2025年8月22日金曜日

8月22日 日経:呉軍華「「光」と「影」が際立つ中国経済」を読んで

 呉軍華「「光」と「影」が際立つ中国経済」

エコノミスト360°視点,(日本経済新聞、2025822日、p.6) 

を読んで 渡辺幸男

 

 この新聞記事を読み、「角を矯めて牛を殺す」の格言、諺を思い出した。

 

 呉氏は、この日経のOpinion欄で、現在の中国経済の「光」として中国の「先端産業」の「技術覇権に挑む勢い」を述べ、「影」として「不動産市況の崩壊」等、「経済は改革開放以来の深刻な局面に陥っている」ということを、まずは確認し、「なぜ、光があっても景気減速が止まらないのか」と問い、その答えとして、新産業の「波及効果が乏し」く、「経済全体をけん引するには裾野が狭い」こととともに、制度的制約も1つの要因と指摘し、それが「地方政府間の熾烈な競争をもたら」し、「過剰生産と無秩序な競争を招き、価格破壊」となっている、こととしている。すなわち「「光」を生む仕組みが同時に「影」を増幅していることを示す」とし、「真に持続的成長を図り、国際社会との調和を目指すには、・・・無秩序な競争の是正といった構造改革が不可欠だ」としている。そして、「さもなくば、せっかくの「光」の輝きも国内外の摩擦に覆われ、色あせることになりかねない」と結んでいる。

 

 ここでの議論を、私流に見ると、今の中国では、「地方政府間の熾烈な競争をもたら」し、「過剰生産と無秩序な競争を招き、価格破壊」が影をもたらす要因であるという、それ自体としては、妥当な指摘をしていると思う。だが、同時に、この要因が「技術覇権に挑む勢い」を可能にしている、という呉氏自身が主張している事実、これを呉氏は議論の最後では無視しているようにも見えるのである。

 最大の光をもたらす主要な要因の1つが、同時に影をももたらしている、まさに光と影の関係である。このような事実を無視し、あたかも両者を切り離して政策的対応が可能かのように議論しているように、私には見える。

つまり、先端産業企業の簇生という光る牛の「角」の1つであるはずの「価格破壊につながる」「過剰な生産と無秩序な競争」という角を、「矯める」ことを推奨するような結論を安易に述べているように見える。

 

 この呉氏の議論を読みながら、かつての日本の通産省の1つの動きを思い出した。通産官僚による乗用車産業の「過当競争論」であり、政策的にはトヨタと日産の2大メーカーに集約することを政策的課題とすべきという高度成長初期における産業政策論である。

 その論理は、高度成長初期の日本国内の乗用車市場の小ささを前提に、当時の技術水準で見ても、乗用車産業企業が規模の経済性を十分に実現するためには、日本の市場には乗用車メーカーは2社程度が適切であるという認識に基づくものである。それゆえ、後発の東洋工業(現マツダ)、プリンス等の乗用車市場への参入は規模の経済性の実現という意味でも、当時の遅れた日本の乗用車産業にとっては、「過当」な競争をもたらすから、後発企業の参入を抑え、さらには排除し、2大メーカーに集約すべきである、という政策的議論である。ましてや二輪車メーカーのホンダや鈴木の乗用車産業への参入は政策的に断固阻止すべき、といった内容ではなかったかと思う。かなりうろ覚えであるが。

 ここでの重要な点は、当時の産業政策担当の通産官僚の認識では、世界市場で競争できる規模の経済性を実現することが第一であり、日本市場を前提にそのことを考えると2社程度に集約し、国内市場で規模の経済性を発揮させる必要であるということである。すなわち、国内企業間の企業間競争を抑え、世界市場に打って出られる規模の経済性を最初から発揮できる企業を政策的意図で作ることが可能であり、必要である、ということになる。それが国際競争力を日系企業が発揮するためには不可欠である。このような理解であるといえる。

 このような通産官僚の思惑による政策が、実際には実行されず、「過当競争」的な乗用車産業への参入がその後も生じたが故に、1980年代後半以降の日米貿易摩擦の中心が日系企業による米国への乗用車輸出となるような日系乗用車メーカーの発展が生じたと言える。結果的には、「角を矯め」て「牛を殺す」ことが無かったが故に、日系工業企業の世界的な展開が1980年代以降に発現したといえるのである。

 このような日系工業企業の発展展開、90年代以降の相対的停滞についての議論は別として、一度は世界市場の主導企業としての地位を多くの産業で実現した事実、これを思い起こすと、今の中国の状況を光とその影として見ること自体は妥当だと、私も思うが、その影自体を解消する政策を、光をもたらした要因の「是正」という策にすべきということには、疑問を感じざるを得ない。しつこいが、「角を矯め」て「牛を殺す」ことがない形での軟着陸を模索すべきなのではないかと考える次第である。

 呉氏は、最後に「せっかくの「光」の輝きも国内外の摩擦に覆われ、色あせることになりかねない」と結んでいるのであるが、「せっかくの「光」」の元を断ってしまっては、光が色褪せるどころか消えてしまい、元も子もないということになろう。ただ、ここでの呉氏の議論もかつての通産官僚の議論と同様に、実際には実行されず、中国では、「産業の育成と支援」をめぐる「地方政府間の熾烈な競争」は、今後もしばらくは続きそうに、私に思えるのであるが。

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