現代インドの産業発展そして経済発展をどう考えるべきか
渡辺幸男
現代インドの産業発展そして経済発展を、どう見たら良いのか、そもそもどのような内容の産業発展なのか、これらを知りたくて、白水社からここ数年に出版された3冊を読んだ。
出版年の順に並べれば、2017年出版の笠井亮平『モディが変えるインド 台頭するアジア巨大国家の「静かな革命」』、2018年出版の貫洞欣寛『沸騰インド 超大国を目指す巨象と日本』、2019年出版の田中洋二郎『新インド入門 生活と統計からのアプローチ』の3冊である。まず読んだのは、8月31日の日本経済新聞で紹介された田中著『新インド入門』である。その本を通して同じ白水社から現代インドを紹介する近年の著作が出版されていることを知り、早速購入した。そして上記とは逆に、出版年が新しい著作から順に読んだ形になった。
なお、現代インドの産業発展についての議論としては、この3冊で物足りなかったこともあり、以前に読んだ絵所氏の論文と柳澤氏の著書についての、ブログ未発表の私なりのコメントを、補論1、2として掲載した。
各著作の目次は以下の通りである。
田中洋二郎『新インド入門』
はじめに
第一章 巨象という虚像
第二章 アナザー・インドへ
第三章 忘れられた日本人
第四章 文化交流の現場
おわりに
貫洞欣寛『沸騰インド』
はじめに
第1章 日印関係の今
第2章 モディとは何者か
第3章 変わるインド外交
第4章 教育−「英語・IT大国」の実像
第5章 分断社会の今
終章 日印関係とインドの将来
笠井亮平『モディが変えるインド』
プロローグ − 立ち上がる巨象
第1章 躍動する「世界最大の民主主義」
第2章 変わりゆく経済と社会
第3章 「同盟」と「非同盟」のあいだ
第4章 南アジア・インド洋をめぐる印中「新グレート・ゲーム」
第5章 「インド太平洋」時代の日本とインド
エピローグ − 二〇四七年のインド
3冊を通して言えることは、現代インドの発展を語っているはずなのだが、目次からも推察されるように、インド経済の発展の論理や経済発展を担う産業のあり方という点についての言及は少ない、というか、ほとんど無いと言える。産業発展の分析についての紹介もない。3冊の中で、参考文献として掲載され2010年代に出版されたインド産業や経済の展開それ自体を議論した日本語の著作は、ざっと見た限り、柳澤悠『現代インド経済−発展の淵源・軌跡・展望』(名古屋大学出版会、2014年)1冊であった。絵所秀紀氏の『離陸したインド経済』は2008年のミネルヴァ書房出版であり、これは柳澤氏の著作に比して出版が少し早く2000年代だが、参考文献の中で経済そのものを議論しているもう1冊であった。
私が読んだこれら3冊は、いずれも、モディ政権下での産業展開に基づく経済発展するインドを取り上げているのだが、そこでの発展のダイナミズムの内実についての議論は、この参考文献の状況から分かるように、ほとんど議論されていない。カーストの現在や公教育の問題等、興味深いインド社会の論点のまともな紹介もあり、それはそれで興味深い著作であった。しかし、「沸騰する」インドの紹介のはずだが、政治的な「沸騰」については紹介しても、産業的そして経済的な「沸騰」の内容については、ほとんど分析がないどころか紹介もないと言える。
その中で、多少なりとも経済改革がらみでの言及があるのは、モディ現首相のグジャラート州の州首相時代の政策であろう。例えば、笠井著の第2章では「グジャラート−経済改革の申し子」とのタイトルで、州首相としてのモディ氏の実績を紹介している。2001年に州首相に就任したモディ氏は、経済振興のための「内外から大々的な投資を誘致するべく」努力し、他の州での立地で行き詰まっていたタタのナノの製造工場を誘致することに成功し、「電力改革を進め」「12年までに州内でほぼ完全な電化を実現し、余剰電力をほかの州に売却するところまできた」(笠井、66〜69ページ)ということを紹介している。ただ、残念ながら、ここでも何故当時のモディ州首相は成功し、他の州首相は成功しないのか、あるいはしようとしないのか、分析は全くない。モディ氏がその実績から中央政府の首相に選ばれているのであるから、多くの国民によりその実績は高く評価されているはずなのにである。
