2016年8月22日月曜日

8月22日小論                  覚書 後発工業化国の産業発展について6


後発工業化国の工業のフロントランナー化事例
                とルイスの転換点
    — 産業発展研究から見た時、「中所得国の罠」の議論を、
            どう考えるべきか2 —
渡辺幸男
はじめに
1、日本のルイスの転換点 労働力不足化の進展した1960年代
2、工業企業フロントランナー化のためのイノベーション トヨタ生産方式
3、下請系列取引関係の形成  キャッチアップの迅速化へのイノベーション
補節 産業政策の位置づけ
4、まとめ

はじめに
 本稿では、工業企業の発展、そしてそれらのフロントランナー化を通して高所得国化することに成功した事例として、筆者が直接その工業発展を見てきた日本の工業企業を取上げる。そして、日本経済のルイスの転換点ともいうべき、1960年代における労働力不足化前後でのイノベーションの進展の状況をみる。なかでも、日本独自の代表的なイノベーションといえる「トヨタ生産方式」と「下請系列取引関係」の形成の論理を経済環境との関連で紹介する。このことで、労働力不足下で日本経済を工業発展主導による高所得経済に導いた重要な要素であるこれらのイノベーションが、労働力不足化とどうかかわっているかを示す。より正確に言えば、労働力不足化とは直接的にかかわっていないことを示し、工業主導での高所得経済化を、ルイスの転換点で工業発展のあり方を区分し、労働力不足に至った段階で改めて工業発展にかかわるイノベーションの進展を考えるように見える、筆者が理解する「中所得国の罠」の議論に対し、疑問を呈する。
 日本経済の工業主導による高所得化を可能としたイノベーションは、日本の工業企業が置かれた経済環境、市場環境に決定的に規定されてはいるが、労働力不足化ゆえに生じたものでは無い。それ以上に、日系企業間の日本国内市場での競争のあり方に規定され、余剰労働力が豊富に存在し、賃金上昇が本格的に生じる以前に、イノベーションが本格的に始まり、労働力不足が生じても、それらのイノベーションの一層の深化が生じ、高所得国へと導いたと、筆者は考えている。このような日本の高所得化の経験を通して、ルイスの転換点を軸とした「中所得国の罠」の議論をどう評価したらよいのかを、改めて考えていくことにする。

1、日本のルイスの転換点 労働力不足化の進展した1960年代
 日本では、1950年代後半の第1次高度成長の結果として、1960年代に本格的な人手不足が始まった。1960年代前半には、中学新卒就業者の減少により、集団就職の中卒就業者が「金の卵」と呼ばれるようになった。戦時といった非日常的状況をのぞけば、日本の労働市場で初めて労働力不足が部分的にでも生じたのが、この時期であったといえる。その後、第2次高度成長が始まり、1960年代後半には、日本の歴史上初めての有効求人倍率の1超えが生じた。具体的に見れば、1967年に1.051を超し、1を超える状況は1960年代後半そして1973年まで続いた。なお、その後の有効求人倍率1超えの時期は1980年代末となる(1)。本格的な労働力不足が、1960年代後半に、平時の日本経済で初めて生じたといえる。
 また、1960年代後半から、京浜地域等の旧来の工業地帯の量産型製品生産企業が、労働力確保のため、北関東や南東北といった地域に分工場を建設し始めた。結果として、開発中心の旧工業地帯に立地する母工場と周辺地域に立地する量産型製品の生産分工場とが共存する、日本国内での生産体制の広域化が進展する時期に入った。
 それゆえ、日本の経験では、人手不足の発生は、工場立地を大きく変え、量産分工場の国内周辺地域への分散を促進したということができる。これには、同時に、高速道路の建設等の物流インフラの整備やファックス通信といった情報流インフラの高度化の同時進行も、その促進に大きな影響を与えたといえる。
