2019年8月25日日曜日

8月25日 小論 トラン、苅米『中所得国の罠と中国・ASEAN』を読んで

トラン・ヴァン・トウ、苅米俊二
『中所得国の罠と中国・ASEAN』(勁草書房、2019年)
を読んで  渡辺幸男

 本書は、「中所得国の罠」を克服した国民経済として日本と韓国を取り上げ、それを踏まえて中国やASEAN諸国の今後を展望するということを主張している著作であり、期待して購入し、読んだ。しかし、残念ながら、私が期待した内容のものではなかった。

本書の目次
はしがき
第1部     中所得国の罠の課題と理論
第1章   「中所得国の罠」論の登場
2章 中所得国の罠についての理論的枠組み
3章 中所得段階での成長鈍化と早期脱工業化
4章 FDI主導型成長と持続的発展の条件
5章 アジア工業化と経済発展
第2部 北東アジアの経験が示唆するもの
6章 日本経済の発展経験
7章 韓国の経済発展:科学技術力強化過程を中心に
第3部 中所得国の罠が回避できるか:中国とASEANの発展展望
8章 中国経済の発展過程と現段階:中所得国の罠に関して
9章 高位中所得国としてのタイとマレーシア:外資主導型発展の功罪
10章 低位中所得国のインドネシアとフィリピン:
非工業化型の発展は持続可能か
11章 ベトナム経済:要素市場と持続的発展の課題

 中所得国の罠を脱するには、何よりもイノベーションが大事だという議論があることは知っていたが、日本や韓国の経験として、どれだけイノベーションが盛んか、また中国で現在イノベーションが盛んかについて、特許取得等で確認することが、中所得国の罠を脱した所以である、あるいは可能性を与えるものであるということに、本書での議論はほぼ終始していた。何故、日本や韓国で多数のイノベーションが生じ、中所得国に留まっているマレーシアでは多数生じることはなかったのか、その分析こそ重要であろう、と私には思われる。しかし、そのことについては多少の言及はあっても、分析は皆無であった。
これで何故、日韓の経験に学ぶことになるのか、私には理解できなかった。開発経済学は、マクロの数字それ自体にこだわり、その数字をもたらすことを可能とした経済発展のストーリーについては検討する必要がないと考えているからなのであろうか。私からみれば、マクロの数字は、あくまでも結果であり、それが生じた所以を示すものでないということは、常識と思われる。しかし、開発経済学の方々にとっては、そうではないのであろうか。これらの方々にとっては、各国の経済の状況とは、経済理論が直に想定する状況であり、各国民経済で本来的に経済学的な意味での差異がない、という認識に立っているのであろうか。そうであれば、マクロの数字で、経済の状況を表現してもまだ許されるであろう。W.W.ロストウ流の直線的な経済発展段階論が、いまだに生きているということであろうか。
日本の産業発展と中国の産業発展を見てきた限りでの私の経験に基づいて言えば、イノベーションが生じる論理は、この2つの国についてだけをみても大きく異なる、ということが当然と思われる。高度成長期の日本の企業にとっては、それなりの大きさがあったと言える国内市場をめぐる大企業間の「過当」競争的な状況こそ、イノベーションを刺激する重要な要因であり、そこから日本の産業の代表的なイノベーションであるトヨタ生産方式も生まれたと言えるであろう。また、壊れない家電製品の開発も可能となったと言える。他方で、2000年代の中国では、垂直分裂の状況下で、激しい参入と潜在的な部分も含めた国内での巨大な新市場の開拓余地とが、イノベーションを幅広くもたらしていると、私には見えた。その結果が、アフリカ市場を開拓できる独自な低価格製品の開発となり、他方でDJIのドローンを生み出したと言える。それゆえ、同じイノベーションの多数発生でも、それをもたらすストーリーは、日中両国で、開発主体はもちろん開発経路でも開発の方向性でも大きく異なっていた、と私は認識している。

