2016年8月28日日曜日

8月28日 睡蓮とメダカ、池の鯉、芙蓉


今年2つ目の睡蓮の花が咲きました。

メダカも元気に泳いでいます。

下の火鉢の睡蓮は、一度枯らし、
その子株が育ったものです。
そのため、葉の数は多いのですが、大きな株になかなか育ちません。
花も何年も咲いていません。

池の鯉も元気に泳いでいます。
青鷺よけのネットが邪魔をしていますが。
左のほうに見えるのは一昨年孵った鯉のうち、
大きく育っている方の1匹です。


芙蓉の花も、今が盛りと、毎日よく咲いています。

2016年8月25日木曜日

番外編 8月23日24日 久しぶりの長距離ドライブ


久しぶりに長距離ドライブを楽しみました。
この3月にエルグランドをXトレイルにかえてから。
初めての長距離ドライブ、夫婦で朝9時に自宅を出て、
東名、圏央道、中央道、長野道、上信越道と走り、
遅い昼食を、北陸道米山SAでとりました。
米山SAの庭からは日本海が望めました。


当初の予定は、22日に出発する予定でしたが、
あいにくの台風直撃で、
ホテルやいろんな方に無理を言って、1日ずらしてのドライブ旅行、
結果的には、素晴らしい好天の日本海を見ることができました。
海の向こうの雲の下に、佐渡島がうっすら見えました。


サルスベリを刈り込んで、
生垣のようにして咲かせることができるのを、初めて知りました。


そのあと、関越道に入り、水上温泉の檜垣ホテルで1泊しました。
地元の食材を活かした和風の夕食を、地酒と共に楽しみました。
檜垣ホテルの宿泊券は、
次男夫婦が結婚した際に、我々にプレゼントしてくれたもので、
大変有効に使えたと満足しています。
久しぶりのドライブで腰に疲れがきていましたが、
温泉につかり、元気になり、翌朝、近所を散歩しました。


朝は雲が多めでした。
帰りの雨が心配でしたが、
幸運なことに、ほとんど雨に遭わずに帰宅しました。
1日目が500キロ、2日目が200キロをそれぞれ超えるドライブでした。
ほとんどただ走るだけなのですが、
帰りに昭和IC近くの道の駅で、新鮮な野菜を大量に買い込みました。
やみくもに走りたがる夫につきあってくれる妻に感謝です。

2016年8月22日月曜日

8月22日小論                  覚書 後発工業化国の産業発展について6


後発工業化国の工業のフロントランナー化事例
                とルイスの転換点
    — 産業発展研究から見た時、「中所得国の罠」の議論を、
            どう考えるべきか2 —
渡辺幸男
はじめに
1、日本のルイスの転換点 労働力不足化の進展した1960年代
2、工業企業フロントランナー化のためのイノベーション トヨタ生産方式
3、下請系列取引関係の形成  キャッチアップの迅速化へのイノベーション
補節 産業政策の位置づけ
4、まとめ

はじめに
 本稿では、工業企業の発展、そしてそれらのフロントランナー化を通して高所得国化することに成功した事例として、筆者が直接その工業発展を見てきた日本の工業企業を取上げる。そして、日本経済のルイスの転換点ともいうべき、1960年代における労働力不足化前後でのイノベーションの進展の状況をみる。なかでも、日本独自の代表的なイノベーションといえる「トヨタ生産方式」と「下請系列取引関係」の形成の論理を経済環境との関連で紹介する。このことで、労働力不足下で日本経済を工業発展主導による高所得経済に導いた重要な要素であるこれらのイノベーションが、労働力不足化とどうかかわっているかを示す。より正確に言えば、労働力不足化とは直接的にかかわっていないことを示し、工業主導での高所得経済化を、ルイスの転換点で工業発展のあり方を区分し、労働力不足に至った段階で改めて工業発展にかかわるイノベーションの進展を考えるように見える、筆者が理解する「中所得国の罠」の議論に対し、疑問を呈する。
 日本経済の工業主導による高所得化を可能としたイノベーションは、日本の工業企業が置かれた経済環境、市場環境に決定的に規定されてはいるが、労働力不足化ゆえに生じたものでは無い。それ以上に、日系企業間の日本国内市場での競争のあり方に規定され、余剰労働力が豊富に存在し、賃金上昇が本格的に生じる以前に、イノベーションが本格的に始まり、労働力不足が生じても、それらのイノベーションの一層の深化が生じ、高所得国へと導いたと、筆者は考えている。このような日本の高所得化の経験を通して、ルイスの転換点を軸とした「中所得国の罠」の議論をどう評価したらよいのかを、改めて考えていくことにする。

1、日本のルイスの転換点 労働力不足化の進展した1960年代
 日本では、1950年代後半の第1次高度成長の結果として、1960年代に本格的な人手不足が始まった。1960年代前半には、中学新卒就業者の減少により、集団就職の中卒就業者が「金の卵」と呼ばれるようになった。戦時といった非日常的状況をのぞけば、日本の労働市場で初めて労働力不足が部分的にでも生じたのが、この時期であったといえる。その後、第2次高度成長が始まり、1960年代後半には、日本の歴史上初めての有効求人倍率の1超えが生じた。具体的に見れば、1967年に1.051を超し、1を超える状況は1960年代後半そして1973年まで続いた。なお、その後の有効求人倍率1超えの時期は1980年代末となる(1)。本格的な労働力不足が、1960年代後半に、平時の日本経済で初めて生じたといえる。
 また、1960年代後半から、京浜地域等の旧来の工業地帯の量産型製品生産企業が、労働力確保のため、北関東や南東北といった地域に分工場を建設し始めた。結果として、開発中心の旧工業地帯に立地する母工場と周辺地域に立地する量産型製品の生産分工場とが共存する、日本国内での生産体制の広域化が進展する時期に入った。
 それゆえ、日本の経験では、人手不足の発生は、工場立地を大きく変え、量産分工場の国内周辺地域への分散を促進したということができる。これには、同時に、高速道路の建設等の物流インフラの整備やファックス通信といった情報流インフラの高度化の同時進行も、その促進に大きな影響を与えたといえる。
 しかし、このような労働力不足の発生が、企業のイノベーションへの意欲にどのような影響を与えたのか、この点が、「中所得国の罠」の議論との関連では問題となる。この点について、筆者は労働力の不足化がイノベーションへの意欲自体に大きな影響を与えたとは考えていない。もちろん、より労働節約的な方向でのイノベーションが志向されるということには一定程度の影響を与えたと思われるが、そのことは、イノベーションそれ自体の意欲への影響というより、イノベーションの方向性への影響と見るべきであろう。
 このような認識を筆者が得たのは、1970年代後半に、本格的な日本の産業研究を開始し、労働力不足化が日本の工業に何をもたらしたのか、東京の城南地域の零細機械工場に対する実態調査を通してであった。1970年代後半の東京の機械工業から、それまでの発展について調査を通して眺めた筆者にとって、技術的高度化への志向は、中小企業を含めて、1960年代の労働力不足化に影響されるものでは無く、それ以前から極めて強いものであったと認識された。もちろん、当時の中小企業を中心とした技術的高度化志向は、既存の最新の産業機械を導入し、それを使いこなすことを中心としており、イノベーションといえるかどうかは疑問である。しかし同時に、技術的高度化志向そのものは、労働力不足が生じたから、低賃金労働力を必要なだけ雇用することができなくなってから、初めて生じたのでは無いことも事実である。
 ただし、労働力不足化は、生産力増強を個別(中小)企業が志向する際、雇用労働力の拡大によることを相対的に困難とし、より外注依存を拡大する方向への対応をとらせるといった形で、産業構成に対して大きな影響を与えていた。筆者の最初の論文(2)は、まさにこの労働力不足の進展と外注先としての零細企業の増加との関係を、どのように考えるべきかを論じたものであった。
 次にまずはトヨタ生産方式の発明と普及について概観するが、ここでもわかることは、トヨタ生産方式のようなイノベーションの進展は、労働市場の状況によって大きく影響を受けるというよりも、企業()が置かれた市場環境により大きな影響を受けるということである。これは、企業は市場で生き残リ発展することを目指す存在であることからも、筆者には当然のことと思われる。

