渡辺幸男の入院生活 春から夏へ
4月12日から7月25日の15週間
4月12日(金)、朝、右足が完全に麻痺していたので、
その週の初めから通っていた近所の整形外科の医師に相談、
すぐ、東海大学医学部付属大磯病院の整形外科担当医師を紹介される。
午前11時ごろ病院につき、MRI等の検査を受け、医師の診察、
その場で、入院、午後7時からの手術が決まる。
全ての手配、その日の午後に手術を控えていた医師自身が、
その場で行ってくれた。そして午後7時からの3時間半の手術。
結果は、当初の診断、腰椎硬膜外血腫のため3週間入院から、
骨髄炎、8週間絶対安静に。
骨髄炎、8週間絶対安静に。
4月19日(6人部屋時代)
個室の空きがなく、大部屋にとりあえず入る。
点滴をはじめ、酸素吸入、心電図モニター、酸素モニター、
脚の電動マッサージ器、氷枕、脚の包帯、そして導尿、
いろいろ身体中につけて、
30度以上起き上がれない、寝たきり状況。
4月24日
約1週間後、個室に移動した。
依然、30度以上に起き上がることができない寝たきり状態。
点滴の薬の量が多少減ったけれど、
点滴と心電図モニターをつけ、
30度以上起き上がれず、
導尿をつけ、3度の食事、シモの世話、
全て看護師さんや妻頼みの状況。
6人部屋では、眼科の手術をうけ数日で退院の自由に動ける患者から、
私のような、寝たきり、自分では何もできない患者までが一緒、
最初こそ、熱にうなされるような状況で、周りを気にする余裕はなかったが、
数日で、周囲が気になり始めた。個室に移り、ホッとした。
個室に移り、部屋の窓の外を眺めることもできるようになる。
4月25日、
大磯の丘陵地帯が、本格的な緑の季節を迎えていた。
7月の退院まで、緑が濃くなるのを実感しながら過ごす。
30度以上起き上がれないということが意味することは、
部屋から検査等で他の階に移動するときは、ベッドに寝たまま、
天井を見ながら移動することになる。
緊急入院、即手術の私は、
手術以前に、外来として東海大学大磯病院に通ったことがないまま、
ベッドに横たわっただけの生活となり、
自分のいる部屋の位置どころか、
大磯病院がどのような構造になっているのか、全くわからないで、
8週間を過ごすこととなった。
病院には、当然のことながら、多様な方が入院している。
夜中に怒鳴りはじめる人、昼間、大きな声で話し続ける人、
色々あり、気になることもあったが、
私自身はよく眠れた。病ゆえなのであろうか。
5月2日
病室で迎えた連休、
相変わらず寝たきりで、時々検査で部屋を出るが、
部屋を出るときは、
ベッドに寝たまま、廊下の天井を見ながら、
ベッド用のエレベーターに乗せられ、
別の階のMRI等の検査室まで運ばれる。
時間だけはたっぷりあり、
頭は動いていたので、
いつも以上に、FTや専門書をじっくり読むことができた。
寝ながらのパソコン作業が可能なように、
子供達に頼み、寝ながら使えるパソコン台を調達、
これは、大変、重宝した。
子供達に頼んで、Wi-Fi用のルーターもレンタルで調達してもらい、
パソコンとスマートフォンで自由にネットが使えるようになる。
定額レンタルなので、使用料を気にせず使えた。
結果、快適なネット環境になった。
ネットが使えると、本の注文、雑用の連絡等々、世界が広くなり、
とりあえず、関係者に迷惑をかけないで済むようになった。
我が家の花々
育てていた私が入院、しかし、妻の水やりのおかげもあり、
我が家の庭では、季節季節の花が、
結構豪華に咲いた。
上は花盛りのノースポール、下は姫甘草の花盛り
普段、プランターへの水やりと、池の鯉の世話、
そして、メダカの世話、
これに家の前の掃除や分別ゴミの集積所への運搬等が、
私の趣味と家事担当であった。
それが、全て妻の負担となり、
手を広げすぎた花と魚の面倒、半端ではない負担を妻にかけた。
感謝、感謝、以外ない。
全て枯れ、死んでも仕方ないと思ったが、
妻のおかげで、今、家に戻り、徐々にまた世話ができるようになった。
趣味の世界に、少しずつ戻れている。
