2018年9月24日月曜日

9月24日 小論 私の中小企業研究のあり方 平野哲也論文に触発されて

私の中小企業研究のあり方 平野哲也論文に触発されて
平野哲也「中小企業研究の方法的立場 
       −中小企業概念の系譜とデザインの方法−」
日本中小企業学会論集37、同友館、2018
を読んで 渡辺幸男

はじめに
 久しぶりに、中小企業研究のあり方が、各国でどのように異なるか、正面から議論した論文に接し、触発され、自分ならどうなのか、考えてみたくなった。ただし、私自身は、近年特に自覚してきているのだが、ますます中小企業から見た産業発展研究という視座に立つようになっており、中小企業研究そのものというより経済学的な産業発展研究に主眼を置いている研究者となっている。そのような研究者から見た中小企業研究のあり方として、平野論文を見、そして自分の見解を述べていきたい。
 なお本稿で取り上げる平野哲也氏の論文は、日本中小企業学会第37回全国大会の報告をベースに執筆され、日本中小企業学会の査読を受け『日本中小企業学会論集37号』に収録されたものである。さらに、その後、日本中小企業学会第38回全国大会において若手奨励賞を授与された論文でもある。

平野論文の結論
平野論文においては、「日本の研究史」では「中小企業の「問題性」「積極性」といった価値論に基づく規範科学的な視点から中小企業群・層に関する「構造的」な把握による中小企業の概念規定が主流」であるとする。そして、「海外の研究史」では「実証科学をベースとし、中小企業の普遍性あるいは条件適合性を巡って中小企業の概念規定が行われてきた」、そして「中心は現在主流となる量的研究を方法とする実証研究の潮流」であるとしている。結果として、「日本の中小企業概念の規定方法には「規範科学バイアス」」があり、「海外の中小企業概念の規定方法には「実証科学バイアス」」(論集37p.213)があるとしている。

平野論文で気になった点
平野論文では、「日本と海外の中小企業概念の研究史をレビュー」(論集37p.208)と述べられている。しかし、「日本と海外」という比較は、私の理解からいえば、奇妙に思える。
 まずは各国国民経済間での比較、中小企業という存在は各国国民経済を背景として把握される中小企業なはず(ここが決定的に認識が(平野氏や)「海外」の研究と異なる点かもしれない)であり、中小企業研究で、日本だけが特異なのであろうか、という疑問が生じる。私は、そうではなく、それぞれの国民経済の歴史的背景と現状により、各国の中小企業がそれぞれ独自な存在形態を持っていると理解している。また、それゆえに、それぞれの国民経済ごとに中小企業研究の歴史があり、それは英国と米国とで異なるということは、私なりの両国の中小企業研究のあり方をかつて1980年代に見てきたことから感じている。ただ、ここ何十年間かの間に米国と西欧で、「海外」とくくれるような研究の収斂が生じたのかもしれない(中小企業の「普遍性」を言えるということは、まさにそのような現象が生じているのかもしれない)が、それについては、全く不勉強である。
 さらに、平野氏の場合は、米国と西欧の中小企業研究が、「海外」を代表しているように見える。韓国・台湾・中国といった工業化国が眼中にないのではないかと思える。しかし、ここ数十年間の東アジア諸国の工業化の進展を前提とするとき、すなわち現代の中小企業の研究を産業発展論的視点から考えるとき、日本以外の東アジアの工業化国での中小企業研究史を考察対象にすることは、不可欠であろう。少なくとも日本の研究者にとっては。