2、工業企業フロントランナー化のためのイノベーション トヨタ生産方式
(大野耐一『トヨタ生産方式 —脱規模の経営を目指して—』ダイヤモンド社、1978年を参考に)
 日本の工業企業の本格的イノベーションの例としてのトヨタのかんばん方式に代表されるトヨタ生産方式の発明導入を概観する。トヨタ生産方式については、今更その内容を紹介し、意義を強調する必要は無いと思われるが、多少筆者なりの理解を示しておく。
 戦後の日本の量産型機械工業企業のグローバル市場でのフロントランナー化を体現した乗用車産業において、トヨタ生産方式は、日系企業がグローバル市場に進出する際、決定的に重要であった。トヨタ生産方式は、たんに価格が安いというだけでは無く、安いにもかかわらず品質が安定し、壊れにくいという特徴を、日系企業が生産する乗用車にもたらした。日本の乗用車産業は、国内市場向けに日系企業間の競争を通して発展してきた産業であり、いわばガラパゴス的発展をしたといえる。戦後の出発点では、機械については先進工業であるアメリカの産業機械技術を導入し、生産方式もまた量産のためのアメリカのフォード生産システムを導入し、それを日系企業なりに改良したといえる。
 しかし、戦後の日本市場を前提とした発展の過程では単なる改良に留まらず、独自な生産方式を開発するにいたった。その典型が「トヨタ生産方式」であり、このような生産方式を開発したことで、「製品を作り込む」という表現で代表されるように、最終検査段階のチェックで品質を保証するのでは無く、それぞれの生産過程で製品の品質を保証し、製品の品質のばらつきのなさを実現することが可能となった。このことが、1970年代以降の対米輸出の本格化の過程で、米国市場での日本製品の優位性を、米国市場での需要の小型車へのシフトともに確立したといえる。当時、独VWのビートルやチェコのシュコダといった小型車や低価格車も米国市場への進出を試みたのであるが、実際に米国市場の小型車で優位に立ったのは日系企業の乗用車であった。他国の小型車はほぼ全面的な撤退に追い込まれている。日系企業以外の小型車が本格的に米国市場に再度参入するのは、現代自動車の台頭を待たねばならない。まさに戦後の「トヨタ生産方式に」に代表される日系企業独自のイノベーションが、小型乗用車産業でのフロントランナー化を実現したといえる。
 このように日系企業のイノベーションとして極めて大きな影響を与えた「トヨタ生産方式」であるが、そのイノベーションの試みは、1960年代の労働力不足化とのかかわりで進展したものでは、全く無い。トヨタの生産方式の形成確立の中心にいた大野耐一氏によれば、「トヨタ生産方式の歩み」(大野耐一(1978 )228229ページ)という表に総括的に示されているように、社内でのかんばん方式等の導入に向けての試みは1940年代後半から始まっているとのことである。さらに、外注部品でのかんばん方式の採用は1960年代半ばに始まり、外注メーカーそれ自体についてのトヨタ方式の指導開始は1970年代半ばからとなっている。トヨタ生産方式のようなイノベーションは、一夜にして生じるのでは無いことが示されている。
 また、同書で、大野耐一氏はトヨタ生産方式の発明導入に至ったそもそもの理由は、当時から既に巨大であった米国市場向けに生産するGMやフォードと異なり、日本市場向けを主とするトヨタ自動車にとっては、「多種少量生産」(大野耐一(1978 )22ページ)が必要とされるという、トヨタ自動車も含めた当時の日本国内市場を対象にした日系乗用車メーカーが置かれた市場状況にあった、ということが明言されている。
 すなわち、トヨタ生産方式の発明、導入、展開は、第2次大戦後まもなくのトヨタ自動車の置かれた市場環境に適合的な生産方式を模索する中で生じたといえる。労働市場の状況、いわゆる「ルイスの転換点」と言われるような余剰労働力の枯渇といったものとの関連性は、ほとんどない。このトヨタ生産方式の発明導入こそが、トヨタ自動車をして、グローバル乗用車市場のフロントランナー化を可能にした重要な要素であったことは、その後のトヨタの発展と独自な生産方式の有効性から見て、確かであろう。
 そして、「トヨタ生産方式」に代表される日系企業の量産機械の生産のあり方、独自に日本国内市場向けで発展したあり方が、日本の工業企業のグローバル市場でのフロントランナー化を可能としたといえる。1980年代のイギリスでは日系家電メーカーの進出により、テレビはよく壊れるものでは無いことが示され、一般消費者の行動が、テレビの購入に関しレンタル方式から買い取りに大きく変化するような社会現象を生み出した。また工作機械を筆頭とする産業機械に関しても、納期の早さとともに、他国製品よりも壊れにくいことが、日系企業の製品の大きな優位性となっていった。このような生産工程での管理の水準の高さ、管理に向けての意識の高さは、量産半導体の歩留まり率の決定的な改善を実現し、装置産業としての半導体生産の単位コストを大きく引き下げ、日系企業群をDRAM生産でのグローバル市場での覇者へと押し上げていくことにもなった。
 戦後の日系企業のトヨタ生産方式に代表されるような生産過程を中心としたものづくりのプロセスにかかわるこだわりは、ものづくりに関して決定的に重要なイノベーションの実現を日系企業に可能とさせ、多くの企業のグローバル市場のフロントランナーへと導いたといえる。
 筆者は、このような日系機械工業企業全体にものづくりのプロセスへのこだわりをもたらした要因として、大きく見て以下の2つが重要であったと考えている。1つは、日系機械工業企業の多くは、戦後米国を中心とした先進工業のほぼ同様な企業からの技術導入を一斉に行ったことにより、技術導入した製品について、製品技術面での差別化をほとんど行うことが困難であった。その典型はモノクロテレビであろう。数多くの企業がRCAからライセンスを取得することで国内市場向けに生産を開始している。製品技術としてはそもそも日系企業間で差異がないことになる(3)。またライセンスを1社が独占するどころか、数社での獲得でも無く、30社近くが得るという状況が生じ、激しい競争を勝ち抜く必要性が生じた。テレビ産業への多数企業の参入により、拡大する市場での激しい生き残り競争が、多数の国内企業間で生じたのである。そこでは、製品そのものでは無く、同一の製品でありながら、壊れにくさ等の他の側面での差別化を追求せざるをえなかった。
 また、同時に、大野耐一氏のような技術者が、戦前や戦中の近代工業にかかわる人材蓄積ゆえに、各企業に存在し、それぞれなりに、同じ製品でもって同じ市場で競争しながら、品質面等で優位を追求し、それを実現することが可能となったのである。そのいわば突出した成功事例が「トヨタ生産方式」であると見るべきである。

