2019年12月15日日曜日

12月15日 FT記事 ‘New dawn’ as Tories turn Redcar into Bluecarを読んで

“‘New dawn’ as Tories turn Redcar into Bluecar   
Johnson admits many traditional working-class Labour supporters ‘lent him their votes to see lives improved and Brexit delivered“ FT,14 Dec. 2019, p.3
を読んで 渡辺幸男

 今回の英国総選挙での保守党大勝利についての象徴的な記事が、この記事と感じた。伝統的に労働党支持であったイングランド北東部の重工業地帯の労働者の支持を保守党が得ることで、大勝利を得たというものである。その中身は「伝統的労働党支持層である労働者階級は、ジョンソン首相に生活状況の改善とブレクジットに向けて票を「lent」した」というサブタイトルから明確なように、衰退重工業地域、イングランド北東部の労働者が、EUからの離脱と地域経済の再生、自分たちの経済状況の改善を願い、労働党一辺倒であった労働者層の多くが、家族ぐるみで保守党に初めて投票したというものである。
 この期待が現実化する可能性は、非常に低いと思われるが、一縷の望みに賭けた、一縷の望みに賭けざるを得ないほど、に激しいこれまでのEU下での保守・労働両党の政策へのそれほどまで失望、ということになろう。そのために多くの労働者たちが、ジョンソン首相に票を「lent」したというのである。あまりにも悲しい物語である。
 これこそ、資本主義の本質が露呈した資本主義経済体制下での悲劇そのものと、私には見えてくる。ダイナミックで発展する資本主義、英国保守党が本来目指すものであろう。EUの政策に縛られ、経済政策について自らの判断での裁量の余地が小さくなったこと、これが経済的には、Brexitを求めた議員たちの建前であろう。実際には、かつての大英帝国の再現を夢見ているに過ぎないとしても。少なくともMartin Wolf氏をはじめとするFTの論説委員諸氏は、ほぼ例外なくEU残留派であり、その方々の議論は英国経済の今後を考える議論としては、英国との利害が薄い私にとっても極めて納得的であった。
 しかし、何れにしても、英国自身の判断で、資本主義としての再発展を展望するためには、自らが、競争的なという意味で、より資本主義的になる必要がある。より一層の競争の貫徹の必要性である。その中で英国内立地が優位な産業が、金融業等を含め、グローバルな競争優位を獲得し、英国内で発展し、英国経済の自立的発展を可能とする。しかし、それから外れた、ないしは漏れた諸産業は、国外からのより一層の激しい競争にさらされ、しかも巨大なEUという「国内」市場を失い、一層急速に衰退する。Brexitが経済発展につながるとしたら、すなわち経済的に意味があるとしたら、このようなシナリオが、可能性は低いが、数少ない一定の可能性を持つシナリオであろう。EUの枠組み内での経済・産業構造転換ではなく、より直接的な英国それ自体だけでの、新たな経済・産業発展の枠組みへの転換・対応が不可避であるということ、これだけは確かなことである。
 すなわち、そこで見えてくるのは、経済・産業構造でのグローバル分業内での英国の一層の特化である。その特化の方向での産業発展の担い手の中に、イングランド北東部の、経営主体さえ簡単に定まらない、否、得ることのできない、さまよえる既存の鉄鋼業に代表される重工業企業群それ自体の再生は、ほとんど含まれていないといえよう。1980年代にまさに英国の資本主義的発展の追求を行なったサッチャー政権下で生じたことは、イングランド北東部での旧来の重工業の縮小再生産と、それに変わる外資系乗用車工場等の進出による、新たな地域産業発展の担い手の形成ないしは導入であった。担い手として典型的なものが乗用車産業であるが、今回のBrexitで、最もマイナスの影響が受けるであろう英国内立地産業の1つが、EU市場向けにEU大での地域間分業に組み込まれた英国内の量産型機械工業であり、その典型が乗用車産業ということになろう。
EU市場内の立地という利点を失うことで、EU市場向け生産では、外資系企業にとって英国内にEU向け主力工場を立地させることの意味は、完全に失われる。他方で、英国立地に多少でもこだわる可能性が存在するかもしれない英国系量産乗用車産業企業は、1980年代と異なり、今や1つも存在しない。その意味、影響の大きさは、NAFTAの条約改定で大きな影響を受けるであろう、メキシコの外資系乗用車産業の工場群以上であることは、確かであろう。
 衰退し、かつ迷走する英国鉄鋼業に加え、存立基盤を失う可能性の大なる英国内で生産する乗用車産業の有力工場が立地しているのが、イングランド北東部である。経済の論理を英国経済・産業として追求すれば、その存在意義を最も失うのが、これらの既存の重・機械工業といえよう。英国経済・産業がグローバル競争の中で、改めて競争優位を確立するとしても、それを主導する英国内立地の産業が、イングランド北東部の既存の重・機械工業、ないしはその一部であるという可能性は、極めて低い。否、存在しないと言った方が良いであろう。
 もちろん、グローバル資本主義経済を前提とした場合、労働党の国有化政策等を通して、その下で英国産業が再生し、国際競争力を持つようになり、その恩恵をイングランド北東部の重・機械工業もうけることができるということは、これこそ全くの幻想だと思うが。資本主義競争下の衰退民営巨大企業について、国有化を通して、当該企業を含めた当該産業が再生発展したような事例を、民営企業形態をとりながらの国の巨額資本の投入の例を含め、英国どころか日本等でも、私は知らない。私が知らない成功事例が、どこかにあるのであろうか。英国労働党のコービン党首は、どのような展望を持ち得ているから、国有化による企業そして産業再建をまだ政策的に主張しているのであろうか。かつて想定されていたような1970年代のBLの国有化のような産業再生政策を意図したものとしてではなく、産業安楽死政策としてであれば、私なりに国有化も納得的ではあるが。

