猪俣哲史『グローバル・バリューチェーン 新・南北問題へのまなざし』
日本経済新聞社、2019年 を読んで
渡辺幸男
本書の目次
はじめに
第1章 GVCとは何か
第2章 GVC誕生秘話 東アジアの統合された多様性
第3章 怒れる米国、かわす中国 GVCをめぐる超大国のロジック・ゲーム
第4章 付加価値から見た世界経済
第5章 価値は世界をどうめぐっているか 付加価値貿易の計測方法
第6章 技術革新と経済発展
第7章 GVCパラダイム 新・新・新貿易論?
第8章 新・南北問題の解決へ向けて 政策への含意
終章 第4次産業革命におけるGVC
日経8月24日25ページの「この一冊」で取り上げられていた著作である。私が、本書の中で興味深く感じた議論は、グローバルな取引関係を、財・サービスそのものについての輸出入額で把握するのではなく、それらを付加価値ベースで分析していることであった。近年、フラグメンテーションが進展し、完成品を生産し輸出する国民経済が、その製品に関する企画設計開発から生産販売に至る主要な業務内容を国内で行うとは限らない状況が生まれている。財によっては、スマートフォンのように企画設計し販売している企業の存立する国民経済とは全く異なる国民経済で、当該国にとっての外資系受託企業である多国籍企業的EMSにより、グローバルに部品が集められ、グローバルに産業機械が調達され、組立てられ、企画開発した企業によって、最終製品として世界中に販売されている。このような状況を把握するためには、財とサービスの輸出入を業種や製品ごとに見ただけでは、十分ではない。グローバルな分業状況、特に当該製品を巡って、どの国民経済が最も受益者として多くを得るのかは掴めない。その意味でも、付加価値ベースでの輸出入把握をすることは、グローバルな取引関係を把握するために不可欠かつ重要な手続き1つであるといえよう。
この点で、本書の著者が目指すものは、製品の輸出入額だけで国際分業関係を把握し、貿易の高度化が進展しているとするような研究者が存在する中で、重要な意味を持つものといえる。
ただ、本書に注目し購入した私の理由は、グローバル・バリュー・チェーン(以下、GVCと略す)の現状を付加価値ベースで把握すること自体ではなかった。GVCが展開する中で、GVCのそれぞれの機能の一端を担う国民経済が、特に本書でも言われているスマイルカーブの底辺を機能的に担う国民経済が、GVCを通して産業発展を果たすことができるのかどうか、あるいはどのような産業発展を、その他の条件がどのようであったら果たすのかを、知りたいためであった。
本書でも語られているように、かつての国際分業は、最終製品をめぐっての分業であった。しかし、現代のインフラ整備のもとでの国際分業は、特に量産型の耐久消費財的な機械類については、バリューチェーンの特定部分を、ある国民経済がその独自の立地条件により担う、ということが一般的となっている。そのことが当該国民経済、特に発展途上国での産業発展にとって持つ意味についての議論を知りたかったのである。本書の副題は「新・南北問題へのまなざし」となっており、まさに、それに注目する著作と理解したがゆえの購入であった。
しかし、一通り目を通して感じた印象は、私が求めていたことに正面から答える著作というより、GVCの進展のもとで、付加価値ベースの取引で国際取引を捉え直したら、どうなるか、それをめぐる議論が中心であった。また、GVCの展開が本書のいう「開発途上国」にとって持つ意味は、インフラ整備のもとで、先端的産業の一部の機能を担うだけで、その一翼を担うことになり、当該産業の他の部分へと接近しやすい環境が形成されるというものであった。開発途上国は、先端産業を含むGVCの最も低賃金労働集約的な部分にまずは参入し、そこからより高度な部分へと展開していくことで、より高度な産業部分を自らのものとすることができる、という発想の著作であった。それを、中国での先行事例を通して確認できる、という考えの著作でもあった。
ただ、最後の章では、近年の技術革新を通して、デジタル・ディバイドにより、「低開発国へと逆戻り」(本書、250ページ)する開発途上国も生まれることもありうるとしている。