3、下請系列取引関係の形成  キャッチアップの迅速化へのイノベーション
 筆者が今一つ注目する戦後高度成長過程の大きなイノベーションが、機械工業を中心とした下請系列取引関係の形成である。下請系列取引関係は、複雑な機械の生産での部品生産企業と完成品組立企業との、日本独自の取引関係、ないしは社会的分業関係ということができる。
 乗用車産業を例にとると、米国ではフォードのルージュ工場が有名であるが、鉄鉱石の鉱山から最終完成車までを垂直的に統合する生産体系が目指された。最終的には完全な垂直的統合企業を、ビッグ3のいずれも実現していないが、現在分社し完全な別会社のデルファイやビステオンとなっている、かつてのGMやフォードの部品事業部に見られるように、主要部品は社内の部品事業部が生産担当し、専ら自社の組立工場に供給するのが、一般的な生産体系であった。垂直的統合企業によって乗用車産業が構成されていたと見ることができる。
 それに対して、欧州では、ボッシュのような乗用車用の主要部品を生産する独立した巨大企業が多数存在し、主要な完成車メーカー全体に供給する生産体系を構築していた。垂直的社会的分業に基づく生産体系ということができる。
 これに対して、日本の乗用車産業の場合、戦後高度成長過程での主要2大メーカーであったトヨタと日産を中心に、垂直的統合でも垂直的社会的分業でもない、日本独自の取引関係が形成された。これが下請系列取引関係であり、乗用車産業以外にも多くの機械工業で形成された、日本独自の垂直的分業関係であった。筆者は、これを中村精氏の命名にしたがい、準垂直的統合関係と表現している。すなわち、乗用車産業の先進工業国である欧州や米国のいずれの生産体系とも異なる独自な生産体系が、日本の機械工業における部品企業と組立企業の間で形成されたのである。
 準垂直的統合関係としての下請系列取引関係とは、以下のような取引関係である。日本の乗用車産業等での組立メーカーは、高度成長期、特にその前半の時期には、多くの部品を資本関係のない部品メーカーに依存していた。資本の所有関係としては、資本所有関係のない独立した企業間の取引関係であった。しかし、同時に、部品生産企業は、組立企業に対してある意味で従属する関係にあった。具体的には、部品生産企業は、自社が下請系列取引関係に入っている組立企業から、取引先を限定され、組立企業が競争相手とする企業との取引を制限されたり、組立企業からの指示に従い設備投資をするだけではなく、新規工場の立地をも決めたりすることが行われていた。部品生産企業は所有関係としては独立した企業であるが、経営的には組立企業に従属している関係にあったといえる。組立企業は部品生産企業の資本を所有することなく、部品生産企業を従属させ、自社の経営の論理に従って部品生産企業の経営に介入することができたのである。このように組立企業にとっては、大変使い勝手のよい取引関係、自社が資本所有しないにもかかわらず、部品生産企業に対し優位に立てる関係が下請系列取引関係であった。
 このような下請系列取引関係を、筆者がイノベーションとして評価する理由は、このような関係が持つ独自な機能にある。資本関係なしに一方が他方を従属させうる関係であるが、そのことにより、まずは、組立企業側は、垂直的統合により部品生産部分を支配する場合とは異なり、自社の資本を投下する必要性がないことで、資本を節約しながら、部品生産企業を従属的利用できることになる。さらに、部品生産企業は、垂直的に統合された川上部門と異なり、組立企業にとって社内の企業ではないこと、また同様な部品について複数のサプライヤを従属的に利用している事等を利用して、従属的に利用しながら、部品サプライヤを競争させることが可能となる。組立企業が部品生産部門を内製化した場合における部品生産部分での競争圧力の極端な低下を回避することができるのである。
 組立企業から見れば、従属的に利用しながら、競争にさらすことができる。必要がなくなった、あるいは組立企業についてこれなくなった部品企業については、内製していた場合と異なり、資本負担や自社労働力の削減といった問題を生じることなく、排除することも可能となる。結果として、内製化した場合の問題を回避しながら、内製と同様に自在に部品生産企業を、自社の部門同様に利用可能となる。その意味で、組立企業にとって、大変使い勝手のよい、取引関係といえる。
 たんに組立企業にとって有利な関係というだけではなく、組立企業を頂点とした機械を生産する生産体系が、一つのグループとして存在することにもなり、資本的には一体ではないが、競争上は一体的に行動する主体ともなる。そのことで、巨大企業である組立企業は、自社が導入したり開発した新技術を、従属的な系列下にある企業に供与することが意味を持つことになる。そのことでグループとしての技術水準が急速に高まることになる。また、グループの中の部品生産企業相互でも、一方で競争すると同時に、グループ企業としては一体として他のグループ企業と競争していることもあり、自社が改善した技術等について、グループ内の競争企業にも供与することが生じやすくなる。結果として、グループ内では、競争と協力が生じ、市場競争関係にあるだけの場合に比べ、より急速に技術水準の向上を実現しやすくなるといえる。
 このような下請系列取引関係は、何故、いつ日本の機械工業で形成されたのであろうか。特に、なぜ、このような不利な従属的関係に、資本所有関係もないのに部品生産企業が組込まれたのであろうか。組立企業が巨大企業であるというだけでは説明のできない事象である。しかも、実際に下請系列取引関係に組込まれた部品生産企業は、同じ部品を生産するあるいは生産能力のある企業の中では、相対的に優位にある企業であった。優れた企業であるから組立企業側も従属的に支配すること、自社のグループに取り込むことに意味が生じたのである。
 このように巨大企業の組立企業に有利なグループ形成が可能となったのは、部品生産企業、高度成長が開始し、下請系列取引関係が一般化し始めた当初の、中小企業が圧倒的に多かった部品生産企業群のあり方に理由がある。日本の高度成長過程の特徴の1つは、まずは米欧の先進工業から技術を導入し、それを使いこなし国内市場向けに製品を供給し、その中で技術の改良を日本市場に合わせる形で行っていくことにあった。しかも、その米欧からの技術導入の窓口は、政府の為替政策等の影響もあり、現代の中国等で見られるような形で、大小様々な企業がそれぞれのつながりを利用して海外から技術導入できるような状況ではなかった。技術導入が可能なのは、巨大企業にほぼ限定されており、かつ部品生産を担っていた中小企業の技術水準の遅れがひどかったため、これらの企業が導入した技術の伝播を通して、組立大企業は導入した技術を自グループ内の中小企業に伝播することで、この問題の早期の克服を目指した。また、その結果として、直接技術導入することが困難であった中小企業を中心とした部品生産企業も、自らの技術水準を急速に向上させることができた。
 すなわち、優位にある巨大組立企業に従属することは、部品生産中小企業にとっては、他の競争する中小企業に対し、より先行して最新の技術を導入できることを意味した。また、優位にある巨大組立企業は、高度成長過程で、きわめて急速に生産を拡大し、企業規模を拡大している企業でもあった。このような巨大組立企業に供給することは、部品生産中小企業にとって、最も急速に拡大する市場を確保することを意味した。最新技術を他の中小企業に先駆け入手し、急成長する市場を確保する、そのための当時の最も有効な方法が、当時の部品生産中小企業にとっては、巨大組立企業に従属し、その下請系列下の企業になることであった。
 このような意味で、日本の当時の状況を背景に、高度成長の開始時に下請系列取引関係が、機械工業諸産業で広範に形成されたのである。結果として、巨大組立企業にとっては、資本の投下額を節約しながら、自社に必要な最新の部品を生産する意欲ある部品生産企業を、他のグループ内企業と競争させながら、従属的に利用し、より急速に米欧の機械工業企業にキャッチアップしてくことが可能となった。すなわち、下請系列取引関係を形成できたことは、たんに資本を節約できただけではなく、グループ内の部品生産企業の自発的な技術高度化意欲を活用することで、巨大組立企業にとっても、より迅速に自らが必要とする製品の生産体系の技術的高度化を実現することが可能となったのである。さらに、「トヨタ生産方式」に見られるような生産体系の独自的発展を、自社内に留めず、しかもその成果を専ら自社だけでつかえる形で、生産体系全体に迅速に、巨大組立企業主導の下で波及させることを可能としたのである。
 「トヨタ生産方式」のような生産体系全体に及ぶようなイノベーションを、より迅速に徹底的に現実化する媒体として、下請系列取引関係という日本独自の取引関係の形成とその広範化は、極めて有効に機能したということができる。

