2016年4月9日土曜日

4月9日 加藤弘之『中国経済学入門』を読んで


加藤弘之、2016『中国経済学入門 「曖昧な制度」はいかに機能しているか』
                   名古屋大学出版会 を読んで考えたこと
渡辺幸男


(以下で見る加藤弘之氏の近著は、中国の経済発展を考えるうえで、大変重要な問題提起をし、加藤氏なりの回答を行っているという意味で、注目に値する著作である。それだけではなく、中国の産業発展をどのように考えるべきか悩んできた私にとっても、ある意味で大変示唆的な著作である。私の近著、2016『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』(慶應義塾大学出版会)での認識を念頭に置きながら、加藤氏の議論を紹介し、私なりに検討し評価する)

目次
はじめに
1,著者の言う「曖昧な制度」の各章での具体的内容
2、多様な状況を「曖昧な制度」という概念で括ることの意味
3、中国への現状についての著者の評価
4、混合所有企業、混合市場と市場の効率性
5、垂直分裂システムと「曖昧な制度」
6、小括
参考文献



はじめに
 本書は、タイトルが中国経済入門では無く、中国経済学入門と明記されているように、中国の資本主義発展をどのように把握すべきかについての、著者の基本的考えと、その考えで独自な現代中国での経済現象を説明することを試みた著作である。著者は、中国資本主義を経済理論、少なくともこれまでの先進資本主義国で開発された経済理論では、説明し難い諸現象により発展していると把握する。さらに、この中国独自の資本主義が、著者の言う「曖昧な制度」という考え方を組込むことで、説明可能になると主張する。すなわち、中国の独自性把握の論理を追究した著作である。中国を独自な資本主義、中国型資本主義として把握し、それをいかに説明するか、経済理論から見たら中国が異質であると切り捨てることなく、それ自体を論理的に説明する試みでもある。
 既に著者は、2013年に『「曖昧な制度」としての中国型資本主義』(NTT出版)で、この議論を展開しているが、その後の「曖昧な制度」を巡る研究者間での論争を踏まえ、その事実上の改訂版として出されたのが、本書である。
 加藤氏の中国資本主義の独自性を「曖昧な制度」という考え方で把握するという議論は、私にとっても大変興味深い議論である。私も日本資本主義の持つ独自性を、どのように把握すべきか、具体的には、日本独自の取引関係と言われた下請系列取引関係を中心に研究してきた。そこでの結論は、日本資本主義は独自であるが、それはそれぞれの国民経済が独自であると同様な独自性であり、その資本主義、国民経済が置かれた時代的な内外の経済・市場環境によって、経済学的に説明可能である、というものであった。さらにいえば、経済理論とは、理論研究者が典型的と考えた特定の資本主義、多くはその時代における支配的資本主義経済を念頭に、抽象化、論理化された経済的構造であり、経済的行動である。
 他方で、故中村精氏が主張されたように、日本の資本主義の独自性を、日本社会の伝統的な関係、 タテ社会というような日本社会の歴史的特性に着目し、経済外的に下請系列取引関係の形成を説明しようとした議論(中村精、1983『中小企業と大企業 日本の産業発展と準垂直的統合』(東洋経済新報社)を参照)も存在した。2000年から中国の産業発展を見てきた私にとって、中国資本主義の独自性は痛感されており、その独自性を、私の基本的な発想法から、どのような把握できるか、繰り返し考えてきた。そのような中で、加藤氏の『「曖昧な制度」としての中国型資本主義』に遭遇し、自らの考えをまとめる手がかりを得た。その手がかりを元に、拙著、2016『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』(慶應義塾大学出版会)をまとめた。
 この拙著を出版したのと同じ時期に、加藤氏も前著の改訂版ともいうべき本書を出版され、加藤氏から頂くこととなった。それゆえ、改めて、改訂版である本書をどのように見るべきか、そこから、加藤氏の言う中国型資本主義がどのようなものとして見えてくるか、これを探りたくなった。その加藤氏の改訂版での発想法を、筆者なりに整理し、検討することを目指したのが、この小論である。