本書で述べられる、GVC環境のもとでの開発途上国への産業発展政策への含意は、以下のようになる。かつては「開発途上国」にとって「「工業化」といえば、地場産業を生産工程の上流から下流までくまなく取りそろえることで」(本書、206ページ)あった。今日では「開発途上国でもGVCに参加すれば、自国の技術レベルや要素賦存状況に見合った「特別な場所」をサプライチェーンの中に見出し、そこに注力することで、スマートフォンや液晶テレビのような高付加価値製品を世界標準で作ることができる」(本書、207ページ)としている。「開発途上国にとって、もはや日本や韓国のようなフルセット型の産業振興は必要なく、むしろ、GVCに参画するための国内条件をどれだけ整えることができるかが経済発展へのカギとなる」(本書、207ページ)と述べている。ここから法制度を含めたようなインフラの重要性が指摘される。(なお、上記の文章で、日本と対比した時、韓国の産業発展が当初の政策意図はともかく、結果的に先端産業化した部分が日本とともに括れるようなフルセット型であったかどうか、この点については、私はかなり疑問に感じるのであるが、今、ここでの主たる問題ではないので、疑問点であるとだけ指摘しておく(1))
ここで本書の著者が強調していることは、GVCの形成により、インフラ整備ができた開発途上国は、GVCの一部に参画することで、高付加価値工業製品の生産をトータルに実現することなく、その一端を担うことができる、ということである。ここまでは私にも理解可能かつ納得的なことである。しかし、本書にとって、さらに重要なのは、「開発途上国にとって、技術集約的な生産ネットワークに参加することが学習効果を通じてサプライチェーン高度化へのカギとなる」(本書、210ページ)とされていることである。GVCとサプライチェーンを同義語とすれば、高付加価値工業製品の生産のどこか一翼を担うこと自体で、そこから自国内で一部のみを担当している高付加価値製品生産の中の、その時点では自国には立地していない、より高度な生産工程ないしは機能部分へとシフトすることが可能になる、ということを主張していることになる。この点については、私には理解不可能あるいは非納得的である。
インフラ整備がなされた開発途上国が、低賃金労働力が豊富だという特徴を持てば、確かにGVCの一部に組み入れられる可能性は高まるであろう。しかし、私が理解できないのは、そのことが、即、より高度な工程等への進出を当該国の生産単位にとって可能にするにつながるという理解である。「学習効果を通じて」そうなるという認識のようだが、例えば、外資系EMSが進出して作られたスマートフォンの組立工場の現地労働者が、現地中間管理者層を含め、スマートフォンの部材の生産に乗り出すことが学習効果として存在しうるのか、ましてやスマートフォンの企画開発を学習できるのか、そのようなことが、組立工場の進出から直接的に生じるとは私には思えない。現地資本系のEMS企業の形成が可能かどうかも、私には疑問と思われる。ましてや、それまで自国内に存在しなかった他の工程や機能等に現地労働者が進出できる根拠は、一部工程の現地生産化によってのみでは生まれようがない、というのが私の理解である。
本書の著者は、中国でのメディアテックやその後のクアルコムの半導体をプラットフォームにした携帯電話やスマートフォンの現地企業による生産進出を、このような学習効果の結果としてみているようである(例えば、第6章でのメディアテックへの言及「プラットフォーム・リーダーという突然変異体」)。これ自体は、深圳での電子製品の生産をめぐる地元民営企業群からなる産業集積の形成と中国国内市場の低価格部分の開発余地の存在、これらにより生じえた現象である。例えば、携帯電話の外資系EMSが深圳に進出し、そこから現地労働者にとっての企画開発についての学習効果が生まれ、携帯電話の開発企業群が形成された、というような話ではない。少なくとも私の理解している限りでは。外資系EMSによる組立工場進出は、あくまでも組立工程のみである。しかも、外資系の鴻海精密工業のような企業の中国進出のような場合であれば、EMSの業務自体に関しても、あくまでも組立現場作業に限定されるような分工場形態での進出ということになり、工場立地の現地では経営戦略を含めたような企業経営は存在しようがない。
このような部分的な生産単位の進出が、「学習効果を通じて」、他のより高度な工程や機能等への現地での進出へとつながる、ということのためには、単に当該国にGVCの一部が進出した、という以上の内容の確認が必要不可欠である。分工場の進出は、あくまでも分工場の進出であり、当該立地の優位性が失われれば、より優位な立地を求めて、他の地域や国へと分工場の立地は移動し、現地には現場作業員とよくて中間管理職だけが残されることになる。このことは、日本国内での京浜地域の機械工業企業の東北地方への分工場進出と、その後の海外生産化の過程で明らかになった点でもある。