論点 私にとっての「中小企業」研究、そのための「中小企業」とは
私が中小企業を中小企業として取り上げる視点は、まずは日本の産業発展研究における中小企業であるその一環としての日本の機械工業での下請系列的取引関係の形成であり、日本各地の製造業産業集積の形成・再生産ということになる。
産業発展は、国民経済ごとに大きくその論理が異なり、また、そこでの中小企業の意味や機能も大きく異なる。日本の下請系列取引関係を通しての機械工業発展を見てきた者として、さらに最近は中国の近年の垂直分裂下での新企業主導の産業発展として、これまでは少なくとも中小企業としての新企業主導の産業発展を見を見てきた者として、この点については明確に言えることである。競合しつつある日中の機械工業で、その急速な発展過程での中小企業の意味は大きく異なる。しかも、その差異は、各国民経済の市場環境の差異を反映している。この点を産業発展研究から確認した。同時に、このようの国民経済単位で把握可能なのは中小企業であって、大企業ではないことも明確である。
その際の中小企業とは、企業一般(一般性:Generality, Universality)の中の、大企業(独自性:Identity)ではない存在としての中小企業(独自性:Identity)である。大企業一般(一般性:Generality, Universality)という把握は間違いであり、もちろん、それに対する特殊な中小企業(特殊性:Specificity)ではない。中小企業として括られる存在が、一定の意味を持つ国民経済的状況だから、企業一般で議論できない。当然のことながら、企業一般で議論可能な場合は、中小企業概念を使用する必要はない。
中小企業とは何かを問う必要は、それぞれの課題との関連で、それとの脈絡で出てくるのであり、中小企業一般を抽象的に規定する必要性はない。中小企業「理論」を必要としないゆえに、「中小企業研究」はあっても、「中小企業学」は存在しない。
そもそも日本での中小企業研究は、後発工業化国日本の産業発展の遅れの1つの重要な要因としての中小企業の技術的遅れ、小宮山琢二のいう「二重の隔絶性」(小宮山琢二、1941年)から出発している。すなわち、日本の先進工業化への課題としての政策的概念としての「中小企業」が浮かび上がり、経済理論的な位置付けや経営学的な位置付けは、後追いで確認された。各国経済で、中小企業に注目する理由は多様であり、課題によって中小企業の具体的政策対象範囲が規定されると言える。
経済理論的な意味では、「企業一般」があり、そこから広く外部資金を導入可能な「大企業」が生まれ、「中小企業」が、「企業一般」− 「大企業」=「中小企業」、すなわち、残余として概念構成された。
それゆえに、私自身の中小企業の概念規定は、大企業ではない企業ということで、寡占的市場構造下での競争的な資本・企業であり、経済学的には、大企業とは異なり社会的資本を広く集めることが困難な資本・企業である。また、同時に、そのような企業は、経営学的には、階統的な経営構造を持つ大企業と異なり、相対的に単層的な経営構造の企業となる。しかし、このような規定では、各国民経済での中小企業の存在意味と意義は見えてこない。それゆえ、中小企業を中小企業として括る意味や意義も見えてこない。
中小企業は、各国民経済の中での寡占的市場支配と大企業のあり方により規定され、各国民経済ごとに、その存立の形態は異なり、国民経済にとっての意味・意義も異なることになる。各国民経済の経済段階的状況の変化により、存立の意味・意義もまた異なることになる。

中小企業は、あくまでも寡占的市場構造が支配的な経済下の大企業ではない企業群・層である。それゆえ、それぞれの国民経済で、環境が異なり、それにより規定される存在となる。だからこそ、事例研究により、当該経済での中小企業の存在形態・理由を具体的に見ていく必要がある。

 国民経済という枠組みを外して、中小企業を中小企業として取り出し、それを量的にどのような存在か見ていくこと、これが可能なためには、各国民経済間での差異が、ほぼ存在せず、中小企業の意味や意義も各国民経済間で異ならないような状況が前提になろう。そうであれば、平野氏のいう「海外」での研究がそうであるように量的に把握する実証科学として、国民経済を超えて中小企業層を取り出し、分析することが、大きな意味を持とう。現代経済における一般的な中小企業像を描くために。
 しかし、私の理解では、現代でも、グローバル化が進展した現代経済においても、国民経済ごとの再生産の独自性は存在し、各国民経済での再生産における中小企業の位置や意味は異なる可能性が高い。だからこそ、米国にはシリコンバレーが存在し、日本では同様な集積を人為的に作ろうとしたが、未だ存在していない。しかし、中国深圳地区では、シリコンバレーと似たような新規創業企業中心の産業集積、日本の各自治体が夢見た産業集積が形成されつつある。これは国民経済としての日中の差異を前提しなくては、理解できない現象であろう。新規創業企業それ自体の問題ではなく、それが形成される国民経済的環境の差異こそ重要であることを示している現象と、私は考える。

終わりに
 平野論文を批判的に検討することで、改めて中小企業は国民経済単位で考えられるべきものであり、平野氏のいう「海外」での研究のように国民経済横断的に中小企業の「普遍性」を前提に量的に把握することは、実証的であることは事実だが、中小企業の存在のあり方ゆえに、あまり意味のないだと再確認した。また、特定の問題にこだわった形で、中小企業論を諸国民経済横断的に展開する必要もないとも言える。
中小企業は、各国民経済に存在し、それぞれの国民経済の環境の独自性ゆえに、独自な存在と機能を国民経済に対して発揮している。この中小企業が発揮している内容の論理を、各国民経済に沿って把握することが、私自身が考える産業発展研究に必要な中小企業研究である。このようなものとして、自身の中小企業研究を改めて確認できた。

参考文献
小宮山琢二、1941年『日本中小工業研究』中央公論社
日本中小企業学会編、2018年『新時代の中小企業経営 −Globalization
Localizationのもとで−  日本中小企業学会論集37』同友館

