2016年6月30日木曜日

6月30日小論                  覚書 後発工業化国の産業発展について3

2014817日 
20166月補筆
末廣昭『新興アジア経済論 キャッチアップを超えて』
       シリーズ現代経済の展望 (岩波書店、2014)
                       を読んで 補筆修正版
渡辺幸男

はじめに 以下の文章は、上記末廣昭氏の著作が発表された際に、私が書いた読後感をもとにしたものである。一部の研究仲間には読んでもらい、コメントをもらったが、公表はしなかった。産業発展について、改めて考え始め、先に覚書として、「後発工業化国の産業発展について」という小論をブログに掲載した。それとの関連で、近年のアジアでの産業発展を軸とした経済発展を議論している末廣昭氏の著作を、再度、読み直した結果、2年前に書いた読後感を紹介し、私の理解との差異を示したくなった。20148月に作成した小論に、読み直しを踏まえ多少手を入れたものが、下記の小論である。

末廣昭『新興アジア経済論 キャッチアップを超えて』
目次
はしがき
第一章   新興アジア経済論の視角と課題
第二章   歴史の中のアジア、世界の中のアジア
第三章   アジア化するアジア —中国の台頭と域内貿易の深化
第四章   キャッチアップ再考 —技術のパラダイム変化と後発企業の戦略
第五章   「鼎構造」の変容 —政府系企業・多国籍企業・ファミリービジネス
第六章   中所得国の罠 —労働生産性とイノベーション
第七章   社会大変動の時代 —人口ボーナス・少子高齢化・家族の変容
第八章   社会発展なき成長 —格差の拡大とストレスの増大
終章  経済と社会のバランス、そして日本の役割

0.本書での議論、キャッチアップ工業化論の整理や、中所得国の罠の議論の整理等、各章での諸議論の紹介について言えば、大変勉強になったと言える。私自身が不勉強であった部分をうまく整理されており、多くを教えてもらうことができた。
 また、アジア各国の現状についての統計的整理に関しても、多くを学ぶことができた。文献・資料を渉猟し、できる限り比較可能な形で紹介していることは、大変意味があり、学習するものにとって有意義であった。このような資料の渉猟と整理について、その努力の大きさときちんとした整理のしかたを高く評価し、大いに参考にさせていただくつもりである。
 しかし、統計資料を駆使した各国比較その自体の多くは、状況の確認であり、差異の形成の説明そのものではなく、多くの場合、説明されるべきものである。その説明については、本書の著者は、既存理論を前提にし、議論を展開しているように見える。既存の開発経済論の理論で説明可能というのが、基本的な研究姿勢ということができよう。その姿勢で、何処まで現実の新興アジア諸経済の展開の説明できるのか、説明に成功しているのか、またそこからの適切な展望を見出しているのか、これらの点については、大きな疑問を感じた。
 すなわち、上記の方法で、実際の新興アジア諸経済のダイナミズム、特に産業発展について検討し説明することに、大きな疑問を感じた。本当に説明できているのかという意味で。この疑問は、本書が講義をもとにした概説的な著作であることにより解消されない、分析方法の問題としての疑問でもある。具体的に、どのような点で疑問を感じたのか、以下に記し、私の産業発展の理解の論理的枠組みとの差異を示したい。

1.その1つは、各国経済の主体を、国有企業、外資系企業、民営企業とにわけ、その状況を各国について見ているが、その際の認識としては、どの国の国有企業も、民営企業も、その機能や主体としての意味は同様であり、それは概念によって与えられているという、理論認識先行の理解であった。果たしてそうであろうか。
 さらに各国の民営企業について、まずは大企業の存在に注目し、それと前2者との比重の各国での差異を議論している。寡占的大企業中心に民営企業を検討することの有効性の限定性を理解していない。
 同じ民営企業であろうと、そもそも自国の巨大市場を開拓可能でそこで大企業化可能な中国企業と、海外市場、特に先進工業国市場を念頭におかねば大企業化が不可能な韓国等の民営企業とでは、存立の状況、競争のあり方も大きく異なり、国民経済にとってのその存在の意味も異なるはずだが、本書では、その差異について全く意識されておらず、このような問題については捨象し、議論の中に組込んでいないと考えられる。
 参考文献に、中国産業発展研究として伊藤亜聖、駒形哲哉、丸川知雄と言った方々の文献を上げ、韓国のサムスンについて吉岡英美氏の著作を利用し、台湾のパソコンメーカーの発展には川上桃子氏の研究成果を紹介されていながら、それらの研究の含意の理解が、私とは全く異なっているということになろう。
 例えば、丸川知雄氏のいう大衆資本主義は、寡占的民営巨大企業の議論ではなく、新規参入が盛んにおこなわれる民営企業分野の状況についての議論であるはずだが、それについて区別しているという認識の存在は感じられず、民営企業はサムスンも山寨携帯メーカーも同様という認識と思われても反論しようがない書き方になっている。
 このような発想から見えてくることは、著者にとっては、まずもって、開発理論で概念化された民営企業があり、それは、少なくとも新興アジア経済では共通存在であるということであろう。すなわち、著者にとっては、既存の理論からえられた概念を、それぞれの経済への妥当性を反省的に検討したうえで、独自性を加味して使用するのではなく、演繹的な発想の思考の下で使用するということが当り前なのであろうと推測される。
 だからこそ、アジア諸経済の各国別のダイナミズムをそれぞれ検討することなく、特定の指標で一般化し、それをもとに各国比較とそれらの今後について議論することが可能なのだと考えられる。

