2019年9月29日日曜日

9月29日 小論 梶谷・高口『幸福な監視国家・中国』を読んで

梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』
                を読んで、考えたこと
 渡辺幸男

目次
はじめに
第1章      中国はユートピアか、ディストピアか
第2章      中国IT企業はいかにデータを支配したか
第3章      中国に出現した「お行儀のいい社会」
第4章      民主化の熱はなぜ消えたのか
第5章      現代中国における「公」と「私」
第6章      幸福な監視国家のゆくえ
第7章      道具的合理性が暴走するとき
おわりに

 本書の「おわりに」によれば、「第1章と第5〜7章を梶谷」氏が、「第2〜4章を高口」氏が「主に執筆」(同書、246ページ)したということである。梶谷氏が提案し、中国の現状に詳しいフリージャーナリストの高口氏が、中国でのテクノロジー変化の実態を紹介し、理論的な分析を神戸大学で中国経済を研究する梶谷氏が担い、出来上がった著作ということである。
本書の基本的姿勢を示す部分は、第6章の1つの節「道具的合理性とメタ合理性」(同書、181ページ)にあるといえよう。中国の「管理社会」化を、民主化されていない中国ゆえの問題とせずに、現代技術の発展方向の下での、現代社会共通の動きとして把握し、その先鋭な姿を中国に見ている著作と言える。個別の問題や目的を解決し達成するという意味での「道具的合理性」が、AI等を通して追求され、便利なある意味で安心な行儀の良い世界が実現する。しかし、そこは、「目的自体の妥当性への判断を下す、より広い意味での合理性」である「メタ合理性」(同書、182ページ)との齟齬が生じることがある。
 個別の参加者にとって、便利な社会、安心な社会の追求が「道具的合理性」の追求となり、そのような追求が相互に対立するときに、それを社会として解決するより高次な合理性が、「メタ合理性」と考えられている。単純に個別の道具的合理性の足し算で功利性の多寡を評価するのではなく、社会としてあるべき姿を社会的に追求する中で、各自の功利性を最大化する道の模索であるともいうこともできよう。中国では、このより高次な合理性が、共産党独裁の下、党中央そしてそのトップの判断に委ねられ、それゆえに、各地の地方政府の判断に不服を持つ人々が、上級政府そして中央政府に「上訴」するということが生じている、と本書は把握している。これを儒教的な「徳」による判断・解決とも結びつけ、議論している。
 法の下、法の範囲内での道具的合理性の追求、そしてその法を多様な利害関係者の間での共存の追求を可能とするものとしての「メタ合理性」が、時代の変化とともに社会構成員の合意によって修正され追求されるというのが近代社会であるとする。そして、それとの対比をしながら、中国の共産党支配下でのAI化の進行の特徴づけを行なっている。この道具的合理性における相反する際の利害の調整機構が異なるだけで、道具的合理性の追求の自由そのものとそこでのAIの活用については、中国と米欧との差異はない、ということであろう。
 このように見るということは、中国も米欧も、ともに経済的には競争的な資本主義社会であり、そこにAIの急激な発展が生じ、経済のあり方が大きく変わりつつある、という理解でもあろう。それゆえ、GAFAが米国で生まれたのに対し、中国でもBAHTが形成され、それぞれが現代技術のもとで、プラットフォーマーとして地位を確立した存在が、先端的な技術分野での支配的な存在となってきている。このように見ているともいえよう。
 現代の中国でも現代の米欧でもないが、しかし、多くの人々が道具的合理性を追求可能な今の日本の社会に生きる我々としては、このような技術進歩を踏まえ、どのようにメタ合理性を形成し、実現していくことが必要なのか、あるいは可能なのか、問うているのが、本書であるともいえよう。これを、日本に住む私として、どう見るか、これがこの小論で考えたいことである。

 私、渡辺幸男が、経済学という社会科学の研究者として、現代資本主義社会を受容せざるを得ないと考えた理由は、現代資本主義下での競争により産業社会のダイナミックな技術発展の可能性が大であり、これに対抗できるような社会システムを私なりに構想することができなかったことにある。本書がいう「道具的合理性」の追求が可能であるということは、各自が功利的に自らの効用を最大化することを目指し活動し、そのような行動を競争が媒介することで、競争の結果という外的な論理に基づくある意味で「正当」な報酬として、あるいは機会均等のもとでの正当な結果として成果を獲得できる、ということを意味しよう。裁定をする高次な判断力を持つ機関や人間を想定することなく、これが可能となるのが、近代市民社会のもとでの資本主義であろう。これの最後の部分が、中国では異なり、中央政府とそのトップの判断という機関や人が最終的に「合理性」を調整し決めるということになろう。
 しかし、何れにしても、競争の強制下で最後まで外的に、メタ合理性のもとにあるとしてもメタ合理性の枠組みのもとにある市場によって外的に規定されるか、もめた時には「お上」が裁定を下す形で結末がつけられるかの違いであり、自らが自らを、社会の一構成員として参加することで、社会的に決めることにはならない。メタ合理性の枠組みの下にある市場であっても、そこでは人間行動に対して直接的に影響するのは市場競争での外的な強制であり、これこそが全てである。市場競争の場のルール、土俵がメタ合理性によって規定されるだけである。人間同士の関係が、市場で特定の指標、多くは財サービスの内容として外化され、それぞれに価格がつけられ、そのような外的存在としての人間労働の共同生産物である財サービスが存在する。だからこそ、ダイナミックな発展が可能となる。しかし、決めるのは市場である。競争に強制され、その下での再生産が強制される。
 そして、競争の強制がうまく機能することで、イノベーションが生み出され、産業の発展や生産性の上昇が生み出される。同時に、その発展は、既存の蓄積された熟練技能等の意味を削減し、破壊することも生み出す。形成時には必要とされ、個別の人間によって担われ培われた技能や技術、習熟し蓄積された社会的に意味あるものだったもの、それらが必要に応じて破壊されうることで、資本主義社会の発展は生じることが可能となる。それが生じない資本主義社会、競争の強制が無い「独占」の支配する社会は、資本主義の可能性を否定する。しかし、有効なダイナミックに発展する資本主義社会は、常に創造的破壊という、個々の人間の習熟の意味をも破壊する内容を多くの場合持つことになる。ラストベルトの常なる形成可能性の存在である。
 このようなラストベルトの常なる形成を、発展のために人間社会として受け入れるべきであろうか。一部の人間について、無用化されたがかつては不可欠とされた技能や技術の習熟を重ねてきたゆえに、人間社会のダイナミックな発展のためには、その人間存在としての歴史が無価値化されて良いのであろうか。私は本来このような状況を受け入れるべきではないと考える。が、しかし、代替案、それに打ち勝つ案が見えない。
個別の人間が社会の必要な一員として担ってきた機能、そのために特定化され蓄積された技能や技術を、状況が変わったからといって、一方的に破壊する、あるいは破壊することが許される、破壊された本人も含めこれを素直に受け入れる、これが健全な資本主義のあるべき姿であろう。もちろん、破壊された個人の集合体は、社会によって社会保障という形で生活を保障されることになる。これが、現代社会の築いたメタ合理性である。しかし、個々の人間の熟練技能者や技術者としての尊厳は否定されることも事実である。それゆえ、何らかのラストベルトの形成は、健全な資本主義が存在していることの証とも言える。人間社会の「発展」のために、個々の人間が自らの責任ではなく、その社会のために蓄積形成してきた存在意味それ自体を破壊される。これが資本主義社会である。健全な資本主義そのものなのである。これを受け入れなければ、それぞれの経済社会は、グローバル競争の中で生き残れない。当該社会全体が、旧ソ連を中心とした東欧圏のようにラストベルトになるだけである。トランプ大統領は、その行動はドン・キホーテが風車に向かうごとくであるが、一面、このような健全な資本主義への懐疑の中で生まれた鬼っ子なのかもしれない。
やはり、資本主義社会は、メタ合理性を持ち得たとしても、根本的にみれば反人間的である。同時に、競争的であれば、中国がそうであるように、メタ合理性形成の仕組みを持たなくとも、創造的破壊を実行し、ダイナミックに発展することができる社会である。個々の人間が資本主義社会の発展のために蓄積したものを破壊し、人間そのものをも破壊しながら、ダイナミックに発展する。このように考えると、メタ合理性の追求は、この資本主義社会の持つ業病に対する緩和ケアのための模索を可能にするものと位置付けられるのかもしれない。

