後発工業化国の工業企業のフロントランナー化と
「中所得国の罠」
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産業発展研究から見た時、「中所得国の罠」の議論を、
どう考えるべきか —
渡辺幸男
はじめに
1 先進化した産業の発展研究から何を学ぶべきか
2 イノベーションはどのような状況で生じるのか
3 国民経済としての工業化への現代の工業体系の含意
4 「中所得国の罠」を議論する際に必要な論点
5 まとめ
補節 最も端的に「中所得国の罠」の議論展開を示す事例の紹介
はじめに
後発工業化国の工業企業のグローバル市場でのフロントランナー化をとおして、日本、韓国、台湾といった東アジア諸国は、高所得国化した。他方、近年開発経済学の研究者により南米やアセアン諸国の、より一層の工業発展を議論する際に、「中所得国の罠」という概念が頻繁に使用され、その罠からいかに脱するかが議論されている。末廣昭(2014)、トラン・ヴァン・トウ(2015、学会講演)、同(2010)、大野健一(2016、新聞連載)、同(2013)等、門外漢の筆者が眼にしただけでも、いくつもの研究が展開され、議論が紹介されている。
そこで議論されているのは、中所得国となり、一定の工業化を経験した諸国経済が、自国工業のより一層の発展、そしてそこからグローバル市場でのフロントランナー企業を輩出させ、高所得国化するにはどのような工業振興をしたらよいかということである。大野健一(2013)は、まさにそのために上記のような高所得国化した諸国を中心とした諸国の産業政策のベストプラクティスに学ぶことで、一層の工業発展が可能となり、高所得国への道を歩むことができるというものである。
しかしながら、それらの議論においては、高所得化した諸国のリーディング産業の具体的発展展開過程についての議論はなく、それらの産業発展に関する研究からの示唆を得るという議論は、筆者の浅いレビューを通しては見当たらなかった。それゆえ、「中所得国の罠」の議論が提起している工業発展による高所得国化について、筆者なりの産業発展研究に関する蓄積を踏まえた時、どのような議論として考えるべきなのか、勝手な議論をしたくなった。それが以下の内容である。
1 先進化した産業の発展研究から何を学ぶべきか
先進工業企業のFDI、これが投資先国の低賃金労働力利用を専ら目的とした第3国向けの輸出のためのFDIの場合、投資受入国にとって工業化への契機となりうるのであろうか。極めてその影響は限定的であろう。末廣昭(2014)は中所得国の罠の議論で、このような投資の場合を対象に議論しているようにみえるが、そこからは、自生的工業発展の展望はほとんど見えてこない。
筆者が自身の日中での産業発展研究からうけた示唆は、中所得国が工業発展により高所得国の仲間入りした際に注目すべき点は、何よりも、それぞれの高所得化工業国に、工業発展についての独自のストーリーが存在するということである。さらにいえば、少なくとも、現在明確に工業発展により高所得国化した国民経済と見做されうる東アジアの日本、韓国、台湾の3つの国民経済については、FDIを中心とした工業化は限定的にしか存在しないことである。さらに、現在急激にキャッチアップし、中所得国の罠を乗り越えつつあると筆者が考える中国については、巨大なFDIが行われたが、同時に、中国国内市場を対象にした工業発展が、新興の中国系企業に担われて生じ、これが多くの国際競争力のある中国軽工業企業を生み出しているという事実がある。ここでも、FDIを軸にした工業化が先進工業企業を生み出すというストーリーでは無く、それと並存して発展した自国系新興企業が中所得国の罠を乗り越えるストーリーを提供しそうに見える。
しかしながら、筆者が見てきた「中所得国の罠」をどう脱するかについての議論では、後発工業化国の工業諸産業の具体的な先進工業へのストーリーの構築が議論されることは無く、労賃が上昇する局面では、生産性の上昇が必要であり、そのためにイノベーションが必要であるという、極めて一般的な議論が展開されている。
その場合、イノベーションが誰によって、どのような場合に生じると考えているのか、この点が大事である。しかしながら、「中所得国の罠」の議論ではその点についてほとんど展開されておらず、何故イノベーションが生じうると考えることができるのかについて理解に関して、大きな疑問を感じる。イノベーションは、当然のことながら、当該国民経済にとって必要だから生じるものでは無く、市場の主体である企業が、競争に強制され引き起こすものである。それゆえ、イノベーションが必要とされるとすれば、どのような状況でイノベーションが生じるのかの検討が不可欠である。