 それでは、彼ら、イングランド北東部の労働者層は何に賭けたのであろうか。現状の行き詰まりの中、何はともあれ、産業状況が変化することの可能性に賭けたのであろうか。変化の方向の自分たちにとっての妥当性については、とりあえず無視して。何はともあれ、変化を求めたのであろうか。確かに、今の労働党には、その意味での変化さえも望めない。他方で、Brexitには、少なくとも国内産業にとっての大きな「変化」は存在する。ともかくも、これまでと大きく異なる販売市場環境そして供給市場環境になるのであるから。ただその変化が、既存企業立地地域社会にとって、プラスの方向での変化となる可能性は極めて低い。それでも、変化がない方向より、何らかの変化を求め、イングランド北東部の労働者層の多くが、初めて保守党に投票したということなのであろう。
 労働党の国有化政策が、一種の産業安楽死政策であることを、これまでの経験を通し直感的に感じているのかもしれない。今度の選挙で、遂に、イングランド北東部の労働者層は、蛇の生殺し状況に置かれ続けるよりも、本格的な変化の中で、新たな地域経済にとっての前向きな可能性に、一縷の可能性であろうと、それの形成に賭けたのかもしれない。

 資本主義、健全なそれの基本は、「創造的破壊」を通しての発展であろう。イノベーションを通しての発展とも言い換えられる。既存のものを破壊し、新たな価値あるものを作り出す力、これが資本主義に備わった、その経済の発展を持続的に可能とする根本であろう。その「創造的破壊」をもたらすものは企業間「競争」である。競争があって、新しいものが古くなったものに取って代わる。これが順調に生じる時、それが生じている資本主義経済は、全体としてみるならば、あくまでも「全体」としてではあるが、健全に発展していることになる。「健全」に「順調」に発展している資本主義経済、それ自体が破壊を内包している。その破壊は古くなった産業や企業の破壊であり、それを担ってきた、そこで習熟し育ってきた人材の存在意義をも破壊することを意味する可能性が高い。
我々の身近に生じた現象としては、溶接ロボットの乗用車組立工場への導入時に見られたことでもある。これまで熟練労働者が蓄積してきたノウハウをロボットが学ぶことで、多くの熟練労働者が不要となる。さらにこの過程は、相対的に技術革新に乗り遅れた企業、旧来の熟練労働の担い手を尊重してきた企業、あるいは労働組合との関係で尊重せざるを得なかった企業が、一手にその負担を担うことにもつながりやすい。既存の雇用人材の持つ習熟を尊重することで技術革新の導入に遅れ、競争に負けた企業やその企業が立地する地域は、創造的側面を全く享受しないまま、技術革新の持つ破壊の側面を、一手に引き受けることとなる。しかも、このような過程は、近接地域内の企業や地域間で生じると言うよりも、制度的共通性が各国民経済や地域経済に存在することで、グローバルな地域間競争の中で諸国経済間、そして産業立地地域間で生じる可能性が高い。
先行的に導入する等で技術革新を活かし、新たな発展展望を持った国民経済・地域あるいは産業地域と、それを全面的に喪失した国民経済・地域・産業地域と2分する可能性が高いのが、グローバル化した健全な資本主義的な経済で本来生じていることである。「勝ち組」と「負け組」への2分化である。それゆえに、それぞれが地域的に偏在することになる。
もちろん、英国保守党としては、英国経済の中のグローバル資本主義下で優位に立てる可能性が高い産業・企業を全面的に支援し、その優位の実現に努めるであろう。結果、グローバル資本主義下で英国経済の一定の地位の維持に成功するかもしれない。しかし、このように意味で成功するということは、国内経済の一層急激な再編成を意味している。グローバル市場での競争力を持っていない産業・企業は、基本的に切り捨てられることになる。そのことが、切り捨てられた産業・企業の立地する地域にとって、極めて大きな打撃なるかどうかは、それに変わるグローバル市場で優位を確保できる産業・企業の当該地域内への立地を実現できるかにかかっている。そのことに成功すれば、地域経済としては、一定の繁栄を実現できる可能性を持つことになる。既存産業で習熟を実現した多くの人々は、その習熟の意味を破壊され、人間としての存在意義を否定されるのであるが。
しかし、イングランド北東部に、あえて英国経済・産業にとっての創造的部分が新たに立地することは可能であろうか。サッチャー政権下にそうであったような、EU市場を念頭に置いた外資系企業工場の新規立地は全く考えられない。近年の英国経済について不勉強な私にとって、どんな産業・企業立地がイングランド北東部で可能性を持っているか、皆目見当がつかない。ましてやEU市場を失った英国経済内の企業の今後の姿、前向きなものが見えてこない。また、IT人材等、これからの産業発展に不可欠な人材層が、イングランド北東部に存在するのであれば、これが地域経済発展の核となる可能性が存在する。地域経済論としては確認すべき点であろう。ただ、それらの発展がたとえ存在しても、旧重・機械工業で習熟した人々が活用される可能性はほとんど存在しない。
今回、初めて保守党に投票したイングランド北東部の労働者層が、保守党による英国の自立経済発展政策が成功したとしても、その受益者になるのは、働くものとしてすでに習熟の場を選択してしまった彼らではない。受益者になれるとして、彼らの子供達の世代であろう。彼らにとって、新たな産業がイングランド(北東部)で発生・発展すれば、それに応じて新たな雇用が生まれ、次への展望が生まれるかもしれない。これに彼らは賭けたのであろうか。労働党の国有化政策では、創造的破壊を遅らすことはできても、創造的破壊への契機を与えることはできないであろうから。これを書いている過程で、ますます、絶望的選択、一縷の可能性、遠い可能性に向けての選択を、イングランド北東部の労働者層が行なった、ということが私自身に自覚されるようになった。
ただ、現代英国の若者にとっては、イングランド北東部にこだわる理由は存在しないであろう。新たな産業の担い手としての可能性が大であれば、よりその能力発揮機会が大きい、英国内であれば、ロンドン周辺へと移住することになろう。人は移動できる、ましてや新たなスキルを身につけた若い世代は、自ら最も高く評価してくれる場に自らを置くように移動する。国境を超えても。住む場所、職業等での選択の幅は、極めて広い。となると、次世代にとって、といったことも、あまり意味のないことなのかもしれない。
イングランド北東部の労働者層は、何を、今回の選挙で保守党に託したのであろうか。Brexitで彼らの生活が改善される可能性が存在すると、何故思えたのであろうか。選択肢が狭まり、そう思わざるを得なかったとしても、何故それが選択肢として存在し得たのであろうか。考えれば考えるほど、私にはわからなくなった。一縷の望みは、やはり一縷でしかなく、それは儚い白昼夢に過ぎないということであろうか。何故、イングランド北東部の労働者層は、保守党のBrexit政策に、自分たちの生活状況の改善について、一縷でも望みを託したのであろうか。考えれば考えるほど、わからない。絶望の下での最後の賭けとしての選択ということであろうか。