この資本主義下での産業発展論を肯定的に議論してきたのが、産業論研究者としての私である。歴史上、人類が発明した最も効率的な産業発展の仕組みは、資本主義的競争社会である。その社会は同時に、まともにその社会の産業の発展のために貢献してきた人々の一定割合について、その蓄積の意味を破壊し、存在価値を否定する非人間的な内容を持つ社会でもある。
このような発想を、産業発展論の研究を進める過程で、いつしか封印してきた。マルクス経済学を学ぶ学徒として、マルクス経済学は、資本主義社会の持つダイナミックな発展可能性を論理的に示し、同時にその発展の持つ非人間社会的内容を指摘し、資本主義社会での産業発展とともにその社会の止揚を構想した経済学である、とかつて考えていた。しかし、その後の研究者としての私は、前半の論理の実態的な分析・理解と、その非人間性の確認までは、私なりに行うことができたが、止揚への展望を一切持ち得なかった。それゆえ、いつしか、この止揚の追究、さらには問題性の指摘までもを、研究内容から完全に除外するに至った。その点についての自覚が、本書を読むことで蘇ってきた。
創造的破壊の一環として、個々の人間の社会的存在意義そのものをも新たな社会の創造過程で破壊する資本主義社会、その社会をどうしたら止揚できるのか、今の私にはわからない。しかし、グローバルに開かれた経済社会を前提とする限り、資本主義的な競争を行うことが、当該社会が生き残る可能性を最も高め、個別的な道具的合理性の総和を最大にする道であることも事実であろう。人間たちの各経済社会は、創造的破壊を通して行き着くところまで行くしかない、それが資本主義社会というダイナミックな創造的破壊の箱を開いてしまった人間社会の宿命なのか。
その道具的合理性の追求の行き着く先が、地球温暖化、海水面の上昇、人類の居住地の多くの水没として、近い将来に、多くの人類経済社会の存立危機をもたらすのであろうか。
あるいは、監視社会となることで、競争的資本主義の持つ多様な創造的破壊の可能性それ自体に、大きな枠をはめてしまい、道具的合理性を自由に追求する競争的な資本主義が持っていた有効性の発揮を不可能にしてしまうのか。
こんなことを、本書を読み終えて、考えた。何れにしても、本書は私にとって刺激的な著作であった。

参考文献

梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』NHK出版新書、2019

2019年9月17日火曜日

9月17日 小論 現代インドの産業発展をどう考えるべきか

現代インドの産業発展そして経済発展をどう考えるべきか
渡辺幸男

 現代インドの産業発展そして経済発展を、どう見たら良いのか、そもそもどのような内容の産業発展なのか、これらを知りたくて、白水社からここ数年に出版された3冊を読んだ。
 出版年の順に並べれば、2017年出版の笠井亮平『モディが変えるインド 台頭するアジア巨大国家の「静かな革命」』、2018年出版の貫洞欣寛『沸騰インド 超大国を目指す巨象と日本』、2019年出版の田中洋二郎『新インド入門 生活と統計からのアプローチ』の3冊である。まず読んだのは、831日の日本経済新聞で紹介された田中著『新インド入門』である。その本を通して同じ白水社から現代インドを紹介する近年の著作が出版されていることを知り、早速購入した。そして上記とは逆に、出版年が新しい著作から順に読んだ形になった。
 なお、現代インドの産業発展についての議論としては、この3冊で物足りなかったこともあり、以前に読んだ絵所氏の論文と柳澤氏の著書についての、ブログ未発表の私なりのコメントを、補論1、2として掲載した。

 各著作の目次は以下の通りである。
田中洋二郎『新インド入門』
 はじめに
第一章     巨象という虚像
第二章     アナザー・インドへ
第三章     忘れられた日本人
第四章     文化交流の現場
おわりに

貫洞欣寛『沸騰インド』
 はじめに
第1章        日印関係の今
第2章        モディとは何者か
第3章        変わるインド外交
第4章        教育−「英語・IT大国」の実像
第5章        分断社会の今
終章  日印関係とインドの将来

笠井亮平『モディが変えるインド』
 プロローグ − 立ち上がる巨象
第1章        躍動する「世界最大の民主主義」
第2章        変わりゆく経済と社会
第3章        「同盟」と「非同盟」のあいだ
第4章        南アジア・インド洋をめぐる印中「新グレート・ゲーム」
第5章        「インド太平洋」時代の日本とインド
エピローグ − 二〇四七年のインド