2 イノベーションはどのような状況で生じるのか
筆者の理解では、イノベーションの担い手は、資本主義の市場経済では企業家以外存在しない。あるいは、ある意味でトートロジーだが、市場で新機軸を試みるのが企業家であるゆえ、企業家がイノベーションの担い手となる。
何故、市場で新機軸を試みる「企業家」が生まれるのであろうか。競争に強制され、市場で生き残ることを目指すゆえに、あるいは優位に立つことを目指すゆえに新機軸を、リスクを引受けて試みる。これが企業家である。すなわち、ここから、資本主義でイノベーションが生じるための条件、環境が重要であることが示唆される。
まずは、工業系の事業体であっても、本来的な企業経営の必要がない分工場等の事業体には、そもそも当該事業体としての独自な経営戦略が必要とされず、存在しようがないのであるから、イノベーションは生じない。さらに、企業間の激しい競争の存在も不可欠な条件といえよう。リスクを負う事無く、市場を独占する等で大きな利益を上げている企業とその経営者にとっては、イノベーションは必要とされない。本来的な意味での企業家も必要されない。すなわち、事業体に経営が存在し、その事業体が市場での主体として激しく競争していること、これが何よりもの本来的な「企業家」が生まれ、イノベーションが生じる前提条件である。
以上は、私にとっては、当然のことであると思われる。その含意は、分工場的機能しか持たないようなタイプのFDIがいくら行われても、そこからは企業家は生まれないし、ましてやイノベーションは生じない。このようなFDIで投資や雇用が増加し、国民の所得水準が貧困状況から脱したとしても、そこから新たな工業発展を実現し、その国民経済が工業企業、特に機械工業企業としての先進企業を生み出していくことは、ほとんど不可能ということである。
また、国民のうちに豊かな工業以外の特定産業の担い手が存在し、海外の先進工業から工業製品を輸入できるような1次産品生産の相対的に豊かな国民経済では、中高級消費財、そして最新の資本財についても輸入できる環境となる。そうなれば、工業製品に関する主要市場を巡って国内企業家が激しく競争する状況は生じないこととなる。それどころか、そもそもノベーションを起こす担い手が、当該国民経済の主要工業製品市場をめぐっては存在しないこととなる。
ただし、国内企業家間の激しい競争があるからといって、必ずしもイノベーションが起こるとは限らない。競争の質が問題となる。しかし、市場競争がないところでは、そもそもイノベーションを起こす必要性が生じない。多数の競争する企業の企業家による多様な模索は生じる必要がなく、生じようもない。企業経営を行う事業体の競争の存在は、企業家簇生の充分条件では無いが、必要条件である。工業企業が存在しないところに、当然のことながら、工業企業間の競争は存在せず、それゆえ工業企業家は存在せず、工業企業家によるイノベーションも存在しないことになる。
このような競争する企業家層の形成と、それらの多様な模索の存在、そしてイノベーションの発生は、工業投資総量の大きさとイノベーション促進政策とによって決まるのでは無い。投資の内容・質、市場の環境と競争のあり方によって決まるといえる。
例えば、日本経済新聞の2016年に連載された「私の履歴書」によれば、華僑系のタイ企業であるCPは鶏肉等の先端的な処理をタイで行っている。これらの関連食品機械はどこから手に入れているのであろうか。先進工業国の食品機械メーカーの製品を使用しているのであれば、タイの産業機械産業への波及は無いことになる。世界中に、このような一部工業製品生産では世界的だが、そのための産業機械は、海外からの最新の機械を調達しているような企業は、多数存在するであろう。ブラジルやアルゼンチンでも同様では無いのか。そうだとすれば、リージョナルジェットメーカーの雄、ブラジルのエンブラエル社の例も含め、一部工業企業のグローバルな突出が、当該国の工業水準全体を高め、結果として高所得化を実現するということは、より困難になる。