 あるいは、彼らにとっては、イノベーションが生じたことと、日本や韓国が高所得国になれたことが、因果関係にあり、同時に、イノベーションは政策的に活発化できるという認識があり、イノベーションを政策を通して活発化することが、高所得国への道なのだ、という認識があるから、このような議論を展開しているのであろうか。政策的にイノベーションを活発化させることこそ、高所得国への道である、ということになる。政策的にイノベーションを活発化することができるのであるから。
このような認識は、私には実質的にはトートロジーに思えることだが、筆者たちにとってはトートロジーではないのかもしれない。政策的に自在にイノベーションを活発化できるのであれば、確かにそう言えるであろう。かつてこのブログでも紹介した「ベストプラクティスに学ぶ」という大野氏の議論(大野健一、2013年)も、そう考えれば納得的でもある。
 ただし、イノベーションを政策的に刺激するとして、その際の刺激される主体は誰か、どこに存在するのか、これを考え始めれば、私の言うストーリーの世界に入っていくことになる。市場経済におけるイノベーションとは、市場経済の担い手による新機軸開発であり、担い手は市場経済の担い手である企業以外存在しない。政府の政策も自らがイノベーションを起こすのではなく、特定企業にそれを起こさせるのでもなく、競争の結果として市場経済の担い手の中から生じせしめる以外にないと、私には思える。同時に、一定の環境が存在しなければ、イノベーションの多発は生じないとも言える。このイノベーションが多発する環境とは、どのようなものであるか、それこそ、中所得国の罠を克服するために問われなければならない点であろう。
 かつてのフランスをはじめとした、特定企業を選抜し、それにイノベーション等を期待するチャンピオン企業育成政策は、ほぼ失敗している。競争のないところに、イノベーションはない、というのが、私の資本主義認識なのだが。トヨタと日産を選抜してグローバル企業に育成するという、高度成長初期の旧通産省のチャンピオン育成政策が失敗したからこそ、トヨタ生産方式が生み出されトヨタを超えて本格的に普及し、ホンダの参入があり、日本の乗用車産業のグローバル制覇が生じたと、私は理解する。また、競争のあり方も環境により多様である。競争のあり方でイノベーションの多発性も変わってくる。またイノベーションの内容的方向性も変わってくる。かつての日本のイノベーションがプロセスイノベーションに大きな比重が存在したのも、そのような競争環境のあり方から説明可能であろう。テレビの特許を、RCAから2桁の日系企業が同時的に導入し、国内市場向けに製品化を競い合うような国民経済的環境こそ、壊れないテレビの開発へとつながった、と私には思えるのだが。
 何れにしても、各国国民経済の独自な発展ストーリーを論理的に追求してのみ、この点は明らかになる。マクロの数字のみを追いかけても、発展の論理そのものは何も解明できず、中所得国の罠から抜け出す道を見出すことはできない、と私は考える。

 以下では、トラン他(2019年)の日本の高所得国化の論理についての議論を、改めて詳しく眺めてみる。

 第6章 日本経済の発展経験(105ページから124ページ) の詳細目次
  6−1 日本経済の発展過程:時期区分 106ページ〜
   6-1-1 市場経済の条件整備(18681886年)
   6-1-2 近代経済成長の本格化(18861914年)
      6-1-3 戦時・戦間期経済(19141945年)
   6-1-4 戦後復興期(19451955年)
   6-1-5 高度成長期(19551973年)
  6−2 欧米へのキャッチアップと発展諸段階の要因 114ページ〜
   6-2-1 日本の英米へのキャッチアップ
   6-2-2 低位から高位中所得国への発展と要素市場
   6-2-3 高位中所得国から高所得国時代へ:高度経済成長の役割
  6−3 結びに代えて:日本の発展からの示唆 124ページ
  