1,著者の言う「曖昧な制度」の各章での具体的内容
 それぞれの章の課題に関連して、加藤氏の言う中国型資本主義の中核を構成する「曖昧な制度」を、具体的にどのようなものとして示しているか。この点をまずは見ることにする。
 第Ⅰ部は「基礎編」であり、著者の言う「曖昧な制度」の抽象的な規定を示している。そこでの定義は、「「曖昧な制度」とは「高い不確実性に対処するため、リスクの分散化を図りつつ、個人の活動の自由度を最大限に高め、その利得を最大化するように設計された中国独自のルール、予想、規範、組織」をさす」(p.30)とする。ここでは、「中国独自のルール、予想、規範、組織」の「中国独自」が著者にとっては、最も重要な点であろう。本文での展開から考えれば、この「中国独自」は、中国でしか存在しないことは当然として、中国の100年を超えて維持された「ルール、予想、規範、組織」として存在している「中国独自」ということになろうか。それとも、「中国独自」であれば、歴史的・時間的な広がりとは関係なく、このような内容のどのような「ルール、予想、規範、組織」も含まれるのであろうか。このような定義についての理解の幅を念頭に置き、以下では、「第Ⅱ部 応用編」の各章での「曖昧な制度」の具体的な機能として提示されたものを見ていくことにする。
 まず「第3章 進化する土地の集団所有」では、「土地の集団所有という「曖昧な制度」が有効に機能している事例」(p.58)をとりあげている。そこでは、国有でも民有でもない土地所有として、土地所有の中間的形態であるがゆえに、中国独自の「曖昧な制度」とされている。しかもその独特な土地所有制度が、「土地私有化が引き起こす恐れがある問題を回避しつつ、土地の有効利用を実現する」(pp.7475)等で、制度が継続されているばかりではなく、独自の有効な機能を発揮しているとする。
 さらに、「第4章 市場なき市場競争のメカニズム ―成長至上主義からの脱却―」では、「行政権限の中央から地方への委譲という請負構造を前提として、昇進を競う官僚に大きな自由裁量権を与え、その業績評価を上級政府が行うことで地方の独断専行をコントロールする・・・維持される「曖昧な制度」」(p.75)としている。ここでは、中間領域故の曖昧さではなく、「包」(請負)という概念に直接つながる請負であるがゆえに、「曖昧な制度」とされている。それが、一面では「高度成長の源泉」(p.93)となっているとする。
 また、「第5章 混合所有企業のガバナンス ―ナショナル・チャンピオンを創り出す―」では、「国有と民営の要素を合わせ持つ混合所有企業という「曖昧な制度」」とし、「大半の競争的市場において混合所有企業が効率的に経営できている理由を」(p.94)分析している。「混合市場の効率性は、市場の秩序と混合所有企業の経済パフォーマンスの二つによって決まる」(p.101)としている。また、「混合所有企業」は「与えられた環境のもとで自己増殖を追求する資本の一形態として、限りなく民営企業に近い効率性を追求している」(p.103)とのべている。
 ここからは、形態ではなく、すなわち、著者の言う「曖昧な制度」という企業の所有形態の曖昧さではなく、企業が置かれた市場環境によって、効率追求企業となるかどうかが、基本的に決まると述べているようにも取れる。そうであれば、所有形態として「曖昧な制度」であるかどうかは、問題ではなく、多様な所有形態の企業が、どのような市場環境に置かれているか、後者の問題こそ、効率性を規定するということになろう。
 さらには、「「所有と経営の分離、中国型」が確立されていることが、混合所有企業が高い経済パフォーマンスを実現した理由」(p.108)とものべている。ここからは、所有形態ではなく、経営がどのような論理で動いているかが重要であり、競争的市場で企業が生き残ることを追求する経営であれば、所有形態はほとんど関係ないということを、著者自身が述べていることになる。
 「第6章 中国式イノベーション ―「曖昧な制度」が促進する技術革新―」では、「最先端の技術ではなく、その技術をもとに実用的な改良を加える技術革新(中国式イノベーション)が中国で生まれた要因を検討し、「垂直分裂システム」という「曖昧な制度」がそれを可能にしていたことを」(p.117)明らかにしようとしている。すなわち、「垂直分裂」が「曖昧な制度」そのものとされている。また、その章では、「複雑なバリュー・チェーン」を「角度を変えてみれば、垂直統合された巨大企業のような固定的組織を作らず、相互に関連する組織や個人が自由に結合と離脱を繰返す中でしだいに形成された、「包」(請負)の連鎖構造と捉えることができる」としている。すなわち、著者は、中国の携帯電話産業におけるような「垂直分裂」的社会的分業を、請負になぞらえている。そうであるならば、中間財の取引はすべからく請負ということになりかねない。結果として著者の言う「包」(請負)は、中間財の市場取引を全て包含する概念となり、逆に「包」(請負)ということの意味がなくなるといえるのではないかと、わたくしに思われるのだが。
 第Ⅱ部の最後の章、「第7章 対外援助の中国的特質 ―グローバル・スタンダードへの挑戦―」では、「ひとまず大きな構想を提起し、細部は後から詰めればよいとする手法」は、「「曖昧な制度」に特徴づけられた中国独自の制度の設計思想に基づくものである」(p.150)としている。「曖昧な制度」は、政策構想立案の考え方とされている。
 以上をまとめてみると、土地所有の中間的形態として、「包」(請負)という概念に直接つながる行政権限での中央から地方への請負として、企業の所有形態での混合性と市場での多様な所有形態の企業の混在として、垂直分裂システムそれ自体として、細部を後から詰める政策構想の立案の仕方として、それぞれ「曖昧な制度」の内容が示されている。その中で、経済学的概念の中間的形態として曖昧な制度であるとしているのは、土地所有と企業の所有形態にかかわる部分である。それに対して、曖昧な制度としての請負は、行政権限と垂直的社会的分業について言われている。最後は政策発想の順序を巡り曖昧さが指摘されている。