もちろん、現地企業が下請企業としてGVCの一端を担うのであれば、それはそれで多少意味が異なることになる。しかし、GVC一般を議論する場合に、そこからの学習効果で、より高度な工程等に進出可能というのは、完全に論理が飛躍している。特に、高度化を担うはずの担い手の現地の企業と企業経営者の存在についての議論と、それらがどのような状況で新たな分野、工程等に進出しようとするのか、またそれらが実現可能な条件は何かという点の検討が欠落している。
また、たとえ、企業経営者が潜在的に存在しても、それらの経営者がいかにして新たな工程についての知識とそれを持った技能者・技術者を確保することができるのか等、そこから先の話は、幾つもの関門を乗り越えて、初めて可能となることと言える。なぜ、簡単に「学習効果を通じて」より高度な工程や機能へと進出できると言えるのであろうか。誰がどこから学習するのかを示さなければ、GVCの当該現場で学習されるのは、当該製品の例えば組立工程での作業とその管理だけであり、より高度な工程や機能をも学習できるという主張については、全く理解できない。
私が中国で行った自転車産業調査をもとに、中国での独自産業発展の論理を簡単にまとめれば、以下のようになる。中国での自転車産業でも日系や台湾系の完成車メーカーが低賃金労働力の活用を求め、華東や華南地域に合弁ないしは子会社の形で工場進出している。さらに主要な自転車部品に関しても、同様に中国進出を多数している。しかし、世界最大の自転車生産を2000年代に担った企業群は、これらの外資系企業やその直接的な影響で生まれたサプライヤー企業ではなかった。市場の変化に対応できなかった国有巨大企業(規模では1990年代世界最大の生産台数を誇っていたのは中国国有の3大自転車メーカーであった)でもなく、巨大国有企業が蓄積した自転車生産技術と技術者・技能者を活用した新興の中国系民営企業群であった。それらの企業が、中国国内で安価だが既存巨大国有企業によって充足されない内容の大規模需要が生じた際に、そのニーズにあった自転車を開発し供給したことで、世界最大の自転車市場である中国市場を席巻し、それをもとに、海外からの受託生産にも乗り出し、輸出企業としても、層として世界の低価格自転車需要の大部分を獲得するに至る大成功を実現した。
もちろん、この過程で、中国系新興企業は、計画経済期からの国有大企業の遺産を使うだけではなく、進出外資系自転車関連企業がもたらした多様なノウハウ等も吸収している。そのことを踏まえることで、海外市場での成功も実現している。しかし、ここで強調したいことは、中国での中国系新興企業自転車メーカーの世界的な成功は、先進工業国の自転車メーカー、例えば日系、台湾系あるいは米国系の完成車メーカーのGVCの中のスマイルカーブに中国で組立が組み込まれ、そこで学習したことによって、あるいは学習した人々を中心にして生み出されたのではないということである。新たに中国国内に形成された需要を開拓した新規創業起業家に経営される新興企業群が、計画経済期以来中国内に蓄積されてきた経営資源を活用し、中国市場で低価格品生産企業群として市場を開拓形成したことが出発点なのである。
この中国自転車産業の事例でも示唆されるように、中国での産業発展を、中国がGVCの中のスマイルカーブで言えば底辺部分を構成する部分に組み込まれたことを契機に生じた、と見る本書の考えに大いなる疑問を感じざるを得ない。中国には数多くの来料加工工場が形成されたこと、この来料加工工場群は、外資主導の組立工場であり、実質的に外資企業の分工場であるといえ、GVCに組み込まれることで形成された外資に管理された工場群である。しかし、同時に、自転車産業で指摘したように、中国の改革開放後の産業発展は、このGVCの一翼を担うことから始まったのではない。GVCの外側に形成された、中国国内市場の新たな動きを開拓する新興企業、それを担う起業家、そしてそれらが活用できた安価な技術者や技能者層の存在こそが、中国の産業発展にとっては重要であった。