補節 産業政策の位置づけ
 産業政策について、産業発展の実態についてと異なり、筆者は関心を余り持っていない。中小企業を主たる研究対象としながら、日本の中小企業を主たる対象とした産業政策についても、ごく表面的なことしか知らない。その理由は、何よりも、産業政策の位置づけについての筆者の一方的な認識にある。産業政策は、産業企業の活動のための環境作りと、産業企業に存在するニーズへの対応の限りで、一定の有効性を持つに留まる、というのがその認識である。すなわち、産業政策が工業企業の発展を主導することが可能であるといったような、認識は間違っているというのが、筆者の認識である。
 いわば、咽の乾いていない馬を川に連れていっても水を飲まない、というたとえが妥当すると考える。産業政策は、環境作りにより、馬である工業企業の咽をより乾いた状態にすることはある程度できるし、川を探している馬が川のそばに行くのを、支援政策で手助けするのも可能であるが、川のそばに行って水を飲むのは、あくまでもその気がある馬たる工業企業であり、その気がない馬は政策が何をしようが川のそばにさえ行こうとしないし、政策が馬のかわりに川のそばにいって水を飲んでも、全く意味が無い、ということになろう。

4、まとめ
 イノベーションが生じることが、「中所得国の罠」を脱し工業発展を軸に高所得国化するために、極めて重要であると議論とされている。このこと自体については基本的に筆者も妥当なことだと理解している。しかしながら、イノベーションは、社会的に要請されたから生じるというものでは無い。また、適切な産業政策を実施したら実現するものでも無い。トヨタ生産方式のように、それぞれの企業ないし企業家が、市場での競争の中で、必要を感じ、その結果模索が行われ、その成果として生じるものである。それが、その後の市場の動向にマッチすれば、トヨタ生産方式のように、同様な環境にある多くの企業にも模倣され、日本の乗用車産業企業やその他の多くの日系工業企業にとって、極めて重要な生産方式となる。
 すなわち、イノベーションは誰により、どのような状況下で、どのようにして生み出されるのか、このような点の議論をすることなく、イノベーションが必要であるといっても意味が無い。
 同時に、少なくとも、日本の工業企業がフロントランナー化する際に最も重要なイノベーションの一つであると見做されているトヨタ生産方式は、ルイスの転換点すなわち労働市場の状況の大きな変化とは関係なく、トヨタ自動車が第2次大戦後に置かれた市場環境下での、大野耐一氏を中心とする社内の人材の広義の意味での有効な生産技術に関する模索の結果として形成されているといえる。
 ここから学ぶべきことは、イノベーションは、労働力が不足したから、労賃上昇に対応するために必要なものとして、初めて考慮されるものでは無いということである。企業の競争の中で、市場でのより優位な状況構築を目指し、企業()によって模索され、開発され、導入されるものである。逆に言えば、どんなに低賃金労働力が豊富であろうと、競争優位に立つためにイノベーションが必要な状況に置かれた企業()は、雇用の拡大に専ら頼るのではなく、競争優位形成のための諸手段を模索し、イノベーションを実行する可能性があるということでもある。
 このような工業主導で高所得化した国、日本の産業企業に関する先行事例から示唆されることは、工業化により中所得国化した中で、どのような企業がどのような市場環境の下で、これまでどのような対応をしてきたのか、この点を見極めることの重要性である。主体としての企業ないしは企業家によるイノベーションに向けての模索が、中所得国化する過程での工業化の中で生じていることが極めて重要であり、それをいかにしてグローバル市場での競争優位へとつながるイノベーションとしていくか、政策的に対応できるとしたら、このような形が第一であるということであろう。すなわち、イノベーションの担い手とイノベーションの芽を見つけ、それらがイノベーションを本格化することを支援することが、政策的な課題である。決して、政策的対応によりイノベーションを主導することが可能などと考えるべきでは無いということである。
 さらに日本でのイノベーションでの大きな特徴は、そのイノベーションが、日系企業間、すなわちサプライヤそして競争相手、その他の日系企業と広がっていったことである。そのような形でイノベーションが波及していったのは、日系工業企業が、当時のトヨタ自動車と同様に「多種少量生産」という制約の中で、日本国内市場を中心対象として相互に激しい競争をしていたことが、重要な意味を持っている。同じような課題を持っていなければ、先行事例に積極的に学ぶということは生じない。いわば日本市場という米国市場等と比較したならば、相対的に小規模なガラパゴス的な市場を対象に、激しく競争している企業群であったがゆえに、独自な生産方式の発明が一挙に普及することになったとも言える。
 すなわち、「中所得国の罠」を脱しようとする後発工業化国にとって、どのような市場向けでの工業発展を志向しているのか、志向することができるのか、これも重要な考慮すべき点となろう。志向する市場が持つ特性に従い、必要なイノベーションの内容は大きく異なるし、政策的支援のあり方も異なってくるであろう。