2、多様な状況を「曖昧な制度」という概念で括ることの意味
 以上見てきたように、著者は、多様な内容を持つ制度群を「曖昧な制度」として括っている。著者が本書で行っているように、これらの現象について「曖昧な制度」として括ることで、何か社会科学的な意味があることで括っているのであろうか。それとも、色々な曖昧さが市場経済化以前から中国社会にはあり、その多様な曖昧さが、現在の市場経済での中国の独自性をもたらしている、という意味で、それらを「曖昧な制度」として括っているのであろうか。本書の脈絡から言えば、後者のように思える。「中国独自のルール、予想、規範、組織」として、著者は、それらを「曖昧な制度」と呼んでいるのであろう。著者にとっては、中国型資本主義の伝統社会から受継いだ特徴をもたらすものの総称として、「曖昧な制度」といっているように理解される。
 このような視点から加藤氏の議論を検討するならば、第一に、私には、曖昧さと著者が主張している多様な中身を、中国の市場経済化以前からの制度の性格として、1つに括って「曖昧な制度」とすることの必要性が感じられない。経済的概念の中間形態であるという意味での存在の曖昧さと、「包」(請負)という時の取引関係での一括請負の持つ裁量権の請負う側への委譲ということでどのように委託されたことを実現するかの不明確さという意味での曖昧さでは、根本的に内容の異なる曖昧さであり、それらを一つの概念「曖昧な制度」と呼ぶことに、分析上の意味があるとは思われない。前者については、中国の実態の中には、既存の経済理論の概念からは把握できない、中間的形態の存在があり、それであるがゆえに有効に機能していると、述べる必要があろう。後者については、それとは異なり、制度としては明確であるが、委託相手に裁量権を委譲するような取引関係が広範化しているとすべきであろう。このような意味で、これらを一括りで「曖昧な制度」と呼ばず、中国の資本主義以前からの伝統の影響をより一般的に表現する概念を使用してネーミングした方が、著者の議論としては、より適切なものといえるのではないかと思われる。
 さらには、次に検討するように、この四つの「曖昧な制度」の中には、著者の言う「曖昧さ」ゆえに有効に機能しているというより、曖昧でも機能している、否、曖昧にもかかわらず機能している、すなわち、著者の言う「曖昧な制度」以外の他の要因が働くことで経済の効率性の実現を可能にしている、ということができるような議論が、著者自身によってなされている。その限りでは、中国型資本主義の発展は、著者が主張される意味での「曖昧な制度」故に生じているとも言えなくなる。
 以下では、私が専門と関連している、市場経済における中国企業の考え方と、そこでの競争についての議論にかかわる、すなわち、垂直分裂システムと呼ばれているものについての議論と、企業の所有形態が混在しているという意味の混合所有企業の存在と多様な所有形態の企業が混在するという意味での混合市場についての議論を取上げ、本書でどのように議論がなされているかを多少詳しく紹介する。その上で、その議論の意味するところと問題点を指摘し、私なりの説明論理を、「曖昧な制度」に依存することなく展開する。それを踏まえ、「曖昧な制度」の内容が多様であることを整理して中国型資本主義を議論すべきであるという言う以前に、これらについては、「曖昧な制度」という概念を導入することなく、広い意味での経済学的な概念で充分説明可能であることを示したい。

3、中国への現状についての著者の評価
 著者は、「多様な資本主義が存在していることを前提として、中国型資本主義もその一つの形態であると捉えている」(p.17)とのべている。
 私も、著者と同様に、中国型というべきかどうかは別として、日本の資本主義と同様に、中国も独自な資本主義であり、そのそれぞれの独自性の中に、日中ともに高度成長を実現できた要素が存在すると考えている。
 その上で、著者は、「旧ソ連や中東欧等の移行国とは異なり、中国は35年を超えて高度成長を持続するという優れた経済パフォーマンスを実現できた。その理由は他でもなく、中国が長い歴史的伝統を継承しつつ、30年の集権的社会主義の実験を乗り越えて形作ってきた独自の経済システムの優位性にあったと考える」(p.22)とする。ここに著者の「曖昧な制度」への回帰の原点がある。また、この点こそが、私と決定的に認識が異なる点である。
 私は、日本の資本主義の戦後の発展を、戦後の世界経済の中で日本資本主義が置かれた経済環境と、戦前・戦中からの製造業等での技術や人材の蓄積といった経営資源の蓄積、そしてそれらが活用された市場とその環境により、充分説明可能だと考えてきた。それゆえ、わたくしは、「高度成長を長期に実現した」「中国の独自な経済システムの優位性」について、日本の高度成長と同様に、その直前の状況に基づくことで、充分説明可能であると考えている。まさに改革開放の際に中国が置かれた独自な内外の経済環境、市場環境こそが、持続的な高度成長、私にとっては持続的な産業発展を可能にしたと考えている。
 以下では、著者が「長い歴史的伝統を継承」する「曖昧な制度」まで戻って議論することで、初めて説明可能となるとしている、いくつかの現代中国での経済現象のうち、私が産業発展との絡みで議論可能だと考える二つの現象について取上げ、著者の主張を整理するとともに、それを批判的に検討しながら、私自身の説明を展開したい。その一つは著書の第5章で取上げられている混合所有と混合市場での効率性の説明に関してである。もう一つは、第6章で、中国式イノベーションとの関連で取上げられている「垂直分裂システム」についてである。

4、混合所有企業、混合市場と市場の効率性
 著者は、「同一市場において国有と民営が並存し競争する「混合市場」」と、「同一企業の中に国有の様相と民営の要素が並存する「混合所有」」(p.98)を区別しながら、両者を包含した中国の競争的市場が、効率性の面で大きな制約となっていない、という議論を展開している。
 すなわち「混合市場の効率性は、市場の秩序と混合所有企業の経済パフォーマンスの二つによって決まる」とする。その上で、著者は「何らかの規制が加えられない限り、資本はその自体が増殖を追求する存在である」としたうえで、「混合所有企業という国家資本も例外ではなく、政府の思惑がどうであるにせよ、与えられた環境のもとで自己増殖を追求する資本の一形態として、限りなく民営企業に近い効率性を追求している」(p.103)とする。
 ここから見えてくることは、中国の多くの競争的市場が、混合企業や国有企業が存在している混合市場でありながら、それぞれの企業はそれぞれ資本として自らの価値増殖を追求するがゆえに、競争的市場での競争の結果、市場は効率的になっている、このように主張しているということである。混合市場や混合所有企業であるにもかかわらず、競争的市場では、生き残るため、どのような所有形態の企業であろうと、自己の価値の増殖を追求せざるを得ないと述べているといえる。マルクス経済学の資本・企業の理解からすれば、極めて当然の主張である。競争的市場で生き残ろうとすれば、個別企業は所有形態にかかわらず、効率性を追求するし、せざるを得ない。それを怠れば、市場から排除されてしまう。これが、資本主義における競争的市場の大原則であり、競争の強制ということであろう。まさに、私が見てきた中国の自転車産業では、このような現象が生じている。拙著でも紹介しているように、巨大国有企業として改革開放後も拡大を続けた垂直統合型の国有自転車製造巨大企業は、1990年代以降の市場の変化に対応できず、民営化の後に民営企業に買収され、消滅した企業もある。同時に、民営企業と同様な企業システムを構築しえた旧国有企業については、存立形態を大きく変えているが、いくつかの地方政府の出資を受けながら、トップ企業では無くなったが企業としては再生産している。
 ここからいえること、そして著者が言っていることは、中国の多数の混合所有企業の存在する多数の競争的な混合市場が、効率的なのは、混合所有企業が存在する混合市場なのだからではなく、そのような存在にもかかわらず競争的市場だからということになる。中国で、このような競争的な市場が、何故ここまで広範に多様に形成されたのか、これは、市場の置かれた環境の結果であり、市場内での既存企業の存在の仕方によるといえよう。
 いずれにしても、混合所有企業が存在する混合市場は、中国の「曖昧な制度」故に効率的な市場として機能しているのではなく、そのような形態の市場だが、多様な所有形態の企業が競争的市場のなかで、生き残るために「資本・企業」として、所有形態にかかわりなく価値増殖を追求していることにより効率的市場となっているのである。この点では著者と私の間に差異は無いといえる。所有形態のあり方、その曖昧さではなく、市場の環境こそが重要であるということになる。

5、垂直分裂システムと「曖昧な制度」
 中国製造業、特に競争的市場の環境として多くの論者に注目されているのが、丸川知雄氏が中国産業構造の大きな特徴として強調している垂直分裂である。本書でも垂直分裂システムについて「中国式のイノベーションを可能にした」(p.125)ものとして注目されている。
 本書での第6章では、中国式イノベーションが生まれた理由の第一として、「生産の「フラグメンテーション」が進展し、「中国の沿海地域が、・・・部品生産や最終組立の基地」(p.130)となり、「地元企業への技術のスピルオーバーをもたらし、それが中国式イノベーションを生み出す基礎条件となった」(p.131)とする。その上で、「生産基地としての優位性は、必ずしも中国だけのものではない」のに、「なぜ、中国において、中国式イノベーションが生まれ、隆盛を極めることになったのだろうか」(p.131)と自問している。その理由が「「曖昧な制度」と深いかかわりがある」(p.131)とする。すなわち、「携帯電話産業における複雑なバリュー・チェーン」は「「包」(請負)の連鎖構造と捉えることができる」(p.132)ことから、理由の一つとして「曖昧な制度」が存在し、それが垂直分裂という姿を取るがゆえに中国式イノベーションを可能にしたと主張される。
 「曖昧な制度」の一つの内容として「包」(請負)があり、携帯電話産業における垂直分裂システムの形成は、「包」(請負)の連鎖と把握可能であるがゆえに、中国式イノベーションをもたらした一方の要因として、「曖昧な制度」があるという議論である。
 この議論には、大きく2つの疑問を私は感じる。私もフラグメンテーションの進行が、中国でのイノベーションで一定の役割を果たしていること、特に携帯電話産業でのベースバンドICについては海外メーカーに依存し、その他の部分で開発を行うことでイノベーションが可能となるといった際には、フラグメンテーションの進展が大きな意味を持っているであろうと考える。
 また、著者は、「垂直分裂は、・・・「垂直統合」の対立概念である。・・・「取引費用」を削減するため、組織は垂直統合へと向かう。「関係特殊的投資」を行う必要がある場合、・・・企業は垂直統合を選ぶ」という形で「組織の経済学」を要約し、垂直統合に向かうべきなのに、「中国においては・・・これとは全く逆の現象」(p.126)が生じたと見ている。その理由として、「プラットフォームの機能が充分に働き、固定費が引き下げられ、リスクやインセンティブの問題が解決されれば、垂直統合を必要とする力は弱くなる。さらに低い価格による競争が激しくなると、固定費を回避するために垂直分裂を志向する動きが加速する」(p.129)と説明している。
 以上の議論については、差別化による寡占的支配との関連や市場環境の独自性が議論されていない等、私自身の経済学的な理解とは必ずしも同じではないが、著者はここでは基本的に経済学的な枠組みで、垂直分裂を説明している。その限りでは、「曖昧な制度」とはなんら関係なく、議論が展開されている。すなわち、著者の言う中国式イノベーションという中国独自といえそうな技術的発展は、「曖昧な制度」とは関係なく、フラグメンテーション論と垂直統合論という経済学の論理で説明されうると、著者自身にも考えられているのである。しかしながら、先にも見たように、「携帯電話産業における複雑なバリュー・チェーン」は「「包」(請負)の連鎖構造と捉えることができる」(p.132)ことから、理由の一つとして「曖昧な制度」が存在し、ゆえに中国式イノベーションを可能にしたと主張される。
 私には、ここでの議論に、何故「曖昧な制度」を組込む必要があるのか、全く理解できない。(なお、私自身の垂直分裂が中国の産業で一般化した理由についての理解については、これほど簡単な形ではない。計画経済期の技術蓄積や人材の形成・育成、あるいは巨大な既存大企業や外資系企業に占拠されていない国内市場の存在等、異なる要因も組込んで考えるべきだと考えている。この議論そのものについては、拙著『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』(慶應義塾大学出版会、2016)を見てもらいたい。「渡辺幸男の晴耕雨読日誌(http://sei-ko-u-doku.blogspot.com/)」という私のブログに、垂直分裂システムに議論を絞った、私の考えをアップする予定である)

6、小括
 以上のように見るならば、著者が中国型資本主義の特徴として取上げているいくつかの現象については、「中国型資本主義の本質的な特徴として」の「曖昧な制度」とは関係なく、中国的独自であるとしても経済学的に充分説明できることになる。確かに既存の(開発)理論をそのまま当て嵌めたのでは、所有の問題や垂直分裂の広範化のように理解困難になることもあるが、それは、既存の理論の単純な当て嵌めゆえに生じているのであり、経済学的な理解、説明が不可能であるということを意味するものではない。この点は、先に見たように著者自身の説明が明らかにしている点でもある。
 私が、最初に本格的に学会の議論とかかわった日本の下請系列取引関係も、まさに、経済学的な概念から見れば中間的形態であった。垂直的統合でも無く、かといって垂直的社会的分業(丸川氏の言い方で言えば、垂直分裂)下での(純粋な)市場取引とはいえない形で、下請系列取引関係が存在していた。先に紹介した中村精氏は、このような中間形態であることを念頭に、資本所有関係がないにもかかわらず発注側大企業に下請中小企業が従属するということを意味する準垂直的統合という概念を提起した。その限りでは、極めて適切な把握であり、ネーミングであった。その上で中村氏は、それが何故生じたかについて、中根千枝氏等が社会学の分野で議論されていた日本のタテ社会という伝統に、その成立の根拠を求めた。当時の私にとって、そのような説明は、戦前の下請関係では下請系列的な取引関係が全く存在せず、戦後高度成長期に初めて形成された関係であることを説明することはできないという意味で、許容できなかった。そこから戦後の状況に基づく説明、広義の意味での経済学的な説明の試みを行うこととなった(渡辺幸男、1997『日本機械工業の社会的分業構造 階層構造・産業集積からの下請制把握』(有斐閣)を参照)
 加藤弘之氏の「曖昧な制度」は、特に「包」(請負)は、まさに中村精氏の言う「タテ社会」にあたるといえる。同時に、具体的な現象の説明では、私から見れば、加藤氏は、私同様、少なくとも混合市場の効率性と垂直分裂については、実際には「包」(請負)からの説明にはこだわらず、経済的な説明を行っているように見える。中国の競争的市場での効率性や垂直分裂システムの形成に関して、「曖昧な制度」で説明する必要は無い、これが、著者自身の議論の展開からも確認できたと、私は考える。

参考文献
加藤弘之、2013『「曖昧な制度」としての中国型資本主義』NTT出版

加藤弘之、2016『中国経済学入門 「曖昧な制度」はいかに機能しているか』
                         名古屋大学出版会
中村精、1983『中小企業と大企業 日本の産業発展と準垂直的統合』東洋経済新報社

丸川知雄、2007『現代中国の産業 勃興する中国企業の強さと脆さ』中公新書

渡辺幸男、1997『日本機械工業の社会的分業構造
 階層構造・産業集積からの下請制把握』 有斐閣
渡辺幸男、2016『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』
慶應義塾大学出版会

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