他方、韓国や台湾は、ごく一部の企業だけでは無く、例えば、韓国では造船、電子量産機械、鉄鋼、乗用車といった巨大工業部門で、それぞれいくつかの企業がフロントランナー化し、全体として工業部門を巨大化させた。その結果、高所得国化が実現したと見ることができる。ただし、日本と比べれば、国内完結型の生産体制に向けての生産体系の構築どころか、フルセット型の生産体制の構築という点でも欠落している部分が極めて多かったが、ごく少数の特定の工業部門のみの発展に依存した工業化では無い。
英国の産業革命後、欧州大陸の西欧諸国が、英国の産業機械等を輸入しながら、自らの産業革命を実現し、それぞれの産業でやがて産業機械についても国内生産を行うようになったことと類似しているといえるかもしれない。現代でも、機械工業の最先進工業国であるドイツと他の欧州諸国の間には、産業機械等を含めた機械工業における分業が存在し、産業機械の西欧諸国間での輸出入が双方向で多大に行われている。その意味では、1970年代に日本が達成した、産業機械等をほぼ部材から全て国内生産する生産体制とは、ドイツも含め、大きく異なっている。このような現代の欧州に状況に近いものが、東アジアでの日本を先頭とした先進工業化の過程でも生じ、韓国や台湾の機械工業企業は、日本等の産業機械を購入利用できることも活かし、機械工業部門も含めた多面的な工業部門で工業化が進展し、先端工業化も生じたと見ることができる。
同時に現代では、近隣諸国から調達しなくとも、今の中国がそうであるように、製品の販売市場さえ確保できれば、世界中からその製品を生産するための最先進の産業機械を購入することができ、かつ充分なアフターサービス等もうけることができる。20世紀末の東アジアの状況とも大きく変わり、グローバルな調達が可能なのが、現代の工業化の特徴といえよう。
他方、中国のように、市場が大陸規模の巨大さを実現することが予想され、実際にその過程が急速に進んでいることを目の当たりにすれば、FDIであっても、当該国市場目当てで、多くの生産工程を現地化し、産業機械等の生産も現地化することになる。日系の工業用縫製機械メーカーであるJUKIの工業用ミシンの生産工場なども、その好例であろう。しかも、現地需要が主要な生産目的の工場では、他のメーカーとの競争に勝つためにも、現地市場向けの応用開発を行うことが有効となる。そこから現地仕様の新製品も生まれ、ある種のイノベーションが生じることになる。
すなわち、当初現地市場向けに既存製品を組み立てるだけの分工場の進出であっても、現地市場の大きさと競争との中で、現地分工場の企業化が進展することになる。経営を保持する事業体が、FDIの生産工場の展開として形成されることになる。例えば、日本で自転車用ブレーキを開発生産していた中小企業であった唐沢製作所の中国現地法人は、日本で開発した製品の中国での生産という状況を超え、現地の新製品の市場向けに現地独自の部品の本格開発を行い、事業体としては、完全に独立した経営組織を持つ企業となっている。
3 国民経済としての工業化への現代の工業体系の含意
ある製品の生産のための工業体系があるとすれば、最終製品生産とそれを生産するための部材生産、そして製品と部材を生産するための機械の生産、これらが組合さったものであろう。しかし、現代では、どの段階でもグローバルに調達可能である。特定の企業が競争優位にたつには、当然のことながら、いずれかの市場での競争優位の構築の必要性はあるが、関連生産部分への近接の必要性は、関連生産機能のサービスや部材や機械を調達するという意味では、極めて薄れている。
一品生産的なもの以外について、特にこの点が言えそうである。極端に言えば、ある工業製品の市場で優位に立つには、その企業が直面する販売市場でのみ優位に立てばよく、後はグローバル調達が可能ということになる。後発工業化国の企業にとって、フロントランナー化するために何よりも重要なのは、市場の発見と開拓による当該市場での競争優位の形成ということになる。後は、グローバルに調達すればよい、ということになる。
現代における後発工業化国の典型である中国の民営企業の中で急速に成長している企業の多くが、まさにこのような意味で特定市場の発見と開拓に専ら意を注ぎ、後は外部から調達し、当該市場での競争優位を実現するという戦略で成功している。その典型的事例が急成長した中国のスマホメーカーの小米であろう。さらにはブラジルのエンブラエルもこのような企業の一つといえよう。