9月24日 庭の花々

芙蓉が益々賑やかです。
多少、涼しくなり
花の付きが良くなりました。

上の写真は2階のベランダから、
下の写真は庭から、
角度の違いで、多少見え方が異なります。

白い百日紅も
結構まだ咲き続けています。
ただ、これは1階のリビングからは、
全く見えず、
2階のベランダで洗濯物を干す時の楽しみです。

庭に露地植えしたサルビアも賑やかです。
夏の間、色が褪せていましたが、
ここにきて、朱色が艶やかになってきました。

金木犀も香ってきています。
今年は20日前後から香り、
例年より早いようです。
ただ花つきは今ひとつです。

夕方の芙蓉、
午後3時半、少しつぼみ始め、朝より色が濃くなり、
艶やかさが増します。


午後5時45分、
暗闇が迫り、
芙蓉の花は閉じようとしています。

1日花が暗さの中でしぼみます。
今日は満月、見えるでしょうか。

そして中秋の名月
東の空に、百合ヶ丘の丘の向こうに、
名月が。

南の空には星が。


西の空、
見た目はもっと暗かった。 
でも新しいギャラクシー、
明るい。

25日朝、
次の芙蓉の花が多数開きました。
雨に打たれる前の花々です。


2018年9月15日土曜日

9月15日 中小企業学会第38回全国大会参加日誌その2

2018910日〜14
日本中小企業学会第38回全国大会 参加日誌
於:武蔵大学 2018年9月8日、9

2 いくつかの報告についてのコメント
<久保田典男報告について> 以上の意味で、統一論題での3つの報告での発見の中で、発見内容の理解について、改めて検討する必要があると、私にとって思われるのは、久保田報告での事例の含意についての理解である。久保田報告では、まずは親族による承継が島根の中小企業で極めて困難になり、それゆえに廃業に至る中小企業が多いことを、統計的に確認している。その上で、親族外承継の事例とM&Aによる地元での事業継続の事例を紹介し、それらについて事業継承のための一定の有効性を確認している。
しかしながら、成功事例として紹介されている親族外承継の3例は、いずれも承継者の承継の正統性を企業内で確立するために、承継者として指名されてから承継までに10年前後をかけている。すなわち、親族外承継であろうと、その承継を成功裡に実現するためには、早期に承継者を確保し、その承継予定者に対し正統性を得させるために長期にわたる後継者候補による人材教育・人材マネジメントが必要であるということである。島根の中小企業経営者については、他の地域以上に高齢化が進展し、その中で親族内承継者がないために廃業の可能性が高くなっている、という議論から久保田報告は始まっている。その上で親族外承継を、親族内承継に代わる選択肢として検討している。その親族外承継は10年前後の時が準備に必要であるというのが、事例が示唆していることである。
経営者の高齢化が進み、廃業の危機に瀕している島根の中小企業にとっては、親族外承継は時間がかかりすぎ、選択肢になりにくい、というのが事例の示唆ではないかと、私には思える。しかし、久保田報告では、この点への言及がなく、親族外承継を1つの選択肢として評価し、その裏付けとして実際に親族外承継が実現している事例を利用しているように見える。いま島根県の中小企業にとって必要な事業継続への試みは何か、という検討課題に対しては、親族外承継は時すでに遅し、ということになるのではないか。事例からの示唆は、親族外承継が政策的に推奨されているが、それは経営者の年齢等や承継の逼迫性から考え、意味がある選択肢とは言えない、というのが事例の示唆であろう。
それゆえ、事例の示唆から一定の意味があると思われる政策は、M&Aそれも当該事業の既存の事業地域での継続を保証するようなM&A以外にない、ということになろう。報告者の言葉を使って言えば、「地方の中小企業でニーズが高まっている親族外承継」には長期にわたる後継者による「人材マネジメント」が必要であり、即効性のある方法ではない。この点こそが事例の最重要な含意であろう。問題意識で述べている「後継者難による廃業」による「企業の減少を食い止める手段」としての親族外承継は、「人材マネジメント」が必要であり、かつ「充分な期間を与え」ることが必要であれば、地方の現在の喫緊の問題を解決するためには、時間が足りない、とすべきであろう。
となれば、残された選択肢は、事例でも紹介されているような、元来の事業を地元で継続可能とするようなM&Aということになろう。単なるM&Aで事業の一部が何らかの形で継続されるのではなく、地方の地域経済にとっては、買収される側の事業が既存の立地地域で維持されることが極めて重要である、というのが報告者の主張である。そうであればそのような形態のM&Aが、どのような条件下で可能となるか、事例を通してさらに踏み込んだ検討が必要となろう。しかし、報告では、最も肝心な主張点になりうると思われるこの点について、支援機関がこの点を考慮することが必要というだけで、突っ込んだ議論や検討は全くなされなかった。久保田氏が親族外承継にも後継者による長期の人材マネジメントが必要である、ということを確認し、主張することに重点を置いたことで、このようになったのかもしれないが。何れにしても、事例の含意についての検討が、私には不十分のように思われる。貴重な事例を発掘しているだけに、残念である。
<分科会報告で質問したかった宇山報告について> 私が聞いた分科会報告で、質問をしそこない、一番欲求不満に陥ったのが宇山報告である。宇山報告のタイトルは、「両毛地域の産業集積における中核企業の役割 −2000年以降における中核企業の事業転換に着目して−」というものである。
かつて乗用車生産企業であるスバルと日産栃木工場、そして三洋電機等の自動販売機等の電気機器生産工場、これらの自動車産業や電機産業企業の完成品メーカー大企業がいくつか立地し、それらのサプライヤとしての中小企業が数多く立地するという、複数の大企業を中心とする企業城下町型産業集積を形成していたのが両毛地域と言える。その中で、日産系の生産が縮小気味であり、電気機器関連産業が顕著に縮小し、従来の企業城下町型産業集積を規模として維持できなくなっているのが、この地域の現状であろう。
他方で、宇山氏も報告の中で言及している点であるが、スバルは近年輸出が好調で、他の大企業の工場と異なり、関連サプライヤも含める形で、両毛地域で生産を拡大している。全体的に縮小が進展する中で、企業城下町を構成していた主要企業の1つだけは好調というのが、両毛地域産業集積の近年の特徴である。明示的には報告で言及されていなかったが、この業績好調のスバルを中心とした下請系列生産体制からはみ出た企業でありながら、域外からの受注を実現し、依然として両毛地域で活発に企業活動を行なっている中小企業が、今回の事例のようである。
しかも、企業城下町を構成していた他の中心的な大企業の停滞や域外転出により、地域としての需要は減っていること、また経営者の高齢化が進展していることもあり、特定加工に専門化した小零細企業層の層としての縮小が見られる状況であるとも、報告で言及されている。