(1)   より詳しく見ると、有効求人倍率は、1967年に求人倍率測定史上初めて1を超え、1.05となり、1973年の1.74まで1を超えていたが、その後、再び1を超えたのは1988年の1.08となる。なお、この1超えも、1992年の1.00を最後に、21世紀を1未満で迎えることとなった。(()労働省『職業安定業務統計』 出所:()労働省『労働統計調査月報』を参照)
(2)   渡辺幸男(1974)を参照。
(3)      渡辺幸男(1997)88ページの注10にも書いたように、米国RCAから1953年度にモノクロテレビの生産に関する技術導入をした日系企業は28社に及んでいる。しかも、重要なのは、これら多数の企業が技術導入できたこととともに、日本市場向けの生産のために技術導入したことである。このために、技術導入した企業群は、基本的には全く同じ製品技術の下で、成長する可能性を秘めた国内市場を巡って、激しい競争を展開せざるを得ず、その中で何らかの独自性を出し、優位に立つことを目指さざるを得なかったのである。
 このような現象は、ある意味で、1980年代の改革開放下の中国のテレビ製造企業の地方政府国有企業形態や郷鎮企業形態での乱立と似た現象といえよう。中国では、その後、急激に淘汰が進み、ほとんどの企業が消滅したが、他方で、その中から、TCL等のいくつかの中国市場で優位を形成する巨大家電メーカーを生み出すことになった。

参考文献
大野耐一、1978『トヨタ生産方式 —脱規模の経営を目指して—』
ダイヤモンド社
渡辺幸男、1974「零細規模経営増加についての分析」
『三田学会雑誌』6710
渡辺幸男、1997『日本機械工業の社会的分業構造
 階層構造・産業集積からの下請制把握』有斐閣


2016年8月21日日曜日

8月21日 芙蓉の季節


芙蓉の花が本格的に咲き始めました。
10年以上前に、1本の芙蓉を鉢植えで池の端に置きました。
その芙蓉は、枯れてしまったのですが、
種がこぼれいて、いつの間にか、幾つもの芙蓉が芽生えました。
その中の一番大きな株が本格的に花をつけています。


21日夕方の芙蓉です。
少し花が閉じかかった感じも、なかなかの風情です。


21日夕方も暮れなずんできて、
芙蓉の花がしぼんできました。
色が多少濃くなり、妻はこの姿が好みのようです。




8月20日の同じ芙蓉です。
毎日花の場所が変わるのがわかります。


8月15日の芙蓉、
この頃から、花の数が多くなりました。


 7月27日の同じ芙蓉です。
花が咲き始めた頃のものです。
芙蓉は、サルスベリとともに、長く楽しめる夏の花なのが、よくわかります。

2016年8月12日金曜日

8月12日小論                  覚書 後発工業化国の産業発展について5

後発工業化国の工業企業のフロントランナー化と
「中所得国の罠」
   産業発展研究から見た時、「中所得国の罠」の議論を、
     どう考えるべきか —
渡辺幸男
はじめに
1 先進化した産業の発展研究から何を学ぶべきか
2 イノベーションはどのような状況で生じるのか
3 国民経済としての工業化への現代の工業体系の含意
4 「中所得国の罠」を議論する際に必要な論点
5 まとめ
補節 最も端的に「中所得国の罠」の議論展開を示す事例の紹介

はじめに
 後発工業化国の工業企業のグローバル市場でのフロントランナー化をとおして、日本、韓国、台湾といった東アジア諸国は、高所得国化した。他方、近年開発経済学の研究者により南米やアセアン諸国の、より一層の工業発展を議論する際に、「中所得国の罠」という概念が頻繁に使用され、その罠からいかに脱するかが議論されている。末廣昭(2014)、トラン・ヴァン・トウ(2015、学会講演)、同(2010)、大野健一(2016、新聞連載)、同(2013)等、門外漢の筆者が眼にしただけでも、いくつもの研究が展開され、議論が紹介されている。
 そこで議論されているのは、中所得国となり、一定の工業化を経験した諸国経済が、自国工業のより一層の発展、そしてそこからグローバル市場でのフロントランナー企業を輩出させ、高所得国化するにはどのような工業振興をしたらよいかということである。大野健一(2013)は、まさにそのために上記のような高所得国化した諸国を中心とした諸国の産業政策のベストプラクティスに学ぶことで、一層の工業発展が可能となり、高所得国への道を歩むことができるというものである。
 しかしながら、それらの議論においては、高所得化した諸国のリーディング産業の具体的発展展開過程についての議論はなく、それらの産業発展に関する研究からの示唆を得るという議論は、筆者の浅いレビューを通しては見当たらなかった。それゆえ、「中所得国の罠」の議論が提起している工業発展による高所得国化について、筆者なりの産業発展研究に関する蓄積を踏まえた時、どのような議論として考えるべきなのか、勝手な議論をしたくなった。それが以下の内容である。

1 先進化した産業の発展研究から何を学ぶべきか
 先進工業企業のFDI、これが投資先国の低賃金労働力利用を専ら目的とした第3国向けの輸出のためのFDIの場合、投資受入国にとって工業化への契機となりうるのであろうか。極めてその影響は限定的であろう。末廣昭(2014)は中所得国の罠の議論で、このような投資の場合を対象に議論しているようにみえるが、そこからは、自生的工業発展の展望はほとんど見えてこない。
 筆者が自身の日中での産業発展研究からうけた示唆は、中所得国が工業発展により高所得国の仲間入りした際に注目すべき点は、何よりも、それぞれの高所得化工業国に、工業発展についての独自のストーリーが存在するということである。さらにいえば、少なくとも、現在明確に工業発展により高所得国化した国民経済と見做されうる東アジアの日本、韓国、台湾の3つの国民経済については、FDIを中心とした工業化は限定的にしか存在しないことである。さらに、現在急激にキャッチアップし、中所得国の罠を乗り越えつつあると筆者が考える中国については、巨大なFDIが行われたが、同時に、中国国内市場を対象にした工業発展が、新興の中国系企業に担われて生じ、これが多くの国際競争力のある中国軽工業企業を生み出しているという事実がある。ここでも、FDIを軸にした工業化が先進工業企業を生み出すというストーリーでは無く、それと並存して発展した自国系新興企業が中所得国の罠を乗り越えるストーリーを提供しそうに見える。
 しかしながら、筆者が見てきた「中所得国の罠」をどう脱するかについての議論では、後発工業化国の工業諸産業の具体的な先進工業へのストーリーの構築が議論されることは無く、労賃が上昇する局面では、生産性の上昇が必要であり、そのためにイノベーションが必要であるという、極めて一般的な議論が展開されている。
 その場合、イノベーションが誰によって、どのような場合に生じると考えているのか、この点が大事である。しかしながら、「中所得国の罠」の議論ではその点についてほとんど展開されておらず、何故イノベーションが生じうると考えることができるのかについて理解に関して、大きな疑問を感じる。イノベーションは、当然のことながら、当該国民経済にとって必要だから生じるものでは無く、市場の主体である企業が、競争に強制され引き起こすものである。それゆえ、イノベーションが必要とされるとすれば、どのような状況でイノベーションが生じるのかの検討が不可欠である。

