トラン・ヴァン・トウ、苅米俊二
『中所得国の罠と中国・ASEAN』(勁草書房、2019年)
を読んで 渡辺幸男
本書は、「中所得国の罠」を克服した国民経済として日本と韓国を取り上げ、それを踏まえて中国やASEAN諸国の今後を展望するということを主張している著作であり、期待して購入し、読んだ。しかし、残念ながら、私が期待した内容のものではなかった。
本書の目次
はしがき
第1部 中所得国の罠の課題と理論
第1章 「中所得国の罠」論の登場
第2章 中所得国の罠についての理論的枠組み
第3章 中所得段階での成長鈍化と早期脱工業化
第4章 FDI主導型成長と持続的発展の条件
第5章 アジア工業化と経済発展
第2部 北東アジアの経験が示唆するもの
第6章 日本経済の発展経験
第7章 韓国の経済発展:科学技術力強化過程を中心に
第3部 中所得国の罠が回避できるか:中国とASEANの発展展望
第8章 中国経済の発展過程と現段階:中所得国の罠に関して
第9章 高位中所得国としてのタイとマレーシア:外資主導型発展の功罪
第10章 低位中所得国のインドネシアとフィリピン:
非工業化型の発展は持続可能か
第11章 ベトナム経済:要素市場と持続的発展の課題
中所得国の罠を脱するには、何よりもイノベーションが大事だという議論があることは知っていたが、日本や韓国の経験として、どれだけイノベーションが盛んか、また中国で現在イノベーションが盛んかについて、特許取得等で確認することが、中所得国の罠を脱した所以である、あるいは可能性を与えるものであるということに、本書での議論はほぼ終始していた。何故、日本や韓国で多数のイノベーションが生じ、中所得国に留まっているマレーシアでは多数生じることはなかったのか、その分析こそ重要であろう、と私には思われる。しかし、そのことについては多少の言及はあっても、分析は皆無であった。
これで何故、日韓の経験に学ぶことになるのか、私には理解できなかった。開発経済学は、マクロの数字それ自体にこだわり、その数字をもたらすことを可能とした経済発展のストーリーについては検討する必要がないと考えているからなのであろうか。私からみれば、マクロの数字は、あくまでも結果であり、それが生じた所以を示すものでないということは、常識と思われる。しかし、開発経済学の方々にとっては、そうではないのであろうか。これらの方々にとっては、各国の経済の状況とは、経済理論が直に想定する状況であり、各国民経済で本来的に経済学的な意味での差異がない、という認識に立っているのであろうか。そうであれば、マクロの数字で、経済の状況を表現してもまだ許されるであろう。W.W.ロストウ流の直線的な経済発展段階論が、いまだに生きているということであろうか。
日本の産業発展と中国の産業発展を見てきた限りでの私の経験に基づいて言えば、イノベーションが生じる論理は、この2つの国についてだけをみても大きく異なる、ということが当然と思われる。高度成長期の日本の企業にとっては、それなりの大きさがあったと言える国内市場をめぐる大企業間の「過当」競争的な状況こそ、イノベーションを刺激する重要な要因であり、そこから日本の産業の代表的なイノベーションであるトヨタ生産方式も生まれたと言えるであろう。また、壊れない家電製品の開発も可能となったと言える。他方で、2000年代の中国では、垂直分裂の状況下で、激しい参入と潜在的な部分も含めた国内での巨大な新市場の開拓余地とが、イノベーションを幅広くもたらしていると、私には見えた。その結果が、アフリカ市場を開拓できる独自な低価格製品の開発となり、他方でDJIのドローンを生み出したと言える。それゆえ、同じイノベーションの多数発生でも、それをもたらすストーリーは、日中両国で、開発主体はもちろん開発経路でも開発の方向性でも大きく異なっていた、と私は認識している。