以上のような独自な環境変化のもとで、スバルとの直接取引を中心としていない中小企業の中で、域外からの受注に成功し、企業発展を実現しているのが、今回紹介された3事例である。いずれも宇山氏は産業集積としての両毛地域にとっての「中核企業」と言える企業であるとしている。なお宇山氏の言う「中核企業」とは、レジュメによれば、中小企業白書でいう「「コネクターハブ企業」とほぼ同義」ということである。白書での「コネクターハブ企業」の定義(注)をみると、域外から仕事を地域に持ってきて、自社と地域の企業の生産能力を活用を中心に生産し、多くを域外に販売している企業のようである。かつて大田区の産業集積についての議論で、少数の「需要搬入企業」の存在に注目するという、誤った議論があったが、その際に使用された「需要搬入企業」という概念ともほぼ同義の内容と思われる。
このような宇山氏の議論について、私が学会当日に質問したかったことは、タイトルで宇山氏の言う「産業集積」とはどのようなものを指すのか、かつては確たる「産業集積」が存在したと私も認識するが、現在も本当に「産業集積」と言える存在なのか、あるいは、かつてと同様な「産業集積」と言えるのかと言うことである。さらに、その後、宇山氏のレジュメを読み直し、事例の企業は、宇山氏の言う再編された「産業集積」の中核的存在としての「中核企業」と言える企業なのか、この点も疑問に思えてきた。
最初の疑問は、かつて明らかに存在していた両毛地域の産業集積の現状についての理解に関する疑問である。かつての両毛地域の産業集積は、宇山氏も言及しているように、いくつかの広義の機械工業関連の巨大完成品企業・工場の存在を中核とする企業城下町型産業集積と言える。しかし、宇山氏の紹介する統計による両毛地域のここ10年の動向からも示唆されるように、太田市の輸送用機械を除いて、両毛地域の機械工業は、顕著な縮小傾向を示している。具体的には、スバルを除いた機械工業関連の巨大完成品企業・工場が撤退したり縮小したこと、同時にスバルについては、報告のシート16に示されているように、他の企業と異なり、生産拡大がスバル群馬製作所が立地する両毛地区で生じたこと、このことが大きく影響しているようである。
ここで、宇山氏が「中核企業」としている3件の事例企業を、両毛地区のサプライヤ層との関係で見ると、A社は確かに両毛地区のサプライヤを多数使用するとともに、スバルのTier1企業からの受注のみならず、域外からの機械工業関連以外の仕事の受注の開拓にも成功していることから、スバルの企業城下町型産業集積の一部を構成するとともに、他面で「中核企業」的側面を持っているといえよう。
B社については、受注先は乗用車を含め、多様な全国の機械関連製品の企業から受注するとともに、外注先については、「両毛地域の企業に仕事を発注したくてもできない状況にある」ため、「外注先の範囲:両毛地域から全国に拡大」(シート36)しつつあるということである。両毛地区にも外注先を持っているようであるが、両毛地域内を中心にしているとは言えない状況にあるようである。全国のメーカーから受注し、必要に応じて全国の外注先を利用している企業と描かれている。
かつては三洋電機の自販機関連のサプライヤと言えた第3の事例C社については、現状では、全国を範囲に乗用車関連を中心に、多様な機械機器の発注元を全国範囲で新規開拓し、同時に、加工工程の外注先を両毛地域で利用していたが、両毛地域の外注先利用の前提条件としての豊富な外注先の存在が、「集積の減少によってその条件が失われつつある」(シート45)という状況になっていると述べられている。
このように見てくるならば、2つのことが浮かび上がってくる。3事例とも、広域的な受注を実現しているが、しかし、他方で、自社内の両毛地域内での生産と両毛地域の立地するサプライヤをもっぱら利用して、生産対応しているとは必ずしも言えない。さらに、両毛地域の外注先を利用しようとしても、可能な外注先企業層自体が、廃業する等で縮小しており、域外、それも全国的に外注先を利用することを考える必要があり、かつ実際にそれで対応している部分がすでに存在している、ということが見えてくる。
このような事実は、かつていくつかの機械工業関連の完成品大企業の工場が立地し、それを前提にしていた企業城下町型産業集積が、発注者のスバルのみの拡大のもとで全体として縮小し、広域的に受注開拓する必要が生じただけではなく、ナショナルに受注開拓に成功した企業は、そのための生産を、外注利用を含めたものとして両毛地域内中心で実行することが難しくなっていることを意味する。さらに、今後一層困難になることが予想されることをも意味する。
すなわち、「産業集積」としての両毛地域は、スバルの企業城下町型産業集積としては、一定の規模を維持し、産業集積としてみることは可能である。しかし、今回の宇山氏の事例のような企業にとっては、自らが開拓した域外からの受注に対応するためには、旧来の産業集積が解体しつつあることにより、広域的な発注で対応せざるをなくなりつつあることを意味する。すなわち「中核企業」にとっての両毛地域の産業集積は解体しつつあるということになる。
ということは、「中核企業」とされた事例企業のなかには宇山氏の定義する「中核企業」たり得ないものが存在するということである。域外からの受注を開拓するが、域外を含めて広域的に外注利用し、注文に応じるのであり、「産業集積」に域外から仕事をもたらす「中核企業」ではないことになる。また、このような状況は、宇山氏の集積についての動向把握が妥当ならば、益々増えてくるということも意味する。
両毛地域の産業集積という視点から見れば、このような事態は、スバルの企業城下町型産業集積としての純化と、その他の企業の広域的受発注関係の形成による両毛地域産業集積離れとが、並存している状況といえよう。事例企業にとっては、両毛地域は外注先として活用可能な産業集積でなくなりつつあり、産業集積内の「中核企業」としての存在意義は希薄化しつつあることになる。すなわち、より広域的な取引関係の中で事業を展開するナショナルな企業になりつつあるのであり、いわば、両毛地域産業集積からの卒業生というのが、事例企業のいま向かっている方向であり、今後の姿と言えそうである。
このようにみると、今回の宇山報告のメイン・タイトル「両毛地域の産業集積における中核企業の役割」でいう「役割」については、結論的には中核企業としての存在とその役割は両毛地域の産業集積の性格変化により、終了しつつある、あるいは、中核企業としての存在それ自体が不可能になりつつある、という形で締めくくられるべきであろう。宇山報告の内容に従う限りではあるが。
 なお、私が、報告直後に宇山氏に質問しようとしたことは、以上の議論と多少異なっていた。懇親会の席上で宇山氏と多少の会話をした際には、事例の動向から、両毛地域の産業集積が解体しつつあるのではないか、という形で疑問をぶつけた。一面では正しい理解だと、改めて感じてはいるが、それは一面に過ぎず、スバルの両毛地域の企業城下町型集積自体は再生産されている可能性が高い。この点には理解が及んでいなかったと、現時点では考えている。