何れにしても、電化という経済・産業発展の前提条件とも言える事項での成功が目立ち、それが功績として積極的に紹介されている。このことは、逆にみれば、インドの産業発展そして経済発展のインフラ的条件が、依然としてかなり厳しいということを示唆しているともいえよう。例えば、インドの統計上は電化されている村(住宅地域に送電線や配電盤が設置される、公共施設に電気が通じている、村の世帯の10%に電気が届いている、これらが電化していることの定義(貫洞、152ページ))であるとしても、定義からして、どの世帯にも電気が通っていると必ずしも言えず、しかも、インドでは電力不足のため停電が常態化しているという指摘もある(例えば、「電気が来ている農村部でも、・・・一日二〜三時間の送電にとどま」(貫洞、152ページ)ることもある、とされている)。
このようなインフラ未整備の状況が、モディ首相の経済政策や産業振興政策に、どのように影響してくるのか、知りたいところであるが、ここから先については実態の紹介もない。一方で、日系企業を含めた外資誘致の話は、いずれの著作でも取り上げられ、そのための努力が紹介されている。例えば、笠井著では「メイク・イン・インディア」という節が設けられ、外資のインド製造業への進出が紹介されている(笠井、69〜73ページ)。そこでは、外資誘致の状況が紹介されているが、関連産業として地場の企業の存在、その具体的な形成等について言及されることはない。
インドも中国同様に、戦後間も無く国内での乗用車生産等を開始し、一通りの製造業を国内に、自国系企業を中心に構築した。国際競争力はほとんど存在しない企業群であったが、近代工業そのもののは存在していた。この点では、中国等の計画経済と同様な成果を上げている、と私は認識している(補論1で、インド自転車産業についての論文についての紹介的コメントを掲載した。これはその根拠でもある)。ただ、これらが、中国流に言えば改革開放後に、どのように変化したのか。これが見えてこない。中国では、外資の進出だけではなく、地場の新規創業企業が多数形成され、計画経済下に蓄積された近代工業に馴染んだ人材と産業機械、これを活用し、国内市場を新たに開拓し、急拡大し、それが外資による製造業拡大とともに、中国の産業発展を支えた。インドではどうなのであろうか。
この点について、貫洞著の参考文献に掲載されている柳澤悠『現代インド経済』(補論2で私なりにその内容を紹介)は、地場企業の発展の一部について、インフォーマルセクターとしての発展とその限界という形で、インドの状況を紹介しているのだが、残念ながら貫洞著では、このような点については、全く言及されていない。私にとっては、中国の経験を見てきたことから、インドの地場の新規創業企業の形成状況と、それとインドなりの「計画経済」期の工業化努力の成果とが、どのようにつながるのか、つながらないのか、大きな関心事なのだが、この点についての議論は貫洞著でも完全に欠落している。外資のインド進出、インドの場合は、単に低賃金労働力の確保のみではなく、現地市場の確保に向けての進出と言えるものが多いと考えられるが、それと現地の企業の対応、それが見えない。さらに、現地の企業にとって大きな意味を持ち得ると中国の経験から想像される、インドなりの計画経済期の工業基盤の形成の成果との関連も見えない。
補論1として、それに対する私のコメントを紹介する絵所氏の論文では、まさに、この計画経済期以来のインドの自転車産業の状況が紹介されている。日本以上の大きさの自転車国内市場がインドには存在し、部材から国内完結型で国内生産する能力、企業群が存在していながら、国際競争力のある自転車産業の育成には失敗している、というのがインド自転車産業の現状についての絵所氏なりの見立てである。その上で、その理由をどう考えるかで、私自身は絵所氏の議論に対し、疑問を呈した。ただ、私にも、絵所氏の考えを正面から批判することのできるだけの、実証的な根拠は全くない。今、私が一番欲しいのは、インドの産業をどう見るか、個別産業の研究で良いから、インド産業の現状分析をしている、柳澤氏や絵所氏のそれのような研究書であり研究論文、そしてそこでの実態についてより一層つっこんだ内容紹介とその内容の展開の論理についての分析の著作である。できれば、日本語で書いたそれ、ということになる。
