梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』
を読んで、考えたこと
渡辺幸男
目次
はじめに
第1章 中国はユートピアか、ディストピアか
第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか
第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」
第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか
第5章 現代中国における「公」と「私」
第6章 幸福な監視国家のゆくえ
第7章 道具的合理性が暴走するとき
おわりに
本書の「おわりに」によれば、「第1章と第5〜7章を梶谷」氏が、「第2〜4章を高口」氏が「主に執筆」(同書、246ページ)したということである。梶谷氏が提案し、中国の現状に詳しいフリージャーナリストの高口氏が、中国でのテクノロジー変化の実態を紹介し、理論的な分析を神戸大学で中国経済を研究する梶谷氏が担い、出来上がった著作ということである。
本書の基本的姿勢を示す部分は、第6章の1つの節「道具的合理性とメタ合理性」(同書、181ページ)にあるといえよう。中国の「管理社会」化を、民主化されていない中国ゆえの問題とせずに、現代技術の発展方向の下での、現代社会共通の動きとして把握し、その先鋭な姿を中国に見ている著作と言える。個別の問題や目的を解決し達成するという意味での「道具的合理性」が、AI等を通して追求され、便利なある意味で安心な行儀の良い世界が実現する。しかし、そこは、「目的自体の妥当性への判断を下す、より広い意味での合理性」である「メタ合理性」(同書、182ページ)との齟齬が生じることがある。
個別の参加者にとって、便利な社会、安心な社会の追求が「道具的合理性」の追求となり、そのような追求が相互に対立するときに、それを社会として解決するより高次な合理性が、「メタ合理性」と考えられている。単純に個別の道具的合理性の足し算で功利性の多寡を評価するのではなく、社会としてあるべき姿を社会的に追求する中で、各自の功利性を最大化する道の模索であるともいうこともできよう。中国では、このより高次な合理性が、共産党独裁の下、党中央そしてそのトップの判断に委ねられ、それゆえに、各地の地方政府の判断に不服を持つ人々が、上級政府そして中央政府に「上訴」するということが生じている、と本書は把握している。これを儒教的な「徳」による判断・解決とも結びつけ、議論している。
法の下、法の範囲内での道具的合理性の追求、そしてその法を多様な利害関係者の間での共存の追求を可能とするものとしての「メタ合理性」が、時代の変化とともに社会構成員の合意によって修正され追求されるというのが近代社会であるとする。そして、それとの対比をしながら、中国の共産党支配下でのAI化の進行の特徴づけを行なっている。この道具的合理性における相反する際の利害の調整機構が異なるだけで、道具的合理性の追求の自由そのものとそこでのAIの活用については、中国と米欧との差異はない、ということであろう。
このように見るということは、中国も米欧も、ともに経済的には競争的な資本主義社会であり、そこにAIの急激な発展が生じ、経済のあり方が大きく変わりつつある、という理解でもあろう。それゆえ、GAFAが米国で生まれたのに対し、中国でもBAHTが形成され、それぞれが現代技術のもとで、プラットフォーマーとして地位を確立した存在が、先端的な技術分野での支配的な存在となってきている。このように見ているともいえよう。
現代の中国でも現代の米欧でもないが、しかし、多くの人々が道具的合理性を追求可能な今の日本の社会に生きる我々としては、このような技術進歩を踏まえ、どのようにメタ合理性を形成し、実現していくことが必要なのか、あるいは可能なのか、問うているのが、本書であるともいえよう。これを、日本に住む私として、どう見るか、これがこの小論で考えたいことである。
私、渡辺幸男が、経済学という社会科学の研究者として、現代資本主義社会を受容せざるを得ないと考えた理由は、現代資本主義下での競争により産業社会のダイナミックな技術発展の可能性が大であり、これに対抗できるような社会システムを私なりに構想することができなかったことにある。本書がいう「道具的合理性」の追求が可能であるということは、各自が功利的に自らの効用を最大化することを目指し活動し、そのような行動を競争が媒介することで、競争の結果という外的な論理に基づくある意味で「正当」な報酬として、あるいは機会均等のもとでの正当な結果として成果を獲得できる、ということを意味しよう。裁定をする高次な判断力を持つ機関や人間を想定することなく、これが可能となるのが、近代市民社会のもとでの資本主義であろう。これの最後の部分が、中国では異なり、中央政府とそのトップの判断という機関や人が最終的に「合理性」を調整し決めるということになろう。
しかし、何れにしても、競争の強制下で最後まで外的に、メタ合理性のもとにあるとしてもメタ合理性の枠組みのもとにある市場によって外的に規定されるか、もめた時には「お上」が裁定を下す形で結末がつけられるかの違いであり、自らが自らを、社会の一構成員として参加することで、社会的に決めることにはならない。メタ合理性の枠組みの下にある市場であっても、そこでは人間行動に対して直接的に影響するのは市場競争での外的な強制であり、これこそが全てである。市場競争の場のルール、土俵がメタ合理性によって規定されるだけである。人間同士の関係が、市場で特定の指標、多くは財サービスの内容として外化され、それぞれに価格がつけられ、そのような外的存在としての人間労働の共同生産物である財サービスが存在する。だからこそ、ダイナミックな発展が可能となる。しかし、決めるのは市場である。競争に強制され、その下での再生産が強制される。
