2025年8月25日月曜日

8月25日 ポプキンズ, A.G.著『アメリカ帝国 グローバル・ヒストリー』を読んで

ポプキンズ, A.G.著『アメリカ帝国 グローバル・ヒストリー』

上、下、 (ミネルヴァ書房、2025)  を読んで

 

  渡辺幸男

 

  この著作は、米合衆国の歴史を独立から振り返り、かつての英国の植民地が、独立国になっただけではなく、ある時点からまさにアメリカ帝国となり、対スペインの19世紀末の戦争を契機に、キューバやプエルトリコといった島国をカリブ海で、そしてフィリッピンを太平洋で植民地として獲得し、またハワイもヨーロッパ系の移民を送り込むことで植民地化し、植民地帝国として存在していたことを明らかにしている著作である。

 

 しかし、私は、本書でプエルトリコ等を植民地化した19世紀末の対スペイン戦争以前の歴史として書かれていたこと、これに強く関心を惹かれた。

この著作を読んで、自分が米合衆国についての基本的知識において、極めて曖昧に生きてきたことを、改めて感じたのである。

 米合衆国とその資本主義のあり方について関心があり、その問題性についても色々考えてきたつもりであるが、そもそも米合衆国が、いつどのようにでき、すなわち、本書の最初の部分が述べている、米合衆国がいつ植民地から独立国家になり、南北戦争という内戦を経て、その後、覇権国家の道を進んできたかの歴史的経過そのものについて、時代的、地理的に私の理解が全く曖昧であり、きちんと確認し、理解することができていなかったことを、本書での主題である米合衆国の帝国としての形成過程やその内容そのものを受け止め検討する以前に痛感させられた。

 

 上巻の194ページの「図5−1 19世紀における合衆国の大陸拡張」、そして195ページの「表5−1 合衆国の政治発展の指標としての州設立年」という図表が端的に表していることであるが、米合衆国のそもそもの独立時からの地理的拡張の経過そのものと、それらの歴史年代的な経過さえ、まともに理解できていなかったのである。

 すなわち、米合衆国の独立は1783年、そして南北戦争が始まったのが1861年、これらと、当時の米合衆国を構成していた諸州ないしは地域が米合衆国に組み込まれた経過や時期等についての知識が、極めて不確かなまま米合衆国史を勝手に理解したつもりになり、考えていたのである。

今の時点で考えれば、当たり前のことのようにも思えるのであるが、図の5−1は、独立時の米合衆国の州が、北アメリカ大陸の東の端の部分のみに過ぎず、アパラチア山脈東側の13州のみからなっていたこと、独立後に、他の英国植民地を接収し、スペイン領を手に入れ、西に大きく拡大し、太平洋岸まで到達したことを示している。そして、その進出併合の多くが19世紀に入ってからのその世紀の前半の時期であったことである。そして、同時に、重要なのは、13州で独立したときには、アパラチア山脈の西側にはネイティブ・アメリカンの「国々」、すなわち先住民の生活圏が大きくは傷つくことなく、実質的に広がり、生活圏として再生産していたこと、それらが形式上は欧州諸国の植民地として存在していた。それらを、当時の宗主国から買取り、あるいは宗主国との戦争を通して奪うとともに、そのもとにそれなりに存立を保っていたネイティブ・アメリカンの国々そして生活圏を完全に破壊し、それらの人々を元来の生活空間から追い出し、それぞれのネイティブ・アメリカンが共同体としてもっていた再生産の基盤を破壊したことである。また、そこへヨーロッパ人からの移民の入植を大量に進め、欧州人中心の自国の州として米合衆国に編入してきたことである。

さらに認識すべきは、それが今からたった200年少し前からの事柄であったこと、これらのことである。そして、しかも、これらを知っているつもりになっていて、歴史的に年代的に自分の中で位置付けることなく、私は認識し、理解したつもりになっていたのである。

 

ここで、なぜか先日のアラスカでの米露首脳会談を思い出した。アラスカはかつて一時期ロシア帝国の領土であった。それは当時ネイティブ・アメリカンが住んでいた今のアラスカの地を、ロシア人が1741年に「発見」し、1799年にロシア領とし、1867年に米合衆国がロシア帝国より買収した結果のことである。このことは、今のロシア連邦、そして前身の旧ソ連やロシア帝国のシベリアや極東の地が、ロシア人により「発見」され、ネイティブの人々の存在とその生活空間を無視し、ロシア帝国領とされ、ヨーロッパ系のロシア人が移住し作られたロシアのシベリアや極東地方、その東の先端がアラスカであったこと、このことを示している。

何故か、米合衆国の西部へのネイティブ・アメリカン社会を破壊しての拡大とロシア帝国今のロシア連邦東部への拡大、ネイティブ社会を破壊し、欧州系ロシア人を入植させ、植民地化した動きが、重なるのである。これらは、多少時代のずれがあるものの、ほぼ同時期に行われ、アラスカで米露が巡り合い、ネイティブ民族の存在を無視して、占領者による勝手な土地の売買取引が行われた。そして、今の米露の国境が確定された、といえる。

欧州の他の植民帝国は、ネイティブの人々を結果的には皆殺しにし、欧州人とアフリカ人を送り込んだ地域を含め、植民地母国の欧州諸国と地理的に大きく離れていたが故に、第2次大戦後、多くの地域が植民地の立場を脱し、独立することになった。南米大陸の多くの国は、この点では異なる歴史的経過を経てはいるが。

しかし、ロシアの東部地域と米合衆国の中部や西部地域の植民地地域は、本国と地続きであるがゆえか、欧州人による植民が数の上で圧倒しただけではなく、米露という植民を行った欧州人の国土そのもの一部とされてしまった、と言えそうである。この一点でも、両国は似ている。トランプとプーチンの両氏が、現代の主権国家の国境について、自国の利害で変更可能かのように考えている点で似ているように、両国の国土の拡大形成経過も似ているように見える。

もちろん、ロシア帝国は、他方で地続きでありながら、人口的に大きくかつ密であり民族としての独自文化を強固に育んできた中央アジアの諸民族については、それを自国帝国内に民族的存在のまま取り込んでいるようであり、全面的に民族の破壊を行うようなことは、いくつかの例外を除き、しなかったようである。まさに欧州系のロシア人が主力を占め、他民族を内部に従属的に従える典型的な多民族帝国を形成していたし、今のロシア連邦もその一部が依然として継続しているということは確かであろう。