アジア経済研究所のスタッフが中心となって行っている実態調査諸研究を常に意識しているが、中国やASEAN諸国の産業発展についての研究には、このような意味で興味深いものが多く見られる。このブログでも、いくつかをすでに紹介した。しかし、ざっと見た限りではあるが、南アジアについての研究では、私の上記のような関心に対応する研究成果を発見できなかった。今、まさにインドが中国に続いてどうなるか、特にその産業の発展が、巨大な国内市場を生かして、独自な発展を遂げるのかどうか、最も重要な時期に至っているはずだが、まだ、中国研究で出会ったような日本語での研究成果に出会っていない。私の不勉強のせいである可能性も高いが。
補論1
絵所秀紀、2018年「国際価値連鎖とインドの自転車産業 」* を読んで
絵所秀紀「国際価値連鎖とインドの自転車産業 」では、結論部分で、インドの自転車産業は、「国際市場から孤立した閉鎖的な国内市場で生き延びているPGVC型(1)(プロデューサー・ドリブン・グローバル・バリュー・チェーン型−引用者)の産業である。ここでは依然として,「組立メーカー=ブランド所有企業」が主導企業であり,コーディネーターとしての役割を果たしている。」(同書、58ページ)と述べている。その結果として、「インド製自転車部品は「安価」でもないし,「品質」ですぐれていることもない。高関税と「自転車無料配布プログラム」という形をとった州政府補助金に守られて,かろうじて生き延びている状態である。日本や台湾や中国でみられたような自転車産業の革新は,インドでは見られない。」(同書、58ページ)とする。
このような指摘は妥当であろうか。これが本論文を読んでの、第一の疑問であった。何故、日本市場より大きな1千万台以上の国内市場があり、輸入規制が機能し、自国資本企業に自国市場が提供されていながら、しかも、自国内に自転車を部材から生産できる技術、生産基盤産業がありながら、自転車産業の高度化、先進工業へのキャッチアップ、あるいはインド独自の自生的な産業発展が生じないのであろうか。これが、本論文を読んでの率直な感想であり疑問である。この点について、「何故なのか」のツッコミが、この絵所氏の論文には存在しないことに、違和感を感じた。その疑問ないしは違和感に対する回答への示唆は、上記の結論部分の叙述自体にあるような気がする。
本論文の筆者、絵所氏にとっては、海外からの直接的競争こそ、あるいは海外の生産体制の価値連鎖の中への組み込みこそ、当該国で産業発展が生じる理由である、ということであろうか。だからこそ、閉鎖的な市場のインドでは、1千万台という日本市場以上規模の市場があっても、自立的な産業発展が生じないと、言いたいのであろうか。
しかしながら、自転車産業や他産業の各国での発展を見ていくならば、この認識は、妥当しないと言える。例えば、もっともこの認識と齟齬する事実は、日本の戦後の自動車産業の発展であろう。技術は海外から導入したが、基本的に海外企業との競争から隔離された国内市場向け生産のもとで自国系企業間の競争を通して、トヨタ生産方式に代表されるような独自な高品質を低価格で実現しうる生産体系を構築し、1980年代には、米欧市場への進出を実現した。この際に重要だったのは、国内企業群が先進技術を使っても規模の経済性を十分発揮しながら競争的状況になるような、十分な大きさの市場の存在である。
同様に日本の自転車産業も、基本的に国内市場での競争を通して発展し、その結果として、米国市場への進出を、一時的には果たすことができた。閉鎖的な国内市場ゆえの産業停滞、という論理は、その他の環境条件によって、成立する場合としない場合が共存していると見るべきであろう。そして、絵所氏の論文では、この国内市場に向けての国内企業の存立状況が、競争論の視点からは、ほとんど議論されていない。ここに、絵所氏の論文の議論の大きな特徴がある。
すなわち、インド自転車産業では、中核的な技術を保持する大企業が完成車組立メーカーとして存在している。つまり、流通資本としての機能さらには販売にかかわる企業経営がほとんど存在しなかった、かつての中国国有企業と異なり、これらが流通を支配し、寡占的市場支配を早期から実現している。ここから、まずは、中国との差異が生じている。結果は、中国で改革開放後の市場変化過程で生じた市場の変化を先取りするような激しい完成車メーカー間の競争の欠落となる。この点を解明するため、裏付けるためには、競争の実態についての紹介分析が不可欠であるが、ここで絵所氏の論文の議論は止まっている。この絵所氏の論文は、インド自転車産業論「序説」の位置付けなのであろうか。