そして、競争の強制がうまく機能することで、イノベーションが生み出され、産業の発展や生産性の上昇が生み出される。同時に、その発展は、既存の蓄積された熟練技能等の意味を削減し、破壊することも生み出す。形成時には必要とされ、個別の人間によって担われ培われた技能や技術、習熟し蓄積された社会的に意味あるものだったもの、それらが必要に応じて破壊されうることで、資本主義社会の発展は生じることが可能となる。それが生じない資本主義社会、競争の強制が無い「独占」の支配する社会は、資本主義の可能性を否定する。しかし、有効なダイナミックに発展する資本主義社会は、常に創造的破壊という、個々の人間の習熟の意味をも破壊する内容を多くの場合持つことになる。ラストベルトの常なる形成可能性の存在である。
このようなラストベルトの常なる形成を、発展のために人間社会として受け入れるべきであろうか。一部の人間について、無用化されたがかつては不可欠とされた技能や技術の習熟を重ねてきたゆえに、人間社会のダイナミックな発展のためには、その人間存在としての歴史が無価値化されて良いのであろうか。私は本来このような状況を受け入れるべきではないと考える。が、しかし、代替案、それに打ち勝つ案が見えない。
個別の人間が社会の必要な一員として担ってきた機能、そのために特定化され蓄積された技能や技術を、状況が変わったからといって、一方的に破壊する、あるいは破壊することが許される、破壊された本人も含めこれを素直に受け入れる、これが健全な資本主義のあるべき姿であろう。もちろん、破壊された個人の集合体は、社会によって社会保障という形で生活を保障されることになる。これが、現代社会の築いたメタ合理性である。しかし、個々の人間の熟練技能者や技術者としての尊厳は否定されることも事実である。それゆえ、何らかのラストベルトの形成は、健全な資本主義が存在していることの証とも言える。人間社会の「発展」のために、個々の人間が自らの責任ではなく、その社会のために蓄積形成してきた存在意味それ自体を破壊される。これが資本主義社会である。健全な資本主義そのものなのである。これを受け入れなければ、それぞれの経済社会は、グローバル競争の中で生き残れない。当該社会全体が、旧ソ連を中心とした東欧圏のようにラストベルトになるだけである。トランプ大統領は、その行動はドン・キホーテが風車に向かうごとくであるが、一面、このような健全な資本主義への懐疑の中で生まれた鬼っ子なのかもしれない。
やはり、資本主義社会は、メタ合理性を持ち得たとしても、根本的にみれば反人間的である。同時に、競争的であれば、中国がそうであるように、メタ合理性形成の仕組みを持たなくとも、創造的破壊を実行し、ダイナミックに発展することができる社会である。個々の人間が資本主義社会の発展のために蓄積したものを破壊し、人間そのものをも破壊しながら、ダイナミックに発展する。このように考えると、メタ合理性の追求は、この資本主義社会の持つ業病に対する緩和ケアのための模索を可能にするものと位置付けられるのかもしれない。
この資本主義下での産業発展論を肯定的に議論してきたのが、産業論研究者としての私である。歴史上、人類が発明した最も効率的な産業発展の仕組みは、資本主義的競争社会である。その社会は同時に、まともにその社会の産業の発展のために貢献してきた人々の一定割合について、その蓄積の意味を破壊し、存在価値を否定する非人間的な内容を持つ社会でもある。
このような発想を、産業発展論の研究を進める過程で、いつしか封印してきた。マルクス経済学を学ぶ学徒として、マルクス経済学は、資本主義社会の持つダイナミックな発展可能性を論理的に示し、同時にその発展の持つ非人間社会的内容を指摘し、資本主義社会での産業発展とともにその社会の止揚を構想した経済学である、とかつて考えていた。しかし、その後の研究者としての私は、前半の論理の実態的な分析・理解と、その非人間性の確認までは、私なりに行うことができたが、止揚への展望を一切持ち得なかった。それゆえ、いつしか、この止揚の追究、さらには問題性の指摘までもを、研究内容から完全に除外するに至った。その点についての自覚が、本書を読むことで蘇ってきた。
創造的破壊の一環として、個々の人間の社会的存在意義そのものをも新たな社会の創造過程で破壊する資本主義社会、その社会をどうしたら止揚できるのか、今の私にはわからない。しかし、グローバルに開かれた経済社会を前提とする限り、資本主義的な競争を行うことが、当該社会が生き残る可能性を最も高め、個別的な道具的合理性の総和を最大にする道であることも事実であろう。人間たちの各経済社会は、創造的破壊を通して行き着くところまで行くしかない、それが資本主義社会というダイナミックな創造的破壊の箱を開いてしまった人間社会の宿命なのか。
その道具的合理性の追求の行き着く先が、地球温暖化、海水面の上昇、人類の居住地の多くの水没として、近い将来に、多くの人類経済社会の存立危機をもたらすのであろうか。
あるいは、監視社会となることで、競争的資本主義の持つ多様な創造的破壊の可能性それ自体に、大きな枠をはめてしまい、道具的合理性を自由に追求する競争的な資本主義が持っていた有効性の発揮を不可能にしてしまうのか。
こんなことを、本書を読み終えて、考えた。何れにしても、本書は私にとって刺激的な著作であった。
参考文献
梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』NHK出版新書、2019年
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