 あるいは、自らの世代での状況改善については、もはや絶望し、次世代が担う英国が、自立した発展する英国となること、それを通して、次世代の人々の生活が英国単位で守られること、これを選択したのであろうか。

2019年12月9日月曜日

12月9日 昨夜の月と我が家の紅葉

昨夜、12月8日7時半頃、
とっぷりと暮れた初冬の月夜、
我が家のエントランスのモミジの紅葉が、
見頃を迎えていました。
ちなみに、昨夜の月は、月齢でいうと12夜くらいのようです。
ふっくらとした明るい月でした。

 庭園灯に照らされ、
モミジが映えています。
庭で紅葉したハゼは、すべて葉を落とし、
紅葉の季節を終えてしまいました。
我が家の紅葉は、モミジの季節へと大きく移りました。

薄暮の五時ごろ、
写真では、まだ空が明るく写りました。
今年のエントランスの冬には、
クリスマスローズと西洋サクラソウ、そしてノースポール、
この3種類の花を準備していますが、
いずれもまだ、これからです。

蕾をつけ始めた鉢もありますが、
しばらくは、
モミジがエントランスの主役です。

2019年12月1日日曜日

12月1日 初冬の我が家の庭、サルビア、ハゼ

12月になり、本格的な寒さが、
我が家の二宮の庭にもやってきました。
ただ、まだ庭ではサルビアが咲き誇っています。
グリーンパラソルも、多少寒さの影響を受け、
家から離れたところではしおれ気味ですが、
初冬の陽光の下、輝いています。

昨日11月30日の朝、二宮も関東平野の他の場所同様に、
厳しい寒さに見舞われました。
車には霜が降り、
庭の真ん中に置いてあったサクラソウのプランターには
霜柱が生まれていました。
 ただ、今回の寒さ、霜の降りるような寒さでしたが、
最初の写真のように、
サルビアの花は、冬枯れすることなく、
12月1日の朝を迎えました。

11月28日までに、
ようやく、我が家のテラスの冬支度が完了しました。
ガラスの引き戸を閉め、暖房を入れ始めました。
かつては、三田祭の休み期間に夢中になって冬支度を完了したのですが、
今年は、少しずつ、休み休み、花々を移動し、
1週間遅れで完了した次第です。
霜が降り始める日までに完了し、
なんとか、今年も冬支度が間に合いました。

今日の庭のハゼの紅葉、
完全に上まで紅葉しましたが、
だいぶ風で葉が落ちてしまいました。

 1週間前には、下の写真ように、
紅葉は完了していませんでしたが、葉がいっぱいのこり
賑やかな紅葉状態でしたが。
この1週間の風雨で多く紅葉が落ちました。

いよいよ、我が家の庭も冬景色、
サルビアの花から見れば、その一歩手前、直前、
といったところでしょうか。
西洋サクラソウやクリスマスローズの開花はまだですが、
冬支度を完了したテラスの中で、
クリスマスカクタスが、咲き始めています。
これからしばらく、楽しめそうです。


2019年11月10日日曜日

11月10日12日 昨夜の月と我が家の庭そして満月

昨夜の夕闇が迫る頃、
我が家の庭から見た月の出、
庭の庭園灯とのコントラストが気に入り、
40分ほど追いかけてしまいました。

              上の写真は午後4時51分、

下の写真はその10分後、午後5時1分のものです。
夕闇が迫ってきています。

家の廊下からの写真で、軒先が少し写っています。
下の写真は午後5時14分、
暗さが進み、月の明るさが冴えてきました。

午後5時33分には、真っ暗に。
月と庭園灯だけが目立つようになりました。
雲一つない夜空に輝く月、
爽やかな気分で夕方を迎えることができました。

なお、庭園灯の左側に見える大きな葉っぱは、
今年も巨大化した地植えのグリーンパラソルです。
霜の降りる前に葉を刈り込み、ビニール袋をかぶせることで、
芋の部分は霜げることなく、なんとか冬を越し、
秋にはこのように巨大化し、
庭を賑やかにしてくれます。


そして満月の12日、午後6時過ぎ
月と庭園灯の灯りが、ともに輝く時間です。

2019年10月17日木曜日

10月17日 我が家の池の鯉

今日の池の鯉。
大小さまざまな鯉が、元気に泳いでいます。
夏を無事乗り越え、
冬に備え、
餌を積極的に求めるのが、今の季節です。

30歳以上の鯉から、昨年孵った稚鯉まで
大小さまざまな鯉。
緋鯉の色はさまざまですが、全て我が家で孵った鯉です。
最初に手に入れた十数匹の鯉が種類の異なる錦鯉だったため、
このようにさまざまな模様の緋鯉となりました。

池の周りは、草が茂り、
手入れがいまひとつな状況ですが、
飼い主の私の体力不足のため、今年は草の刈り込みが不十分で、
このようになってしまいました。
このような草の中の池と鯉も、
それなりの風情があると思い始め、草を伸ばしたままにしてしまいました。


2019年9月29日日曜日

9月29日 小論 梶谷・高口『幸福な監視国家・中国』を読んで

梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』
                を読んで、考えたこと
 渡辺幸男

目次
はじめに
第1章      中国はユートピアか、ディストピアか
第2章      中国IT企業はいかにデータを支配したか
第3章      中国に出現した「お行儀のいい社会」
第4章      民主化の熱はなぜ消えたのか
第5章      現代中国における「公」と「私」
第6章      幸福な監視国家のゆくえ
第7章      道具的合理性が暴走するとき
おわりに