絵所氏は、どのような業態の企業等が製品の生産を主導しているか、を主要な問題としている。しかも、既存の議論における諸分類を当てはめてみることで、その形態を確認しようとしている。しかし、インドの自転車産業の発展のあり方を考える上での主要な論点はそこではなく、国内市場を巡って、市場の変化に対応、ないしは市場の変化を主導するような企業間競争があるかどうか、そしてその競争が何を巡ってのどのような競争なのであるか、そして、その際の主体は誰なのか、という論点にあるのではないか。それがなければ、どのような業態の企業が産業を牛耳っているとしても、ダイナミックな発展は生じない。また、既存の他国の諸形態についての分類を当てはめて、インドの状況を整理しても、インドの自転車産業そのものの産業形態とそこでの競争のあり方は見えてこない。
各産業や製品分野で主導する業態における差異が生じるのは、当該製品及びその生産のための体制を構築する際における中核的かつ主導的な存在が、価値連鎖のどこに位置しているかによって決まることによる。このように私は考える。しかし、このような主導的存在がどこに位置するかそれ自体は、ダイナミックな産業発展が生じるかどうか、どのような産業発展方向が選択されるかとは、直接的には関係ない。この存在は、産業発展が起こるとしたら、誰が主導するかを決めるものと見ることができよう。主導する主体が、積極的に産業発展を担うような競争環境になければ、既存の寡占体制での超過利潤を安定的に享受するような存在であれば、そこからは、その関係を破壊するような産業発展は生じようがない。
このように考えるならば、単なる想像ではあるが、インドの自転車市場は、市場規模としては巨大だが、早期寡占的市場支配の下にあり、競争を通して市場の変化に対応する主体を生み出したり、あるいは市場の変化を生み出す主体を形成したりする可能性に乏しい市場である、と見えてくる。これでは、携帯電話の二の舞が、自転車でも生じる、ということになろう。そうであれば、既存のインド系自転車産業企業にとっては、部品メーカーも含めて、いかにして海外企業の進出を阻止するか、これ以外生き残る道はない、とも言える。
このようなインドの自転車市場の状況では、低価格普及品の自転車については、完成車輸入を自由化しなくとも、中国系部品の輸入と中国系企業の進出を認めれば、中国系一色になることが予想される。スマホでのサムスンと小米によるインド市場制覇と同様に、自転車ではジャイアントと富士逹等の中国メーカーによるインド市場制覇という展開が生じる可能性を暗示している。
*本論文については、中国自転車産業についての共同研究者であった慶應義塾大学駒形哲哉教授により、昨年、紹介され、その存在を知った。大変興味深く読み、私なりのコメントを書いたが、ブログ等に発表するに至らなかった。現代インドについての紹介文献を読み、その存在の重要性、ないしは有効性を感じ、改めて補論1として紹介することにした。
本論文を紹介していただいた駒形教授に感謝の意を表したい。
注(1)「ジェフェリーは国際価値連鎖(GVC)を2つの類型に大別した。プロデューサー・ドリブン(producer-driven GVC:PGVC)型とバイヤー・ドリブン(buyer-driven GVC: BGVC)型 」(絵所、9ページ)と、絵所氏は紹介している。
参考文献
絵所秀紀、2018年「国際価値連鎖とインドの自転車産業 」
『経済志林』86巻2号
補論2
柳澤悠『現代インド経済−発展の淵源・軌跡・展望』を読んで
本書は、著者である柳澤氏が自ら調査を行った事例を含め、多数の文献を渉猟することで、インド経済の独立以前からのダイナミズムを、農村の下層・貧困層のあり方を軸に解明した著作であり、インド経済発展論としては大変興味深く、かつ納得的に展開することに成功した著作である。
私の問題関心でもある中小企業を中心とした産業発展研究の視点から本書を見た時、特に注目すべき点は、インド経済の本格的発展が、独立後の農業生産性の上昇、緑の革命によるその加速の中で、農村の下層労働者層を出自とする都市−農村インフォーマル部門経済生活圏が形成され、それが自立的に発展することで、生じたという主張である。農村下層の労働者が多少なりとも消費者として市場に登場する中で、その需要は農村出自の小零細企業による疑似ブランド品やサービスにより充足された、というのが著者の主張である。このような発展を、独立以前から2000年代まで、論理一貫した形で説明している。