同時に、ロシア東方の極東地域等では、先住民社会の破壊と欧州系ロシア人の入植による植民地化を行い、西漸してきたアメリカとアラスカで欧州出身者同士の植民地としてぶつかったことも事実と言えそうである。

 

 この本は、上記のような点も含め、米合衆国を帝国と見ているとも言える。

また、同様なことは、規模は大きく異なるといえるが、和人の北海道でのアイヌ人の共同体や生活環境の破壊、土地の掠取や、ブラジルのポルトガル人を中心とした欧州系の人々のネイティブ・アメリカンの社会の破壊等、多くの地域で、同時代から現代にかけても見られることでもある。それをどのように我々は位置づけるべきなのであろうか。私は、たまたま破壊した側の人間として生まれたに過ぎないのだが。

これらの事実をきちんと自覚し、自分なりに位置付ける必要があろう。

 

 この本を読んで、まずは、こんなことを考えた。自らの生活圏を拡大するために、他の人々が営々として築いてきた共同体の生活圏を破壊してしまうこと、このようなことは、その時点で軍事的に優位に立った人々により、現生人類の歴史の中で繰り返し行われてきたのであろう。長い歴史を持つ事実であろう。しかし、だからといって、今、人類を単位に豊かな社会の構築を唱える人々としての我々が、このような過去を背負っていることを忘れるべきではないであろう。また、同じようなことを今から行うことは、絶対に許されるべきではないであろう。しかし、ここ2百年の時間の中で、このような出来事は、一挙に進んだとも言えるのである。米露に限らず、今存立している社会の多くが、このような他の共同体の破壊を行ってきた結果として存立していること、これに目を瞑るべきではないであろう。

 アラスカという地は、どのような理由ないしは根拠で、ロシア帝国が米合衆国に売却し得たのか、その背後の歴史を知ること、そこに先住の人類の営みが存在し、それらの多くが破壊されたということ、これを知った上で、今を見つめる必要があろう。偉そうに振る舞うプーチンとトランプの両氏を見るたびに、このようなことが思い浮かぶ今日この頃である。

 現在はウクライナ領のはずのクリミア半島の先住民であるクリミア・タタールの人々を、クリミア半島から旧ソ連のスターリンが追放してから、まだ百年も経たないのである。その地に旧ソ連はヨーロッパ系ロシア人を移住させた。ロシア連邦は、ウクライナ領になっていたその地を、2014年に自国領土に編入した。移住したヨーロッパ系ロシア人が、ロシア連邦への併合に賛成したということなのであろうか。プーチンはスターリンの遺産を活用したともいうべきなのであろうか。 

2025年8月22日金曜日

8月22日 日経:呉軍華「「光」と「影」が際立つ中国経済」を読んで

 呉軍華「「光」と「影」が際立つ中国経済」

エコノミスト360°視点,(日本経済新聞、2025822日、p.6) 

を読んで 渡辺幸男

 

 この新聞記事を読み、「角を矯めて牛を殺す」の格言、諺を思い出した。

 

 呉氏は、この日経のOpinion欄で、現在の中国経済の「光」として中国の「先端産業」の「技術覇権に挑む勢い」を述べ、「影」として「不動産市況の崩壊」等、「経済は改革開放以来の深刻な局面に陥っている」ということを、まずは確認し、「なぜ、光があっても景気減速が止まらないのか」と問い、その答えとして、新産業の「波及効果が乏し」く、「経済全体をけん引するには裾野が狭い」こととともに、制度的制約も1つの要因と指摘し、それが「地方政府間の熾烈な競争をもたら」し、「過剰生産と無秩序な競争を招き、価格破壊」となっている、こととしている。すなわち「「光」を生む仕組みが同時に「影」を増幅していることを示す」とし、「真に持続的成長を図り、国際社会との調和を目指すには、・・・無秩序な競争の是正といった構造改革が不可欠だ」としている。そして、「さもなくば、せっかくの「光」の輝きも国内外の摩擦に覆われ、色あせることになりかねない」と結んでいる。

 

 ここでの議論を、私流に見ると、今の中国では、「地方政府間の熾烈な競争をもたら」し、「過剰生産と無秩序な競争を招き、価格破壊」が影をもたらす要因であるという、それ自体としては、妥当な指摘をしていると思う。だが、同時に、この要因が「技術覇権に挑む勢い」を可能にしている、という呉氏自身が主張している事実、これを呉氏は議論の最後では無視しているようにも見えるのである。

 最大の光をもたらす主要な要因の1つが、同時に影をももたらしている、まさに光と影の関係である。このような事実を無視し、あたかも両者を切り離して政策的対応が可能かのように議論しているように、私には見える。

つまり、先端産業企業の簇生という光る牛の「角」の1つであるはずの「価格破壊につながる」「過剰な生産と無秩序な競争」という角を、「矯める」ことを推奨するような結論を安易に述べているように見える。

 

 この呉氏の議論を読みながら、かつての日本の通産省の1つの動きを思い出した。通産官僚による乗用車産業の「過当競争論」であり、政策的にはトヨタと日産の2大メーカーに集約することを政策的課題とすべきという高度成長初期における産業政策論である。

 その論理は、高度成長初期の日本国内の乗用車市場の小ささを前提に、当時の技術水準で見ても、乗用車産業企業が規模の経済性を十分に実現するためには、日本の市場には乗用車メーカーは2社程度が適切であるという認識に基づくものである。それゆえ、後発の東洋工業(現マツダ)、プリンス等の乗用車市場への参入は規模の経済性の実現という意味でも、当時の遅れた日本の乗用車産業にとっては、「過当」な競争をもたらすから、後発企業の参入を抑え、さらには排除し、2大メーカーに集約すべきである、という政策的議論である。ましてや二輪車メーカーのホンダや鈴木の乗用車産業への参入は政策的に断固阻止すべき、といった内容ではなかったかと思う。かなりうろ覚えであるが。

 ここでの重要な点は、当時の産業政策担当の通産官僚の認識では、世界市場で競争できる規模の経済性を実現することが第一であり、日本市場を前提にそのことを考えると2社程度に集約し、国内市場で規模の経済性を発揮させる必要であるということである。すなわち、国内企業間の企業間競争を抑え、世界市場に打って出られる規模の経済性を最初から発揮できる企業を政策的意図で作ることが可能であり、必要である、ということになる。それが国際競争力を日系企業が発揮するためには不可欠である。このような理解であるといえる。