注:中小企業白書ではコメクターハブ企業を以下のように定義している。「「コネクターハブ企業」とは、地域の中で取引が集中しており(取引関係の中心となっているハブの機能)、地域外とも取引を行っている(他地域と取引をつなげているコネクターの機能)企業をいう。ここでは、その中でも特に地域経済への貢献が高い企業、具体的には、地域からより多くの仕入を行い、地域外に販売している企業をコネクターハブ企業としている」(『2014年版 中小企業白書』第4部第3章)

2018年9月14日金曜日

9月14日 中小企業学会第38回全国大会参加日誌その1

2018910日〜14
日本中小企業学会第38回全国大会 参加日誌
於:武蔵大学 2018年9月8日、9日 
1 国際セッションと統一論題に関して
 本年度の中小企業学会全国大会は、武蔵大学で98日と9日に、例年通りの丸二日間の日程で開催された。今年は、大会中の責務がなかった昨年と異なり、2日目の午前に設定された第7分科会の座長を務めることが決まっており、分科会の全てのコマについて、自由に選んで一般参加者として参加することは許されなかった。何れにしても、大会には、第1日目の分科会から始まり、2日目午後の統一論題のパネルディスカッションまで、2日間すべての報告と討論に、サボらず参加した。
 参加した分科会を記せば、次のようになる。第1日目の午前は、第1分科会第1報告の植田浩史報告、第2報告の宇山翠報告、第3分科会の第3報告の上野敏寛報告を聴いた。また、第1日目午後は、国際セッションで、韓国カトリック大学のキム・キーチャン氏とオーストラリアニューイングランド大学のKotey, Bernice氏、これらお二人の報告を聞いた。2日目の朝は座長として第7分科会に出席し、足立裕介報告と松下幸生報告を聞いた。また、統一論題もきちんと出席し、額田春華報告、竹内英二報告、久保田典男報告を聞いた。国際セッションを除き、予定討論も行われ、それらについてもすべて聞いた。
ただ例年と異なり、分科会での私自身の質問は、植田報告に対してだけにとどまった。第7分科会でも、座長としても特権を利用せず、時間係に徹した。また、統一論題のディスカッションにおいても、あえて質問しなかった。分科会については、質疑の時間が短く、他の方が積極的に質問をされていたこともあり、手をあげるのを自己規制した側面が強い。このこと自体は、学会としては極めて健全で、良いことだと思う。しかし、そのため、自身にはかなり欲求不満が溜まったことも事実であり、この日誌を早速書き始めた。以下では、2日間すべての日程に参加した中で、特に感じた点を、私のコメントを含め、書いていくことにする。
<国際セッション報告について> 国際セッションは「中小企業の人材育成とHumane Entrepreneurship」というタイトルであった。統一論題が「中小企業と人材:人材育成に期待される中小企業の役割」であったように、中小企業の人材育成を軸にし、それと企業家精神との関係を議論するものと、私は理解していた。しかし、そこでの報告の1つは、基本的に「中小企業」視点の欠けている議論であった。‘Humane EntrepreneurshipTheoretical Model and its Application’というタイトルであった。まさに国際セッションの後半部分のタイトルそのものをタイトルとしている議論である。しかし、実際の報告は、キム氏の持論と思われる‘Humane Entrepreneurship’についての議論の紹介に終始し、セッションのタイトルの前半部分を完全に無視していると、私には理解された報告であった。すなわち、企業一般についての議論であり、念頭に置いているのは話の中での言及からサムスンや京セラといった()大企業のようであるが、何れにしても中小企業を意識している議論では全くなかったように感じられた。企業一般における被雇用者のEntrepreneurshipの欠如の問題と、それを組み込んだ時の他の問題を解決するために、Humane Entrepreneurshipが有効であるという議論と、私は理解した。
この議論を、経営学会や企業家精神ないしは労務管理を議論する学会で取り上げるのであれば、大きな違和感を感じることはなかったであろう。しかし、報告された場は日本中小企業学会であり、そこで「中小企業の人材育成」という限定がついている場での報告としては、「それでは中小企業ではどうなのか」が全く議論されない報告は、当学会では場を得ない報告であったといえよう。事前の打ち合わせが不十分であったのか、あるいはキム氏がタイトルを理解していなかったのか、その理由は全くわからないが、結果的には課題と適合していないと、私には思えた。
もう一人の報告者、Kotey氏の報告であるが、これは、報告のタイトルである ‘Human Capital Development in the Entrepreneurship and SME Sector’ に現れているように、中小企業での人材育成の側面を持つ報告であり、またその他の部分についても、中小企業を念頭に置いた議論であったと言える。その意味ではキム氏の報告のようにメインタイトルとの間の齟齬を感じることはなかった。ただ、私はこのタイトルを見て、誤解をしたらしく、中小企業内での人材育成と企業家精神と思ってしまった。が、どうもそうではなく、中身は、起業家教育による起業家についての人材育成と中小企業被雇用者としての人材の育成という、2つの話を一体にしたものであった。配布されたレジュメでは、前者が6ページ、後者が3ページとなっていた。