あるいは、彼らにとっては、イノベーションが生じたことと、日本や韓国が高所得国になれたことが、因果関係にあり、同時に、イノベーションは政策的に活発化できるという認識があり、イノベーションを政策を通して活発化することが、高所得国への道なのだ、という認識があるから、このような議論を展開しているのであろうか。政策的にイノベーションを活発化させることこそ、高所得国への道である、ということになる。政策的にイノベーションを活発化することができるのであるから。
このような認識は、私には実質的にはトートロジーに思えることだが、筆者たちにとってはトートロジーではないのかもしれない。政策的に自在にイノベーションを活発化できるのであれば、確かにそう言えるであろう。かつてこのブログでも紹介した「ベストプラクティスに学ぶ」という大野氏の議論(大野健一、2013年)も、そう考えれば納得的でもある。
ただし、イノベーションを政策的に刺激するとして、その際の刺激される主体は誰か、どこに存在するのか、これを考え始めれば、私の言うストーリーの世界に入っていくことになる。市場経済におけるイノベーションとは、市場経済の担い手による新機軸開発であり、担い手は市場経済の担い手である企業以外存在しない。政府の政策も自らがイノベーションを起こすのではなく、特定企業にそれを起こさせるのでもなく、競争の結果として市場経済の担い手の中から生じせしめる以外にないと、私には思える。同時に、一定の環境が存在しなければ、イノベーションの多発は生じないとも言える。このイノベーションが多発する環境とは、どのようなものであるか、それこそ、中所得国の罠を克服するために問われなければならない点であろう。
かつてのフランスをはじめとした、特定企業を選抜し、それにイノベーション等を期待するチャンピオン企業育成政策は、ほぼ失敗している。競争のないところに、イノベーションはない、というのが、私の資本主義認識なのだが。トヨタと日産を選抜してグローバル企業に育成するという、高度成長初期の旧通産省のチャンピオン育成政策が失敗したからこそ、トヨタ生産方式が生み出されトヨタを超えて本格的に普及し、ホンダの参入があり、日本の乗用車産業のグローバル制覇が生じたと、私は理解する。また、競争のあり方も環境により多様である。競争のあり方でイノベーションの多発性も変わってくる。またイノベーションの内容的方向性も変わってくる。かつての日本のイノベーションがプロセスイノベーションに大きな比重が存在したのも、そのような競争環境のあり方から説明可能であろう。テレビの特許を、RCAから2桁の日系企業が同時的に導入し、国内市場向けに製品化を競い合うような国民経済的環境こそ、壊れないテレビの開発へとつながった、と私には思えるのだが。
何れにしても、各国国民経済の独自な発展ストーリーを論理的に追求してのみ、この点は明らかになる。マクロの数字のみを追いかけても、発展の論理そのものは何も解明できず、中所得国の罠から抜け出す道を見出すことはできない、と私は考える。
以下では、トラン他(2019年)の日本の高所得国化の論理についての議論を、改めて詳しく眺めてみる。
第6章 日本経済の発展経験(105ページから124ページ) の詳細目次
6−1 日本経済の発展過程:時期区分 106ページ〜
6-1-1 市場経済の条件整備(1868−1886年)
6-1-2 近代経済成長の本格化(1886−1914年)
6-1-3 戦時・戦間期経済(1914−1945年)
6-1-4 戦後復興期(1945−1955年)
6-1-5 高度成長期(1955−1973年)
6−2 欧米へのキャッチアップと発展諸段階の要因 114ページ〜
6-2-1 日本の英米へのキャッチアップ
6-2-2 低位から高位中所得国への発展と要素市場
6-2-3 高位中所得国から高所得国時代へ:高度経済成長の役割
6−3 結びに代えて:日本の発展からの示唆 124ページ