2.このような発想の議論であるため、経済を考える基礎的な概念に関する統計数字、特にマクロな数字は出てくるが、戦略的に対応すべき市場とその市場のあり方の特徴・差異や、それを開拓していく主体としての企業の企業間競争のあり方や差異については、全く言及されていない。タイの民営企業と中国の民営企業とが、マレーシアの国有企業と中国の国有企業とが、同様な市場をめぐり、同様な競争のあり方の下でのものとして発展を議論すべきかどうかについて、著者には全く問題とされていない。当然ながら、このような議論をすべきではないということは、私にとっては余りにも明白な議論の前提である。
 著者には、開発経済論の理論で形成された分析用の諸概念に基づく統計的分析と、各国政府の政策の分析とが、今後の展開を考えるうえで決定的に重要なものであり、それぞれの経済のおかれた状況とそこでの市場と競争のあり方の差異は、ほとんど問題にならないということであろう。

3.上記の開発経済論の理論で形成された分析用の諸概念に基づく統計的分析と、各国政府の政策の分析からいえることは、何処まであるのであろうか。日本と韓国と台湾の先進工業化過程の大きな差異については、結果として先進工業化したということが統計的に確認される、と言うことで、先進工業化の差異の検討については捨象可能ということなのであろうか。
 日本は極東の孤立した経済ゆえに可能になった国内完結型生産体制の下での先進工業化であり、部分的発展で先進工業化を実現した韓国や台湾についていえば、日本が隣国として存在したことが決定的に意味を持った工業化である。しかし、先進工業化し、相互にグローバル市場で巨大企業は競争しているという現状があれば、それを捨象しても良いのであろうか。
 先進工業化は、積み重ねの内的発展の結果だけではない。1つとは限らないとしても、特定の外的環境と内的環境を前提にした、企業間競争と政策的環境づくりの結果、例外的に可能となるといえる。このような発想が重要である。ロストウ流の発想は、内的条件、それも要素資源の蓄積を主として経済成長が生じ、先進工業化が可能となるという発想であろう。イノベーションについても、教育を含めた政策的努力が中心であり、その結果としての可能性として検討されている。市場のあり方とそこでの競争圧力の存在、それらが、先進技術の導入競争とともに、イノベーションを生み出す原動力にもなるという、私の発想とは異なる発想なのであろう。
 しかし、私が見る限り、先進工業化した諸国・地域経済は、いずれも、いくつかの環境的要素と内的要素とがそれぞれ独自に組み合わさり、先進工業への道を歩むことが可能となったといえる。それらのうちの各経済に共通するいくつかの要素を開発経済学は抽出し、理論化したといえるであろう。抽出されたそれらの事項は、必要条件となりえても、充分条件にはほど遠いことになる。
 それ故、理論からの概念を当て嵌め、それに従って分析しても、そこからは中所得国の罠をどうしたら脱することができるかは見えてこない。見えてくるのは、せいぜい、こうなれば脱したことになるということと、脱するための政策的努力の差異ということになる。
 このような視点からは、南米の幾つかの国の経済は、戦後段階で日本経済より豊かな国であり、大戦中に工業化が進展したにもかかわらず、なぜ先進工業化に失敗しているのか、アルゼンチンが何故高所得国から中所得国に後退したのか、政策的失敗を指摘するぐらいしか分析はできないであろう。それで良いのであろうか。私には、アルゼンチンの産業のあり方、産業構造の特徴等、またそのような構造をもたらした発展環境の独自性、すなわち、早期に高所得国化した際の発展の内容の独自性が問題となり、その後の世界経済環境の変化とアルゼンチン経済のその中での位置といったことが問題となるのであるが。

4.競争と市場についての議論がないのは、市場や競争については経済原論レベルの理解、一般論で充分であるという発想に基づいているからであろう。原論では競争一般、せいぜい寡占的競争ぐらいしか議論されない。市場も市場一般であり、それぞれの市場のあり方や独自性を問題にしない。それでは、国内市場に依存して発展できたことによる日本の高度成長での日本的な生産管理の形成や、国内巨大低価格市場の一挙形成という独自な市場条件ゆえに生じた中国民営企業による山寨携帯の出現の論理も見えてこない。
 結果の評価に統計的数字を使うのは、大変適切であり、格差の問題等を考えるための出発点になる。しかし、貧富の差を統計的に評価することは、その原因を、そして格差形成の論理を説明することとは関係がない。
 格差の状況について、統計的に把握し、各国比較をすることは十分意味があるし、当然可能であろう。しかし、それぞれの国で格差が多様な形で存在することを、資本主義一般の発展の論理から説明することは、本当にできるのであろうか。その論理は何か。資本主義一般として格差の状況の歴史的展開が語れるという、理論的幻想ではないかと考える。

 英国を中心とした西欧資本主義が発展し、世界の市場を支配し、それに米国資本主義が続き、資本主義世界体制からの離脱によるソ連圏の独自な産業発展があり、日本の極東での国内市場における内的循環を活用した独自生産システムが構築された。これらは、それぞれの置かれた市場環境を抜きには理解不可能である。同様に、現代のアジアNIESs諸国や中国・インドの産業発展も、それぞれの地域の産業が置かれた時代的環境や、市場の独自性を抜きにして、その産業発展の可能性と経路について議論することできない。これらは原論レベルの市場と競争に還元することによって、全て消えてしまう論点なのである。

0 件のコメント: