of informal corporate
governance practices”の方が、本書のタイトルとして適切であろう。
それゆえ、本書を読んでの第1の感想は、何故、英文と同様な日本語タイトルを日本語版につけなかったのであろうか、ということである。日本語版も、著者によれば、2005年に提出された学位論文をベースにしており、まずは、「英語では博士論文を元にした著書と論文を発表し」、その後、日本語での単著について、「10年間の新たな動きをとらえ、改めて執筆作業を行うことにした」(あとがき、p.402)ということである。すなわち、基本的な対象と考え方は、英語版の単著と日本語版の単著は、博士学位論文に基づいているということでは同じものであると推測される。にもかかわらず大きな差異のあるタイトルをつけているのは、なぜであろうか。
それゆえ、「ロシア経済論」、ロシアの現代経済を論じている著作のつもりで、本書を購入した私にとっては、当初、極めて違和感を感じながら読むことになった。結果的に、現代ロシア経済の主要なプレイヤーの成り立ちとその現状についての叙述は興味深いものであり、それらについてある程度理解することができた。さらに、主要なプレイヤーの成り立ちと現状が示唆する点として、ロシア経済の現状への理解が多少深まった。しかしながら、それ以上の収穫、私自身が本書を読むにあたって、最も期待していたロシア経済のダイナミズムの理解に関しては、示唆以上の収穫はほとんどなかった。
1 ロシア経済のダイナミズムへの示唆として把握できた点
(1) 暗示的であるが、現代ロシア経済を主導する産業企業は、基本的に資源依存の垂直的統合企業でありそうなことである。さらには、それとの関連で、関連機械工業等も生き残っていると思われること、これが私にとっては極めて興味深い本書からの示唆である。ソ連時代の工業から直接引き継いだはずの機械工業企業群について、自立的に発展する主体としては、本書では全く提示されていない。資源型の大企業の得るレントのおこぼれにあずかること、すなわち安い原材料とあえて高く品質的な難点があっても購入してくれる販売先市場を保証されることで、初めて生き残っていると思われることが示唆されている。
すなわち本書では「石油・ガス産業が生み出すレントが防衛産業をはじめとする機械製造業を支えている」(p.317)とされ、具体的には、「資源生産者は、資材の供給価格を市場価格より低くして機械製造業者に供給する。あるいは製造業者に対し、割高に注文を出してその支払いをする」(p.318)ということであるとしている。前者だけであれば、ロシア機械工業企業の競争上の有利となるだけともいえるが、後者があれば、激しい競争にさらされず安定した市場を保証されることになり、ロシア機械工業製造業者にとって国際競争力を持つ意欲を低下させることになる。資源巨大企業の垂直的な統合に組み込まれることで、機械工業関連企業も生き残れることができているが、それらの企業は、統合内の企業と事実上なり、競争にさらされず、独自に発展する可能性を持ちにくいものとなることを示唆する議論ということができよう。
ただし、機械工業企業その自体について、代表的企業を介しての形成と現状についての紹介はなく、一部乗用車メーカー、アフトヴァズが主要な8つの民間企業グループの1つとしてあげられている(p.35)。しかしながら、アフトヴァスその自体は、生産企業としてはルノー日産グループが過半数を握る合弁企業の子会社として存在しているので、自立したロシア系機械工業大企業としての存在は疑わしいこととなる。同時に、同社では、極く最近、スウェーデン人のCEOが、従業員とサプライヤ企業群の本格的リストラを目指した結果、政府と齟齬を来し、CEOをやめざるを得なかったことが報道されている。事実上、外資系企業となり、ロシア側は少数持ち株になっていても、政府の介入等により、事実上、企業の論理を貫徹できないということは、ソ連時代の市場競争上の負の遺産を背負っているロシア系の機械工業大企業が、国際競争力を持つメーカーになる可能性はほとんど皆無であることを、示唆しているともいえそうである。
私が中国の自転車産業を通して見てきた、新興民営企業との市場競争下での、旧国有巨大製造業企業の企業の論理を貫徹する企業へのそれなりの変身とは、余りにも異なる姿である。これでは、たとえ生き残っているとしても、国際市場での競争に耐えうる製造業企業にはなりようが無い。
(2) オルガルヒや成功している巨大国有企業として本書に取り上げられている企業は、アルミ製錬企業を除いて、いずれもロシアで豊富な天然資源を独占している企業か、あるいは独占に成功した企業である。アルミ製錬企業だけは、アルミナを海外依存しており、ソ連解体時には、西側のアルミ地金扱い企業からアルミナの供給を受けるアルミニウム製錬加工だけを受託する企業として生き残ったことが紹介されている。ただし、アルミニウム製錬企業が西側からの受託加工に成功したのは、アルミ製錬について特に技術的に優れていたわけではないと思われる。本書では何故アルミニウム製錬だけの受託生産にロシア企業が成功したのか、その理由について全く触れられていないが、賃金が特別安いわけでもなく、アルミナとアルミニウムの国外からの搬入や国外への搬出コストがかかるにもかかわらず、海外からの受託生産に成功し、加工企業として生き残れたのは、ある意味安価な資源を利用できたからといえよう。