 本書の「おわりに」によれば、「第1章と第5〜7章を梶谷」氏が、「第2〜4章を高口」氏が「主に執筆」(同書、246ページ)したということである。梶谷氏が提案し、中国の現状に詳しいフリージャーナリストの高口氏が、中国でのテクノロジー変化の実態を紹介し、理論的な分析を神戸大学で中国経済を研究する梶谷氏が担い、出来上がった著作ということである。
本書の基本的姿勢を示す部分は、第6章の1つの節「道具的合理性とメタ合理性」(同書、181ページ)にあるといえよう。中国の「管理社会」化を、民主化されていない中国ゆえの問題とせずに、現代技術の発展方向の下での、現代社会共通の動きとして把握し、その先鋭な姿を中国に見ている著作と言える。個別の問題や目的を解決し達成するという意味での「道具的合理性」が、AI等を通して追求され、便利なある意味で安心な行儀の良い世界が実現する。しかし、そこは、「目的自体の妥当性への判断を下す、より広い意味での合理性」である「メタ合理性」(同書、182ページ)との齟齬が生じることがある。
 個別の参加者にとって、便利な社会、安心な社会の追求が「道具的合理性」の追求となり、そのような追求が相互に対立するときに、それを社会として解決するより高次な合理性が、「メタ合理性」と考えられている。単純に個別の道具的合理性の足し算で功利性の多寡を評価するのではなく、社会としてあるべき姿を社会的に追求する中で、各自の功利性を最大化する道の模索であるともいうこともできよう。中国では、このより高次な合理性が、共産党独裁の下、党中央そしてそのトップの判断に委ねられ、それゆえに、各地の地方政府の判断に不服を持つ人々が、上級政府そして中央政府に「上訴」するということが生じている、と本書は把握している。これを儒教的な「徳」による判断・解決とも結びつけ、議論している。
 法の下、法の範囲内での道具的合理性の追求、そしてその法を多様な利害関係者の間での共存の追求を可能とするものとしての「メタ合理性」が、時代の変化とともに社会構成員の合意によって修正され追求されるというのが近代社会であるとする。そして、それとの対比をしながら、中国の共産党支配下でのAI化の進行の特徴づけを行なっている。この道具的合理性における相反する際の利害の調整機構が異なるだけで、道具的合理性の追求の自由そのものとそこでのAIの活用については、中国と米欧との差異はない、ということであろう。
 このように見るということは、中国も米欧も、ともに経済的には競争的な資本主義社会であり、そこにAIの急激な発展が生じ、経済のあり方が大きく変わりつつある、という理解でもあろう。それゆえ、GAFAが米国で生まれたのに対し、中国でもBAHTが形成され、それぞれが現代技術のもとで、プラットフォーマーとして地位を確立した存在が、先端的な技術分野での支配的な存在となってきている。このように見ているともいえよう。
 現代の中国でも現代の米欧でもないが、しかし、多くの人々が道具的合理性を追求可能な今の日本の社会に生きる我々としては、このような技術進歩を踏まえ、どのようにメタ合理性を形成し、実現していくことが必要なのか、あるいは可能なのか、問うているのが、本書であるともいえよう。これを、日本に住む私として、どう見るか、これがこの小論で考えたいことである。

 私、渡辺幸男が、経済学という社会科学の研究者として、現代資本主義社会を受容せざるを得ないと考えた理由は、現代資本主義下での競争により産業社会のダイナミックな技術発展の可能性が大であり、これに対抗できるような社会システムを私なりに構想することができなかったことにある。本書がいう「道具的合理性」の追求が可能であるということは、各自が功利的に自らの効用を最大化することを目指し活動し、そのような行動を競争が媒介することで、競争の結果という外的な論理に基づくある意味で「正当」な報酬として、あるいは機会均等のもとでの正当な結果として成果を獲得できる、ということを意味しよう。裁定をする高次な判断力を持つ機関や人間を想定することなく、これが可能となるのが、近代市民社会のもとでの資本主義であろう。これの最後の部分が、中国では異なり、中央政府とそのトップの判断という機関や人が最終的に「合理性」を調整し決めるということになろう。
 しかし、何れにしても、競争の強制下で最後まで外的に、メタ合理性のもとにあるとしてもメタ合理性の枠組みのもとにある市場によって外的に規定されるか、もめた時には「お上」が裁定を下す形で結末がつけられるかの違いであり、自らが自らを、社会の一構成員として参加することで、社会的に決めることにはならない。メタ合理性の枠組みの下にある市場であっても、そこでは人間行動に対して直接的に影響するのは市場競争での外的な強制であり、これこそが全てである。市場競争の場のルール、土俵がメタ合理性によって規定されるだけである。人間同士の関係が、市場で特定の指標、多くは財サービスの内容として外化され、それぞれに価格がつけられ、そのような外的存在としての人間労働の共同生産物である財サービスが存在する。だからこそ、ダイナミックな発展が可能となる。しかし、決めるのは市場である。競争に強制され、その下での再生産が強制される。
 そして、競争の強制がうまく機能することで、イノベーションが生み出され、産業の発展や生産性の上昇が生み出される。同時に、その発展は、既存の蓄積された熟練技能等の意味を削減し、破壊することも生み出す。形成時には必要とされ、個別の人間によって担われ培われた技能や技術、習熟し蓄積された社会的に意味あるものだったもの、それらが必要に応じて破壊されうることで、資本主義社会の発展は生じることが可能となる。それが生じない資本主義社会、競争の強制が無い「独占」の支配する社会は、資本主義の可能性を否定する。しかし、有効なダイナミックに発展する資本主義社会は、常に創造的破壊という、個々の人間の習熟の意味をも破壊する内容を多くの場合持つことになる。ラストベルトの常なる形成可能性の存在である。
 このようなラストベルトの常なる形成を、発展のために人間社会として受け入れるべきであろうか。一部の人間について、無用化されたがかつては不可欠とされた技能や技術の習熟を重ねてきたゆえに、人間社会のダイナミックな発展のためには、その人間存在としての歴史が無価値化されて良いのであろうか。私は本来このような状況を受け入れるべきではないと考える。が、しかし、代替案、それに打ち勝つ案が見えない。
個別の人間が社会の必要な一員として担ってきた機能、そのために特定化され蓄積された技能や技術を、状況が変わったからといって、一方的に破壊する、あるいは破壊することが許される、破壊された本人も含めこれを素直に受け入れる、これが健全な資本主義のあるべき姿であろう。もちろん、破壊された個人の集合体は、社会によって社会保障という形で生活を保障されることになる。これが、現代社会の築いたメタ合理性である。しかし、個々の人間の熟練技能者や技術者としての尊厳は否定されることも事実である。それゆえ、何らかのラストベルトの形成は、健全な資本主義が存在していることの証とも言える。人間社会の「発展」のために、個々の人間が自らの責任ではなく、その社会のために蓄積形成してきた存在意味それ自体を破壊される。これが資本主義社会である。健全な資本主義そのものなのである。これを受け入れなければ、それぞれの経済社会は、グローバル競争の中で生き残れない。当該社会全体が、旧ソ連を中心とした東欧圏のようにラストベルトになるだけである。トランプ大統領は、その行動はドン・キホーテが風車に向かうごとくであるが、一面、このような健全な資本主義への懐疑の中で生まれた鬼っ子なのかもしれない。
やはり、資本主義社会は、メタ合理性を持ち得たとしても、根本的にみれば反人間的である。同時に、競争的であれば、中国がそうであるように、メタ合理性形成の仕組みを持たなくとも、創造的破壊を実行し、ダイナミックに発展することができる社会である。個々の人間が資本主義社会の発展のために蓄積したものを破壊し、人間そのものをも破壊しながら、ダイナミックに発展する。このように考えると、メタ合理性の追求は、この資本主義社会の持つ業病に対する緩和ケアのための模索を可能にするものと位置付けられるのかもしれない。