本書の第6章では、日本経済が「高所得国に到達したのは高度成長期が終焉した1970年代前半で」(同書、116ページ)あるとしている。その上で、「なぜ高度成長が実現できたについて」、以下の「要因を指摘して」(同書、118ページ)いる。「第1に最大の要因はイノベーション(技術革新)である」そして「プロダクトイノベーション」と「プロセスイノベーション」の例が紹介されている。「第2に、イノベーションのために外国から積極的に技術を導入し「「後発性の利益を受けた」(同書、119ページ)ことが指摘されている。「第3に、・・・投資活動がダイナミックに展開され」(同書、120ページ)たことも指摘されている。何よりも、イノベーションが多発したことが、高所得国化を可能にした、という主張がなされている。
「第4は教育・訓練の強化で人的資源の質的向上に努力し、企業のイノベーション、投資・生産拡大を支えた」(同書、121ページ)ことが言われ、「第5は労働生産性や全要素生産性が急速に増加し」(同書、122ページ)たことが指摘される。「第6は転換能力が高いことで、これも高度成長を説明する要因となった」(同書、122ページ)とする。イノベーションの多発の背景に知的資源の質的向上があったとの指摘がなされ、多少の要因の指摘はされているが、それが何故可能であったのかの分析は全くない。
以上の6点を羅列的に並べた上で、結論的に「資本・労働などの要素市場の整備、人的資源の向上とプロセス・プロダクトイノベーションで効率的資源配分が実現でき、それによる生産性向上が高度成長の主要な要因であった」とし、「特に注目に値するのは、民間企業の活力、外国技術の積極的導入、生産性の高い部門への転換能力であった」(同書、124ページ)と締めくくっている。
これらの議論からは、この高度成長過程の「誰が」担い手であり、その担い手は、どうしてこのような機能を担ったのか、そして、それらの担い手が何故イノベーションを簇生する主体たり得たのかは、まったく言及されていない。外国技術の導入を元にしてもいいからイノベーションが必要だ、そのためには人材が重要で、結果として生産性が上昇しなければならない、ということを言っている。繰り返しになるが、なぜ、そのような現象が生じたのか、誰によって担われたのか、その主体は、どうして、そのような行動をとったのか、とれたのか、主体とその主体の存立の状況についての分析は全くない。
あるのは、イノベーションが必要であり、そのためには外国技術の導入を元にしても良いが、国内にそれなりの人材が存在することが必要である、という指摘のみである。それも、その存在が可能となった理由の分析がないままの指摘である。
このような議論から得られる、現在の中所得国への示唆とは何であろうか。イノベーションによる生産性の上昇が、経済全体で生じないことには高所得国化することはできない。この点が何よりも強調されている点であろう。私には、当たり前のことだと思われるが。また、そのためには必要な人材の存在が重要である、ということになる。イノベーションを生じるためには外国技術を導入することも有効である、という示唆も得られる。しかし、誰によって、どのようにしたらイノベーションが頻発し、経済全体の生産性の急速な上昇が実現するのか、そのために日本の事例を通して示唆されることは何かについて、残念ながら分析はない。
繰り返すことになるが、このようなイノベーションの頻発による生産性の上昇を誰が担ったのか、何故担うことができたのか、その論理については、ほとんど言及がなく、ましてやそのような内容の説明はない。「民間企業の活力」が重要だとしているが、どのような存在としての民間企業が活力を持ったのか、持ち得たのか、民間企業の存在それ自体が、このような活力を即生み出すものではないことは、現在の中所得国をみればわかるであろうと、私には思われるのだが。しかし、民間企業の活力の内容とその生み出した要因の分析はない。
本書の論理からすれば、あたかも、民間企業が存在すれば、民間活力は自然に生まれるがごとくにも感じられる。となれば、なぜ、現在の中所得国は、民間企業もそれなりに多数存在しているのにもかかわらず、なぜ「中所得国の罠」に陥っていると危惧されるのか、この点が逆に改めて疑問となる。
注
大野健一、2013『産業政策のつくり方
– アジアのベストプラクティスに学ぶ』有斐閣