本書の第6章では、日本経済が「高所得国に到達したのは高度成長期が終焉した1970年代前半で」(同書、116ページ)あるとしている。その上で、「なぜ高度成長が実現できたについて」、以下の「要因を指摘して」(同書、118ページ)いる。「第1に最大の要因はイノベーション(技術革新)である」そして「プロダクトイノベーション」と「プロセスイノベーション」の例が紹介されている。「第2に、イノベーションのために外国から積極的に技術を導入し「「後発性の利益を受けた」(同書、119ページ)ことが指摘されている。「第3に、・・・投資活動がダイナミックに展開され」(同書、120ページ)たことも指摘されている。何よりも、イノベーションが多発したことが、高所得国化を可能にした、という主張がなされている。
 「第4は教育・訓練の強化で人的資源の質的向上に努力し、企業のイノベーション、投資・生産拡大を支えた」(同書、121ページ)ことが言われ、「第5は労働生産性や全要素生産性が急速に増加し」(同書、122ページ)たことが指摘される。「第6は転換能力が高いことで、これも高度成長を説明する要因となった」(同書、122ページ)とする。イノベーションの多発の背景に知的資源の質的向上があったとの指摘がなされ、多少の要因の指摘はされているが、それが何故可能であったのかの分析は全くない。
 以上の6点を羅列的に並べた上で、結論的に「資本・労働などの要素市場の整備、人的資源の向上とプロセス・プロダクトイノベーションで効率的資源配分が実現でき、それによる生産性向上が高度成長の主要な要因であった」とし、「特に注目に値するのは、民間企業の活力、外国技術の積極的導入、生産性の高い部門への転換能力であった」(同書、124ページ)と締めくくっている。
 これらの議論からは、この高度成長過程の「誰が」担い手であり、その担い手は、どうしてこのような機能を担ったのか、そして、それらの担い手が何故イノベーションを簇生する主体たり得たのかは、まったく言及されていない。外国技術の導入を元にしてもいいからイノベーションが必要だ、そのためには人材が重要で、結果として生産性が上昇しなければならない、ということを言っている。繰り返しになるが、なぜ、そのような現象が生じたのか、誰によって担われたのか、その主体は、どうして、そのような行動をとったのか、とれたのか、主体とその主体の存立の状況についての分析は全くない。
 あるのは、イノベーションが必要であり、そのためには外国技術の導入を元にしても良いが、国内にそれなりの人材が存在することが必要である、という指摘のみである。それも、その存在が可能となった理由の分析がないままの指摘である。
 このような議論から得られる、現在の中所得国への示唆とは何であろうか。イノベーションによる生産性の上昇が、経済全体で生じないことには高所得国化することはできない。この点が何よりも強調されている点であろう。私には、当たり前のことだと思われるが。また、そのためには必要な人材の存在が重要である、ということになる。イノベーションを生じるためには外国技術を導入することも有効である、という示唆も得られる。しかし、誰によって、どのようにしたらイノベーションが頻発し、経済全体の生産性の急速な上昇が実現するのか、そのために日本の事例を通して示唆されることは何かについて、残念ながら分析はない。
 繰り返すことになるが、このようなイノベーションの頻発による生産性の上昇を誰が担ったのか、何故担うことができたのか、その論理については、ほとんど言及がなく、ましてやそのような内容の説明はない。「民間企業の活力」が重要だとしているが、どのような存在としての民間企業が活力を持ったのか、持ち得たのか、民間企業の存在それ自体が、このような活力を即生み出すものではないことは、現在の中所得国をみればわかるであろうと、私には思われるのだが。しかし、民間企業の活力の内容とその生み出した要因の分析はない。
本書の論理からすれば、あたかも、民間企業が存在すれば、民間活力は自然に生まれるがごとくにも感じられる。となれば、なぜ、現在の中所得国は、民間企業もそれなりに多数存在しているのにもかかわらず、なぜ「中所得国の罠」に陥っていると危惧されるのか、この点が逆に改めて疑問となる。