 3冊を通して言えることは、現代インドの発展を語っているはずなのだが、目次からも推察されるように、インド経済の発展の論理や経済発展を担う産業のあり方という点についての言及は少ない、というか、ほとんど無いと言える。産業発展の分析についての紹介もない。3冊の中で、参考文献として掲載され2010年代に出版されたインド産業や経済の展開それ自体を議論した日本語の著作は、ざっと見た限り、柳澤悠『現代インド経済−発展の淵源・軌跡・展望』(名古屋大学出版会、2014年)1冊であった。絵所秀紀氏の『離陸したインド経済』は2008年のミネルヴァ書房出版であり、これは柳澤氏の著作に比して出版が少し早く2000年代だが、参考文献の中で経済そのものを議論しているもう1冊であった。
 私が読んだこれら3冊は、いずれも、モディ政権下での産業展開に基づく経済発展するインドを取り上げているのだが、そこでの発展のダイナミズムの内実についての議論は、この参考文献の状況から分かるように、ほとんど議論されていない。カーストの現在や公教育の問題等、興味深いインド社会の論点のまともな紹介もあり、それはそれで興味深い著作であった。しかし、「沸騰する」インドの紹介のはずだが、政治的な「沸騰」については紹介しても、産業的そして経済的な「沸騰」の内容については、ほとんど分析がないどころか紹介もないと言える。
 その中で、多少なりとも経済改革がらみでの言及があるのは、モディ現首相のグジャラート州の州首相時代の政策であろう。例えば、笠井著の第2章では「グジャラート−経済改革の申し子」とのタイトルで、州首相としてのモディ氏の実績を紹介している。2001年に州首相に就任したモディ氏は、経済振興のための「内外から大々的な投資を誘致するべく」努力し、他の州での立地で行き詰まっていたタタのナノの製造工場を誘致することに成功し、「電力改革を進め」「12年までに州内でほぼ完全な電化を実現し、余剰電力をほかの州に売却するところまできた」(笠井、6669ページ)ということを紹介している。ただ、残念ながら、ここでも何故当時のモディ州首相は成功し、他の州首相は成功しないのか、あるいはしようとしないのか、分析は全くない。モディ氏がその実績から中央政府の首相に選ばれているのであるから、多くの国民によりその実績は高く評価されているはずなのにである。
 何れにしても、電化という経済・産業発展の前提条件とも言える事項での成功が目立ち、それが功績として積極的に紹介されている。このことは、逆にみれば、インドの産業発展そして経済発展のインフラ的条件が、依然としてかなり厳しいということを示唆しているともいえよう。例えば、インドの統計上は電化されている村(住宅地域に送電線や配電盤が設置される、公共施設に電気が通じている、村の世帯の10%に電気が届いている、これらが電化していることの定義(貫洞、152ページ))であるとしても、定義からして、どの世帯にも電気が通っていると必ずしも言えず、しかも、インドでは電力不足のため停電が常態化しているという指摘もある(例えば、「電気が来ている農村部でも、・・・一日二〜三時間の送電にとどま」(貫洞、152ページ)ることもある、とされている)。
 このようなインフラ未整備の状況が、モディ首相の経済政策や産業振興政策に、どのように影響してくるのか、知りたいところであるが、ここから先については実態の紹介もない。一方で、日系企業を含めた外資誘致の話は、いずれの著作でも取り上げられ、そのための努力が紹介されている。例えば、笠井著では「メイク・イン・インディア」という節が設けられ、外資のインド製造業への進出が紹介されている(笠井、6973ページ)。そこでは、外資誘致の状況が紹介されているが、関連産業として地場の企業の存在、その具体的な形成等について言及されることはない。
 インドも中国同様に、戦後間も無く国内での乗用車生産等を開始し、一通りの製造業を国内に、自国系企業を中心に構築した。国際競争力はほとんど存在しない企業群であったが、近代工業そのもののは存在していた。この点では、中国等の計画経済と同様な成果を上げている、と私は認識している(補論1で、インド自転車産業についての論文についての紹介的コメントを掲載した。これはその根拠でもある)。ただ、これらが、中国流に言えば改革開放後に、どのように変化したのか。これが見えてこない。中国では、外資の進出だけではなく、地場の新規創業企業が多数形成され、計画経済下に蓄積された近代工業に馴染んだ人材と産業機械、これを活用し、国内市場を新たに開拓し、急拡大し、それが外資による製造業拡大とともに、中国の産業発展を支えた。インドではどうなのであろうか。
 この点について、貫洞著の参考文献に掲載されている柳澤悠『現代インド経済』(補論2で私なりにその内容を紹介)は、地場企業の発展の一部について、インフォーマルセクターとしての発展とその限界という形で、インドの状況を紹介しているのだが、残念ながら貫洞著では、このような点については、全く言及されていない。私にとっては、中国の経験を見てきたことから、インドの地場の新規創業企業の形成状況と、それとインドなりの「計画経済」期の工業化努力の成果とが、どのようにつながるのか、つながらないのか、大きな関心事なのだが、この点についての議論は貫洞著でも完全に欠落している。外資のインド進出、インドの場合は、単に低賃金労働力の確保のみではなく、現地市場の確保に向けての進出と言えるものが多いと考えられるが、それと現地の企業の対応、それが見えない。さらに、現地の企業にとって大きな意味を持ち得ると中国の経験から想像される、インドなりの計画経済期の工業基盤の形成の成果との関連も見えない。
 補論1として、それに対する私のコメントを紹介する絵所氏の論文では、まさに、この計画経済期以来のインドの自転車産業の状況が紹介されている。日本以上の大きさの自転車国内市場がインドには存在し、部材から国内完結型で国内生産する能力、企業群が存在していながら、国際競争力のある自転車産業の育成には失敗している、というのがインド自転車産業の現状についての絵所氏なりの見立てである。その上で、その理由をどう考えるかで、私自身は絵所氏の議論に対し、疑問を呈した。ただ、私にも、絵所氏の考えを正面から批判することのできるだけの、実証的な根拠は全くない。今、私が一番欲しいのは、インドの産業をどう見るか、個別産業の研究で良いから、インド産業の現状分析をしている、柳澤氏や絵所氏のそれのような研究書であり研究論文、そしてそこでの実態についてより一層つっこんだ内容紹介とその内容の展開の論理についての分析の著作である。できれば、日本語で書いたそれ、ということになる。
 アジア経済研究所のスタッフが中心となって行っている実態調査諸研究を常に意識しているが、中国やASEAN諸国の産業発展についての研究には、このような意味で興味深いものが多く見られる。このブログでも、いくつかをすでに紹介した。しかし、ざっと見た限りではあるが、南アジアについての研究では、私の上記のような関心に対応する研究成果を発見できなかった。今、まさにインドが中国に続いてどうなるか、特にその産業の発展が、巨大な国内市場を生かして、独自な発展を遂げるのかどうか、最も重要な時期に至っているはずだが、まだ、中国研究で出会ったような日本語での研究成果に出会っていない。私の不勉強のせいである可能性も高いが。
 