この資本主義下での産業発展論を肯定的に議論してきたのが、産業論研究者としての私である。歴史上、人類が発明した最も効率的な産業発展の仕組みは、資本主義的競争社会である。その社会は同時に、まともにその社会の産業の発展のために貢献してきた人々の一定割合について、その蓄積の意味を破壊し、存在価値を否定する非人間的な内容を持つ社会でもある。
このような発想を、産業発展論の研究を進める過程で、いつしか封印してきた。マルクス経済学を学ぶ学徒として、マルクス経済学は、資本主義社会の持つダイナミックな発展可能性を論理的に示し、同時にその発展の持つ非人間社会的内容を指摘し、資本主義社会での産業発展とともにその社会の止揚を構想した経済学である、とかつて考えていた。しかし、その後の研究者としての私は、前半の論理の実態的な分析・理解と、その非人間性の確認までは、私なりに行うことができたが、止揚への展望を一切持ち得なかった。それゆえ、いつしか、この止揚の追究、さらには問題性の指摘までもを、研究内容から完全に除外するに至った。その点についての自覚が、本書を読むことで蘇ってきた。
創造的破壊の一環として、個々の人間の社会的存在意義そのものをも新たな社会の創造過程で破壊する資本主義社会、その社会をどうしたら止揚できるのか、今の私にはわからない。しかし、グローバルに開かれた経済社会を前提とする限り、資本主義的な競争を行うことが、当該社会が生き残る可能性を最も高め、個別的な道具的合理性の総和を最大にする道であることも事実であろう。人間たちの各経済社会は、創造的破壊を通して行き着くところまで行くしかない、それが資本主義社会というダイナミックな創造的破壊の箱を開いてしまった人間社会の宿命なのか。
その道具的合理性の追求の行き着く先が、地球温暖化、海水面の上昇、人類の居住地の多くの水没として、近い将来に、多くの人類経済社会の存立危機をもたらすのであろうか。
あるいは、監視社会となることで、競争的資本主義の持つ多様な創造的破壊の可能性それ自体に、大きな枠をはめてしまい、道具的合理性を自由に追求する競争的な資本主義が持っていた有効性の発揮を不可能にしてしまうのか。
こんなことを、本書を読み終えて、考えた。何れにしても、本書は私にとって刺激的な著作であった。

参考文献

梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』NHK出版新書、2019

2019年9月17日火曜日

9月17日 小論 現代インドの産業発展をどう考えるべきか

現代インドの産業発展そして経済発展をどう考えるべきか
渡辺幸男

 現代インドの産業発展そして経済発展を、どう見たら良いのか、そもそもどのような内容の産業発展なのか、これらを知りたくて、白水社からここ数年に出版された3冊を読んだ。
 出版年の順に並べれば、2017年出版の笠井亮平『モディが変えるインド 台頭するアジア巨大国家の「静かな革命」』、2018年出版の貫洞欣寛『沸騰インド 超大国を目指す巨象と日本』、2019年出版の田中洋二郎『新インド入門 生活と統計からのアプローチ』の3冊である。まず読んだのは、831日の日本経済新聞で紹介された田中著『新インド入門』である。その本を通して同じ白水社から現代インドを紹介する近年の著作が出版されていることを知り、早速購入した。そして上記とは逆に、出版年が新しい著作から順に読んだ形になった。
 なお、現代インドの産業発展についての議論としては、この3冊で物足りなかったこともあり、以前に読んだ絵所氏の論文と柳澤氏の著書についての、ブログ未発表の私なりのコメントを、補論1、2として掲載した。

 各著作の目次は以下の通りである。
田中洋二郎『新インド入門』
 はじめに
第一章     巨象という虚像
第二章     アナザー・インドへ
第三章     忘れられた日本人
第四章     文化交流の現場
おわりに

貫洞欣寛『沸騰インド』
 はじめに
第1章        日印関係の今
第2章        モディとは何者か
第3章        変わるインド外交
第4章        教育−「英語・IT大国」の実像
第5章        分断社会の今
終章  日印関係とインドの将来

笠井亮平『モディが変えるインド』
 プロローグ − 立ち上がる巨象
第1章        躍動する「世界最大の民主主義」
第2章        変わりゆく経済と社会
第3章        「同盟」と「非同盟」のあいだ
第4章        南アジア・インド洋をめぐる印中「新グレート・ゲーム」
第5章        「インド太平洋」時代の日本とインド
エピローグ − 二〇四七年のインド