後発工業化国として、一定の工業人材の確保が可能な状況になった経済では、企業家にとって、どのような広がりの市場であろうと、それなりの大きさを持つ市場でフロントランナー化するためには、まずは市場を発見し開拓し、自らの競争優位を他者に先行して構築することであろう。既存のグローバルな市場では、寡占的市場支配が存在している。それゆえ、フロントランナー化するためには、赤羽淳(2014)がサムスンの液晶パネルでのフロントランナー化について分析したように、市場ニーズの大きな変化をうまく捉まえること、そのために変化の可能性を見越し、それに適合した訴求ポイントの構築を前もってないしは他者に先行して行うことが不可欠となろう。
それゆえ、中所得国が工業の先進化に主導され高所得国化するには、多くの国民経済では、1点突破の企業が簇生することが、まずは必要と考えられる。1点突破の企業が生まれる可能性は、地域産業全体の高度化、ましてや国民経済全体の完結型生産体制の先進工業化に比して、相対的には、より高いものと見ることができる。同時に、一つ一つの企業の先進化の地域産業や地域経済への波及効果は、旧来の先進工業化の場合より、極めて弱いものとなる。必要なのは、1点突破を実現する企業が、同一地域で多く生まれることで、地域産業への波及の意味が生じてくるようにすることであろう。これに成功すれば、一点突破の企業の地域集積を通して、本格的な生産体系として競争力のある地域工業集積を構築することにつながる可能性がでてくる。かつてのように、工業集積を前提に地域工業として先進化するのでは無く、個別企業として先進化し、このような企業群の集積とその地域内波及を通して、地域工業生産体系として先進工業化するということになる。
4 「中所得国の罠」を議論する際に必要な論点
以上のような産業発展の条件と現状を踏まえれば、「中所得国の罠」から脱するための議論として必要な第一のことは、中所得国になる過程で、当該国民経済で、何が形成されているか、つぎの発展を工業発展で行うとした時に、何がそれまでに形成されているか、これを明確にすることである。
中所得国化する過程は、それぞれの国民経済で、大きく異なっている。それゆえ、それぞれの中所得国で蓄積されている工業人材の層の大きさや存在の仕方も多様である。さらに、企業家層がどの程度潜在的にでも存在しているか、その量とあり方も多様である。また、同時に、その国民経済が国民経済として内部に持つ市場の大きさと質、それも多様である。このようなその後の工業発展にとって極めて重要な意味を持つ、企業家、工業人材、直面する市場の三点で、それぞれの国民経済の中所得国として置かれた状況は多様である。このよう状況を踏まえ、より一層の工業発展の可能性と、そのための戦略的政策が思考される必要がある。
一定程度工業化した諸国で「中所得国の罠」ということが言われているが、それは、労賃上昇に生産性の上昇が追いついていくことができず、工業製品の価格競争力が低下し、かつ工業諸産業でのイノベーションも生じないことで、自国工業における諸産業での先進化が実現しないことといわれている。そのことで、産業のより一層の発展が展望できず、高所得国化できないこと、といえるような状況である。このこと自体は、間違えでは無いであろう。しかし、当該国民経済が、一層の発展、イノベーションを含んだ工業発展に向けて、どのような可能性が存在するかは、このような指摘からは全く見えない。
それゆえ、ここで問題となるのは、対象となる国民経済や地域経済において、これまでどのような経過を経て工業化が一定程度進展したのか、その結果として労賃上昇以外に、どのような状況が生じているのか、特に工業の発展を規定する諸条件に関連する事項について、どのような状況が生じているのか、である。
しかしながら、筆者の見た限りでの「中所得国の罠」について議論されている諸論考では、このような視点での状況の確認は行われていない。その極端なものは、末廣昭(2014)であり、そこではたんに労賃の水準が上昇していることだけが議論され、その他の工業関連の諸条件が、当該経済でどのようなことになっているかは、全く言及されていない。その上で、それを打破するにはイノベーションが必要であるという議論となっている。大野健一(2013)(2016)でも、ある意味同様な認識にあり、その上で、先行している国民経済での政策的なベストプラクティスを見出し、それを参考にすることが必要あるとされている。