しかし、奇妙なのは、2つの話が、結論でまとめらることなく、完全に並列的に存在していたことである。パワーポイントの最後のシートは、‘Effective HRM in SMEs’(「中小企業での効果的人材マネジメント」と私は訳した)というタイトル通り、後半3ページの部分のまとめであり、2つの部分の総括の部分が全くない報告要旨となっている。私の近年の英語の聞き取り能力はかなり低下しているので、報告そのものでは何か言われたのかもしれないが、私にはそのように聞き取れなかった。レジュメに結論的な部分がないというのはあり得ないとも思えるので、2つの話を合体させただけの報告ということであろう。何れにしても、Kotey氏の報告は、実証的研究をまとめたものとして提示するものではなく、また理論的に突っ込んだ議論をしているものでもなく、ただ、起業家精神についての学校の各段階での教育と、中小企業内部での人材育成とを、氏の視点で整理しただけのものと言える。紹介の域を出ていないと感じられた。
これら2つの報告のいずれについても、私の語学力のせいでもあるかもしれないが、わざわざお招きして中小企業学会で報告していただく意味を、残念ながら見出せなかった。
<統一論題「中小企業と人材:人材育成に期待される中小企業の役割」について> また、額田春華会員、竹内英二会員、久保田典男会員による統一論題報告について、三井逸友会員によるコメントがフェイスブックにすでに載ったが、氏の意見は、まとめれば、統一論題にも関わらず、3者の議論が「噛み合っていない」というものであった。統一論題のそもそもの理念に照らせば、極めてもっともな批判であり、私も同感である。が、そもそも多様な人材教育の主要な幾つかの側面の1つをそれぞれが選択し、それぞれが選択した側面について議論するという構成なので、噛み合うことが当初より困難な設定であったと、私には思われる。それゆえ、それぞれの対象についてのそれぞれの実証的研究それ自体について、評価検討することが、まずは必要であろう。
中小企業での女性労働のあり方を富山の事例を通して検討した額田報告は、零細企業を除いた中小企業として見ても、女性の参加の仕方には中小企業内での規模による差異が存在し、その境目が製造業中小企業の場合50人前後にありそうだ、という発見をしている。それが何故生じているか、またそのことが何を意味するかについての十分な検討は、今後の課題と言えるが、事例調査を通じての新たな発見を提示し、問題提起した報告と言える。
第2報告である竹内報告は、自ら参加したアンケート調査結果と補完的インタビュー調査をもとに、日本の中小企業における外国人労働者のあり方が、その外国人労働者の在留資格の差異によって、顕著に異なることを明確にしたものであった。外国人労働者の人材育成といっても、その存在形態の差異の存在を念頭において行わないと、大きな混乱を招くことを、データをもって示した報告であった。
さらに第3報告である久保田報告は、島根県の事例を通して、中小企業経営者の高齢化が進行している中で、事業を承継する親族が存在しないために、現経営者のリタイアにより廃業の可能性が極めて高くなっている状況の打開策を模索したものである。そこでは親族外承継の可能性とM&Aを通しての事業継続について、事例を通してその可能性の存在を示している。親族外承継においては長期の人材育成・人材マネジメントが必要であることや、当該地域の事業継続が地域として求められている中、そのような内容を含むM&Aも存在しうることを発見した報告とも言える。
いずれも実態調査研究を通して、それぞれの対象と視点から、一定の発見を行ったことの報告であると言える。その上で、その発見を中小企業の人材育成の観点から、どのように位置づけ解釈するか、という点に突っ込むことが、研究としては求められる。しかし残念ながら、どの報告もそのような意味での、共通論題を巡ってかみ合うような形での、発見した事実についての理論的なツッコミには至っていない。まずは、それぞれの対象で調査を通して発見したことの報告にほぼ留まっている。
ということは、三井逸友会員がフェイスブックで指摘したような統一論題「中小企業と人材:人材育成に期待される中小企業の役割」を巡ってかみ合うような報告にまで、発見を昇華できていない報告と言える。それぞれが統一論題に含まれる対象をそれぞれなりの関心で選択し、そこで一定の発見を実態調査から実現した報告にとどまっている。それゆえ、それらの発見をいかに中小企業の人材育成をめぐる議論の中に位置付け、かつ意味付けるかは、中小企業学会会員それぞれへの宿題となったとも言える。
それゆえ、統一論題についてコメントするとしたら、それぞれの報告での発見について、その発見の理解等について、まずは言及すべきであり、その上で、それぞれの発見を中小企業の人材育成についての議論の中に位置付け、かつそこから得られた理論の発展への含意に言及することとなろう。