補論1
絵所秀紀、2018年「国際価値連鎖とインドの自転車産業 」*  を読んで
絵所秀紀「国際価値連鎖とインドの自転車産業 」では、結論部分で、インドの自転車産業は、「国際市場から孤立した閉鎖的な国内市場で生き延びているPGVC(1)(プロデューサー・ドリブン・グローバル・バリュー・チェーン型−引用者)の産業である。ここでは依然として,「組立メーカー=ブランド所有企業」が主導企業であり,コーディネーターとしての役割を果たしている。」(同書、58ページ)と述べている。その結果として、「インド製自転車部品は「安価」でもないし,「品質」ですぐれていることもない。高関税と「自転車無料配布プログラム」という形をとった州政府補助金に守られて,かろうじて生き延びている状態である。日本や台湾や中国でみられたような自転車産業の革新は,インドでは見られない。」(同書、58ページ)とする。
 このような指摘は妥当であろうか。これが本論文を読んでの、第一の疑問であった。何故、日本市場より大きな1千万台以上の国内市場があり、輸入規制が機能し、自国資本企業に自国市場が提供されていながら、しかも、自国内に自転車を部材から生産できる技術、生産基盤産業がありながら、自転車産業の高度化、先進工業へのキャッチアップ、あるいはインド独自の自生的な産業発展が生じないのであろうか。これが、本論文を読んでの率直な感想であり疑問である。この点について、「何故なのか」のツッコミが、この絵所氏の論文には存在しないことに、違和感を感じた。その疑問ないしは違和感に対する回答への示唆は、上記の結論部分の叙述自体にあるような気がする。
 本論文の筆者、絵所氏にとっては、海外からの直接的競争こそ、あるいは海外の生産体制の価値連鎖の中への組み込みこそ、当該国で産業発展が生じる理由である、ということであろうか。だからこそ、閉鎖的な市場のインドでは、1千万台という日本市場以上規模の市場があっても、自立的な産業発展が生じないと、言いたいのであろうか。
 しかしながら、自転車産業や他産業の各国での発展を見ていくならば、この認識は、妥当しないと言える。例えば、もっともこの認識と齟齬する事実は、日本の戦後の自動車産業の発展であろう。技術は海外から導入したが、基本的に海外企業との競争から隔離された国内市場向け生産のもとで自国系企業間の競争を通して、トヨタ生産方式に代表されるような独自な高品質を低価格で実現しうる生産体系を構築し、1980年代には、米欧市場への進出を実現した。この際に重要だったのは、国内企業群が先進技術を使っても規模の経済性を十分発揮しながら競争的状況になるような、十分な大きさの市場の存在である。
同様に日本の自転車産業も、基本的に国内市場での競争を通して発展し、その結果として、米国市場への進出を、一時的には果たすことができた。閉鎖的な国内市場ゆえの産業停滞、という論理は、その他の環境条件によって、成立する場合としない場合が共存していると見るべきであろう。そして、絵所氏の論文では、この国内市場に向けての国内企業の存立状況が、競争論の視点からは、ほとんど議論されていない。ここに、絵所氏の論文の議論の大きな特徴がある。
 すなわち、インド自転車産業では、中核的な技術を保持する大企業が完成車組立メーカーとして存在している。つまり、流通資本としての機能さらには販売にかかわる企業経営がほとんど存在しなかった、かつての中国国有企業と異なり、これらが流通を支配し、寡占的市場支配を早期から実現している。ここから、まずは、中国との差異が生じている。結果は、中国で改革開放後の市場変化過程で生じた市場の変化を先取りするような激しい完成車メーカー間の競争の欠落となる。この点を解明するため、裏付けるためには、競争の実態についての紹介分析が不可欠であるが、ここで絵所氏の論文の議論は止まっている。この絵所氏の論文は、インド自転車産業論「序説」の位置付けなのであろうか。
 絵所氏は、どのような業態の企業等が製品の生産を主導しているか、を主要な問題としている。しかも、既存の議論における諸分類を当てはめてみることで、その形態を確認しようとしている。しかし、インドの自転車産業の発展のあり方を考える上での主要な論点はそこではなく、国内市場を巡って、市場の変化に対応、ないしは市場の変化を主導するような企業間競争があるかどうか、そしてその競争が何を巡ってのどのような競争なのであるか、そして、その際の主体は誰なのか、という論点にあるのではないか。それがなければ、どのような業態の企業が産業を牛耳っているとしても、ダイナミックな発展は生じない。また、既存の他国の諸形態についての分類を当てはめて、インドの状況を整理しても、インドの自転車産業そのものの産業形態とそこでの競争のあり方は見えてこない。
 各産業や製品分野で主導する業態における差異が生じるのは、当該製品及びその生産のための体制を構築する際における中核的かつ主導的な存在が、価値連鎖のどこに位置しているかによって決まることによる。このように私は考える。しかし、このような主導的存在がどこに位置するかそれ自体は、ダイナミックな産業発展が生じるかどうか、どのような産業発展方向が選択されるかとは、直接的には関係ない。この存在は、産業発展が起こるとしたら、誰が主導するかを決めるものと見ることができよう。主導する主体が、積極的に産業発展を担うような競争環境になければ、既存の寡占体制での超過利潤を安定的に享受するような存在であれば、そこからは、その関係を破壊するような産業発展は生じようがない。
 このように考えるならば、単なる想像ではあるが、インドの自転車市場は、市場規模としては巨大だが、早期寡占的市場支配の下にあり、競争を通して市場の変化に対応する主体を生み出したり、あるいは市場の変化を生み出す主体を形成したりする可能性に乏しい市場である、と見えてくる。これでは、携帯電話の二の舞が、自転車でも生じる、ということになろう。そうであれば、既存のインド系自転車産業企業にとっては、部品メーカーも含めて、いかにして海外企業の進出を阻止するか、これ以外生き残る道はない、とも言える。
このようなインドの自転車市場の状況では、低価格普及品の自転車については、完成車輸入を自由化しなくとも、中国系部品の輸入と中国系企業の進出を認めれば、中国系一色になることが予想される。スマホでのサムスンと小米によるインド市場制覇と同様に、自転車ではジャイアントと富士逹等の中国メーカーによるインド市場制覇という展開が生じる可能性を暗示している。

*本論文については、中国自転車産業についての共同研究者であった慶應義塾大学駒形哲哉教授により、昨年、紹介され、その存在を知った。大変興味深く読み、私なりのコメントを書いたが、ブログ等に発表するに至らなかった。現代インドについての紹介文献を読み、その存在の重要性、ないしは有効性を感じ、改めて補論1として紹介することにした。
本論文を紹介していただいた駒形教授に感謝の意を表したい。
(1)「ジェフェリーは国際価値連鎖(GVC)2つの類型に大別した。プロデューサー・ドリブン(producer-driven GVC:PGVC)型とバイヤー・ドリブン(buyer-driven GVC: BGVC)型 」(絵所、9ページ)と、絵所氏は紹介している。
参考文献
絵所秀紀、2018年「国際価値連鎖とインドの自転車産業 」
経済志林』862

補論2
 柳澤悠『現代インド経済−発展の淵源・軌跡・展望』を読んで
 本書は、著者である柳澤氏が自ら調査を行った事例を含め、多数の文献を渉猟することで、インド経済の独立以前からのダイナミズムを、農村の下層・貧困層のあり方を軸に解明した著作であり、インド経済発展論としては大変興味深く、かつ納得的に展開することに成功した著作である。
 私の問題関心でもある中小企業を中心とした産業発展研究の視点から本書を見た時、特に注目すべき点は、インド経済の本格的発展が、独立後の農業生産性の上昇、緑の革命によるその加速の中で、農村の下層労働者層を出自とする都市−農村インフォーマル部門経済生活圏が形成され、それが自立的に発展することで、生じたという主張である。農村下層の労働者が多少なりとも消費者として市場に登場する中で、その需要は農村出自の小零細企業による疑似ブランド品やサービスにより充足された、というのが著者の主張である。このような発展を、独立以前から2000年代まで、論理一貫した形で説明している。
 またそのための裏付けは、事例研究や統計的なものも含め、著者自身の研究と既存の多数の研究を渉猟することで、きちんと行われている。実証性の極めて高い研究でもある。
さらに、インド経済の成長をインフォーマル部門の自立的発展から説明する議論を、私がまったく知らなかったこともあり、本著の議論はきわめて斬新なものと感じられた。少なくとも日本の中小企業研究者にとって、このような議論は新たな視点からインドの中小企業研究を可能とするものといえるであろう。それゆえ、近年のインド経済の発展を独自な視点から解明した著作として、創造性をも持った著作ともいえそうである。
 同時に、中小企業を軸とした産業発展研究としての意義と限界も存在する。著作として、インド経済を考えるうえで、大変興味深く、それもきちんと実証を行っていることもあり、それ自体としては説得的な研究である。そのため、丁寧にノートを取りながらじっくり読み込み、多くを学ぶことができた。その上で、中小企業を軸とする産業発展研究としてどのように評価できるかについて、以下で述べたい。
 中小企業を軸とする産業発展研究の視点から評価する際、本書の大きな特徴は、「都市−農村インフォーマル部門経済生活圏」という概念で著者が展開している、下層社会内での循環とそれをもととした自立的発展の姿を描いたことにある。下層民が賃金労働者化し、一定の消費需要を層として形成し拡大するというだけではなく、同時に都市や農村の自営業者、零細工場や露店・屋台といった工業生産と流通そしてサービス産業をになう自営業者層を同時に形成し、これらが下層民向けの疑似ブランド品やサービスを生産提供し、それを下層民は専ら消費するという関係にあるということを明らかにしている。その上で、その独自な市場を軸に、出自を同じにする小零細企業との循環を通して、下層社会としての自立的な経済発展が生じ、それがインド経済の独立後の発展の大きな動力になっていることを解明していることである。
 その議論は、独自な「二重構造論」ともいうべき議論であり、階層化された市場の下層が層として巨大化し、それへの供給者としての小零細企業層の発展ともつながり、その循環がインドの経済発展をもたらしたとする、まさにある種の中小企業を担い手として独自な発展がインド経済の発展をもたらしているという議論ということができ、中小企業を軸とした産業発展研究として高く評価できるものである。
 しかしながら、本書の終りに近い部分で、新興大企業がフォーマル部門で形成され、それが消費者層としてのインフォーマル部門の耐久消費財需要を自らのものとして急速に発展していることが分析されていながら、このようなフォーマル部門によるインフォーマル部門市場の層として巨大な需要の取り込みが、インフォーマル部門の生産者にとって、どのような意味を持っているかについての実証的な研究の紹介、あるいはそれへの言及もない。インフォーマル部門の消費者のそれなりの水準向上、すなわち市場での需要者の質的変化と、インフォーマル部門の小零細企業群での競争の存在とが影響しあえば、インフォーマル部門の生産者群にも変化が生じることは確実であると思われるが、その点についての言及はない。あるのは階層としての下層民の再生産、階層的上昇の限定性についての実証研究の紹介である。
 自立的な生活圏として生産者も組み込んだ発展を議論し、それゆえ中小企業を軸とした産業発展研究として高く評価し得る側面を持つ著作となっているが、肝心な近年における変化についてと今後について言及する中で、その層の分析が欠落している。これは、著者の関心が、階層的な貧困層の再生産にあり、インフォーマル部門としての小零細企業とそれが構成する産業それ自体の展開、発展には無いことによると思われるが、中小企業を軸とする産業発展研究として評価する視点からは、きわめて残念なことである。