すなわち、アルミナからアルミニウムに製錬する時に最も重要な点は、安価な電力を豊富に利用可能なことである。日本について言えば、それなりのアルミ製錬技術があり、国内にアルミ製品市場がかなりの大きさで存在しながら、1970年代以降アルミ製錬工場は、次々と閉鎖され、現在では国内には1工場も残っていない。これは電力料金の問題で、安価な水力発電等による電力を利用できるカナダ等のアルミ製錬工場との競争に打ち勝てなかったことによる。
それゆえ、そもそも、安価な電力資源に恵まれていなければ、西側の企業がロシアの企業に委託生産を行う理由は、全くないといえよう。原料アルミナと生産品アルミニウムの金属塊の運搬をわざわざ国外からロシア内の委託先工場まで往復させる理由は、安い電力が利用できるという決定的な要素がなければ、全く考えられないことである。
このように見てくると、本書から示唆されることは、ロシアに豊富な天然資源に依存する企業は、生き残り、垂直的統合型の巨大企業となりえたということである。同時に、旧ソ連には存在した多様な技術的にはある意味で高度であったはずの多数の機械工業企業をはじめとした多くの製造業企業は、自立的には存続しえなかった、ないしは主体的な大企業として再編し、存立を維持することはできなかった、ということになろう。
2 本書の議論に内在した上で、ロシア経済の主要なプレイヤーについて理解されたこととについての疑問点
(1) 本書の中で描かれるロシアの新規形成された巨大企業は、それ崩壊のドサクサの中で、既存国有企業の民営化を契機に、フォーマルなルールを恣意的に活用し、ロシアに豊富な資源を独占することで優位に立った企業群と言える。あるいは、国有企業が同様に、フォーマルなルールを恣意的に利用し、強固な垂直型企業となった姿である。
本書の特徴は、この点を著者が、英文著作のサブタイトルにもあるように、ファーマルなルールを恣意的に利用して巨大企業を構築したというにとどまらず、それをインフォーマルなルールの利用により実現したとしているところである。英文著作のサブタイトルでは「practices」であるが、日本語としては「不文律」(p.43等)という言葉を使っており、明らかに暗黙のルールの存在、そのルールに従うことで、巨大企業を一挙に構築したと主張していると思われる。
フォーマルなルール、特に株式会社についての新規に形成された法を無視し、あるいはそれを恣意的に運用し、それぞれの巨大企業でそれぞれの場合に応じて一定の勢力が権力闘争の中で勝利した、あるいはそのような慣行がある、ということであれば、本書はその過程を極めてわかりやすく読者に伝え、ロシアの巨大企業の成り立ちとその後の存在形態を納得的に紹介している著作である。その意味で、興味深い著作であると感じた。
しかし、著者はそこにとどまらず、主導権を握っている株主が、株主総会を開催する場所の変更を恣意的に行い、少数株主が物理的に参加不可能にしてしまうような例も挙げながら、それをインフォーマルなルールの適用、不文律の利用としている。ここに大きな疑問を感じた。インフォーマルなルール、あるいは不文律は、ルールの恣意的な運用ではない。ある社会の構成員に共有されている文章化されていない暗黙の「ルール」である。その意味でルールが存在し、それを守ることがその社会では重要である。そのルールを破るものは、その社会なりに罰せられることになる。
しかしながら、本書で示されているロシアの巨大企業の形成過程は、そのような意味でのルールのもとでの行動ではない。多くはフォーマルなルールの恣意的な運用や無視である。多数派がフォーマルなルールを恣意的に運用しても良いというのが、インフォーマルなルール、不文律であると著者は見ているように思われる。しかしながら、それはある意味その社会のあり方とはいえるであろう。その意味で「慣行」という日本語を使うことまでは許容可能かもしれない。しかし、それは、決して、不文律、暗黙のうちにその社会の構成員として守るべきルールとは言えないのではないか。
しかし、本書では「ロシアで展開されるインフォーマルな慣習や行動」(p.48)と「法律の恣意的利用、選択的適用」(p.48)とが、同じものと扱われている。さらに、終章では、「ロシア社会に埋め込まれた「インフォーマリティ・非公式性」や「不文律・見えない掟」」(p.359)という形で、慣行であるとともに不文律としている。
不文律とするよりも、フォーマルなルールの恣意的な運用が、多数派に認められるような社会のあり方を、ロシアのオルガルヒや国有企業は利用し、巨大企業を一挙に構築した、とすべきではないかと、私には思われる。
(2) 本書は、法の恣意的な適用が巨大企業の形成を可能にした、ということを、豊富な資料を利用して適切に表現している。その上で、これがロシア経済のあり方にどのように関わるというのであろうか。巨大企業自体が形成され存在することそれ自体の意味ではなく、法が恣意的適用により形成されたことのロシア経済にとっての意味である。これをいわなければ、「現代ロシア経済」についての著作とはならないであろう。単なる現代ロシア史の一側面、企業形成史というべき著作となる。しかし、残念ながら、本書には、その巨大企業の形成史が持つロシア経済のダイナミズムへの含意が明示されていない。
すなわち、ロシアの経済では、「法の適用が選択的」であり、制度の「脆弱性の原因」(p.360)となっている、と指摘し、「ビジネス環境の安定性が損なわれてしまう」(p.364)とするに留まっており、そのことがロシア経済の再生産にとって、どのように作用しているかについてまでは議論を展開していない。
『現代ロシア経済』というタイトルを付ける著作としては、是非、この点が欲しかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