 このような通産官僚の思惑による政策が、実際には実行されず、「過当競争」的な乗用車産業への参入がその後も生じたが故に、1980年代後半以降の日米貿易摩擦の中心が日系企業による米国への乗用車輸出となるような日系乗用車メーカーの発展が生じたと言える。結果的には、「角を矯め」て「牛を殺す」ことが無かったが故に、日系工業企業の世界的な展開が1980年代以降に発現したといえるのである。

 このような日系工業企業の発展展開、90年代以降の相対的停滞についての議論は別として、一度は世界市場の主導企業としての地位を多くの産業で実現した事実、これを思い起こすと、今の中国の状況を光とその影として見ること自体は妥当だと、私も思うが、その影自体を解消する政策を、光をもたらした要因の「是正」という策にすべきということには、疑問を感じざるを得ない。しつこいが、「角を矯め」て「牛を殺す」ことがない形での軟着陸を模索すべきなのではないかと考える次第である。

 呉氏は、最後に「せっかくの「光」の輝きも国内外の摩擦に覆われ、色あせることになりかねない」と結んでいるのであるが、「せっかくの「光」」の元を断ってしまっては、光が色褪せるどころか消えてしまい、元も子もないということになろう。ただ、ここでの呉氏の議論もかつての通産官僚の議論と同様に、実際には実行されず、中国では、「産業の育成と支援」をめぐる「地方政府間の熾烈な競争」は、今後もしばらくは続きそうに、私に思えるのであるが。

2025年7月29日火曜日

7月29日  FT ‘China’s profitless investment boom' を読んで

 ‘China’s profitless investment boom'

by Joe Leahy, Wenjie Ding and William Langley,

FT BIG READ. CHINESE ECONOMY, 29 July 2025, p13

を読んで 渡辺幸男

 

 ブログに「米国との経済的対立と、中国・ロシア産業経済の方向性」を掲載した日の午後に配達されたFTに、この記事が掲載されていた。「中国の利潤無き投資ブーム」とも訳すべき、大変興味深いとともに、ブログで展開した私の中国産業経済理解の妥当性を問うとも思える内容の記事である。

 

 記事の内容は、中国で消費拡大が一方で叫ばれながら、依然として設備投資主導の景気刺激策が展開されている、という内容につながる議論である。まずは、地方政府、それも省レベルのような大きな地方政府ではなく、下級の地方政府が依然として積極的に工業団地を建設し、工業企業の誘致活動をしているが、その多くには十分な企業が集まっていない。たとえ土地が売れたとしても空き地のままであるか、よくて倉庫建設にとどまり、工場の建設そして稼働には至っていない。これらの点について、事例を通しての紹介がされている。

 また、雑貨類の生産工場では、過当競争状況に陥り、利幅が極めて薄くなっている状況も紹介されている。さらに、機械工業関連でも過剰生産能力が目立っているとしている。航空機部品製造やロボット製造のような分野でも、過剰生産傾向は強く、海外への進出を考えざるを得ないとの言及もなされ、工業生産全般における過剰投資と、低利潤状況が紹介されている。

 しかも、地方政府等の支援を受けた工場建設等による過剰設備状況は、中央政府の抑制策にもかかわらず、いろいろな形で継続され、状況の改善は見られないとしている。そして、本記事の締めくくりは、地方政府の官僚の言として、「我々は全面的に中央政府の政策を支持しているので、もう鉄鋼業や炭鉱業のような産業については支援していない」という、皮肉な表現で締め括られている。

 

 この記事が言いたいことは、中国経済が投資依存の経済である傾向は、簡単には変わらない、ということであろう。その動きの中心的部分は、下級地方政府の利害が地元への工場建設の実現にかかっている中国の政治状況である、ということでもあろう。それゆえ、本記事の見出しは、「地方政府はハイテク設備を生産する新工場の投資を誘導しているが、実際には、経済成長刺激とは程遠く、過剰生産能力の積み重ね、一層の薄利へとつながっている」としている。

 中国経済での過剰投資傾向、特に先端産業に絡む分野に向けての投資の過剰は、地方政府の利害に絡んでいるがゆえに、中央政府の投資抑制そして消費需要拡大への動きに地方政府が対応し、大きく減少することは困難であろう、ということであろう。過剰投資傾向の今後の継続、投資分野を変えながらの過剰投資の継続が、地方政府の利害ゆえに見込まれることを指摘する記事といえよう。

 同時にこの記事から受け取れることは、産業向けの設備投資を促進するとしても、下級地方政府は、いつも同じような産業を支援するのではなく、その時代時代で注目されている新産業企業の誘致をする方向で、誘致対象を変えてきている、ということであろう。しかし、注目される新分野への投資が、地方政府間の競争を通して、過剰投資として実現され、当初より参入企業の利益は薄くなりがちである、ということでもあろう。

 同時に、参入を意図する企業にとって、中国の地方政府間の誘致競争は、大変強力な助人となってきたし、今もそうであることを、この記事は示している。新産業分野での激しい参入と、その後の新規参入企業間の「過当競争」が生じ、急激な新産業分野での新規参入企業間の優劣の顕在化、そして勝者と敗者の明確化、急成長企業と脱落企業の共存が繰り返されることとなる。

 同時にこの過程こそ、中国での新産業形成と、そこでの無数とも言え得る企業の参入とチャンピオン企業の形成の過程でもあり、それが依然として存在し続けている、ということを示すものとも言える。そのためのキーパーソン的な存在が下級地方政府であるといえ、それが依然健在であることを示す記事と言えよう。

 このFTの記事を我田引水的に議論そして理解すれば、このようになろう。私のここでの理解が現実的な議論と言え得るのかどうかは、今後の中国産業経済を見守ることで明らかになるであろう。

 

7月29日 米国との経済的対立と、中国・ロシア産業経済の方向性

米国との経済的対立と、

中国・ロシア産業経済の方向性

渡辺幸男

 

 中・露経済は、ともに計画経済から市場経済に前世紀末に転換した大規模国民経済である。しかし、計画経済としての近代工業確立の状況、可能性としての国内市場規模の大きさ、そして一次産品の産出可能性の状況等には、両者の間に大きな差異がある。それらの差異の状況とその意味、そして、さらには米国との対立のもとでの先進工業国としての可能性等について、私なりの理解を、以下で示したい。

 なお、この議論は、これまでの私のブログでの中露それぞれの経済と工業についての議論を踏まえ、私なりにまとめた議論であるとも言える。

 