参考文献
柳澤悠『現代インド経済−発展の淵源・軌跡・展望』(名古屋大学出版会、2014年)

お詫び 補論2で扱った柳澤氏の名前を間違えて記憶しており、そのままアップしてしまいました。中小企業研究の仲間であった三井逸友氏から誤りの旨の指摘を受けました。指摘くださった三井氏に感謝し、柳澤氏のお名前を正しい「悠」に修正した上で、お詫びを付記することにしました。
 故柳澤悠氏、同時に同氏は私の教員時代の同僚であった柳澤遊氏の兄上でもあります。お二入に心よりお詫びいたします。

2019年9月15日日曜日

9月15日 白の百日紅と池の鯉

またまた、我が家の百日紅です。
ただ、今回は白の百日紅、言語矛盾のようですが、白のです。
9月初めにアップした紅い百日紅は、
日曜から月曜にかけての台風の強風で、
花がほとんど散ってしまいました。

白の百日紅は、家の南側にあり、
今回の台風の風、北東風がまともにあたらなかったので、
開いていた花も無事でしたし、
その後も多くの花が開きました。
今年は、夏に植木屋さんに入ってもらい、
かなり刈り込みました。
そのため、この時期になって、改めて蕾をたくさんつけ、
一気に花を開きました。

池の鯉も元気に泳いでいます。
台風の後は、松葉が大量に落ち、落ち葉をすくうのが大変でした。
今は池も落ち着き、水も澄み、
鯉の体調も良いみたいで、
大小、いずれも元気に泳ぎ回り、餌をよく食べています。
ほぼ夜明けとともに起き、朝食前に、
池のポンプの掃除、池の鯉と鯉の稚魚への餌やり、メダカの世話、
プランタの花々への水やり、
こんなことから、私の1日は始まります。
この辺は、入院前の状態に、ほぼ復帰しています。
今週からは、家の前の通りの落ち葉掃除も、この中に加えました。

2019年9月7日土曜日

9月7日 小論 グローバル・サプライ・システムとFDI

実態調査に基づく研究から空想へ、現在の産業発展への視点
グローバル・サプライ・システムとFDI
現代の社会的・地理的分業論
渡辺幸男
目次
1 2つ目のグローバル・サプライ・システムの形成
2 フラグメンテーション(工程・機能)の深化
3 フラグメンテーション の進行を促進するファブレス化の論理
4 結果としてのグローバルな地理的(企業内・社会的)分業生産体制の深化
5 外資による直接投資、FDI(特に後発工業化国へのFDI)の意味の変化
6 後発工業化国でのFDIの質的純化、単純化
7 貿易統計の意味の変化
8 国家単位の工業発展の可能性の狭隘化
9 FDIを契機に当該地域の工業発展を目指すことの限定性
10  インド、巨大国内市場保有国としての例外性
11  小括
12 例外としての乗用車産業分野
参考文献

 猪俣哲史著の『グローバル・バリューチェーン 新・南北問題へのまなざし』をよんで、改めて、私なりに、現代工業発展、特に後発工業化国のそれを考える際に、新たに考慮に入れる必要のある論点とは何かについての考察を示したくなった。以下は、2011年をもって実態調査を離れた、実態調査を通して主として日本と中国の産業発展を考えてきた、かつてのフィールド・ワーカー研究者の現時点での空想の成果、ないしは現時点の実態を踏まえない観念論ないしは妄想である。
(以下の文章は、猪俣著を読む前から、というよりも4月の入院前からメモリ始め、入院時、多少余裕ができてきた時点から本格的に骨子を検討し始めていたものである。ブログに掲載するか、あるいはどのようにまとめをつけるかについて悩んでいたが、猪俣著を読み、改めて見直し、文章化をし、私なりのまとめをつけ、ブログにアップすることにした)

1 2つ目のグローバル・サプライ・システムの形成
現代の工業を考える上で、グローバルに視野を広げた時、検討すること、無視できないことが、新たに生まれてきている。それは、2つ(め)のグローバル市場の形成である。1つ目は、かつてより存在する、先進工業国向けのグローバル・サプライ・システムである。猪俣(2019年)の言うところのグローバル・バリューチェーンGVCもこれに含まれるであろう。先端工業製品を巡る、グローバルなレベルの工程間や機能間分業が進展し、世界の各地域がそこに組み込まれ、先進工業国を中心とした相対的に高所得な人々からなる市場向けに供給している。
同時に注目すべきは、これまでの先進国市場を前提として展開したグローバル・サプライ・システムとは異なる対象を主たる市場とするグローバル・サプライ・システムが登場してきている、ということである。この2つ目のグローバル市場の形成により、本格的なグローバル市場が完成したと言える。グローバル・サプライも本来的にグローバルな市場の包摂を完了した。この第2のグローバル市場こそ、中国製低価格品を軸にしたグローバル市場である。これまで、グローバル・サプライの際の対象市場とされていなかった、低所得国の国民にとっての市場、古着等が販売されていたような市場が、本格的な低価格品だが新製品の市場として、独自な存在を示し始め、それを対象とする新たなサプライシステムが構築された。それが、中国製低価格品を軸とした市場である。