 しかし、このような労働力不足の発生が、企業のイノベーションへの意欲にどのような影響を与えたのか、この点が、「中所得国の罠」の議論との関連では問題となる。この点について、筆者は労働力の不足化がイノベーションへの意欲自体に大きな影響を与えたとは考えていない。もちろん、より労働節約的な方向でのイノベーションが志向されるということには一定程度の影響を与えたと思われるが、そのことは、イノベーションそれ自体の意欲への影響というより、イノベーションの方向性への影響と見るべきであろう。
 このような認識を筆者が得たのは、1970年代後半に、本格的な日本の産業研究を開始し、労働力不足化が日本の工業に何をもたらしたのか、東京の城南地域の零細機械工場に対する実態調査を通してであった。1970年代後半の東京の機械工業から、それまでの発展について調査を通して眺めた筆者にとって、技術的高度化への志向は、中小企業を含めて、1960年代の労働力不足化に影響されるものでは無く、それ以前から極めて強いものであったと認識された。もちろん、当時の中小企業を中心とした技術的高度化志向は、既存の最新の産業機械を導入し、それを使いこなすことを中心としており、イノベーションといえるかどうかは疑問である。しかし同時に、技術的高度化志向そのものは、労働力不足が生じたから、低賃金労働力を必要なだけ雇用することができなくなってから、初めて生じたのでは無いことも事実である。
 ただし、労働力不足化は、生産力増強を個別(中小)企業が志向する際、雇用労働力の拡大によることを相対的に困難とし、より外注依存を拡大する方向への対応をとらせるといった形で、産業構成に対して大きな影響を与えていた。筆者の最初の論文(2)は、まさにこの労働力不足の進展と外注先としての零細企業の増加との関係を、どのように考えるべきかを論じたものであった。
 次にまずはトヨタ生産方式の発明と普及について概観するが、ここでもわかることは、トヨタ生産方式のようなイノベーションの進展は、労働市場の状況によって大きく影響を受けるというよりも、企業()が置かれた市場環境により大きな影響を受けるということである。これは、企業は市場で生き残リ発展することを目指す存在であることからも、筆者には当然のことと思われる。

2、工業企業フロントランナー化のためのイノベーション トヨタ生産方式
(大野耐一『トヨタ生産方式 —脱規模の経営を目指して—』ダイヤモンド社、1978年を参考に)
 日本の工業企業の本格的イノベーションの例としてのトヨタのかんばん方式に代表されるトヨタ生産方式の発明導入を概観する。トヨタ生産方式については、今更その内容を紹介し、意義を強調する必要は無いと思われるが、多少筆者なりの理解を示しておく。
 戦後の日本の量産型機械工業企業のグローバル市場でのフロントランナー化を体現した乗用車産業において、トヨタ生産方式は、日系企業がグローバル市場に進出する際、決定的に重要であった。トヨタ生産方式は、たんに価格が安いというだけでは無く、安いにもかかわらず品質が安定し、壊れにくいという特徴を、日系企業が生産する乗用車にもたらした。日本の乗用車産業は、国内市場向けに日系企業間の競争を通して発展してきた産業であり、いわばガラパゴス的発展をしたといえる。戦後の出発点では、機械については先進工業であるアメリカの産業機械技術を導入し、生産方式もまた量産のためのアメリカのフォード生産システムを導入し、それを日系企業なりに改良したといえる。
 しかし、戦後の日本市場を前提とした発展の過程では単なる改良に留まらず、独自な生産方式を開発するにいたった。その典型が「トヨタ生産方式」であり、このような生産方式を開発したことで、「製品を作り込む」という表現で代表されるように、最終検査段階のチェックで品質を保証するのでは無く、それぞれの生産過程で製品の品質を保証し、製品の品質のばらつきのなさを実現することが可能となった。このことが、1970年代以降の対米輸出の本格化の過程で、米国市場での日本製品の優位性を、米国市場での需要の小型車へのシフトともに確立したといえる。当時、独VWのビートルやチェコのシュコダといった小型車や低価格車も米国市場への進出を試みたのであるが、実際に米国市場の小型車で優位に立ったのは日系企業の乗用車であった。他国の小型車はほぼ全面的な撤退に追い込まれている。日系企業以外の小型車が本格的に米国市場に再度参入するのは、現代自動車の台頭を待たねばならない。まさに戦後の「トヨタ生産方式に」に代表される日系企業独自のイノベーションが、小型乗用車産業でのフロントランナー化を実現したといえる。