1 中露の近代工業形成についての私の理解

(1)  中国

 計画経済下で、それなりの近代工業基盤を形成し、一応量産機械を含め、近代工業製品を国内企業により生産できる状況になった。その後、1980年代以降の改革開放期以降、大量の海外資本の参入、直接投資を受け入れた。それにより、低価格加工品の海外資本依存の輸出経済により工業生産を拡大するとともに、先進工業国製品が参入不可能な低価格品の巨大市場を国内に形成し、その国内市場向けに自国系資本の新興企業が、計画経済期に蓄積した近代工業技術と進出外資から得た工業技術を使用し、大量に参入し、国内新企業間で新たに形成された低価格品の巨大市場を巡って激しい競争が実現した。競争による淘汰の結果、低価格品市場向けの国内市場に依存し、そこで生き残った企業群が急速に成長した。

 そこから、巨大化した国内市場向け生産の多数の自国系企業が中心の生産体系も、大量の外資の直接投資にもかかわらず形成された。直接投資を通して外資が開拓した海外生産市場と異なる市場、巨大化した低価格品国内市場を新興の中国系企業群は開拓し、そこでの激しい競争を通して、さらには、世界市場の中低価格品市場向けの近代工業製品を専ら生産する中国系新興企業群が生まれた。

 それらの新興企業群は、計画経済下で形成されていた国有大企業ではなく、そこでの基盤的な技術、技術者や熟練工を活かす形で、国内新規形成市場向けに、低価格を含め、製品群を開発した新興企業群であった。計画経済下で形成された国有大企業は、改革開放下で一時的には巨大企業となりながらも、中国の新たな工業発展の担い手とはなれず、1990年代以降、衰退した。

 他方で、強大な国内市場は、単なる低価格品の巨大市場から、先進工業製品を含む巨大市場へと成長し、依然として維持されている、多様な新企業の参入という特徴とあいまって、新興企業を中心とした、新市場開拓競争が激しく行われ、国内市場を前提とした自国系企業を中心とする自生的先進工業への道を、中国経済は歩み始めた。結果、既にいくつかのグローバル市場で見ても先端的な先進工業企業が、新興企業群の中から生まれ始めている。10数億人の巨大国内市場を前提とした近代的先進工業国の形成の可能性が見えてきたといえる。

 中国でかつて自ら実態調査を行ったことから得た認識を踏まえ、その後の中国研究者の情報を私なりに付加し、中国の工業発展について、私はこのように考えるに至った。

 

(2) ロシア

 それに対して、ロシアの工業は、大きく異なった展開を示していると認識している。ロシアは旧ソ連の中核的共和国として、その多くを旧ソ連から引き継いでいる。旧ソ連の工業の特徴は、戦後のソ連経済圏の形成とそれを前提とした計画経済的工業発展により、旧ソ連解体以前にそれなりの「先進」工業化を達成していたことである。同時に、その「先進」工業化は、西側市場では全く国際的市場競争力のない技術的意味だけの「先進」工業であった。計画経済のもとでの市場を保証された形での工業先進化は、市場ニーズに合わせ製品を開発し、他社との競争下で販売するという市場経済の「いろは」の「い」の字とも、全く関係なく、機能的に先進的であれば、それで十分であるという先進化であった。製品としてのジェット旅客機や乗用車がそれであり、そのための工作機械も同様な評価のもとにあった。機能的に見て製品としては存在するが、市場で競争力を持つ製品としての配慮、開発は全く存在していなかった。文献からの情報に基づいたものに過ぎないが、旧ソ連の工業発展の特徴を、私はこのように理解するに至った。

 旧ソ連経済圏という、当時の先進工業にとって十分巨大な市場を前提として、量産もそれなりに行われたが、競争により市場経済製品として鍛えられることのない、当時の先進工業製品としての機能を充足するだけの工業製品であったようである。

 このような状況で1990年代の旧ソ連解体、ロシア連邦の形成となる。しかも、その過程は、改革開放時の中国と比較すれば、相対的に豊かな国民経済であり、西欧諸国からの先進工業製品の進出が可能な市場であった。結果、旧ソ連工業企業群の製品の先進工業部面での西欧製品に対する国内市場での敗退を意味した。しかも、ロシア経済は、一次産品生産の豊かな経済であり、鉱業製品や農業製品の輸出を通して、工業製品を輸入することが可能な経済であった。当初の混乱期を越えることで、一次産品を輸出することにより、新たな形で1億4千万人余の相対的に豊かな市場を維持することが可能であり、西欧向け一次産品輸出と西欧の工業製品の市場としての意味とで、西欧さらには欧州諸国との経済的な一体化が進展した。

 これが、現代ロシア経済の「非工業化」と、私が呼んでいるものである。政府需要に依存し、市場競争にさらされず、市場競争力を必要としない軍需産業としての工業は生き残っているようだが、その先端的部分、特に電子部品等については、対外依存が極めて大きくなっているようである。

 このような工業状況でありながら、ウクライナ侵略を始めた。結果として欧州との経済的一体化の中で、豊かな一次産品供給国としての発展を維持することは、不可能となった。結果、先端的工業製品については、中国に依存し、一般的な工業製品については中国、トルコそしてインドに依存する元先進工業国が生まれたのである。これが「非工業化」ロシア経済の現状と言える。

以上のように、私は、日本語の文献を通してロシア工業の現状を理解した。自分の目で全く見ていないだけにこの議論の妥当性について不安もあるが、同時に、これに反する有意と思われる実態調査報告もなく、多くの実態調査報告は上記の議論を裏付けるものだと理解している。私が参照した文献と、それについての私なりの理解については、これまでのこのブログで、文献の紹介を兼ねて披露してきたところである。

 

2 中国とロシア、何が違うのか。

計画経済から市場経済の競争的環境への適応結果が大きく違うのは、なぜか、何がどう違うからなのか、またそのことの持つ意味は何か、上記の私の認識を踏まえ、私なりに議論してみたい。

まずは、計画経済下で両国とも近代工業の基盤を形成した。その上で、旧ソ連とその後継国ロシアは、近代工業の基盤だけではなく、その工業は、市場経済へと転換した時点で、すでに技術水準的には「先進工業」水準に達していた。ジェット機や乗用車生産、工作機械生産等、「先進」工業と呼べる水準に達していた。中国は近代工業の基盤を形成することには成功していたが、市場経済へと転換した時点では、「先進」工業と言える水準ではなかった。