大野健一、2013『産業政策のつくり方 

– アジアのベストプラクティスに学ぶ』有斐閣

2019年8月18日日曜日

8月18日 小論 佐伯編著『中国地方の自動車産業』を読んで

佐伯靖雄編著『中国地方の自動車産業
 人口減少社会におけるグローバル企業と地域経済の共生を図る』
晃洋書房、20198月 を読んで   渡辺幸男

本書の出版日は、奥付によると830日となっているが、共同執筆者の一人である学会仲間の若手研究者から、早々と送っていただき、発売日よりかなり早く読み終わることができた。本書に興味を持った最大の理由は、私がかつて1990年代に、故滝澤菊太郎教授からの紹介で、仲間とかなり丁寧に現地調査を行なった三菱自動車水島工場の協力企業の協同組合、ウイングバレー協同組合が、事例の一方として取り上げられているように見えたことである。後で見るように、内容的に見ると、本書は中国地方広島県立地の乗用車メーカーとしてマツダを中心として取り上げており、岡山県の三菱自動車の位置付けとこの調査研究でのツッコミは、曖昧ないしは不十分である。
また、本書の主旨は、編著者によれば、「自動車産業の分析における(企業グループの)経営戦略論と(地域の固有性を意識した)地域経済論とを折衷した産業集積の動態的研究のことを地域自動車産業論として提唱」(本書、306ページ)するものであるとされ、乗用車産業を中核に形成された地域産業集積の今後そのものを、乗用車産業の展望を核に議論しようとするものであると言える。その意味で、かつての乗用車生産を軸にした繁栄がかなり変化してしまった、三菱自動車水島工場を中核とする産業集積ないしは集積地域への関心は弱いのかもしれない。

本書の目次
はしがき
序章 構造不況業種化しようとする中国地方の自動車産業
第1部 中核企業の視点
第1章     中核企業の競争力形成史 −技術選択と提携による資源補完−
第2章     国内部品調達 −系列の選抜と系列外への依存−
第3章     海外部品調達 −海外拠点での系列取引の再現性−
補論1 群馬県太田市の自動車産業 
−SUBARU(スバル)の生産システム、部品調達における磁場部品企業の役割−
第2部 部品企業の視点
第4章     地場協力会組織の比較 −マツダと三菱自の系列取引構造−
第5章     山陰企業の自動車部品事業への参画
第6章     独立系部品企業との取引関係 −自動車タイヤの事例−
補論2 瀬戸内海対岸(四国北部)工業地域の自動車産業への包摂可能性
第3部 支援機関の視点
第7章     地域における産業集積力強化に向けた産学官連携の展開
第8章     中国地方の自動車産業集積と地域金融機関
第9章     オール広島体制の到達点と課題
 −支援企業・機関から見たマツダ「モノ造り革新」−
終章 中国地方自動車産業に内在する3つの問題性
補論3 先行研究の検討