 このように日系企業のイノベーションとして極めて大きな影響を与えた「トヨタ生産方式」であるが、そのイノベーションの試みは、1960年代の労働力不足化とのかかわりで進展したものでは、全く無い。トヨタの生産方式の形成確立の中心にいた大野耐一氏によれば、「トヨタ生産方式の歩み」(大野耐一(1978 )228229ページ)という表に総括的に示されているように、社内でのかんばん方式等の導入に向けての試みは1940年代後半から始まっているとのことである。さらに、外注部品でのかんばん方式の採用は1960年代半ばに始まり、外注メーカーそれ自体についてのトヨタ方式の指導開始は1970年代半ばからとなっている。トヨタ生産方式のようなイノベーションは、一夜にして生じるのでは無いことが示されている。
 また、同書で、大野耐一氏はトヨタ生産方式の発明導入に至ったそもそもの理由は、当時から既に巨大であった米国市場向けに生産するGMやフォードと異なり、日本市場向けを主とするトヨタ自動車にとっては、「多種少量生産」(大野耐一(1978 )22ページ)が必要とされるという、トヨタ自動車も含めた当時の日本国内市場を対象にした日系乗用車メーカーが置かれた市場状況にあった、ということが明言されている。
 すなわち、トヨタ生産方式の発明、導入、展開は、第2次大戦後まもなくのトヨタ自動車の置かれた市場環境に適合的な生産方式を模索する中で生じたといえる。労働市場の状況、いわゆる「ルイスの転換点」と言われるような余剰労働力の枯渇といったものとの関連性は、ほとんどない。このトヨタ生産方式の発明導入こそが、トヨタ自動車をして、グローバル乗用車市場のフロントランナー化を可能にした重要な要素であったことは、その後のトヨタの発展と独自な生産方式の有効性から見て、確かであろう。
 そして、「トヨタ生産方式」に代表される日系企業の量産機械の生産のあり方、独自に日本国内市場向けで発展したあり方が、日本の工業企業のグローバル市場でのフロントランナー化を可能としたといえる。1980年代のイギリスでは日系家電メーカーの進出により、テレビはよく壊れるものでは無いことが示され、一般消費者の行動が、テレビの購入に関しレンタル方式から買い取りに大きく変化するような社会現象を生み出した。また工作機械を筆頭とする産業機械に関しても、納期の早さとともに、他国製品よりも壊れにくいことが、日系企業の製品の大きな優位性となっていった。このような生産工程での管理の水準の高さ、管理に向けての意識の高さは、量産半導体の歩留まり率の決定的な改善を実現し、装置産業としての半導体生産の単位コストを大きく引き下げ、日系企業群をDRAM生産でのグローバル市場での覇者へと押し上げていくことにもなった。
 戦後の日系企業のトヨタ生産方式に代表されるような生産過程を中心としたものづくりのプロセスにかかわるこだわりは、ものづくりに関して決定的に重要なイノベーションの実現を日系企業に可能とさせ、多くの企業のグローバル市場のフロントランナーへと導いたといえる。
 筆者は、このような日系機械工業企業全体にものづくりのプロセスへのこだわりをもたらした要因として、大きく見て以下の2つが重要であったと考えている。1つは、日系機械工業企業の多くは、戦後米国を中心とした先進工業のほぼ同様な企業からの技術導入を一斉に行ったことにより、技術導入した製品について、製品技術面での差別化をほとんど行うことが困難であった。その典型はモノクロテレビであろう。数多くの企業がRCAからライセンスを取得することで国内市場向けに生産を開始している。製品技術としてはそもそも日系企業間で差異がないことになる(3)。またライセンスを1社が独占するどころか、数社での獲得でも無く、30社近くが得るという状況が生じ、激しい競争を勝ち抜く必要性が生じた。テレビ産業への多数企業の参入により、拡大する市場での激しい生き残り競争が、多数の国内企業間で生じたのである。そこでは、製品そのものでは無く、同一の製品でありながら、壊れにくさ等の他の側面での差別化を追求せざるをえなかった。