 3冊を通して言えることは、現代インドの発展を語っているはずなのだが、目次からも推察されるように、インド経済の発展の論理や経済発展を担う産業のあり方という点についての言及は少ない、というか、ほとんど無いと言える。産業発展の分析についての紹介もない。3冊の中で、参考文献として掲載され2010年代に出版されたインド産業や経済の展開それ自体を議論した日本語の著作は、ざっと見た限り、柳澤悠『現代インド経済−発展の淵源・軌跡・展望』(名古屋大学出版会、2014年)1冊であった。絵所秀紀氏の『離陸したインド経済』は2008年のミネルヴァ書房出版であり、これは柳澤氏の著作に比して出版が少し早く2000年代だが、参考文献の中で経済そのものを議論しているもう1冊であった。
 私が読んだこれら3冊は、いずれも、モディ政権下での産業展開に基づく経済発展するインドを取り上げているのだが、そこでの発展のダイナミズムの内実についての議論は、この参考文献の状況から分かるように、ほとんど議論されていない。カーストの現在や公教育の問題等、興味深いインド社会の論点のまともな紹介もあり、それはそれで興味深い著作であった。しかし、「沸騰する」インドの紹介のはずだが、政治的な「沸騰」については紹介しても、産業的そして経済的な「沸騰」の内容については、ほとんど分析がないどころか紹介もないと言える。
 その中で、多少なりとも経済改革がらみでの言及があるのは、モディ現首相のグジャラート州の州首相時代の政策であろう。例えば、笠井著の第2章では「グジャラート−経済改革の申し子」とのタイトルで、州首相としてのモディ氏の実績を紹介している。2001年に州首相に就任したモディ氏は、経済振興のための「内外から大々的な投資を誘致するべく」努力し、他の州での立地で行き詰まっていたタタのナノの製造工場を誘致することに成功し、「電力改革を進め」「12年までに州内でほぼ完全な電化を実現し、余剰電力をほかの州に売却するところまできた」(笠井、6669ページ)ということを紹介している。ただ、残念ながら、ここでも何故当時のモディ州首相は成功し、他の州首相は成功しないのか、あるいはしようとしないのか、分析は全くない。モディ氏がその実績から中央政府の首相に選ばれているのであるから、多くの国民によりその実績は高く評価されているはずなのにである。
 何れにしても、電化という経済・産業発展の前提条件とも言える事項での成功が目立ち、それが功績として積極的に紹介されている。このことは、逆にみれば、インドの産業発展そして経済発展のインフラ的条件が、依然としてかなり厳しいということを示唆しているともいえよう。例えば、インドの統計上は電化されている村(住宅地域に送電線や配電盤が設置される、公共施設に電気が通じている、村の世帯の10%に電気が届いている、これらが電化していることの定義(貫洞、152ページ))であるとしても、定義からして、どの世帯にも電気が通っていると必ずしも言えず、しかも、インドでは電力不足のため停電が常態化しているという指摘もある(例えば、「電気が来ている農村部でも、・・・一日二〜三時間の送電にとどま」(貫洞、152ページ)ることもある、とされている)。
 このようなインフラ未整備の状況が、モディ首相の経済政策や産業振興政策に、どのように影響してくるのか、知りたいところであるが、ここから先については実態の紹介もない。一方で、日系企業を含めた外資誘致の話は、いずれの著作でも取り上げられ、そのための努力が紹介されている。例えば、笠井著では「メイク・イン・インディア」という節が設けられ、外資のインド製造業への進出が紹介されている(笠井、6973ページ)。そこでは、外資誘致の状況が紹介されているが、関連産業として地場の企業の存在、その具体的な形成等について言及されることはない。
 インドも中国同様に、戦後間も無く国内での乗用車生産等を開始し、一通りの製造業を国内に、自国系企業を中心に構築した。国際競争力はほとんど存在しない企業群であったが、近代工業そのもののは存在していた。この点では、中国等の計画経済と同様な成果を上げている、と私は認識している(補論1で、インド自転車産業についての論文についての紹介的コメントを掲載した。これはその根拠でもある)。ただ、これらが、中国流に言えば改革開放後に、どのように変化したのか。これが見えてこない。中国では、外資の進出だけではなく、地場の新規創業企業が多数形成され、計画経済下に蓄積された近代工業に馴染んだ人材と産業機械、これを活用し、国内市場を新たに開拓し、急拡大し、それが外資による製造業拡大とともに、中国の産業発展を支えた。インドではどうなのであろうか。
 この点について、貫洞著の参考文献に掲載されている柳澤悠『現代インド経済』(補論2で私なりにその内容を紹介)は、地場企業の発展の一部について、インフォーマルセクターとしての発展とその限界という形で、インドの状況を紹介しているのだが、残念ながら貫洞著では、このような点については、全く言及されていない。私にとっては、中国の経験を見てきたことから、インドの地場の新規創業企業の形成状況と、それとインドなりの「計画経済」期の工業化努力の成果とが、どのようにつながるのか、つながらないのか、大きな関心事なのだが、この点についての議論は貫洞著でも完全に欠落している。外資のインド進出、インドの場合は、単に低賃金労働力の確保のみではなく、現地市場の確保に向けての進出と言えるものが多いと考えられるが、それと現地の企業の対応、それが見えない。さらに、現地の企業にとって大きな意味を持ち得ると中国の経験から想像される、インドなりの計画経済期の工業基盤の形成の成果との関連も見えない。
 補論1として、それに対する私のコメントを紹介する絵所氏の論文では、まさに、この計画経済期以来のインドの自転車産業の状況が紹介されている。日本以上の大きさの自転車国内市場がインドには存在し、部材から国内完結型で国内生産する能力、企業群が存在していながら、国際競争力のある自転車産業の育成には失敗している、というのがインド自転車産業の現状についての絵所氏なりの見立てである。その上で、その理由をどう考えるかで、私自身は絵所氏の議論に対し、疑問を呈した。ただ、私にも、絵所氏の考えを正面から批判することのできるだけの、実証的な根拠は全くない。今、私が一番欲しいのは、インドの産業をどう見るか、個別産業の研究で良いから、インド産業の現状分析をしている、柳澤氏や絵所氏のそれのような研究書であり研究論文、そしてそこでの実態についてより一層つっこんだ内容紹介とその内容の展開の論理についての分析の著作である。できれば、日本語で書いたそれ、ということになる。
 アジア経済研究所のスタッフが中心となって行っている実態調査諸研究を常に意識しているが、中国やASEAN諸国の産業発展についての研究には、このような意味で興味深いものが多く見られる。このブログでも、いくつかをすでに紹介した。しかし、ざっと見た限りではあるが、南アジアについての研究では、私の上記のような関心に対応する研究成果を発見できなかった。今、まさにインドが中国に続いてどうなるか、特にその産業の発展が、巨大な国内市場を生かして、独自な発展を遂げるのかどうか、最も重要な時期に至っているはずだが、まだ、中国研究で出会ったような日本語での研究成果に出会っていない。私の不勉強のせいである可能性も高いが。
 