また、国民の生活水準から見ると、旧ソ連そしてロシアは、それなりに豊かな社会を実現し、西欧の消費生活物資等を購入できる水準に大衆レベルで達していた。それに対して中国の計画経済終了時の国民生活水準は、当時の先進工業国の消費水準に対比できるような水準には全く達していなかった。

また国民経済としての大きさは、人口規模から見れば、中国は当時世界最大の規模であり、所得水準上昇が実現するならば、世界最大の巨大な国内市場を実現する潜在的可能性を秘めていた。また旧ソ連その中のロシアも、1億4千万人程度の人口があり、かつ、すでに一定水準の国民所得を実現しており、国内市場として大変魅力的な大きさの市場を提供できる市場となっていた。

 

両国とも、計画経済を終了したのちは、海外資本の直接投資等を積極的に受け入れた。ただ、その際に直接投資する外資にとって、中露では、その進出先としての主要目的が大きく異なっていた。

ロシアへ進出した西欧資本の多くにとって、1億4千万人余のロシア国内市場の需要を確保することこそ、直接投資等でロシアへ進出することの目的であった。それに対して、中国に直接投資する日米欧の資本にとって、中国政府の政策との関連もあり、中国市場向けでの直接投資を現地国有企業と合弁しながら進出するといった乗用車産業のような例外はあるが、多くは、中国の豊富な低賃金労働力を活用し、米日欧市場向けに安価な品を再輸出することを目的とする加工組み立て貿易のための直接投資であった。

 

それゆえ、結果として生じたことは、中露で大きく異なることとなった。ロシアは、ある程度豊かな市場であり、市場の大きさとしても魅力のある経済であるがゆえに、西欧企業の直接投資が大量に生じ、西欧の先進工業の財が流入した。しかも、ロシア経済は一次資源も豊富であるがゆえに、一次資源の輸出拡大を通し、先進工業製品の輸入も豊かに行うことができた。長期に渡り、このような過程が継続し、計画経済下で形成されていたロシア国内の「先進」工業の多くが停滞ないし衰退することとなった。

それに対し、中国経済は、国民経済として潜在的には極めて巨大な市場になる可能性を当初より秘めていたが、実際は、国民の所得水準が低く、先進工業国の製品、その中の低価格品でも、当時の中国市場向けには高価すぎるものであった。それゆえ、既存の製品の輸出を試みた先進工業国の企業の輸出製品は、潜在的な巨大市場をまえにしながら、その市場を本格的に開拓することができなかった。

 同時に、先進工業国企業から、高所得国向けの相対的低価格製品の再輸出のための加工組み立ての直接投資を大量に受け入れた中国経済は、低賃金労働力の膨大な雇用拡大を実現した。その需要にも対応することで、超安価品の(潜在的に)巨大な市場を形成することになった。この需要に応じたのが、郷鎮企業と呼ばれるような地場の企業を中心とした、大量の新規創業企業である。これら企業群の生産供給により、当時の極端な安価製品中心の中国市場にも対応可能となり、それらより極端な低価格製品の生産供給拡大が実現した。

 これらの新規創業企業群による超低価格の製品は、品質的には極めてばらつきが大きく、使用に耐えないものも多く存在したようだが、市場での激しい競争によりそれらの生産企業は駆逐され、きわめて安価だが、それなりに使用に耐えることができる製品を生産する企業群が、生産財から資本財そして消費財(耐久と非耐久の双方)生産企業に至るまで、大量に新生し、これまた大量に生き残り、成長することとなった。

 多様な低価格品の巨大国内市場向けを中心とした新興企業群による激しい競争が生じたのである。ただし、計画経済下で形成されていた中国の計画経済期からの国有企業群は、このような動きについていけず、市場競争にさらされた多くの国有企業が縮小退出ということとあいなった。

 

 1990年代にこれまでの計画経済から市場経済へと大きく転換した中露の経済は、このような転換点の状況の違い等を通じて、市場経済下での再生産のあり方が大きく異なることとなった。一次産品の供給国として優位性を活かし、欧州市場の産業体系の一部となり、先進工業生産については、直接投資も多く受け入れたロシア経済は、政府需要に大きく依存する軍需生産等以外の工業生産については、西欧資本・企業に大きく依存する、「非工業化」するかつての「先進工業」国となった。それに対して、中国経済は、巨大な国内市場を構築し、乗用車等のいくつかの例外を除き、それら市場に新興の自国系資本企業が専ら供給するという自立した10数億人の世界最大の国内市場をもつ経済となった。

 中露の経済は、計画経済下に近代工業の基盤を形成し、その後、市場経済となったことでは同様であるが、市場経済化した時点での所得水準の違いや、輸出可能な一次資源の豊かさの違いを中心的な原因として、市場経済下での、その後の展開が大きく異なることとなったのである。既存の先進工業諸国の経済に市場としても一体化されたロシア経済、それに対して、先進工業国向け低価格品の組み立て供給基地として先進工業諸国経済に組み込まれたが、先進工業国企業にとっての市場としては一体化されなかった中国経済との違いである。中国の潜在的巨大市場が、当初、あまりにも先進工業国製品の市場としては適応不可能な超安価品市場であったがゆえに、潜在的巨大市場を市場として顕在化させた際の主体は、そのようなニーズに応えることができた地場の新興郷鎮企業等であった。このような転換点での転換方向の違いが、両者の大きな差異をその後もたらしたと言える。

 結果として、西欧先進工業諸国経済と一体化したロシア経済と、(潜在的に)巨大な自立した国内市場を持つ中国経済ということになった。計画経済から市場経済への転換のあり方が大きく異なったことにより、中露の経済は、全く異なるその後の発展経路をたどることとなった。

 以上のように見ることができるのではないかと、私は考えている。

 

3 小括 以上の議論のもつ含意

 以上のことの含意は、現今の米国や欧州との対立状況にある中露にとって、その対立のもつ意味が大きく異なる可能性を示唆している。

 ロシアにとって、ウクライナ侵略に伴って生じた欧州経済からの制裁、基本的には欧州の経済的枠組みへの位置付け、一次産品の供給を中心にした欧州市場での主要経済国としての存在の場の否定、欧州経済からの排除を前提に、欧州経済内での一次産品国として位置付けと同様の位置付けで自国経済の再生産を可能とするためには、他の有力経済の一部としての一次産品国へと転換することの必要性が生じたことになる。1億4千万人余の国内市場だけでは、現代の先進工業のための市場としては不十分であり、先進工業について依存する巨大経済の一部としての一次産品供給国への道を新たに模索する必要が出てきたのである。その道が、BRICS諸国経済への接近であり、さらには中国経済圏への加入となるのではないかと、私は考えている。巨大な中国への主要一次産品供給国となり、中国から先進工業製品の供給を受ける、といった意味で脱欧入亜経済への転換とも言える転進である。

