2018年9月14日金曜日

9月14日 小論 FTのモバイクについての記事でシェア経済を考える

 下記の小論は、9月6日付のFT記事を巡るものである。もう少し早めにブログにアップするつもりであったが、7日から日本中小企業学会の全国大会がらみの行事が入り、遅れてしまった。全国大会についての日誌も、素稿ができたので、以下の記事ついてのメモを見直し、多少手を加え、ブログにアップすることにした。

小論 FTのモバイクについての記事でシェア経済を考える
A.  Bounds,Manchester thieves too much for Mobike’ FT , 6 Sep. 2018, p.13 

タイトル 「マンチェスターでの窃盗、モバイクにとって多すぎ」
<見出しの文章1> 「そのグループは、自社の自転車は ‘vandal-proof’(壊れない?:引用者)だと言っていた。しかし、ある地方はこの点について挑戦しているように見える」
<見出しの文章2 >「シェアリング経済が世界を支配しつつあるようだが、しかし、その限界が北イングランドの都市、マンチェスターで明らかになってきた。そこでは、中国の自転車貸出会社、モバイクが、広範な破壊(バンダリズム)と窃盗ゆえに撤退を決めた」

本文によれば、「モバイクはロンドンやニューカッスル、オックスフォード、ケンブリッジや他の欧州の諸都市では営業を続けると言っている」としているので、全面的な欧州からの撤退ではなさそうである。しかし、中国のシェア自転車でのトップが、グローバル展開をする中で、マンチェスターでその業務を維持できないと判断したことは、ある意味で興味深いことである。
 また、他のシェアリング自転車企業の例でも、フランスでは4ヶ月で60%の自転車が壊されたといったことが報告され、イタリアやオーストラリアでも破壊が報告されていると紹介している。さらに、自転車置き場を使用する形でも、ミルトンキインズで15ヶ月で20万ポンドの損害を被ったといった例も挙げられている。
 このような経験から、シェリングモデルがどこでもうまくいくかどうか、この記事では疑問が呈されている。

*中国でそれなりに機能していると言われているモバイク等による自転車のシェアリングが、欧州やオーストラリアの一部の都市では、うまく機能していない、というこの記事をどのように考えたら良いのであろうか。中国での成功モデルも、多くの自転車の荒っぽい扱いの事例を含みながら、それなりに事業として回り始めている、と言える。決してバンダリズムにあっていない訳ではない。しかし、その比率が、活用される状況に比して相対的に少なく、コスト的に合うものとなっている、と見ることができよう。
 すなわち、このことの中心的な意味は、まともに使う人の比率と、破壊したくなる人の比率の問題ということなのかもしれない。シェア自転車へのニーズが高い都市では、破壊される自転車1台に対して相対的に利用する頻度が高く、それによる収入が大きくなることになる。モバイクが言っている ‘vandal-proof’ の意味は、破壊されても、それを補って余りある収入を、まともな利用者から得ることができる、ということを意味していることとなる。
私の手元にある英和辞書によれば、 ‘-proof’ には「・・・を防ぐ」とともに「・・・に耐える」という意味もあるそうである。ということは、モバイクの場合の ‘vandal-proof’ とは、モバイクの自転車は壊されない、ないしは物理的に耐えることができ壊れないという意味で壊れにくいというのではなく、モバイクの自転車は壊されても商売としてそれに耐えうる、という意味ということになるのであろうか。それゆえ、破壊の比率が相対的に高いマンチェスターからは撤退することにしたが、ラスト1マイルでの利用が多く見込まれる中国の諸都市やロンドンでは成功する、あるいは成功の可能性が高いとみて、経営を維持し続けるということなのであろうか。
このような理解が妥当であれば、シェア経済が成り立つかどうかは、シェア対象物が破壊される可能性が高いとしても、それ以上に十分利用されるかどうかにある、ということになろう。当然なことであるが、このことは、他人のものであろうと大事に扱う習慣がある社会、すなわち破壊の頻度が低い社会では、シェア経済は成り立ちやすいということを意味する。同時に、それとともに、破壊の頻度は高い社会であっても、それを補って余りある利用頻度、ニーズが存在する社会でも、シェア経済は十分に成り立つということであろう。
どんな社会でもシェア経済は成り立つわけではないが、破壊の程度によるのではなく、ニーズと破壊頻度のバランスで、シェア経済が成り立つかどうかが決まるということになる。当然、破壊がほぼなくとも、ニーズがなければ、これまたシェア経済は成り立たない。日本のどこかの地方銀行の融資を利用して建てられたシェアハウスのように、小ぎれいに建てたとしても、また住んでいる人が「破壊」することなく使用したとしても、相対的なニーズの量を無視し、建てるシェハウスの数にあった規模で住む人を集めにくい場所に建てれば、シェアハウスとしては経済的に成り立たないのである。
また、破壊がかなり存在し、自転車をぞんざいに扱う人や盗む人が多いとしても、他方でその自転車を利用する人が十分多く存在すれば、シェア自転車は経済的に成り立つということになる。このような状況が中国の大都市であろう。それに対して、マンチェスターの場合は、ロンドン等と同様な破壊水準であったとしても、ニーズが少ないからもバイクは撤退したのか、それともニーズは他の英国の大都市と同様な水準にあったが、破壊の頻度や程度がより高かったのであろうか。モバイクの担当者に伺ってみたいところである。私がしばらく滞在していた30年以上前の英国であれば、すなわちフーリガンが話題になっていた頃の英国であれば、後者の可能性が高いと思われるが、今は、いかがなのであろうか。
 視点を変えてみると、シェア経済というのは、本当にものを大事に有効に使うことなのであろうか、という論点が浮かび上がってくる。シェアバイクの経済的存立の論理を前提にすると、必ずしも、そのようにいうことができそうにもないことになる。
確かに、シェア経済により、使用されていない時の多い個人が所有する財について、シェアすることで稼働率は高まり、その限りでは、財の有効利用ということになろう。しかし、同時に個人の所有する財であるがゆえに、メンテナンスがきちんと行われる可能性は高くなり、窃盗等に遭遇しないように所有者である使用者が努力する可能性も高くなる。それに対して、この記事に見るように、窃盗や破壊を前提にそれを上回る利用率の高まりを求める、これがシェア自転車の現実ということもありうる。自転車では、ライドシェアなどと比較して財の扱いの差が大きくなるであろうし、また、破壊にあう可能性も高くなりそうである。走行距離の差異以上に耐久性が落ちるのではないだろうか。

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