この市場は、小川さやか『「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済』で描かれた世界が示唆するものである。タンザニアの民衆用の日用品の調達に、タンザニアの商人が中国の華南の広州や華東の義烏の集散地市場そしてその周辺の産業集積を訪れ、自らの顧客が求めるものを調達、場合によっては注文生産をして調達することが始まっていることが、小川著には描かれている。欧州人の古着市場であったタンザニアの民衆向け市場が、低価格だがニーズに対応した新品の商品の市場へと変身し、中国の華南や華東を核とするサプライ・システムに組み込まれたのである。

また、これまで電気が通じていない等で、家電製品の市場になりようがなかった部分が、ソーラー発電システム等の活用で、新たにスマートフォン等の電機製品市場に組み込まれ始めている。これらも上記の2つ目のグローバル・サプライ・システムの形成の一部とみなされよう。低所得とインフラ未整備ゆえにグローバル市場の外に存在していた人々が、新技術の応用で、安価に工業製品を利用する機会を得ることができるようになった。その需要、市場に対応して、あるいは市場を創造して、新規創業のベンチャー企業を中心に、先進工業国市場中心のサプライ・システムとは別個の体系が構築されつつある。この新旧2つのグローバル・サプライ・システムが重なり合っているのが、現代のグローバル・サプライ・システムである。同時に、この2つのシステムの双方が重なり合う部分に中国内の生産体系が存在している。

2 フラグメンテーション(工程・機能)の深化
インフラが整備され、情報流費が極度に低下し、物流費も安価になったことを背景に、技術的な工程間・機能間の地理的分業の可能性も深化してきている。すなわちフラグメンテーションが深化していると言える。その結果として、地理的なグローバル分業が、細分化された工程や機能にとってのそれぞれの最適地をグローバルに追求することを可能にすることで、より強化されている。従来であれば近接立地が物流費や情報流費の制約から不可欠であった工程間、機能間の関係が、すなわち産業集積内立地、ないしは私の言う広域的工業圏内立地から解き放たれ、これらの費用的制約をあまり考慮することなく、それぞれの工程や機能にとっての最適立地を求めることが可能となっている。
あくまでもインフラの整備が前提であるが、それさえ整えば、不熟練労働力の利用が可能な工程であれば、より安価で豊富な不熟練労働力を動員できる立地を求めて、世界中を探すことになる。私が、かつて京浜地域の産業集積に対し広域関東圏というより広域的な集積、さらには東アジアといった単位では表された地理的広がりを越えて、グローバルな範囲で最適立地を、工程や機能ごとに探すことになる。それぞれの工程や機能を、誰が担うかは別として、地理的には、それぞれ細分化された部分が、それぞれ自立的に最適立地が模索される、ということを意味する。

3 フラグメンテーション の進行を促進するファブレス化の論理
ファブレスメーカーの広範な形成と展開により、製品技術と生産技術の発展が、それぞれの独自の論理で展開することにより、乗用車産業に未だ見られるような両者が一体で発展することが求められる統合型技術発展に比し、より部分的工程と機能を、地理的に分離可能とし、地理的分業を促進することになる。ファブレスメーカーは、企画開発と販売のために最適な立地を選択し、最終製品生産受託企業は、最終製品の製造のために最適立地を、グローバルに探索し選択する。このような動向を先取りした産業がアパレル産業であり、そのメーカーと受託縫製企業との関係である。その技術的最先端がクアルコム等の半導体メーカーとTSMC等のファウンドリの関係といえよう。
製品の企画開発を行い、販売戦略を練る際に必要とされる人材と、最終製品を生産するために必要な人材は、これらの人々の間での情報のやり取りそのものは緊密なものが必要であろうとも、全く異なる人材層であると言える。それぞれの機能が、人材調達に最適な立地地域にそれぞれの機能を担う事業体を設け、地理的かつ社会的分業を形成することになる。また、それぞれの事業体は、担う資本が別なだけではなく、同じ産業に産業分類上は分類されることになるが、それぞれが目指すべき技術開発やイノベーションの方向は、製品技術と生産技術をいう形で、大きく分かれることになる。それゆえ、それぞれの事業体の革新のために必要な人材や関連産業も、大きく異なることになる。その意味でも、最適立地地域は両者で大きく異なることとなる。両者の最適立地が近接していることの方が、偶然の結果であると考えるべきであろう。

4 結果としてのグローバルな地理的(企業内・社会的)分業生産体制の深化
 フラグメンテーション の進展、ファブレスメーカーと受託生産専門企業の簇生等を通して、グローバルな地理的分業が多くの産業で生じ、また同時に地理的分業が社会的分業すなわち企業間分業となる場合も多く生じることになる。従来、産業集積内立地が不可欠されたような特定の産業の各工程や機能が、工程や機能それぞれの立地の論理に従って、グローバルに最適立地を模索し、それに従ってグローバル展開をし、グローバル・サプライ・システムを構築する。
このよう動きを、最も直裁的に示しているのが、iPhoneの開発生産販売における地理的・社会的(企業間)分業であろう。企画開発と最終製品の組立は全く異なる国民経済で異なる企業によって担われ、その生産には世界中から部材や産業機械が調達されている。そして、企画開発した企業によって世界中に販売されている。アップル社はスマートフォンの先端的企業という意味でも技術面では製品開発に特化した企業であり、組立の多くを受託している鴻海精密工業は、EMSの最大手企業であるととも電子製品の量産組立体系の開発を産業機械メーカーとともに担う生産技術の先端企業でもある。さらに、iPhoneの最重要部材であるCPUはファブレスメーカーである米国のクアルコムが企画開発し、台湾のファウンドリであるTSMCが受託生産している。しかもスマートフォン用のCPUではクアルコムは最先端の製品技術開発企業であり、同時にTSMCは韓国サムスンと並ぶ半導体組立生産の最先端技術を半導体製造装置メーカーとともに開発する生産技術開発企業でもある。これらの製品技術・生産技術の開発拠点は、生産拠点とは一致せず、さらなる地理的分業が、この中でも行われている。

5 外資による直接投資、FDI(特に後発工業化国へのFDI)の意味の変化
 かつての外資による直接投資FDIとして、第2次世界大戦前の米国乗用車メーカーの欧州進出の時のFDIが典型だが、その場合の投資内容は、米国で形成した生産体系を、もう1セット、欧州でも形成するという内容のものであった。主要市場ごとに生産体系を1セット構築するというものである。1980年代以降の日系の乗用車メーカーによる米国市場向けのFDIも、同様に、どこまで実現したかは別とすれば、もう1セット、日本国内同様の生産体系を、生産技術の優位形成をもとに、米国内に構築することを目指していた。北米や欧州に進出した日系TVメーカーの場合も、最終組立のみならず、主要コンポネントの組立も進出市場内で行う、TV生産1セット単位でのFDIであった。
 しかしながら、現代のFDI、特に電子機器等の量産機械についてのそれは、機能や工程ごとに見た進出先地域の特定の立地優位性に絞ったFDI展開となっている。すなわち、グローバルなインフラ整備の下、フラグメンテーションが進展し、機能や工程ごとに最適立地を選択することが可能であるし、意味があるという条件下で、生産体系1セットの設備投資が特定国民経済向けにFDIとして実行されることはなくなっている。このことは、後発工業化国にとっての先進工業国系の企業のFDIの内容と持つ意味が大きく変わることを示唆している。
 すなわち、後発工業化国であっても、巨大な独自な市場を構成しつつあるような国へのFDIによる進出では、最終製品の企画開発の少なくとも一部は、当該市場内で行うことが迅速かつ適切なことであり、それを行うだけの規模の経済性も実現できるということで、製品技術開発の一部機能がFDIによって当該国民経済内に立地することが大いに考えられる。これは、FDIを行う最終製品企画開発企業間での市場競争の強制ということでもある。
他方で、後発工業化国の場合、圧倒的部分は、豊富な低賃金労働力の利用可能性があるとしても、独自な巨大な市場を持つ国民経済ではない。インフラが整備され、グローバル・サプライ・システムに組み込まれる可能性が出た場合、そこでのFDIは、豊富な低賃金労働力の活用に絞っての工場投資ということになろう。各工程や機能がグローバルに立地を選択できるということは、立地の優位性ごとに工程や機能が細分化され立地が決まる、ということを意味している。かつてのように、生産体系1セット単位で立地する必要はない。その意味で、インフラが整備された後発工業化国へのFDIによる工場立地の可能性は非常に高まるが、特定の立地優位に基づく工程や機能のみの立地である可能性が高い。立地優位となる1点に絞ってのFDIということになる。