9月14日 小論 FTのモバイクについての記事でシェア経済を考える

 下記の小論は、9月6日付のFT記事を巡るものである。もう少し早めにブログにアップするつもりであったが、7日から日本中小企業学会の全国大会がらみの行事が入り、遅れてしまった。全国大会についての日誌も、素稿ができたので、以下の記事ついてのメモを見直し、多少手を加え、ブログにアップすることにした。

小論 FTのモバイクについての記事でシェア経済を考える
A.  Bounds,Manchester thieves too much for Mobike’ FT , 6 Sep. 2018, p.13 

タイトル 「マンチェスターでの窃盗、モバイクにとって多すぎ」
<見出しの文章1> 「そのグループは、自社の自転車は ‘vandal-proof’(壊れない?:引用者)だと言っていた。しかし、ある地方はこの点について挑戦しているように見える」
<見出しの文章2 >「シェアリング経済が世界を支配しつつあるようだが、しかし、その限界が北イングランドの都市、マンチェスターで明らかになってきた。そこでは、中国の自転車貸出会社、モバイクが、広範な破壊(バンダリズム)と窃盗ゆえに撤退を決めた」

本文によれば、「モバイクはロンドンやニューカッスル、オックスフォード、ケンブリッジや他の欧州の諸都市では営業を続けると言っている」としているので、全面的な欧州からの撤退ではなさそうである。しかし、中国のシェア自転車でのトップが、グローバル展開をする中で、マンチェスターでその業務を維持できないと判断したことは、ある意味で興味深いことである。
 また、他のシェアリング自転車企業の例でも、フランスでは4ヶ月で60%の自転車が壊されたといったことが報告され、イタリアやオーストラリアでも破壊が報告されていると紹介している。さらに、自転車置き場を使用する形でも、ミルトンキインズで15ヶ月で20万ポンドの損害を被ったといった例も挙げられている。
 このような経験から、シェリングモデルがどこでもうまくいくかどうか、この記事では疑問が呈されている。