*本書への最大の疑問は、現代の日本国内の機械工業関連の産業集積の発展展望を考えるとき、乗用車産業を核とする産業集積の発展展望が存在可能とすることが妥当かどうか、ということである。本書は、世界的な意味での有力企業の本社開発機能が集中する、中京地区と関東地区の乗用車産業集積においてだけではなく、それ以外の産業集積においても、乗用車産業を核とする産業集積が、地域産業集積として発展展望を持つ可能性が存在するという考え方に立って議論を展開している。この点の妥当性に疑問を感じるのである。
 乗用車生産がEV等、1台当たりでみて、より部品点数が少ない車両の生産に変わり、既存の機械加工関連業務が極端に減少する可能性が、ますます濃厚になっている。その中で、乗用車の日本国内需要は、減少する可能性はあるとしても、拡大する見通しはほとんど存在しない。このような状況下、中京と関東以外の乗用車産業関連産業集積にとって、既存の産業集積地域で、どのような形で当該地域内の乗用車の生産量を増やし、地域の雇用や所得の拡大に結びつける可能性が存在するのであろうか。
 既存の内燃機関中心の乗用車生産についても、主要需要地域でかつ成長可能市場である中国(良くてそれに北米・EU)市場とASEAN市場等の新興市場を目指して立地展開する以外、産業集積発展の展望は見えないであろう。国内需要は頭打ちで輸出の急増が展望されにくい日本国内生産、このような需要に依存し、かつ同時に生産性を高めていかなければならない量産型乗用車生産で、国内既存産業集積がいかにして集積規模としての発展展望を持つことができるというのであろうか。私には理解できなかった。
確かに、補論1で紹介されているように、スバルは例外的に2010年代に入って輸出台数を増やすことで群馬県内の国内工場での生産を急拡大した。そのスバルでさえも、北米での海外生産が急激に拡大することで、北米市場向け輸出中心の国内生産の拡大は近年完全に停滞し、縮小に転じているようにも見える(本書、134ページ、図補16を参照)。
しかも、中国地方の既存産業集積について、この点を考えるということは、安定した国内需要を、中国地方の2メーカーが、中京地区と関東地区のメーカーに対し、より多く確保することができる、それもかなり安定的に拡大できるということを意味している。残念ながら、このような可能性を示唆するものとして、中国地方立地の完成車メーカーの競争優位を示す議論は、本書の中にも、全く存在していない。

*上記のこととも関連するのであるが、本書を読んで、私の立場から最も気になった点は、三菱自動車水島製作所の協力工場からなる協同組合、ウイングバレー協同組合のメンバー企業の動向である。しかも、第4章でのマツダと三菱自動車の協力会メンバー企業の扱いで、三菱自動車の協力会メンバーを中心とするウイングバレーのメンバー企業は4社程度は三菱の比重が依然として高いが、「それ以外の加盟企業は概ね三菱自依存度を3割以下まで下げてきている」(本書、178ページ)と述べている。しかも、議論はそこで止まっている。
 私たちが調査した1990年代後半では、ウイングバレー協同組合のメンバー企業は、三菱自動車への依存を減らすべく多角化努力をしても、なかなかそれが実らず、依然として三菱自動車への圧倒的な依存状況にあった。それが2000年代に入って、三菱離れが結果的には生じている、ということになる。私が知りたいのは、その三菱離れは、他産業分野への多角化で実現し、企業としての成長を維持している中での依存度低下なのか、それとも三菱自動車への依存の低下が企業の衰退につながり、それ以上に三菱自動車への依存が低まり依存度低下となったのか、この点である。しかし、本書はこの点については、全く触れていない。
 その理由は、本書の関心が、地方自動車産業としての産業集積の維持発展にあるからであろう。マツダの関連企業は、マツダ本体の持ち直しを通して、関連企業としてマツダ依存の状況を維持していることが報告されている。広島を中心にいかにマツダを核とした産業集積を維持発展させるかが、本書の中国地方での乗用車産業を軸とした地域産業振興につながる議論の中核となっている。
 しかし、私の視点から、すなわち地域産業集積の展開発展さらには振興そのものの視点からいえば、海外生産化が進展し、国内生産が何れにしても頭打ちとなっている(この点は本書も認めている点であるが)国内乗用車生産を軸に地域産業振興を考えるよりも、国内生産が拡大基調にある多様な(産業)機械工業とのつながりの中で、地域産業振興を考えた方が、より長期の発展展望を国内地域としては持ちうると思うのであるが。