 また、他方で、中国経済は、米国から切り離されることで、一層の自立を迫られている。そのことで、自立した経済圏としての可能性を追求することが不可避となったと、中国政府は自覚しつつあるといえよう。それゆえ、自らが中核となる経済圏、「一帯一路」のようなそれを、ロシア等を組み込みながら構築する道を歩みつつあるし、その経済圏構築が一定の可能性を持つ経済であると言えそうである。

 

付論1

 以上のように中露経済の展望を考えた時、BRICSの一員である先進工業化を目指す巨大経済インド経済の今後が、大変気になる。中国主導でロシアを組み込んだ巨大経済圏の形成が、ロシアの脱欧入亜により生じつつある時、中国と並びうる潜在的には巨大な国内市場をもつインド経済がどうなるのか、大変気になるところである。中国の工業製品の主要巨大市場として組み込まれるのであろうか。

 ただインド経済、特にその工業の現状についての実態的な研究は、ロシア経済以上に日本語の文献では少ないようである。私は、法政大学の絵所さん等の研究等で、その実態を垣間見ているに過ぎない。

 新聞等の報道を見ていると、ロシアの一次産品の新たな受け入れ先として、インドが極めて大きな意味を持っているようにも思えてくる。同時に、インド経済、特にその近代工業にとって、中国製品とのインド国内市場を巡っての競争が、極めて重要な位置を占めてきているようにも見える。他方でインド独自の自律的な先進工業発展の事例も紹介されている。

インド経済全体として、どのような状況にあり、どのように展開しようとしているのか、特に中露との関連でこの点が気になる。新聞記事等の断片的情報も活用しながら、今後も私なりに考えていきたい論点の1つである。

 

付論2

 同じBRICSの一員である、ブラジルと南アについては、私は、まだ、グローバルな産業発展の中での位置付けを、とば口としてだけでさえ、つかめていない。ブラジルに対するトランプ政権による異常な高関税の設定は、巨大な一次産品供給国としてのブラジルを、非米市場向け志向の輸出国に変えるであろうことぐらいは想像しているが、その先はどうなるのであろうか。非米市場向け輸出国として、ある意味オーストラリアと同様に、幅広く展開するのか、特定の経済圏へと近づき、その一部を構成する有力国になるのか、全く見えていない。

 ましてや、南アである。政治的混乱も含め、その展望は私には全く見えてきていない。

 かつてフィールドワークを主体とした産業論研究に携わっていた者として、まだまだ学び、考えなければいけないと思われることが、多く残されていることを、改めて、自覚している次第である。これから、本格的に学び、考えることは絶対的に不可能であることは自覚しているが、今の自分なりに、情報を得て、それなりに考えてみたいと思っている。

 

2025年7月6日日曜日

7月6日 中国のロシア向け輸出の10%水準の縮小は、何を意味するのか?

 中国のロシア向け輸出の10%水準の縮小は、

何を意味するのか?

Foster, P., Gill Plimmer, A. Bounds and A. Williams, 

How trade tensions are hurting business

FT, FT BIG READ. GLOBAL ECONOMY,5 July 2025,p.8

を読んで

 渡辺幸男

 

 この記事は、米国トランプ政権の政策が、中国からの米国向け輸出を急激に減らしている事実を確認した上で、生産拠点の移動は簡単にできず、まずは米中の輸出入に大きな影響を与えるというということから議論を始めている。その際に示された、中国海関総署(GACC)の中国の20245月から2025年5月にかけての輸出の変化率の図が大変興味深い。図のタイトルは、「中国の輸出は米国向けの急激な縮小にもかかわらず、昨年は4.8%の拡大」(「20245月から20255月にかけての中国輸出の変化」)と言うものである。

中国からの米国向けの輸出が、図によれば、35%ぐらい減少している(本文では米国の中国からの輸入は同期間に43%減少と書かれている)。しかし、平均すると、この間の中国からの輸出全体では、4.8%も増えている。図の中での最大の増加率を示すのはアフリカで、30%以上増えているようである。中国からの最大の輸出先であろう米国市場への輸出が30%以上減少しても、中国全体としては、輸出が5%近く増加している。これ自体、大変興味深い、注目すべきことであろう。ある時期の日本のように最終的には専ら米国市場に依存して輸出を拡大しているのではなく、多様な市場の需要向けに輸出を拡大できているのが、今の中国であると言えそうである。

 

これは、まさにそうなのであろうと思ったが、同時に、私が注目し、大変驚いたのは、図でアメリカの次に掲げられているロシア向けの輸出であり、それが10%くらい減少していることである。中国全体では、同期間の輸出は、4.8%の増加なのである。また、この図には中国の主要な貿易相手の諸地域は、ほぼ全て掲げられているようにみえるが、減少しているのは米国以外ではロシアのみである。他方、平均4.8%の輸出の伸びを下回っているのはラテンアメリカのみとなっており、EU10%以上、カナダはほぼ20%、アフリカは30%以上と大幅に伸びている。それにもかかわらず(と言うべきかどうかわからないが)ロシア向けが、かなりの率で減少しているのである。

ロシアはウクライナへの侵略開始以来、電子製品等の輸入を中国に大きく依存するようになり、中国からの輸出が大きく増加しているはずだし、今も増加傾向が続いている、少なくとも、減少はしていないだろうと私は勝手に想像していた。だが、この統計では、顕著な減少を示している。これは何を意味しているのであろうか。この統計の図に驚きを隠せなかった。

 

この記事そのものは、生産拠点の移動は8~10年間単位の視野で生じるのであり、当面は関税引き上げのマイナス面だけが浮き上がってくるとし、企業家は投資をどうするか決められずにいるといったことを結論的に述べている。

 

しかし、私にとって、米国への投資回帰が長期的にどうなるかより、当面、気になるのは、ロシアへの中国からの輸出が急減していることである。これは何を意味しているのであろうか。ロシア側の変化故なのか、それとも中国側の変化の結果なのであろうか。

今のロシアの工業について、軍需生産へのシフトは一層進んでいることがあろうとも、民需へ多少なりとも回帰しているというようなことは、私には全く考えられない。軍需用製品の部品を含め多くの電子機器や電子部品を、今ロシアが依存できるのは中国生産品、あるいは中国経由の輸入品しかないであろう。ロシアの工業生産自体は拡大しているようであるが、そのために部材の輸入増大も不可欠なのが、現在のロシアだと、私は思っている。また、大量の消費財についても、インドやトルコ等とともに、中国が主要な調達元の1つであろう。それなのに、10%レベルでの減少、これは何なのであろうか。

1つ考えられるのは、米欧の一層の締め付け強化で中国のロシア向け輸出も縮小せざるを得なくなっている、ということであろう。あるいは、ロシアが輸入対価として使っている原油や天然ガスの輸出を拡大できなくなり、輸入のための資金が枯渇しつつあるということであろうか。事実、鉱業生産は縮小しているとも報告されている。

旧ソ連時代から蓄積してきた兵器を消耗しながら、軍需生産を拡大し、対ウクライナ侵略戦争を勝ち抜いていく。しかも、ロシア国民一般の生活水準をできれば高めながら、最低限でもウクライナ本格侵略以前の水準を維持しながら、それを実現する。これがプーチン政権にとっては、ウクライナ侵略戦争を継続していく為の必須条件であろう。そのためには中国からの軍需関連部品や民需品の順調な輸入拡大、少なくとも輸入維持が不可欠だと、私は考えていた。そして、それがロシアの豊富な一次産品、特に原油と天然ガスゆえに可能となっているとも、考えていた。

それが中国からのロシア向け輸出の年約10%の減少である。中国に代わる輸入元が見つかったのであろうか。低価格での巨大な供給力と柔軟な拡大余力を持つ経済は中国以外存在しないであろう。実際、この間、中国からの輸出はEU向けを含め、多くの地域に対し年10%以上で伸びているのである。それなのに、対米を除けば、対ロシア向けだけが10%水準で減少している。中国側からの供給制限があるのだろうか。米欧による対ロシア制裁がいよいよ中国の対ロシア向け輸出にも効いてきたのであろうか。はたまた、ロシアの工業生産力が、電子部品等を含め回復し、中国からの部材等での輸入にあまり依存しないで済むようになってきたとでも言えるのであろうか。中国に代わる供給源がみつかり、それに代替できたのであろうか。そうであれば、どこ?まさかトランプのアメリカではないであろう。いくらなんでも。

どう判断したら良いのであろうか。

 

   なお、ジェトロによれば、以下のような、ロシアにおける鉱工業生産についての数字が報告されている。「ロシア連邦国家統計局は131日、2023年の鉱工業生産は前年比3.5%増と発表した。製造業が同7.5%増と牽引した。その一方で、鉱業は同1.3%減だった。」(ジェトロ、ビジネス短信、調査部欧州課、2024213日)

2025年6月6日金曜日

6月6日 鳥飼将雅著『ロシア政治』を読んで

 鳥飼将雅著

『ロシア政治 プーチン権威主義体制の抑圧と懐柔』

(中公新書、2025) を読んで 渡辺幸男

 

目次

はじめに

第1章      混乱から強権的統治へ —ペレストロイカ以降の歴史—

第2章      大統領・連邦議会・首相 —準大統領制の制度的基盤—

第3章      政党と選挙 —政党制の支配と選挙操作—

第4章      中央地方関係 —広大な多民族国家—

第5章      法執行機関 —独裁を可能にする力の源泉—

第6章      政治と経済 —資源依存の経済と国家—

第7章      市民社会とメディア —市民を体制に取り込む技術—

終章  プーチン権威主義体制を内側から見る

あとがき

 

 本書の著者は、1990年生まれとのこと、私からみたら若い研究者と言える存在である。ロシアの現場を歩き、ロシア政治の現状について、多面的に自分の目で見、そして考えたことが伝わってくる著作と感じられた。さらに、「あとがき」を眺めていたら、著者の大学院の時の指導教授は、1960年生まれの松里公孝東京大学教授で、『ウクライナ動乱 —ソ連解体から露ウ戦争まで』(ちくま新書)を書いた方であった。松里教授のこの本を読み、教えられることが多かったこと、しかしウクライナを含めた旧ソ連の工業についての記述についての不満を、ブログにその感想文として書いたことを思い出した。

 

(以下、本書の全7章のうちの1つの章、第6章の1つの節のみに注目した、我田引水の勝手な感想文であること、このことを、ご承知の上でお読みくだされば幸いです。)

 本書の中でも、ロシアの産業ないし工業について、第6章の「政治と経済」で議論されていた。その章の最後の節で「モノゴロドの延命と政治の論理」ということが議論され、大変興味深かった。本書によれば、モノゴロドというのは旧ソ連時代からの日本風に言えば企業城下町のことであるとのことである。現代のロシアにも多く残っており、日本の企業城下町以上に特定の1つの大企業に依存している町が、ロシアには多いそうである。本書によれば、モノゴロドに分類されるのは、「都市形成企業」が「市内労働人口の25パーセント以上を雇用している、あるいは市の工業生産の50パーセント以上を占めている」(本書、233ページ)都市のことである。また、このモノゴロド全体で2008年にロシアの「40パーセントのGDPを生産している」(本書、233ページ)としている。

 もし、本書での言及の通りであれば、すなわち、2008年時点でも、ロシアでは、旧ソ連時代の工業大企業の企業城下町がそのまま残り、依然としてGDP40%を占めている、ということなる。旧ソ連の崩壊から20年近くがたった時点で、計画経済期に市場競争原理への対応とは無関係に構築された特定大企業に依存した工業都市が、2000年代末においても、依然としてロシアの経済の4割を占めている、ということになる。

 

 私が2000年頃から見てきた中国の工業は、ロシア同様、計画経済時の工業を引き継いでいながら、このような旧ソ連由来のロシアの状況とは、全く異なっていた。計画経済期の工業建設の影響が一番多く残っていると見られる中国東北部の遼寧省瀋陽市でさえ、2000年代半ばに調査で訪問した時、国有の工作機械製造企業も残っていたが、他方で、浙江省の温州人が多数進出し温州協会を設立し、温州人による新規工場立地建設も生じていた。

また、中国の自動車産業について言えば、計画経済期以来の国有大企業群は、外資進出の合弁受け皿としては残存しているが、今の中国で元気に活動している自動車メーカーのうち、中国系企業は、いずれも改革開放後に設立された、民営ないしは地方国有企業である。計画経済期に形成された工業系の国有大企業群は、改革開放以後に設立された新興企業に圧倒され、生き残っていても、かつての寡占的市場占有力を持たない。

また、私が実際に現地調査等を通して見てきた自転車産業では、改革開放期初期には国有の巨大な寡占的大企業が存在し積極的に生産拡大を実現していたのだが、その後それらの企業は新興企業との競争に敗れ、寡占的市場支配力を全く喪失し、計画経済時からのブランドの利用料に依存することによってしか生き残ることができない、劣後した大企業といった存在となっていた。中国の自転車産業の調査を通して、計画経済時の技術力、技術者・熟練技能者等については、その後の工業発展に大きな意味を持っていたことが見てとれたが、計画経済時の国有大企業自体は、その後の市場競争に敗れ、その多くが新興企業に取って代わられていたことがわかった。

 

ロシアの現状、本書で紹介されているモノゴロドに代表されるそれ、それを見る限り、ロシアの場合は、90年代以降の市場経済化の中で、既存工業大企業、特にモノゴロドを形成していた大企業は、国内の新興企業勢力によって解体されることがなかったことになる。その意味するところは、1つは、国内工業の新たな発展を担う新たな新興企業群の地元での形成が弱く、海外からの輸入や海外からの直接投資等による競争にさらされるだけであったこと、これが1つであろう。今一つは、海外企業との競争にさらされる中で、中核企業の消滅や顕著な縮小は、地域社会にとって決定的なダメージとなるがゆえに、大企業のまま温存する努力が維持されてきた、ということになろう。温存するだけの豊かさが、中国とは異なりロシアの場合は豊富な天然資源等から得られたがゆえに、一定程度維持に成功し得たと言えるのではないだろうか。

市場競争による淘汰は、多くの場合、旧来の大企業が新興企業に取って代わられることにより実現する、ということからして、ロシアの状況は、市場競争を通しての自国系国内工業の再生とはほど遠い、多数のモノゴロドの残存という結果となったのであろう。つまり、市場経済化のもとでの工業発展の可能性の実現、先進工業へのキャッチアップ、国際競争力の形成という点で、ロシアは完全に失敗していることを、このモノゴロドの状況は示唆していると言えそうである。

天然資源に恵まれ、計画経済下で国際競争力を持たないがそれなりの「先進工業化」を実現していた旧ソ連そしてロシア、それが市場経済化後、恵まれている天然資源に頼ることができるがゆえに、モノゴロドを維持しながらも国民の生活水準の一定の向上を実現できた。このようにいうこともできよう。しかし、その代償は、長期的にロシア経済を展望する時、極めて大きなものとなろう。

モノゴロドの存在を前提に市場経済の下での本来的な先進工業化を実現できるのであろうか。市場経済的な論理を優先せずに形成された企業城下町群、これが現代の市場経済化したロシア経済の中で発展展望を持ちうるのか、発展展望を持つことは、創造的破壊が実行されない限り、ほぼ不可能であろう。市場経済下での企業活動でも有効な部分を残し、地理的立地の大幅変更を含め、完全な企業そのもの再編成あるいは新規企業への交代を通して、市場経済での競争に対応可能な地域にそれらの企業群を構築することが、何よりも必要である。が、しかし、ジェトロの報告 (1)等からも示唆されるように、モノゴロドの企業あるいはその存立地域を前提に工業活性化を実現しようとする姿勢が、その後も依然として存在するようであり、大幅な地理的工業分布変動を伴った、既存工業人材等を活かした工業活性化は、ほぼ不可能のように思える。

 

ロシアの「非工業化」の進展、これがさらに進行していることが、モノゴロドについての本書での紹介からも、またもや見えてきた、というのが、私の本書を読んでの感想である。豊かな一次資源、国民生活の一定程度の向上を実現できるほどの一次資源の豊富な存在、これは、現プーチン政権のウクライナ侵略のためには欠かせない前提であろう。しかし、それは急速な市場経済化と一体化された時、旧ソ連時代に築いた「先進工業」基盤の解体そのもの、ないしは、その市場経済下での先進化の機会の喪失を意味することになる。

1億4千万人余のロシアの人々が、5分の1以下の人口のオーストラリアの人々のように、豊かな一次産業資源の活用で、安定的な豊かな国民生活を実現できるのであろうか。たとえプーチンが始めたウクライナ侵略戦争で勝利し、クリミア半島やウクライナ東部諸州をロシア領としたとしても、旧ソ連の「先進工業」の市場経済下での先進工業化、それに基づくロシア経済の先進工業に依存する先進経済化への展望は、私には、全く見えてこない。

戦後不況に喘ぐ、先進的工業製品についてはほぼ全面的に中国経済に依存する中国やインドの市場のみを主として対象とする一次産品輸出国、そんなロシアの姿が、ウクライナ侵略戦争の結果如何に関わらず、見えてくる。豊かな一次産品国としての発展機会の喪失の可能性も含め、欧州という豊かな一次産品輸出市場を失うことの代償は極めて大きい。欧州諸国政府の誰が、ロシアの天然資源に依存する経済を再度構築しようと考えるであろうか。少なくとも主要な欧州諸国政府は、ウクライナ侵略の際のロシアの行動を念頭に、一次産品についてのロシア依存を今後は徹底的に避けるであろう。

 

(1) 一瀬友太「「企業城下町」モノゴロドで中小企業ビジネスの起業を支援」(ジェトロhttps://www.jetro.go.jp、地域・分析レポート、201896日、202565日閲覧)

2025年5月29日木曜日

5月28日 初夏、エントランスの花々

 エントランスの花々、
ゼラニウムが賑やかに咲いています。
勝手に生えてきたベコニアにも花がつき始めました。


金魚草も賑やかです。


新緑とゼラニウム、
5月、初夏の賑やかさ。

入り口も賑やか、
ゼラニウム、ベコニア、インパチェンス、サルビア、
冬を無事越した花々が咲き誇っています。

かつてのエントランスと比べ、鉢の数はだいぶ減りました。
花々に、
冬を越させるための私の体力が落ちたことによります。
これからも、できる範囲で花を育て、
それなりに賑やかなエントランスを維持していきたいと
思います。
それなりに賑やかなエントランスを。