またそのための裏付けは、事例研究や統計的なものも含め、著者自身の研究と既存の多数の研究を渉猟することで、きちんと行われている。実証性の極めて高い研究でもある。
さらに、インド経済の成長をインフォーマル部門の自立的発展から説明する議論を、私がまったく知らなかったこともあり、本著の議論はきわめて斬新なものと感じられた。少なくとも日本の中小企業研究者にとって、このような議論は新たな視点からインドの中小企業研究を可能とするものといえるであろう。それゆえ、近年のインド経済の発展を独自な視点から解明した著作として、創造性をも持った著作ともいえそうである。
同時に、中小企業を軸とした産業発展研究としての意義と限界も存在する。著作として、インド経済を考えるうえで、大変興味深く、それもきちんと実証を行っていることもあり、それ自体としては説得的な研究である。そのため、丁寧にノートを取りながらじっくり読み込み、多くを学ぶことができた。その上で、中小企業を軸とする産業発展研究としてどのように評価できるかについて、以下で述べたい。
中小企業を軸とする産業発展研究の視点から評価する際、本書の大きな特徴は、「都市−農村インフォーマル部門経済生活圏」という概念で著者が展開している、下層社会内での循環とそれをもととした自立的発展の姿を描いたことにある。下層民が賃金労働者化し、一定の消費需要を層として形成し拡大するというだけではなく、同時に都市や農村の自営業者、零細工場や露店・屋台といった工業生産と流通そしてサービス産業をになう自営業者層を同時に形成し、これらが下層民向けの疑似ブランド品やサービスを生産提供し、それを下層民は専ら消費するという関係にあるということを明らかにしている。その上で、その独自な市場を軸に、出自を同じにする小零細企業との循環を通して、下層社会としての自立的な経済発展が生じ、それがインド経済の独立後の発展の大きな動力になっていることを解明していることである。
その議論は、独自な「二重構造論」ともいうべき議論であり、階層化された市場の下層が層として巨大化し、それへの供給者としての小零細企業層の発展ともつながり、その循環がインドの経済発展をもたらしたとする、まさにある種の中小企業を担い手として独自な発展がインド経済の発展をもたらしているという議論ということができ、中小企業を軸とした産業発展研究として高く評価できるものである。
しかしながら、本書の終りに近い部分で、新興大企業がフォーマル部門で形成され、それが消費者層としてのインフォーマル部門の耐久消費財需要を自らのものとして急速に発展していることが分析されていながら、このようなフォーマル部門によるインフォーマル部門市場の層として巨大な需要の取り込みが、インフォーマル部門の生産者にとって、どのような意味を持っているかについての実証的な研究の紹介、あるいはそれへの言及もない。インフォーマル部門の消費者のそれなりの水準向上、すなわち市場での需要者の質的変化と、インフォーマル部門の小零細企業群での競争の存在とが影響しあえば、インフォーマル部門の生産者群にも変化が生じることは確実であると思われるが、その点についての言及はない。あるのは階層としての下層民の再生産、階層的上昇の限定性についての実証研究の紹介である。
自立的な生活圏として生産者も組み込んだ発展を議論し、それゆえ中小企業を軸とした産業発展研究として高く評価し得る側面を持つ著作となっているが、肝心な近年における変化についてと今後について言及する中で、その層の分析が欠落している。これは、著者の関心が、階層的な貧困層の再生産にあり、インフォーマル部門としての小零細企業とそれが構成する産業それ自体の展開、発展には無いことによると思われるが、中小企業を軸とする産業発展研究として評価する視点からは、きわめて残念なことである。
参考文献
柳澤悠『現代インド経済−発展の淵源・軌跡・展望』(名古屋大学出版会、2014年)
お詫び 補論2で扱った柳澤氏の名前を間違えて記憶しており、そのままアップしてしまいました。中小企業研究の仲間であった三井逸友氏から誤りの旨の指摘を受けました。指摘くださった三井氏に感謝し、柳澤氏のお名前を正しい「悠」に修正した上で、お詫びを付記することにしました。
故柳澤悠氏、同時に同氏は私の教員時代の同僚であった柳澤遊氏の兄上でもあります。お二入に心よりお詫びいたします。
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