これも、妻のおかげ以外の何物でもない。
6月7日
ついに30度以下で寝続けることから解放され、
起き上がり食事をする、車椅子に乗る、
といったことが許されるようになった。
ただ、車椅子も介助者が必要で、勝手に乗ることはできず、
ナースコールを押し、助けてもらってだが、トイレ等にも行くことが、
可能となった。
自分の手で食事を摂ることが、
8週間ぶりに可能となった。同じ病院食でも、味が変わる。
とは言っても、病院食、おかげさまで最初の数日以外は美味しくいただき、
完食し続けた。
6月21日
車椅子での移動のみから、歩行器使用が認められた。
車椅子は病棟内であれば、自立、勝手に移動可能、
トイレも介助者無しで、自分一人で行けるように。
歩行器は介助付き、看護師さんに見てもらいながらの
歩行練習に。
勝手にトイレに行ける、
こんなことができるようになるだけで、気分は大きく変わる。
ナースコールを押すことが、ようやく少なくなる。
6月11日に町役場の担当者が見え、
私の介護認定の為の面接を行なった。
大きな声、ゆっくりした声での問いかけに、
私としては、当初、極めて戸惑った。
同時に自分の今の立場を、多少理解することとなった。
結果は、要介護3、私にとっては、青天の霹靂といった気分。
自分で身の回りのことができない、という認定であった。
確かに6月11日時点では車椅子に座るだけの生活であり、
仕方がないといえば、しかたがないが。
次回の認定時には、要支援レベルとなることを期待している。
7月8日
リハビリの成果もあり、
車椅子では、病院内、コンビニも含め、どこでも自分で移動可能に、
フロアの異なるリハビリ室にも、
自分で勝手にエレベーターを使っていけるようになる。
また、歩行器での歩行練習も同じ病棟内であれば、
自分で勝手に、看護師さんの見守りを必要としないで、可能となる。
歩行器を使っての自主トレ、病棟の廊下を使って何往復も繰り返した。
杖歩行の練習を本格的に始め、
かなりしっかり歩けるようになったことで、
マイ介護履とマイ杖を購入した。
この杖は、現在は外出用に使用しているが、
先が太めの杖で、少し重い杖、
今、室内用に使っている杖は、もう少し細めで軽い。
この介護履
左右のサイズが違う。片足ずつの購入で、色を揃えた。
右足にはアンクル装具をつけるので、ひとまわり大きなサイズにした。
不揃いの履たち。
7月13日
連休の間、一時帰宅がすることが許された。
久しぶりにポロシャツを着た。
パジャマでないものを着たのは3ヶ月ぶり。
入院して3ヶ月、その前に髪をカットしたのは3月くらいだったので、
4ヶ月間、伸ばしっぱなしの髪の毛、こんな形になった。
一時帰宅で美容院に行き、カットしてもらったが、
このまま伸ばしたら、とも美容師の方に言われたが・・・・
自分としては、やはり以前の自分に戻りたい気持ちがあり、
長髪もお茶の水博士みたいで、それなりに魅力的に感じたが、
入院前の髪型にしてもらった。
7月25日
ついに退院の日が来た。
やはり、とても嬉しかった。
入院即手術から15週間が経っていた。
主治医の医師、担当の看護師の皆さん、
お世話になった方々から、異口同音に、
退院といっても自宅療養で、完治ではないので、
勘違いしないように、と散々釘を刺されたが。
退院後、起きているときは、コルセットをし、
右足の痺れが残っているため、杖歩行、それもかなり慎重な歩行、
筋トレで右脚、右腰の力をつけ、足のしびれをカバーする努力、
毎日、それなりに室内歩行、また、妻の運転で買い物に行き、
ショッピングカートに掴まり歩行、これにはほとんど不自然さを感じない。
これが、今の状況。
秋には、多摩川を越え、研究会等へ出席
これが、今の目標。
1 件のコメント:
Mです。頑張られた姿、懐かしく拝見いたしました来られた際はお顔出しいただけると私たちはみんな喜ぶこと間違いなしです。奥様にもよろしくお伝えください。
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