*中国でそれなりに機能していると言われているモバイク等による自転車のシェアリングが、欧州やオーストラリアの一部の都市では、うまく機能していない、というこの記事をどのように考えたら良いのであろうか。中国での成功モデルも、多くの自転車の荒っぽい扱いの事例を含みながら、それなりに事業として回り始めている、と言える。決してバンダリズムにあっていない訳ではない。しかし、その比率が、活用される状況に比して相対的に少なく、コスト的に合うものとなっている、と見ることができよう。
 すなわち、このことの中心的な意味は、まともに使う人の比率と、破壊したくなる人の比率の問題ということなのかもしれない。シェア自転車へのニーズが高い都市では、破壊される自転車1台に対して相対的に利用する頻度が高く、それによる収入が大きくなることになる。モバイクが言っている ‘vandal-proof’ の意味は、破壊されても、それを補って余りある収入を、まともな利用者から得ることができる、ということを意味していることとなる。
私の手元にある英和辞書によれば、 ‘-proof’ には「・・・を防ぐ」とともに「・・・に耐える」という意味もあるそうである。ということは、モバイクの場合の ‘vandal-proof’ とは、モバイクの自転車は壊されない、ないしは物理的に耐えることができ壊れないという意味で壊れにくいというのではなく、モバイクの自転車は壊されても商売としてそれに耐えうる、という意味ということになるのであろうか。それゆえ、破壊の比率が相対的に高いマンチェスターからは撤退することにしたが、ラスト1マイルでの利用が多く見込まれる中国の諸都市やロンドンでは成功する、あるいは成功の可能性が高いとみて、経営を維持し続けるということなのであろうか。
このような理解が妥当であれば、シェア経済が成り立つかどうかは、シェア対象物が破壊される可能性が高いとしても、それ以上に十分利用されるかどうかにある、ということになろう。当然なことであるが、このことは、他人のものであろうと大事に扱う習慣がある社会、すなわち破壊の頻度が低い社会では、シェア経済は成り立ちやすいということを意味する。同時に、それとともに、破壊の頻度は高い社会であっても、それを補って余りある利用頻度、ニーズが存在する社会でも、シェア経済は十分に成り立つということであろう。
どんな社会でもシェア経済は成り立つわけではないが、破壊の程度によるのではなく、ニーズと破壊頻度のバランスで、シェア経済が成り立つかどうかが決まるということになる。当然、破壊がほぼなくとも、ニーズがなければ、これまたシェア経済は成り立たない。日本のどこかの地方銀行の融資を利用して建てられたシェアハウスのように、小ぎれいに建てたとしても、また住んでいる人が「破壊」することなく使用したとしても、相対的なニーズの量を無視し、建てるシェハウスの数にあった規模で住む人を集めにくい場所に建てれば、シェアハウスとしては経済的に成り立たないのである。
また、破壊がかなり存在し、自転車をぞんざいに扱う人や盗む人が多いとしても、他方でその自転車を利用する人が十分多く存在すれば、シェア自転車は経済的に成り立つということになる。このような状況が中国の大都市であろう。それに対して、マンチェスターの場合は、ロンドン等と同様な破壊水準であったとしても、ニーズが少ないからもバイクは撤退したのか、それともニーズは他の英国の大都市と同様な水準にあったが、破壊の頻度や程度がより高かったのであろうか。モバイクの担当者に伺ってみたいところである。私がしばらく滞在していた30年以上前の英国であれば、すなわちフーリガンが話題になっていた頃の英国であれば、後者の可能性が高いと思われるが、今は、いかがなのであろうか。
 視点を変えてみると、シェア経済というのは、本当にものを大事に有効に使うことなのであろうか、という論点が浮かび上がってくる。シェアバイクの経済的存立の論理を前提にすると、必ずしも、そのようにいうことができそうにもないことになる。
確かに、シェア経済により、使用されていない時の多い個人が所有する財について、シェアすることで稼働率は高まり、その限りでは、財の有効利用ということになろう。しかし、同時に個人の所有する財であるがゆえに、メンテナンスがきちんと行われる可能性は高くなり、窃盗等に遭遇しないように所有者である使用者が努力する可能性も高くなる。それに対して、この記事に見るように、窃盗や破壊を前提にそれを上回る利用率の高まりを求める、これがシェア自転車の現実ということもありうる。自転車では、ライドシェアなどと比較して財の扱いの差が大きくなるであろうし、また、破壊にあう可能性も高くなりそうである。走行距離の差異以上に耐久性が落ちるのではないだろうか。

2018年9月13日木曜日

9月13日 庭の芙蓉と白い百日紅、夜香木

庭の芙蓉が花盛りを迎えています。
涼しくなり、多少色が濃くなったように感じましたが、
写真にはあまり反映していないようです。

タネがこぼれて生えた手前の芙蓉も、
いくつもの花をつけいます。
手前には、白い百日紅が。

夏の初めに咲いた花は、たくさんの実がつき、
テラスの屋根にぶつかり、うるさかったので、
いくつもの実の塊を、
枝ごと切り落としました。
秋口になり、また蕾がたくさんつき、
白い花をたくさんつけ始めました。

まさに百日の花の木、
これは紅ではなく白い花の百日ですが。
まだ蕾もたくさんついており、
秋が深まるまで楽しめそうです。

テラスの夜香木も2度目の満開、
暗くなると、南風に乗って、
家中に香りを漂わせます。