6 後発工業化国でのFDIの質的純化、単純化
その結果、特定の立地優位のみが意味がある特定の機能や工程のみの当該地域へのFDI立地となる。そして、その他の関連工程や機能は、他の国民経済等に幅広く立地し、それとの地理的(・社会的)分業を通して、製品生産を完結させることになる。後発工業化国で当該国の国民経済が巨大な独自市場を持たない限り、製品の企画開発等の機能を含めた幅広い機能が当該国内に立地する可能性は、極めて小さいことになる。
グローバル・サプライ・システムに組み込まれることで、結果として生じることは、当該地域の豊富な低賃金労働量の賦存の優位の活用のみへと純化したFDI投資の集中ということになる。グローバル・サプライ・システムの一環としてのFDI投資であるがゆえに、当該国経済内での関連分野への、FDI投資主体に対する投資誘引は存在しない。その存在限りでの当該国FDIの維持拡大が行われ、それに留まることになる。グローバル・サプライ・システムゆえの当該地域への関連産業立地への波及の希薄化が生じる。また、FDIが立地している国民経済内から部材調達等を行う可能性も、極めて低いということになる。すなわち、FDIによる直接的な雇用と工場建設の際の臨時の雇用労働力の増大以外、関連分野や関連産業への当該国民経済内での波及はほとんど存在しないということになる。
 さらに、FDIを行う主体にとって、この立地の優位性、豊富な低賃金労働量の存在がなくなれば、他の立地要因、かつてのように当初のFDI投資に関連して関連産業が周辺に立地する、といったことはないので、同様の立地優位性を求めて他地域へ転出する以外の選択肢は存在しない。転出後、当該地域に残るものは、多少賃金が上昇した不熟練低賃金労働力以外では、中間管理層人材、メンテナンス従事の技術者等、わずかなタイプの人材のみであろう。ここからは、次の発展を担う可能性のある起業家や企業(家)の層としての形成は見えてこない。
 波及効果のない、当該立地の優位に直接つながるFDIが行われ、その優位性が消滅すれば、投資も引き上げられる以外ないという、極めて単純なFDIということになる。また、かつてFDIが存在したことによる遺産も、新たな起業家を簇生するような形で存在することは、ほとんど不可能といえよう。鉱脈が尽きた鉱山街が、新たな存立展望がないままに衰退し、消え去るような状況に陥る可能性が高いであろう。

7 貿易統計の意味の変化
フラグメンテーションによる機能の一部のみの立地が可能となり、純粋に組立工程のみの立地といったことが、低賃金労働力動員利用のために生じる。他の機能は、当該機能に最適な立地の他地域に立地することになる。低賃金が豊富だから、それを利用する工程が立地するだけではなく、それとの近接を求め、その他の機能、製品開発や生産技術改良といった機能が、当該地域に立地する可能性は極めて低くなる。しかし、そこで最終製品が組み立てられ、海外に輸出されれば、貿易統計上は完成品の輸出に計上されるということになる。部材の大量の輸入と完成品の大量な輸出が、貿易統計的には共存する。
このような貿易統計上の姿は、一見すると、活発な工業製品内での相互貿易が実行されていることを表現している、ということになる。実際に財は国境を越えて部材から完成品へと転換されながら行き来することになる。ただし、付加価値的には、猪俣氏の著作(猪俣哲史、2019)で示されたように、組立だけのFDI工場が立地する国民経済へは、スマイルカーブの底辺部分、すなわち付加価値生産性という視点から見れば最小の付加価値が落ちるのみであり、完成品の主要な付加価値部分は当該国民経済とは無縁な存在となる。
しかも、時系列的に見ても、当該完成品をめぐり、当該国民経済が得る付加価値部分が拡大する展望は、猪俣哲史(2019年)の考えるところと異なり、増えていく方向では見通されない。それどころか、低賃金労働力の枯渇と共に、わずかに当該国民経済に落ちていた付加価値さえ消滅する可能性が高い、というのが、ここでの私の理解である。

8 国家単位の工業発展の可能性の狭隘化
以上の検討から見えてくることは、後発工業化国へのFDIを直接的な契機とした工業発展が、当該国民経済全体に波及する論理は、かつて雁行形態論が想定したような当該国の当該産業の関連産業への波及を含めた深化という形では、現代のFDIにおいてはほぼ存在しないということである。特定の優位のみに従って、特定の工程や機能のみが当該国民経済内に立地すること、このことの意味、結果は、論理的に言えば、その立地優位の要因が消滅すれば、工程や機能は当該経済内に立地する理由が全くなくなるということである。しかも、現代においては、他の優位な立地への移動は、多国籍企業にとっては、極めて容易なことであるし、グローバルな競争が行われている中では、他のより立地優位な国民経済内に立地している企業工場に競争で負け、移転しないとしても何れにしても消滅するということを意味する。
猪俣(2019年)とは全く正反対の結論ということが言えよう。猪俣(2019年)では、先端製品の生産をめぐるスマイルカーブのどこかに食い込めば、それを足がかりに学習効果を生かして、GVCが構築された現代でも、当該国民経済内で、当該先端製品のより付加価値の高い他の機能や工程へと展開することが可能だとしている。しかし、低賃金労働力ゆえにFDIが行われた国民経済で、低賃金労働力が枯渇した時、何が残っているのであろうか。かつてであれば、関連産業が近接立地することが、何らかの立地優位をもつ地点では生じ、特定工程や機能のみに限定されない産業集積が形成される可能性が高かった。これは物流費や情報流費が高くついたからに他ならない。これらの費用が安くなれば、関連機能や工程が近接立地する必要性がなくなり、一定以上の幅を持った産業集積を形成する必要がない。あるいはそれよりグローバルに調達した方が、当該機能や工程にとって有利になる。競争上の集積形成へのインセンティブは消滅する。
そもそも、グローバルを範囲に自由に豊富な低賃金労働力を利用できる地点として選択され、他の機能や工程が隣接していなくとも十分にその立地優位を活かせるからこそ、当該国民経済に低賃金労働力を求めたFDIが実現したのである。それゆえ、そこからより幅広い集積へと広がる論理は内在的には存在しない。