もちろん、中国経済が拡大再生産を遂げるためには、来料加工等を通しての外貨獲得も非常に重要な意味を持っている。また、来料加工を通して先端的産業製品を確認できたこと、その部材や生産技術を知ったことは、極めて大きな影響を与えている。しかし、そのことと、産業発展の担い手の形成とは別の話である。このような考えると、本書のように、中国の例を持って、先端工業製品についてのGVCの一翼を、たとえスマイルカーブの底辺部分であっても、担うことで、そこから先端工業製品の本格的生産に、学習効果を通じて到達可能である、ということを言うことはできないのである。
以上から、本書の著者が、中国がGVCの中のスマイルカーブの底辺に位置付けられる機能を大きく担う存在であったことと、中国が本格的に産業発展を実現しつつあり、先端工業分野でも中国系企業の存在が大きくなってきていることとを結びつけ、GVCの一端を担うことが、当該国民経済の本格的産業化への道を切り開くと考えていることに、疑問を呈さざるを得ない。このようなことを主張するためには、具体的にGVCの一翼を担うことから当該産業全体を担う主体を自国内に形成した事例を、開発途上国についてに紹介する必要があろう。その上で、その事例が何故、産業発展へとつながり得たのか、分析して示すことが不可欠であろう。スマートフォンの事例は、私にはそのような事例とは思われない。
本書の著者の発想は、そもそも、GVCの中の先端製品分野で見た時、1990年代以降、スマイルカーブの底辺部分をもっぱら担っていたと見られる中国経済そして中国立地企業・工場群が、スマートフォンに見られるように、先端工業製品で先進工業国企業に対し対等に競争可能な中国系有力企業を生み出した、という事実から始まっているのではないか。そのように見ることで、GVCの底辺であっても、その一端に参入すれば、そこから広げて先端製品の担い手になれるという理解をし、それが現在の米中対立の出発点であると見たことに始まるのではないか。中国経済それ自体の状況、先端工業製品での中国系企業の形成発展の論理、特にその発展にとっての中国市場の意味を十分検討することなく、単線的に上記の事実を結びつけた結果として、先端工業製品のGVCへの一部参入イコール先端工業製品本格的生産メーカーへの道、と理解したのではないか。本書は、私には、このようにも理解された。
注
(1)一言付言すれば、現下の日本政府による韓国のホワイト国からの除外が、韓国で大騒ぎをされている所以は、韓国の先端的な産業の主要輸出産業(企業)がもっぱら日系企業の日本工場での素材生産にも大きく依存している事実を示している。このこと1つで韓国がフルセット型の産業振興を本格的に実行した、あるいは、日本のように実現できたわけではないことが明白になる。この点、2019年8月29日付の日経での深川由紀子氏の「冷え込む日韓関係(中) 成長戦略に双方位置付けを」(28ページ)と題した記事が参考になる。そこでは「日本に追いつく目標として手っ取り早く構造転換を進めようとするほど、技術の内在する資本財や部品・素材などの中間財を(日本の企業に−引用者)依存することになった」と指摘している。政策意図としては「フルセット型」を念頭に置いていたとしても、急速なキャッチアップのためには日系企業への部材等についての依存は不可欠であり、かつ、それによってこそ、サムスンの半導体のように急速なキャッチアップが可能となった。そして、今もその結果が効いている、ということを示唆している。
さらに、日本の戦後高度成長期に目指された生産体制は、「フルセット型」であっただけではなく「国内完結型」でもあったと言える。すなわち、すべての工業製品を部材から完成品まで国内で生産可能という「フルセット型」であることを目指した、あるいは目指さざるを得なかっただけではない。それ以上に、すべての工業製品の部材も海外からの輸入に依存しない、という意味での「国内完結型生産体制」を目指していて、一定程度実現したと言える。それが、現在量産型の機械工業製品の多くの生産が海外展開しても、部材や産業機械の主要部分は日本国内に立地した工場で生産され、国内外に販売されていることに反映している。これが、、量産完成品の輸出がかつてより極めて限定的になった現在でも、貿易黒字がほぼ維持できている理由とも言える。(渡辺幸男『日本機械工業の社会的分業構造』有斐閣、1997年を参照)
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