補論1
絵所秀紀、2018年「国際価値連鎖とインドの自転車産業 」*  を読んで
絵所秀紀「国際価値連鎖とインドの自転車産業 」では、結論部分で、インドの自転車産業は、「国際市場から孤立した閉鎖的な国内市場で生き延びているPGVC(1)(プロデューサー・ドリブン・グローバル・バリュー・チェーン型−引用者)の産業である。ここでは依然として,「組立メーカー=ブランド所有企業」が主導企業であり,コーディネーターとしての役割を果たしている。」(同書、58ページ)と述べている。その結果として、「インド製自転車部品は「安価」でもないし,「品質」ですぐれていることもない。高関税と「自転車無料配布プログラム」という形をとった州政府補助金に守られて,かろうじて生き延びている状態である。日本や台湾や中国でみられたような自転車産業の革新は,インドでは見られない。」(同書、58ページ)とする。
 このような指摘は妥当であろうか。これが本論文を読んでの、第一の疑問であった。何故、日本市場より大きな1千万台以上の国内市場があり、輸入規制が機能し、自国資本企業に自国市場が提供されていながら、しかも、自国内に自転車を部材から生産できる技術、生産基盤産業がありながら、自転車産業の高度化、先進工業へのキャッチアップ、あるいはインド独自の自生的な産業発展が生じないのであろうか。これが、本論文を読んでの率直な感想であり疑問である。この点について、「何故なのか」のツッコミが、この絵所氏の論文には存在しないことに、違和感を感じた。その疑問ないしは違和感に対する回答への示唆は、上記の結論部分の叙述自体にあるような気がする。
 本論文の筆者、絵所氏にとっては、海外からの直接的競争こそ、あるいは海外の生産体制の価値連鎖の中への組み込みこそ、当該国で産業発展が生じる理由である、ということであろうか。だからこそ、閉鎖的な市場のインドでは、1千万台という日本市場以上規模の市場があっても、自立的な産業発展が生じないと、言いたいのであろうか。
 しかしながら、自転車産業や他産業の各国での発展を見ていくならば、この認識は、妥当しないと言える。例えば、もっともこの認識と齟齬する事実は、日本の戦後の自動車産業の発展であろう。技術は海外から導入したが、基本的に海外企業との競争から隔離された国内市場向け生産のもとで自国系企業間の競争を通して、トヨタ生産方式に代表されるような独自な高品質を低価格で実現しうる生産体系を構築し、1980年代には、米欧市場への進出を実現した。この際に重要だったのは、国内企業群が先進技術を使っても規模の経済性を十分発揮しながら競争的状況になるような、十分な大きさの市場の存在である。
同様に日本の自転車産業も、基本的に国内市場での競争を通して発展し、その結果として、米国市場への進出を、一時的には果たすことができた。閉鎖的な国内市場ゆえの産業停滞、という論理は、その他の環境条件によって、成立する場合としない場合が共存していると見るべきであろう。そして、絵所氏の論文では、この国内市場に向けての国内企業の存立状況が、競争論の視点からは、ほとんど議論されていない。ここに、絵所氏の論文の議論の大きな特徴がある。
 すなわち、インド自転車産業では、中核的な技術を保持する大企業が完成車組立メーカーとして存在している。つまり、流通資本としての機能さらには販売にかかわる企業経営がほとんど存在しなかった、かつての中国国有企業と異なり、これらが流通を支配し、寡占的市場支配を早期から実現している。ここから、まずは、中国との差異が生じている。結果は、中国で改革開放後の市場変化過程で生じた市場の変化を先取りするような激しい完成車メーカー間の競争の欠落となる。この点を解明するため、裏付けるためには、競争の実態についての紹介分析が不可欠であるが、ここで絵所氏の論文の議論は止まっている。この絵所氏の論文は、インド自転車産業論「序説」の位置付けなのであろうか。
 絵所氏は、どのような業態の企業等が製品の生産を主導しているか、を主要な問題としている。しかも、既存の議論における諸分類を当てはめてみることで、その形態を確認しようとしている。しかし、インドの自転車産業の発展のあり方を考える上での主要な論点はそこではなく、国内市場を巡って、市場の変化に対応、ないしは市場の変化を主導するような企業間競争があるかどうか、そしてその競争が何を巡ってのどのような競争なのであるか、そして、その際の主体は誰なのか、という論点にあるのではないか。それがなければ、どのような業態の企業が産業を牛耳っているとしても、ダイナミックな発展は生じない。また、既存の他国の諸形態についての分類を当てはめて、インドの状況を整理しても、インドの自転車産業そのものの産業形態とそこでの競争のあり方は見えてこない。
 各産業や製品分野で主導する業態における差異が生じるのは、当該製品及びその生産のための体制を構築する際における中核的かつ主導的な存在が、価値連鎖のどこに位置しているかによって決まることによる。このように私は考える。しかし、このような主導的存在がどこに位置するかそれ自体は、ダイナミックな産業発展が生じるかどうか、どのような産業発展方向が選択されるかとは、直接的には関係ない。この存在は、産業発展が起こるとしたら、誰が主導するかを決めるものと見ることができよう。主導する主体が、積極的に産業発展を担うような競争環境になければ、既存の寡占体制での超過利潤を安定的に享受するような存在であれば、そこからは、その関係を破壊するような産業発展は生じようがない。
 このように考えるならば、単なる想像ではあるが、インドの自転車市場は、市場規模としては巨大だが、早期寡占的市場支配の下にあり、競争を通して市場の変化に対応する主体を生み出したり、あるいは市場の変化を生み出す主体を形成したりする可能性に乏しい市場である、と見えてくる。これでは、携帯電話の二の舞が、自転車でも生じる、ということになろう。そうであれば、既存のインド系自転車産業企業にとっては、部品メーカーも含めて、いかにして海外企業の進出を阻止するか、これ以外生き残る道はない、とも言える。
このようなインドの自転車市場の状況では、低価格普及品の自転車については、完成車輸入を自由化しなくとも、中国系部品の輸入と中国系企業の進出を認めれば、中国系一色になることが予想される。スマホでのサムスンと小米によるインド市場制覇と同様に、自転車ではジャイアントと富士逹等の中国メーカーによるインド市場制覇という展開が生じる可能性を暗示している。