 また、同時に、大野耐一氏のような技術者が、戦前や戦中の近代工業にかかわる人材蓄積ゆえに、各企業に存在し、それぞれなりに、同じ製品でもって同じ市場で競争しながら、品質面等で優位を追求し、それを実現することが可能となったのである。そのいわば突出した成功事例が「トヨタ生産方式」であると見るべきである。

3、下請系列取引関係の形成  キャッチアップの迅速化へのイノベーション
 筆者が今一つ注目する戦後高度成長過程の大きなイノベーションが、機械工業を中心とした下請系列取引関係の形成である。下請系列取引関係は、複雑な機械の生産での部品生産企業と完成品組立企業との、日本独自の取引関係、ないしは社会的分業関係ということができる。
 乗用車産業を例にとると、米国ではフォードのルージュ工場が有名であるが、鉄鉱石の鉱山から最終完成車までを垂直的に統合する生産体系が目指された。最終的には完全な垂直的統合企業を、ビッグ3のいずれも実現していないが、現在分社し完全な別会社のデルファイやビステオンとなっている、かつてのGMやフォードの部品事業部に見られるように、主要部品は社内の部品事業部が生産担当し、専ら自社の組立工場に供給するのが、一般的な生産体系であった。垂直的統合企業によって乗用車産業が構成されていたと見ることができる。
 それに対して、欧州では、ボッシュのような乗用車用の主要部品を生産する独立した巨大企業が多数存在し、主要な完成車メーカー全体に供給する生産体系を構築していた。垂直的社会的分業に基づく生産体系ということができる。
 これに対して、日本の乗用車産業の場合、戦後高度成長過程での主要2大メーカーであったトヨタと日産を中心に、垂直的統合でも垂直的社会的分業でもない、日本独自の取引関係が形成された。これが下請系列取引関係であり、乗用車産業以外にも多くの機械工業で形成された、日本独自の垂直的分業関係であった。筆者は、これを中村精氏の命名にしたがい、準垂直的統合関係と表現している。すなわち、乗用車産業の先進工業国である欧州や米国のいずれの生産体系とも異なる独自な生産体系が、日本の機械工業における部品企業と組立企業の間で形成されたのである。
 準垂直的統合関係としての下請系列取引関係とは、以下のような取引関係である。日本の乗用車産業等での組立メーカーは、高度成長期、特にその前半の時期には、多くの部品を資本関係のない部品メーカーに依存していた。資本の所有関係としては、資本所有関係のない独立した企業間の取引関係であった。しかし、同時に、部品生産企業は、組立企業に対してある意味で従属する関係にあった。具体的には、部品生産企業は、自社が下請系列取引関係に入っている組立企業から、取引先を限定され、組立企業が競争相手とする企業との取引を制限されたり、組立企業からの指示に従い設備投資をするだけではなく、新規工場の立地をも決めたりすることが行われていた。部品生産企業は所有関係としては独立した企業であるが、経営的には組立企業に従属している関係にあったといえる。組立企業は部品生産企業の資本を所有することなく、部品生産企業を従属させ、自社の経営の論理に従って部品生産企業の経営に介入することができたのである。このように組立企業にとっては、大変使い勝手のよい取引関係、自社が資本所有しないにもかかわらず、部品生産企業に対し優位に立てる関係が下請系列取引関係であった。
 このような下請系列取引関係を、筆者がイノベーションとして評価する理由は、このような関係が持つ独自な機能にある。資本関係なしに一方が他方を従属させうる関係であるが、そのことにより、まずは、組立企業側は、垂直的統合により部品生産部分を支配する場合とは異なり、自社の資本を投下する必要性がないことで、資本を節約しながら、部品生産企業を従属的利用できることになる。さらに、部品生産企業は、垂直的に統合された川上部門と異なり、組立企業にとって社内の企業ではないこと、また同様な部品について複数のサプライヤを従属的に利用している事等を利用して、従属的に利用しながら、部品サプライヤを競争させることが可能となる。組立企業が部品生産部門を内製化した場合における部品生産部分での競争圧力の極端な低下を回避することができるのである。