2 イノベーションはどのような状況で生じるのか
 筆者の理解では、イノベーションの担い手は、資本主義の市場経済では企業家以外存在しない。あるいは、ある意味でトートロジーだが、市場で新機軸を試みるのが企業家であるゆえ、企業家がイノベーションの担い手となる。
 何故、市場で新機軸を試みる「企業家」が生まれるのであろうか。競争に強制され、市場で生き残ることを目指すゆえに、あるいは優位に立つことを目指すゆえに新機軸を、リスクを引受けて試みる。これが企業家である。すなわち、ここから、資本主義でイノベーションが生じるための条件、環境が重要であることが示唆される。
 まずは、工業系の事業体であっても、本来的な企業経営の必要がない分工場等の事業体には、そもそも当該事業体としての独自な経営戦略が必要とされず、存在しようがないのであるから、イノベーションは生じない。さらに、企業間の激しい競争の存在も不可欠な条件といえよう。リスクを負う事無く、市場を独占する等で大きな利益を上げている企業とその経営者にとっては、イノベーションは必要とされない。本来的な意味での企業家も必要されない。すなわち、事業体に経営が存在し、その事業体が市場での主体として激しく競争していること、これが何よりもの本来的な「企業家」が生まれ、イノベーションが生じる前提条件である。
 以上は、私にとっては、当然のことであると思われる。その含意は、分工場的機能しか持たないようなタイプのFDIがいくら行われても、そこからは企業家は生まれないし、ましてやイノベーションは生じない。このようなFDIで投資や雇用が増加し、国民の所得水準が貧困状況から脱したとしても、そこから新たな工業発展を実現し、その国民経済が工業企業、特に機械工業企業としての先進企業を生み出していくことは、ほとんど不可能ということである。
 また、国民のうちに豊かな工業以外の特定産業の担い手が存在し、海外の先進工業から工業製品を輸入できるような1次産品生産の相対的に豊かな国民経済では、中高級消費財、そして最新の資本財についても輸入できる環境となる。そうなれば、工業製品に関する主要市場を巡って国内企業家が激しく競争する状況は生じないこととなる。それどころか、そもそもノベーションを起こす担い手が、当該国民経済の主要工業製品市場をめぐっては存在しないこととなる。
 ただし、国内企業家間の激しい競争があるからといって、必ずしもイノベーションが起こるとは限らない。競争の質が問題となる。しかし、市場競争がないところでは、そもそもイノベーションを起こす必要性が生じない。多数の競争する企業の企業家による多様な模索は生じる必要がなく、生じようもない。企業経営を行う事業体の競争の存在は、企業家簇生の充分条件では無いが、必要条件である。工業企業が存在しないところに、当然のことながら、工業企業間の競争は存在せず、それゆえ工業企業家は存在せず、工業企業家によるイノベーションも存在しないことになる。
 このような競争する企業家層の形成と、それらの多様な模索の存在、そしてイノベーションの発生は、工業投資総量の大きさとイノベーション促進政策とによって決まるのでは無い。投資の内容・質、市場の環境と競争のあり方によって決まるといえる。

 例えば、日本経済新聞の2016年に連載された「私の履歴書」によれば、華僑系のタイ企業であるCPは鶏肉等の先端的な処理をタイで行っている。これらの関連食品機械はどこから手に入れているのであろうか。先進工業国の食品機械メーカーの製品を使用しているのであれば、タイの産業機械産業への波及は無いことになる。世界中に、このような一部工業製品生産では世界的だが、そのための産業機械は、海外からの最新の機械を調達しているような企業は、多数存在するであろう。ブラジルやアルゼンチンでも同様では無いのか。そうだとすれば、リージョナルジェットメーカーの雄、ブラジルのエンブラエル社の例も含め、一部工業企業のグローバルな突出が、当該国の工業水準全体を高め、結果として高所得化を実現するということは、より困難になる。

 他方、韓国や台湾は、ごく一部の企業だけでは無く、例えば、韓国では造船、電子量産機械、鉄鋼、乗用車といった巨大工業部門で、それぞれいくつかの企業がフロントランナー化し、全体として工業部門を巨大化させた。その結果、高所得国化が実現したと見ることができる。ただし、日本と比べれば、国内完結型の生産体制に向けての生産体系の構築どころか、フルセット型の生産体制の構築という点でも欠落している部分が極めて多かったが、ごく少数の特定の工業部門のみの発展に依存した工業化では無い。
 英国の産業革命後、欧州大陸の西欧諸国が、英国の産業機械等を輸入しながら、自らの産業革命を実現し、それぞれの産業でやがて産業機械についても国内生産を行うようになったことと類似しているといえるかもしれない。現代でも、機械工業の最先進工業国であるドイツと他の欧州諸国の間には、産業機械等を含めた機械工業における分業が存在し、産業機械の西欧諸国間での輸出入が双方向で多大に行われている。その意味では、1970年代に日本が達成した、産業機械等をほぼ部材から全て国内生産する生産体制とは、ドイツも含め、大きく異なっている。このような現代の欧州に状況に近いものが、東アジアでの日本を先頭とした先進工業化の過程でも生じ、韓国や台湾の機械工業企業は、日本等の産業機械を購入利用できることも活かし、機械工業部門も含めた多面的な工業部門で工業化が進展し、先端工業化も生じたと見ることができる。
 同時に現代では、近隣諸国から調達しなくとも、今の中国がそうであるように、製品の販売市場さえ確保できれば、世界中からその製品を生産するための最先進の産業機械を購入することができ、かつ充分なアフターサービス等もうけることができる。20世紀末の東アジアの状況とも大きく変わり、グローバルな調達が可能なのが、現代の工業化の特徴といえよう。
 他方、中国のように、市場が大陸規模の巨大さを実現することが予想され、実際にその過程が急速に進んでいることを目の当たりにすれば、FDIであっても、当該国市場目当てで、多くの生産工程を現地化し、産業機械等の生産も現地化することになる。日系の工業用縫製機械メーカーであるJUKIの工業用ミシンの生産工場なども、その好例であろう。しかも、現地需要が主要な生産目的の工場では、他のメーカーとの競争に勝つためにも、現地市場向けの応用開発を行うことが有効となる。そこから現地仕様の新製品も生まれ、ある種のイノベーションが生じることになる。
 すなわち、当初現地市場向けに既存製品を組み立てるだけの分工場の進出であっても、現地市場の大きさと競争との中で、現地分工場の企業化が進展することになる。経営を保持する事業体が、FDIの生産工場の展開として形成されることになる。例えば、日本で自転車用ブレーキを開発生産していた中小企業であった唐沢製作所の中国現地法人は、日本で開発した製品の中国での生産という状況を超え、現地の新製品の市場向けに現地独自の部品の本格開発を行い、事業体としては、完全に独立した経営組織を持つ企業となっている。