*本論文については、中国自転車産業についての共同研究者であった慶應義塾大学駒形哲哉教授により、昨年、紹介され、その存在を知った。大変興味深く読み、私なりのコメントを書いたが、ブログ等に発表するに至らなかった。現代インドについての紹介文献を読み、その存在の重要性、ないしは有効性を感じ、改めて補論1として紹介することにした。
本論文を紹介していただいた駒形教授に感謝の意を表したい。
(1)「ジェフェリーは国際価値連鎖(GVC)2つの類型に大別した。プロデューサー・ドリブン(producer-driven GVC:PGVC)型とバイヤー・ドリブン(buyer-driven GVC: BGVC)型 」(絵所、9ページ)と、絵所氏は紹介している。
参考文献
絵所秀紀、2018年「国際価値連鎖とインドの自転車産業 」
経済志林』862

補論2
 柳澤悠『現代インド経済−発展の淵源・軌跡・展望』を読んで
 本書は、著者である柳澤氏が自ら調査を行った事例を含め、多数の文献を渉猟することで、インド経済の独立以前からのダイナミズムを、農村の下層・貧困層のあり方を軸に解明した著作であり、インド経済発展論としては大変興味深く、かつ納得的に展開することに成功した著作である。
 私の問題関心でもある中小企業を中心とした産業発展研究の視点から本書を見た時、特に注目すべき点は、インド経済の本格的発展が、独立後の農業生産性の上昇、緑の革命によるその加速の中で、農村の下層労働者層を出自とする都市−農村インフォーマル部門経済生活圏が形成され、それが自立的に発展することで、生じたという主張である。農村下層の労働者が多少なりとも消費者として市場に登場する中で、その需要は農村出自の小零細企業による疑似ブランド品やサービスにより充足された、というのが著者の主張である。このような発展を、独立以前から2000年代まで、論理一貫した形で説明している。
 またそのための裏付けは、事例研究や統計的なものも含め、著者自身の研究と既存の多数の研究を渉猟することで、きちんと行われている。実証性の極めて高い研究でもある。
さらに、インド経済の成長をインフォーマル部門の自立的発展から説明する議論を、私がまったく知らなかったこともあり、本著の議論はきわめて斬新なものと感じられた。少なくとも日本の中小企業研究者にとって、このような議論は新たな視点からインドの中小企業研究を可能とするものといえるであろう。それゆえ、近年のインド経済の発展を独自な視点から解明した著作として、創造性をも持った著作ともいえそうである。
 同時に、中小企業を軸とした産業発展研究としての意義と限界も存在する。著作として、インド経済を考えるうえで、大変興味深く、それもきちんと実証を行っていることもあり、それ自体としては説得的な研究である。そのため、丁寧にノートを取りながらじっくり読み込み、多くを学ぶことができた。その上で、中小企業を軸とする産業発展研究としてどのように評価できるかについて、以下で述べたい。
 中小企業を軸とする産業発展研究の視点から評価する際、本書の大きな特徴は、「都市−農村インフォーマル部門経済生活圏」という概念で著者が展開している、下層社会内での循環とそれをもととした自立的発展の姿を描いたことにある。下層民が賃金労働者化し、一定の消費需要を層として形成し拡大するというだけではなく、同時に都市や農村の自営業者、零細工場や露店・屋台といった工業生産と流通そしてサービス産業をになう自営業者層を同時に形成し、これらが下層民向けの疑似ブランド品やサービスを生産提供し、それを下層民は専ら消費するという関係にあるということを明らかにしている。その上で、その独自な市場を軸に、出自を同じにする小零細企業との循環を通して、下層社会としての自立的な経済発展が生じ、それがインド経済の独立後の発展の大きな動力になっていることを解明していることである。
 その議論は、独自な「二重構造論」ともいうべき議論であり、階層化された市場の下層が層として巨大化し、それへの供給者としての小零細企業層の発展ともつながり、その循環がインドの経済発展をもたらしたとする、まさにある種の中小企業を担い手として独自な発展がインド経済の発展をもたらしているという議論ということができ、中小企業を軸とした産業発展研究として高く評価できるものである。
 しかしながら、本書の終りに近い部分で、新興大企業がフォーマル部門で形成され、それが消費者層としてのインフォーマル部門の耐久消費財需要を自らのものとして急速に発展していることが分析されていながら、このようなフォーマル部門によるインフォーマル部門市場の層として巨大な需要の取り込みが、インフォーマル部門の生産者にとって、どのような意味を持っているかについての実証的な研究の紹介、あるいはそれへの言及もない。インフォーマル部門の消費者のそれなりの水準向上、すなわち市場での需要者の質的変化と、インフォーマル部門の小零細企業群での競争の存在とが影響しあえば、インフォーマル部門の生産者群にも変化が生じることは確実であると思われるが、その点についての言及はない。あるのは階層としての下層民の再生産、階層的上昇の限定性についての実証研究の紹介である。
 自立的な生活圏として生産者も組み込んだ発展を議論し、それゆえ中小企業を軸とした産業発展研究として高く評価し得る側面を持つ著作となっているが、肝心な近年における変化についてと今後について言及する中で、その層の分析が欠落している。これは、著者の関心が、階層的な貧困層の再生産にあり、インフォーマル部門としての小零細企業とそれが構成する産業それ自体の展開、発展には無いことによると思われるが、中小企業を軸とする産業発展研究として評価する視点からは、きわめて残念なことである。

参考文献
柳澤悠『現代インド経済−発展の淵源・軌跡・展望』(名古屋大学出版会、2014年)

お詫び 補論2で扱った柳澤氏の名前を間違えて記憶しており、そのままアップしてしまいました。中小企業研究の仲間であった三井逸友氏から誤りの旨の指摘を受けました。指摘くださった三井氏に感謝し、柳澤氏のお名前を正しい「悠」に修正した上で、お詫びを付記することにしました。
 故柳澤悠氏、同時に同氏は私の教員時代の同僚であった柳澤遊氏の兄上でもあります。お二入に心よりお詫びいたします。