9 FDIを契機に当該地域の工業発展を目指すことの限定性
FDIを契機に当該地域の工業発展を目指すのであれば、インドのバンガロールのような人材等、単なる豊富な低賃金労働力の存在以外の立地優位要因を構築することが不可欠であろう。ただし、ここでも確定的に言い得ることは、このような集積では、賃金上昇が本格的に生じても、当該機能や工程についての立地優位は消滅しにくい、ということだけである。他の関連機能や工程が近接立地するかどうかは、当該地域に一定の機能や工程が立地した理由から判断することはできない。
ブラジルでは、エンブラエル社がリージョナルジェットの開発に成功し、カナダのボンバルディアとともに世界市場を2分する存在となった。この元にあるのが、第2次世界大戦後の特異な状況下での、ドイツ系を中心とする航空機開発に長けた人材の集積にあるとのことである。ロシアのスホーイがこのリージョナルジェット市場で大苦戦し、日本の三菱は未だ開発途上にあるのに対し、国際競争力のあるリージョナルジェットの開発に成功したのがエンブラエルである。しかし、同時に、エンブラエルはブラジルを越えた大量の国際的な生産委託を行なっており、日本の川崎重工等もその一部を担っている。エンブラエルのブラジルにおける主力工場周辺に航空機産業の一大産業集積が形成されているのではなさそうである(1)。機体開発能力の蓄積を核に、グローバルなネットワークを生かし、リージョナルジェットのチャンピオンとなったと言えそうである。今後、ブラジルに関連企業が近接立地を進める可能性は存在する。日本の川崎重工にもそのような話が存在しているようである。そのことを通して、ブラジルに航空機産業を核とする機械工業集積が本格的に形成され、それがブラジル工業化の核になる可能性は存在するのであろうか。現在の私は、この可能性に懐疑的であるが、それを確認する手段を残念ながら持ち得ていない。

10インド、巨大国内市場保有国としての例外性
 こうした中で、進出先の市場を目的としたワンセット型のFDIの可能性の存在するのが、インド市場ということができよう。実際に、小米等のスマートフォンのファブレスメーカーである中国企業や鴻海精密工業といったEMSも、インド市場向けを念頭に、インドへFDIを行なっている。小米にとっては、EMSの同時進出は不可欠であり、現地ニーズに対応した現地仕様のスマートフォンを開発し、EMSを通して現地生産を行い、市場への迅速対応を実現している。また、その結果とも言えるが、インドでサムスンを超え首位のシェアを確保したと、日経電子版で報じられている(ローズマリー、2018年)。これにより、中国から部品を調達し、そのまま組立て供給していた低価格品中心の現地メーカーとのインド市場での競争で、圧倒的な優位に立ち、一挙にインドでの市場シェアを拡大したと言えそうである。

11  小括
純化したFDI中心であれば、その地域が特化した資源、多くは低賃金の豊富な労働力の活用のみに重点を置いたFDIが、グローバル・サプライ・システムを前提に、グローバル市場を対象に実行されることとなる。そこに、深圳等で見られるようなベンチャー簇生を基にしたイノベーションの振興を政策的に実現可能であるというのは、全くの幻想であろう。FDIを通して生まれる産業活動の中に、新たな集積を生み出す担い手は誰かいるのか、対象とする市場はどこかにあるのか、そこで誰と競争しようとしているのか。いずれについても、全く見えてこない。これらがどこかに存在する、あるいは政策的に創造できると考えるのが、ベストプラクティスに学ぶ大野健一氏の政策的議論(大野健一、2013)なのであろうか。イノベーション簇生の根本は、政策の問題ではないと私は考える。

12 例外としての乗用車産業分野
FDIが広範化し、単一製品にも関わらず巨大な市場がある分野でありながら、現代でも量産型機械工業の中で乗用車だけは生産体系として本来的な意味でのグローバル化を充分は成し遂げていない。もちろん、国際化の進展は顕著であり、多国籍企業が多数存在している。しかし、その存立形態は、第2次世界大戦前の米国企業の欧州進出の延長線上とも言える存在であり、グローバル・サプライ・システムを構築しているとは、言い切れない。それゆえ別途検討することが必要であろう。
 結果、乗用車産業でのFDIは、基本的に規模の経済性が十分発揮できる需要すなわち大規模市場近接ということで展開される。それゆえ、後発工業化国で国内市場が十分な大きさのない国民経済は、立地の対象外となる。また、たとえ豊かな国民経済でも、オーストラリアのような絶対的人口規模が相対的に小さな国民経済への乗用車工場のように、FDI立地はかつてはかなり存在した(2)が、現在は顕著に減少している。乗用車産業は単品をめぐる産業集積が依然として生きている例外的巨大分野と言える。
 乗用車産業は、製品技術と生産技術とが、擦り合わせ技術等の必要性から、依然として一体的に開発する必要があるとされている産業分野であり、財の容積や重量の割には、容積あたり、重量あたり単価の低い主要部品が多数存在している分野でもある。それゆえに、他の量産機械産業とは異なり、主要部材の生産と最終的組立工程とが近接立地することが、依然として有効な分野となっている。
 佐伯靖雄編著『中国地方の自動車産業』の議論のように、日本国内産業集積の将来的可能性を議論する余地が存在する。またそこで描かれた鳥取の国内電機関連サプライヤの国内乗用車関連産業へのシフトの実態的な基盤でもある。
 ただ、EV化によるその多くの部分の喪失される可能性が存在する。佐伯編著に描かれたタイヤ生産と同様な、各部材生産の自立的な立地可能性が、EV化により、乗用車産業の各部分に広がることが予測される。

1)エンブラエル社について、私の理解に関しては、ブログ「[覚書]グローバル市場・調達時代における後発工業化国製造業・企業の発展をどう見るべきか —ブラジルのエンブラエルの発展に至る産業発展の新たな可能性と限定性—」を参照。

2)豊かな1次産品輸出国であるが、人口2500万人程度と乗用車市場としての可能性は小さいオーストラリアの自動車需要は年間100万台余である。かつては複数以上存在していた完成車組立工場は、2017年のトヨタとGMの現地子会社工場の閉鎖(「オーストラリアの車生産、90年で幕」日本経済新聞、2017107日朝刊)により、皆無となっており、100万台余の需要は全て完成車輸入でまかなわれるようになったようである。なお、「豪昨年の新車販売3%減、4年ぶり前年割れ」( 日本経済新聞電子版、201919日)によれば、2018年の販売台数は前年比3%減の1153111台とのことである。

 

参考文献
猪俣哲史、2019年『グローバル・バリューチェーン
 新・南北問題へのまなざし』日本経済新聞社
エンブラエル、www.embraer.com/en-us 2016527日閲覧
大野健一、2013『産業政策のつくり方 
– アジアのベストプラクティスに学ぶ』有斐閣
小川さやか、2016年『「その日暮らし」の人類学
 もう一つの資本主義経済』 光文社新書
佐伯靖雄編著、2019年『中国地方の自動車産業 
−人口減少社会におけるグローバル企業と地域経済の共生を図る』晃洋書房
田中祐二、2007「ブラジルにおける新しい企業像の追求  —航空機製造企業
EMBRAER社のクラスター形成とCSR—」『立命館経済学』5556
中山智夫、2010「エンブラエル社の世界戦略と航空機投資の魅力」
    http:// www.itca.co.jp2016524日閲覧
マランディ、ローズマリー2018「中国・小米、インドで攻勢
 韓国サムスンから首位を奪う」日本経済新聞電子版、2018513