3 国民経済としての工業化への現代の工業体系の含意
 ある製品の生産のための工業体系があるとすれば、最終製品生産とそれを生産するための部材生産、そして製品と部材を生産するための機械の生産、これらが組合さったものであろう。しかし、現代では、どの段階でもグローバルに調達可能である。特定の企業が競争優位にたつには、当然のことながら、いずれかの市場での競争優位の構築の必要性はあるが、関連生産部分への近接の必要性は、関連生産機能のサービスや部材や機械を調達するという意味では、極めて薄れている。
 一品生産的なもの以外について、特にこの点が言えそうである。極端に言えば、ある工業製品の市場で優位に立つには、その企業が直面する販売市場でのみ優位に立てばよく、後はグローバル調達が可能ということになる。後発工業化国の企業にとって、フロントランナー化するために何よりも重要なのは、市場の発見と開拓による当該市場での競争優位の形成ということになる。後は、グローバルに調達すればよい、ということになる。
 現代における後発工業化国の典型である中国の民営企業の中で急速に成長している企業の多くが、まさにこのような意味で特定市場の発見と開拓に専ら意を注ぎ、後は外部から調達し、当該市場での競争優位を実現するという戦略で成功している。その典型的事例が急成長した中国のスマホメーカーの小米であろう。さらにはブラジルのエンブラエルもこのような企業の一つといえよう。
 後発工業化国として、一定の工業人材の確保が可能な状況になった経済では、企業家にとって、どのような広がりの市場であろうと、それなりの大きさを持つ市場でフロントランナー化するためには、まずは市場を発見し開拓し、自らの競争優位を他者に先行して構築することであろう。既存のグローバルな市場では、寡占的市場支配が存在している。それゆえ、フロントランナー化するためには、赤羽淳(2014)がサムスンの液晶パネルでのフロントランナー化について分析したように、市場ニーズの大きな変化をうまく捉まえること、そのために変化の可能性を見越し、それに適合した訴求ポイントの構築を前もってないしは他者に先行して行うことが不可欠となろう。
 それゆえ、中所得国が工業の先進化に主導され高所得国化するには、多くの国民経済では、1点突破の企業が簇生することが、まずは必要と考えられる。1点突破の企業が生まれる可能性は、地域産業全体の高度化、ましてや国民経済全体の完結型生産体制の先進工業化に比して、相対的には、より高いものと見ることができる。同時に、一つ一つの企業の先進化の地域産業や地域経済への波及効果は、旧来の先進工業化の場合より、極めて弱いものとなる。必要なのは、1点突破を実現する企業が、同一地域で多く生まれることで、地域産業への波及の意味が生じてくるようにすることであろう。これに成功すれば、一点突破の企業の地域集積を通して、本格的な生産体系として競争力のある地域工業集積を構築することにつながる可能性がでてくる。かつてのように、工業集積を前提に地域工業として先進化するのでは無く、個別企業として先進化し、このような企業群の集積とその地域内波及を通して、地域工業生産体系として先進工業化するということになる。

4 「中所得国の罠」を議論する際に必要な論点
 以上のような産業発展の条件と現状を踏まえれば、「中所得国の罠」から脱するための議論として必要な第一のことは、中所得国になる過程で、当該国民経済で、何が形成されているか、つぎの発展を工業発展で行うとした時に、何がそれまでに形成されているか、これを明確にすることである。
 中所得国化する過程は、それぞれの国民経済で、大きく異なっている。それゆえ、それぞれの中所得国で蓄積されている工業人材の層の大きさや存在の仕方も多様である。さらに、企業家層がどの程度潜在的にでも存在しているか、その量とあり方も多様である。また、同時に、その国民経済が国民経済として内部に持つ市場の大きさと質、それも多様である。このようなその後の工業発展にとって極めて重要な意味を持つ、企業家、工業人材、直面する市場の三点で、それぞれの国民経済の中所得国として置かれた状況は多様である。このよう状況を踏まえ、より一層の工業発展の可能性と、そのための戦略的政策が思考される必要がある。
 一定程度工業化した諸国で「中所得国の罠」ということが言われているが、それは、労賃上昇に生産性の上昇が追いついていくことができず、工業製品の価格競争力が低下し、かつ工業諸産業でのイノベーションも生じないことで、自国工業における諸産業での先進化が実現しないことといわれている。そのことで、産業のより一層の発展が展望できず、高所得国化できないこと、といえるような状況である。このこと自体は、間違えでは無いであろう。しかし、当該国民経済が、一層の発展、イノベーションを含んだ工業発展に向けて、どのような可能性が存在するかは、このような指摘からは全く見えない。
 それゆえ、ここで問題となるのは、対象となる国民経済や地域経済において、これまでどのような経過を経て工業化が一定程度進展したのか、その結果として労賃上昇以外に、どのような状況が生じているのか、特に工業の発展を規定する諸条件に関連する事項について、どのような状況が生じているのか、である。
 しかしながら、筆者の見た限りでの「中所得国の罠」について議論されている諸論考では、このような視点での状況の確認は行われていない。その極端なものは、末廣昭(2014)であり、そこではたんに労賃の水準が上昇していることだけが議論され、その他の工業関連の諸条件が、当該経済でどのようなことになっているかは、全く言及されていない。その上で、それを打破するにはイノベーションが必要であるという議論となっている。大野健一(2013)(2016)でも、ある意味同様な認識にあり、その上で、先行している国民経済での政策的なベストプラクティスを見出し、それを参考にすることが必要あるとされている。
 各国経済、各地域経済が、中所得国化する過程で、どのような工業化が生じ、そこで、国民経済や地域経済として、工業に係わるどのような環境条件を構築したかは、全く問われていない。工業化は、労賃水準と所得水準で表現され、工業化の持つその他の質、誰が工業化を推進したのかという主体の問題や、結果としてどのような産業が形成され、どのような市場向けに供給することに成功したのか、さらには、その結果としてどのような工業人材を蓄積し、それらの人材はどのような形で存在しているのか、これらのことは全く問われていない。
 産業発展研究を、機械工業発展を中心に見てきた筆者にとっては、当該国民経済や地域経済の今後を考える際、それまでの工業化過程で、上記のような諸点でどのような蓄積が行われてきたのかは、最大の重要関心事であり、それこそが、その後のイノベーションを含めた当該経済での工業発展を規定すると考えるが、「中所得国の罠」を議論する諸論考では、このような発想は全く見られない。すなわち、当該経済の工業諸産業でイノベーションが必要であるということは、それ自体はまさにその通りで正しい議論といえる。しかし、当該経済でどのような形で誰によってイノベーションが生まれる可能性があるのか、それは、労賃上昇と生産性の停滞の事実の確認からだけでは、全く見えてこない点である。誰がどのような形で、当該国でのイノベーションを当面担うことができるのか、これが既存の議論では見えないのである。
 産業の発展の過程でイノベーションを担うのは、結果としての企業家である起業家を含めた企業家以外に存在しない。企業家が市場を発見し、あるいは市場で新たなニーズ等を発見し、それを開拓し具体化する際に新たな組合せを含めた新たな事業内容を展開することでイノベーションが生じる。主体的に市場の発見開拓に取組む企業家が存在しない中では、市場経済でのイノベーションは存在しない。
 また、企業家が市場の発見や市場での発見に努力するのは、競争に強制されてであり、市場での競争の強制が、新たな市場の発見や市場での新たなニーズの発見を企業家に必要と認識させるからである。既存の市場で高い収益を安定的に実現している事業体の経営者には、リスクを冒して新たな市場の発見や市場での発見を試みる必要性は存在しない。また、当該事業体の長が、自らの事業体の運営について、上部機関からの指示にもとづく行動だけを求められる場合には、そもそも企業家としての裁量の余地を全く持たないこととなる。
 他方で、市場での競争のあり方が、特定一方向、例えば、より安く供給することだけに向かざるを得ない市場環境であれば、市場の発見や市場での発見といった多様な模索が企業家によって行われることも無い。すなわち、企業家が置かれた市場の環境や事業体の長が置かれた環境が、極めて重要なのである。
 さらには、企業家が存在し、市場環境が企業家に何らかの市場の発見や市場での発見を強制する環境にあるとしても、企業家が、その強制の下でどのような行動をとることができるかは、より広い意味での当該経済の経済的環境が問題となる。すなわち、工業人材がどの程度存在し、どのような形で利用可能なのか、あるいは投資資金の豊富さと調達上の制約とが問題となる。企業家が市場を発見し、その市場を開拓しようとしても、工業人材が豊富かつ相対的に安価に供給されなければ、市場開拓は大きく制約されることになる。資金についても同様なことは明白であろう。
 このような工業人材の豊富かつ安価な利用可能性と資金調達の容易さ、そのなかでも特に人材確保の容易さは、決定的に重要な意味を持つ。市場を見つけても、その市場を開拓するための人材の調達が困難であれば、企業家は自らのイノベーションを実現する可能性を、大きく制約されることになる。
 最後に考慮すべき点は、事業体が目指す市場のあり方そのものについてである。多くの場合、現代の市場には既に先行する企業が存在し、市場支配力を持っている場合が多い。この場合は、市場支配力を持つ既存企業に、何らかの意味で挑戦するか、それらとの正面からの対決を避けることで、初めて後発工業化国の企業が、当該市場に参入し、競争することが可能となる。市場を発見するあるいは市場で発見する余地は、それだけ小さなものであり、成功する確率は低いものとなる。
 ただし、中国のように、国民経済内において外資が進出困難な市場部分が、一挙に形成され、かつ既存の国内大企業が事実上不存在な場合は、現代では稀有な例であるが、このような意味での市場の問題は、極めて小さなものとなる。このような例外はあるが、多くの場合は、国内市場においても、外資系企業とともに流通等の既存企業を含めた国内既存企業が存在しており、それらの既存企業を含め、どのような形で市場の発見や市場での発見を通してイノベーションが生じうるのか検討することが、高所得国へと導く工業発展を考えるうえで必要であろう。
 以上のような検討なくして、後発工業化国工業諸産業企業の先進化、フロントランナー化は展望しえない。工業諸産業企業のいくつかがフロントランナー化しない限り、工業の発展を軸とした高所得国化は、全く展望できないといえる。もちろん、特定工業企業のみがフロントランナー化したとしても、グローバルな部材と産業機械の調達が行われる現代においては、国民経済全体が高所得化するかどうかは不明である。しかしながら、少なくともいくつかの工業企業がフロントランナー化しない限り、国民経済として工業化を通しての高所得への道は未だ遠いことだけは確かである。