各国経済、各地域経済が、中所得国化する過程で、どのような工業化が生じ、そこで、国民経済や地域経済として、工業に係わるどのような環境条件を構築したかは、全く問われていない。工業化は、労賃水準と所得水準で表現され、工業化の持つその他の質、誰が工業化を推進したのかという主体の問題や、結果としてどのような産業が形成され、どのような市場向けに供給することに成功したのか、さらには、その結果としてどのような工業人材を蓄積し、それらの人材はどのような形で存在しているのか、これらのことは全く問われていない。
産業発展研究を、機械工業発展を中心に見てきた筆者にとっては、当該国民経済や地域経済の今後を考える際、それまでの工業化過程で、上記のような諸点でどのような蓄積が行われてきたのかは、最大の重要関心事であり、それこそが、その後のイノベーションを含めた当該経済での工業発展を規定すると考えるが、「中所得国の罠」を議論する諸論考では、このような発想は全く見られない。すなわち、当該経済の工業諸産業でイノベーションが必要であるということは、それ自体はまさにその通りで正しい議論といえる。しかし、当該経済でどのような形で誰によってイノベーションが生まれる可能性があるのか、それは、労賃上昇と生産性の停滞の事実の確認からだけでは、全く見えてこない点である。誰がどのような形で、当該国でのイノベーションを当面担うことができるのか、これが既存の議論では見えないのである。
産業の発展の過程でイノベーションを担うのは、結果としての企業家である起業家を含めた企業家以外に存在しない。企業家が市場を発見し、あるいは市場で新たなニーズ等を発見し、それを開拓し具体化する際に新たな組合せを含めた新たな事業内容を展開することでイノベーションが生じる。主体的に市場の発見開拓に取組む企業家が存在しない中では、市場経済でのイノベーションは存在しない。
また、企業家が市場の発見や市場での発見に努力するのは、競争に強制されてであり、市場での競争の強制が、新たな市場の発見や市場での新たなニーズの発見を企業家に必要と認識させるからである。既存の市場で高い収益を安定的に実現している事業体の経営者には、リスクを冒して新たな市場の発見や市場での発見を試みる必要性は存在しない。また、当該事業体の長が、自らの事業体の運営について、上部機関からの指示にもとづく行動だけを求められる場合には、そもそも企業家としての裁量の余地を全く持たないこととなる。
他方で、市場での競争のあり方が、特定一方向、例えば、より安く供給することだけに向かざるを得ない市場環境であれば、市場の発見や市場での発見といった多様な模索が企業家によって行われることも無い。すなわち、企業家が置かれた市場の環境や事業体の長が置かれた環境が、極めて重要なのである。
さらには、企業家が存在し、市場環境が企業家に何らかの市場の発見や市場での発見を強制する環境にあるとしても、企業家が、その強制の下でどのような行動をとることができるかは、より広い意味での当該経済の経済的環境が問題となる。すなわち、工業人材がどの程度存在し、どのような形で利用可能なのか、あるいは投資資金の豊富さと調達上の制約とが問題となる。企業家が市場を発見し、その市場を開拓しようとしても、工業人材が豊富かつ相対的に安価に供給されなければ、市場開拓は大きく制約されることになる。資金についても同様なことは明白であろう。
このような工業人材の豊富かつ安価な利用可能性と資金調達の容易さ、そのなかでも特に人材確保の容易さは、決定的に重要な意味を持つ。市場を見つけても、その市場を開拓するための人材の調達が困難であれば、企業家は自らのイノベーションを実現する可能性を、大きく制約されることになる。
最後に考慮すべき点は、事業体が目指す市場のあり方そのものについてである。多くの場合、現代の市場には既に先行する企業が存在し、市場支配力を持っている場合が多い。この場合は、市場支配力を持つ既存企業に、何らかの意味で挑戦するか、それらとの正面からの対決を避けることで、初めて後発工業化国の企業が、当該市場に参入し、競争することが可能となる。市場を発見するあるいは市場で発見する余地は、それだけ小さなものであり、成功する確率は低いものとなる。
ただし、中国のように、国民経済内において外資が進出困難な市場部分が、一挙に形成され、かつ既存の国内大企業が事実上不存在な場合は、現代では稀有な例であるが、このような意味での市場の問題は、極めて小さなものとなる。このような例外はあるが、多くの場合は、国内市場においても、外資系企業とともに流通等の既存企業を含めた国内既存企業が存在しており、それらの既存企業を含め、どのような形で市場の発見や市場での発見を通してイノベーションが生じうるのか検討することが、高所得国へと導く工業発展を考えるうえで必要であろう。