 組立企業から見れば、従属的に利用しながら、競争にさらすことができる。必要がなくなった、あるいは組立企業についてこれなくなった部品企業については、内製していた場合と異なり、資本負担や自社労働力の削減といった問題を生じることなく、排除することも可能となる。結果として、内製化した場合の問題を回避しながら、内製と同様に自在に部品生産企業を、自社の部門同様に利用可能となる。その意味で、組立企業にとって、大変使い勝手のよい、取引関係といえる。
 たんに組立企業にとって有利な関係というだけではなく、組立企業を頂点とした機械を生産する生産体系が、一つのグループとして存在することにもなり、資本的には一体ではないが、競争上は一体的に行動する主体ともなる。そのことで、巨大企業である組立企業は、自社が導入したり開発した新技術を、従属的な系列下にある企業に供与することが意味を持つことになる。そのことでグループとしての技術水準が急速に高まることになる。また、グループの中の部品生産企業相互でも、一方で競争すると同時に、グループ企業としては一体として他のグループ企業と競争していることもあり、自社が改善した技術等について、グループ内の競争企業にも供与することが生じやすくなる。結果として、グループ内では、競争と協力が生じ、市場競争関係にあるだけの場合に比べ、より急速に技術水準の向上を実現しやすくなるといえる。
 このような下請系列取引関係は、何故、いつ日本の機械工業で形成されたのであろうか。特に、なぜ、このような不利な従属的関係に、資本所有関係もないのに部品生産企業が組込まれたのであろうか。組立企業が巨大企業であるというだけでは説明のできない事象である。しかも、実際に下請系列取引関係に組込まれた部品生産企業は、同じ部品を生産するあるいは生産能力のある企業の中では、相対的に優位にある企業であった。優れた企業であるから組立企業側も従属的に支配すること、自社のグループに取り込むことに意味が生じたのである。
 このように巨大企業の組立企業に有利なグループ形成が可能となったのは、部品生産企業、高度成長が開始し、下請系列取引関係が一般化し始めた当初の、中小企業が圧倒的に多かった部品生産企業群のあり方に理由がある。日本の高度成長過程の特徴の1つは、まずは米欧の先進工業から技術を導入し、それを使いこなし国内市場向けに製品を供給し、その中で技術の改良を日本市場に合わせる形で行っていくことにあった。しかも、その米欧からの技術導入の窓口は、政府の為替政策等の影響もあり、現代の中国等で見られるような形で、大小様々な企業がそれぞれのつながりを利用して海外から技術導入できるような状況ではなかった。技術導入が可能なのは、巨大企業にほぼ限定されており、かつ部品生産を担っていた中小企業の技術水準の遅れがひどかったため、これらの企業が導入した技術の伝播を通して、組立大企業は導入した技術を自グループ内の中小企業に伝播することで、この問題の早期の克服を目指した。また、その結果として、直接技術導入することが困難であった中小企業を中心とした部品生産企業も、自らの技術水準を急速に向上させることができた。
 すなわち、優位にある巨大組立企業に従属することは、部品生産中小企業にとっては、他の競争する中小企業に対し、より先行して最新の技術を導入できることを意味した。また、優位にある巨大組立企業は、高度成長過程で、きわめて急速に生産を拡大し、企業規模を拡大している企業でもあった。このような巨大組立企業に供給することは、部品生産中小企業にとって、最も急速に拡大する市場を確保することを意味した。最新技術を他の中小企業に先駆け入手し、急成長する市場を確保する、そのための当時の最も有効な方法が、当時の部品生産中小企業にとっては、巨大組立企業に従属し、その下請系列下の企業になることであった。
 このような意味で、日本の当時の状況を背景に、高度成長の開始時に下請系列取引関係が、機械工業諸産業で広範に形成されたのである。結果として、巨大組立企業にとっては、資本の投下額を節約しながら、自社に必要な最新の部品を生産する意欲ある部品生産企業を、他のグループ内企業と競争させながら、従属的に利用し、より急速に米欧の機械工業企業にキャッチアップしてくことが可能となった。すなわち、下請系列取引関係を形成できたことは、たんに資本を節約できただけではなく、グループ内の部品生産企業の自発的な技術高度化意欲を活用することで、巨大組立企業にとっても、より迅速に自らが必要とする製品の生産体系の技術的高度化を実現することが可能となったのである。さらに、「トヨタ生産方式」に見られるような生産体系の独自的発展を、自社内に留めず、しかもその成果を専ら自社だけでつかえる形で、生産体系全体に迅速に、巨大組立企業主導の下で波及させることを可能としたのである。
 「トヨタ生産方式」のような生産体系全体に及ぶようなイノベーションを、より迅速に徹底的に現実化する媒体として、下請系列取引関係という日本独自の取引関係の形成とその広範化は、極めて有効に機能したということができる。

補節 産業政策の位置づけ
 産業政策について、産業発展の実態についてと異なり、筆者は関心を余り持っていない。中小企業を主たる研究対象としながら、日本の中小企業を主たる対象とした産業政策についても、ごく表面的なことしか知らない。その理由は、何よりも、産業政策の位置づけについての筆者の一方的な認識にある。産業政策は、産業企業の活動のための環境作りと、産業企業に存在するニーズへの対応の限りで、一定の有効性を持つに留まる、というのがその認識である。すなわち、産業政策が工業企業の発展を主導することが可能であるといったような、認識は間違っているというのが、筆者の認識である。
 いわば、咽の乾いていない馬を川に連れていっても水を飲まない、というたとえが妥当すると考える。産業政策は、環境作りにより、馬である工業企業の咽をより乾いた状態にすることはある程度できるし、川を探している馬が川のそばに行くのを、支援政策で手助けするのも可能であるが、川のそばに行って水を飲むのは、あくまでもその気がある馬たる工業企業であり、その気がない馬は政策が何をしようが川のそばにさえ行こうとしないし、政策が馬のかわりに川のそばにいって水を飲んでも、全く意味が無い、ということになろう。

4、まとめ
 イノベーションが生じることが、「中所得国の罠」を脱し工業発展を軸に高所得国化するために、極めて重要であると議論とされている。このこと自体については基本的に筆者も妥当なことだと理解している。しかしながら、イノベーションは、社会的に要請されたから生じるというものでは無い。また、適切な産業政策を実施したら実現するものでも無い。トヨタ生産方式のように、それぞれの企業ないし企業家が、市場での競争の中で、必要を感じ、その結果模索が行われ、その成果として生じるものである。それが、その後の市場の動向にマッチすれば、トヨタ生産方式のように、同様な環境にある多くの企業にも模倣され、日本の乗用車産業企業やその他の多くの日系工業企業にとって、極めて重要な生産方式となる。
 すなわち、イノベーションは誰により、どのような状況下で、どのようにして生み出されるのか、このような点の議論をすることなく、イノベーションが必要であるといっても意味が無い。
 同時に、少なくとも、日本の工業企業がフロントランナー化する際に最も重要なイノベーションの一つであると見做されているトヨタ生産方式は、ルイスの転換点すなわち労働市場の状況の大きな変化とは関係なく、トヨタ自動車が第2次大戦後に置かれた市場環境下での、大野耐一氏を中心とする社内の人材の広義の意味での有効な生産技術に関する模索の結果として形成されているといえる。
 ここから学ぶべきことは、イノベーションは、労働力が不足したから、労賃上昇に対応するために必要なものとして、初めて考慮されるものでは無いということである。企業の競争の中で、市場でのより優位な状況構築を目指し、企業()によって模索され、開発され、導入されるものである。逆に言えば、どんなに低賃金労働力が豊富であろうと、競争優位に立つためにイノベーションが必要な状況に置かれた企業()は、雇用の拡大に専ら頼るのではなく、競争優位形成のための諸手段を模索し、イノベーションを実行する可能性があるということでもある。
 このような工業主導で高所得化した国、日本の産業企業に関する先行事例から示唆されることは、工業化により中所得国化した中で、どのような企業がどのような市場環境の下で、これまでどのような対応をしてきたのか、この点を見極めることの重要性である。主体としての企業ないしは企業家によるイノベーションに向けての模索が、中所得国化する過程での工業化の中で生じていることが極めて重要であり、それをいかにしてグローバル市場での競争優位へとつながるイノベーションとしていくか、政策的に対応できるとしたら、このような形が第一であるということであろう。すなわち、イノベーションの担い手とイノベーションの芽を見つけ、それらがイノベーションを本格化することを支援することが、政策的な課題である。決して、政策的対応によりイノベーションを主導することが可能などと考えるべきでは無いということである。
 さらに日本でのイノベーションでの大きな特徴は、そのイノベーションが、日系企業間、すなわちサプライヤそして競争相手、その他の日系企業と広がっていったことである。そのような形でイノベーションが波及していったのは、日系工業企業が、当時のトヨタ自動車と同様に「多種少量生産」という制約の中で、日本国内市場を中心対象として相互に激しい競争をしていたことが、重要な意味を持っている。同じような課題を持っていなければ、先行事例に積極的に学ぶということは生じない。いわば日本市場という米国市場等と比較したならば、相対的に小規模なガラパゴス的な市場を対象に、激しく競争している企業群であったがゆえに、独自な生産方式の発明が一挙に普及することになったとも言える。
 すなわち、「中所得国の罠」を脱しようとする後発工業化国にとって、どのような市場向けでの工業発展を志向しているのか、志向することができるのか、これも重要な考慮すべき点となろう。志向する市場が持つ特性に従い、必要なイノベーションの内容は大きく異なるし、政策的支援のあり方も異なってくるであろう。

(1)   より詳しく見ると、有効求人倍率は、1967年に求人倍率測定史上初めて1を超え、1.05となり、1973年の1.74まで1を超えていたが、その後、再び1を超えたのは1988年の1.08となる。なお、この1超えも、1992年の1.00を最後に、21世紀を1未満で迎えることとなった。(()労働省『職業安定業務統計』 出所:()労働省『労働統計調査月報』を参照)
(2)   渡辺幸男(1974)を参照。
(3)      渡辺幸男(1997)88ページの注10にも書いたように、米国RCAから1953年度にモノクロテレビの生産に関する技術導入をした日系企業は28社に及んでいる。しかも、重要なのは、これら多数の企業が技術導入できたこととともに、日本市場向けの生産のために技術導入したことである。このために、技術導入した企業群は、基本的には全く同じ製品技術の下で、成長する可能性を秘めた国内市場を巡って、激しい競争を展開せざるを得ず、その中で何らかの独自性を出し、優位に立つことを目指さざるを得なかったのである。
 このような現象は、ある意味で、1980年代の改革開放下の中国のテレビ製造企業の地方政府国有企業形態や郷鎮企業形態での乱立と似た現象といえよう。中国では、その後、急激に淘汰が進み、ほとんどの企業が消滅したが、他方で、その中から、TCL等のいくつかの中国市場で優位を形成する巨大家電メーカーを生み出すことになった。

参考文献
大野耐一、1978『トヨタ生産方式 —脱規模の経営を目指して—』
ダイヤモンド社
渡辺幸男、1974「零細規模経営増加についての分析」
『三田学会雑誌』6710
渡辺幸男、1997『日本機械工業の社会的分業構造
 階層構造・産業集積からの下請制把握』有斐閣


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