5 まとめ
 以上、あれこれと議論をしたが、それを最も簡潔にまとめれば、一定程度の工業化を実現した諸国が、イノベーションを通して生産性を上昇させることが必要なことは、「中所得国の罠」を巡る議論の通りであるが、そのために議論しなければならないのは、工業諸産業でフロントランナー化する企業を輩出するにはどうしたらよいのか、それぞれの国民経済の状況を踏まえて考える必要があるということである。すなわち、どのような市場に向け、どのような担い手が、どのような経営資源を利用することで、イノベーションを現実化できるか、という、それぞれの国民経済の置かれた環境の下で、考えられるべきストーリーを構築しなければ、高所得国への道は見えてこないということである。
 これが、筆者がこれまでの日中の産業発展研究を通して見てきたことを踏まえ、「中所得国の罠」のいくつかの議論を読んで、私なりに高位中所得国が工業の発展を通して高所得国へと移行するには、何が必要か考えた結果である。

補節 最も端的に「中所得国の罠」の議論展開を示す事例の紹介
大野健一(2016)「やさしい経済学 中所得の罠とアジア ⑦ 低成長の中国、難題が山積」での議論の展開
 中所得国の罠について、ごく入門的にエッセンスを述べている大野健一(2016)の叙述は、中所得国の罠について開発経済学の立場から議論している諸氏の議論の特徴を端的に示していると見ることができる。大野健一(2016)は、アジア諸国の中所得国の罠を問題とし、その中で中国を取上げている。現在、中所得国へと到達した中国について、そこで紹介されているのは、まずは、中国が高成長を長期に渡って実現し、その到達点が日本の60年代初めの水準であること、その段階で成長鈍化が生じているという事実の確認である。その上で、鈍化以外の懸念材料として、格差等の諸問題が指摘され、政治改革も遅れているとし、「中国の前途は多難です」と締めくくられている。
 ここで全く言及されていないのが、なぜ、これまで中国が、日本以上に長期に渡り、他のアジア諸国に見られないような高度成長を実現できたのか、その際の諸条件の何に変化が生じたから成長の鈍化が生じているのか、という中国の産業発展を軸とした経済成長のストーリーである。経済成長は成長の程度の差異はあろうとも、基本的にそれぞれの経済の独自性故に生じるものでは無いという認識ゆえ、その具体的なストーリーの特徴に一切言及せず、諸問題の存在に言及し、今後についての悲観的見通しを語ることができるのであろう。


参考文献
赤羽淳、2014『東アジア液晶パネル産業の発展
    — 韓国・台湾企業の急速キャッチアップと日本企業の対応』勁草書房
大野健一、2013『産業政策の作り方 — アジアのベストプラクティスに学ぶ』
      有斐閣
大野健一、2016「やさしい経済学 中所得の罠とアジア ⑦
  低成長の中国、難題が山積」『日本経済新聞』201689日、27ページ
末廣昭、2014『新興アジア経済論 キャッチアップを超えて』
      シリーズ 現代経済の展望、岩波書店
トラン・ヴァン・トウ、2010『ベトナム経済発展論
      — 中所得国の罠と新たなドイモイ』勁草書房
トラン・ヴァン・トウ、2015「アジア新興国と中所得国の罠」
     日本国際経済学会第74回全国大会 (専修大学、201511月)
      共通論題 新興国と世界経済の行方貿易・金融・開発の視点
渡辺幸男、1997『日本機械工業の社会的分業構造
     階層構造・産業集積からの下請制把握』有斐閣
渡辺幸男、2016『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』  
     慶應義塾大学出版会