以上のような検討なくして、後発工業化国工業諸産業企業の先進化、フロントランナー化は展望しえない。工業諸産業企業のいくつかがフロントランナー化しない限り、工業の発展を軸とした高所得国化は、全く展望できないといえる。もちろん、特定工業企業のみがフロントランナー化したとしても、グローバルな部材と産業機械の調達が行われる現代においては、国民経済全体が高所得化するかどうかは不明である。しかしながら、少なくともいくつかの工業企業がフロントランナー化しない限り、国民経済として工業化を通しての高所得への道は未だ遠いことだけは確かである。
5 まとめ
以上、あれこれと議論をしたが、それを最も簡潔にまとめれば、一定程度の工業化を実現した諸国が、イノベーションを通して生産性を上昇させることが必要なことは、「中所得国の罠」を巡る議論の通りであるが、そのために議論しなければならないのは、工業諸産業でフロントランナー化する企業を輩出するにはどうしたらよいのか、それぞれの国民経済の状況を踏まえて考える必要があるということである。すなわち、どのような市場に向け、どのような担い手が、どのような経営資源を利用することで、イノベーションを現実化できるか、という、それぞれの国民経済の置かれた環境の下で、考えられるべきストーリーを構築しなければ、高所得国への道は見えてこないということである。
これが、筆者がこれまでの日中の産業発展研究を通して見てきたことを踏まえ、「中所得国の罠」のいくつかの議論を読んで、私なりに高位中所得国が工業の発展を通して高所得国へと移行するには、何が必要か考えた結果である。
補節 最も端的に「中所得国の罠」の議論展開を示す事例の紹介
大野健一(2016)「やさしい経済学 中所得の罠とアジア ⑦ 低成長の中国、難題が山積」での議論の展開
中所得国の罠について、ごく入門的にエッセンスを述べている大野健一(2016)の叙述は、中所得国の罠について開発経済学の立場から議論している諸氏の議論の特徴を端的に示していると見ることができる。大野健一(2016)は、アジア諸国の中所得国の罠を問題とし、その中で中国を取上げている。現在、中所得国へと到達した中国について、そこで紹介されているのは、まずは、中国が高成長を長期に渡って実現し、その到達点が日本の60年代初めの水準であること、その段階で成長鈍化が生じているという事実の確認である。その上で、鈍化以外の懸念材料として、格差等の諸問題が指摘され、政治改革も遅れているとし、「中国の前途は多難です」と締めくくられている。
ここで全く言及されていないのが、なぜ、これまで中国が、日本以上に長期に渡り、他のアジア諸国に見られないような高度成長を実現できたのか、その際の諸条件の何に変化が生じたから成長の鈍化が生じているのか、という中国の産業発展を軸とした経済成長のストーリーである。経済成長は成長の程度の差異はあろうとも、基本的にそれぞれの経済の独自性故に生じるものでは無いという認識ゆえ、その具体的なストーリーの特徴に一切言及せず、諸問題の存在に言及し、今後についての悲観的見通しを語ることができるのであろう。
参考文献
赤羽淳、2014『東アジア液晶パネル産業の発展
— 韓国・台湾企業の急速キャッチアップと日本企業の対応』勁草書房
大野健一、2013『産業政策の作り方 — アジアのベストプラクティスに学ぶ』
有斐閣
大野健一、2016「やさしい経済学 中所得の罠とアジア ⑦
低成長の中国、難題が山積」『日本経済新聞』2016年8月9日、27ページ
末廣昭、2014『新興アジア経済論 キャッチアップを超えて』
シリーズ 現代経済の展望、岩波書店
トラン・ヴァン・トウ、2010『ベトナム経済発展論
— 中所得国の罠と新たなドイモイ』勁草書房
トラン・ヴァン・トウ、2015「アジア新興国と中所得国の罠」
日本国際経済学会第74回全国大会 (専修大学、2015年11月)
共通論題 新興国と世界経済の行方―貿易・金融・開発の視点
渡辺幸男、1997『日本機械工業の社会的分業構造
階層構造・産業集積からの下請制把握』有斐閣
渡辺幸男、2016『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』
慶應義塾大学出版会