*より具体的な集積内容についても、本書での議論の設定に疑問を感じる。議論の出発点の基本的認識としては、中京地区や関東地区の乗用車産業関連産業集積と、広島や岡山の乗用車関連産業集積とでは、その業務内容の地域内立地の状況、特に系列化された協力工場の業務内容の幅に大きな差異が存在するとしている。特に、電装品等の完成部品については、中国地方にはほとんど集積内立地していないことが確認されている。すなわち、近接立地する関連サプライヤの業務内容に地域間で大きな差異が存在することが認識されている。
しかし、具体的に分析の中では、そのことが持つ意味が、事実上無視されている。乗用車産業関連集積として、集積間に差異がないが如く議論が展開されている。私が見てきた岡山県水島の三菱自動車製作所関連の近接立地の協力工場企業は、バルキーで製品単価の割に輸送コストがかかる部品の加工を、発注側完成車メーカーの仕様に従って生産する、機械関連加工サービス企業群というべき企業群であった。自社で製品を開発するような自動車部品メーカー(例え、発注側大企業が基本的仕様を指定するとしても、部品の詳細設計等は自社で行うような部品メーカー)ではなく、発注側の設計図に従い加工サービスを提供する企業群、いわゆる貸与図メーカー、それも特定加工を中心とする「メーカー」である。私から見れば、それらの企業は、部品メーカーではなく、プレス加工や切削加工を中心とする加工サービス企業である。
 これらの企業群、加工サービス提供企業群と、デンソーやアイシンといったグローバルに展開するトヨタ系の完成部品メーカー群とを同列に見ることは、産業集積内近接立地の根拠を異にする企業群を、同一理由で近接立地していると見誤ることとなる。歴史的経緯でデンソーは中京地区に開発拠点があるのであり、その市場はグローバルに展開し、各国市場単位に生産工場展開をしている。たまたま出自がトヨタの1工場にあるということが、トヨタ系の完成部品メーカーとされる所以であり、完成車工場ごとに生産工場を近接立地させる必要性がない業務内容の企業と言える。
 それに対して、ボディパネルのプレス加工等の加工サービスを提供する企業は、その業務の性格から、生産工場を完成車組立工場に近接立地させる必要がある。だからこそ、広島でも岡山でもそのタイプの企業群は狭い産業集積内に工場立地しているのである。水島の場合は、系列外大手企業の分工場という形での立地も存在し、集積内立地工場即当該完成車メーカーの系列協力企業とは言えない状況でもあった。業務内容での近接立地の必要性が、これらの企業の工場を集積させるのである。歴史的経緯で近接立地していることになった部品メーカーとは、その立地根拠が異なる。
 今、乗用車のEV化の可能性が濃くなっているが、それ以前に乗用車部品の電子化が急激に進んでいる。これらの電子化を担っている乗用車部品の生産は、他の電子製品用部品と同様に、完成車組立工場に近接立地する必要性は小さい。多くの場合、自社の生産工場立地に最適な立地を選択し、規模の経済性を実現し、そこから世界中に供給することになる。乗用車部品生産及びそれに関わる各加工サービス等の機能を担う工場が、完成車組立工場に近接立地する場合が多かったのは、個別の生産機能における近接立地することの経済的利益ゆえであり、乗用車生産ゆえの状況ではない。本書でも第6章で乗用車組立工場の立地とは関係なく立地している自動車タイヤ工場の例を取り上げ、この点を事実上示している。
 量産型の乗用車生産が乗用車生産であるがゆえに、産業集積を形成すると考えるならば、それは間違いである。それぞれの生産機能が、経済的利益の関連で、近接立地したり、独自最適立地を選択しているのである。たまたま乗用車生産はバルキーな部品の加工が多く、その割に単価が低かったがゆえに、完成車生産工場に近接立地することに経済的利益を見出す生産機能が多かった。その結果として完成車生産の国内での分工場建設の際にも、周辺に関連企業の工場立地が見られ、新規の産業集積が形成されることとなったのである。
 かつて、量産型家電製品の生産においては、関連産業工場の近接立地が存在し、日立地域の日立製作所が代表したように、日本国内に多数の産業集積が形成されていた。しかし、今最大の量産家電製品であるスマートフォンの完成品生産の多くは、EMSによって最終組立は担われている。そこでは、完成品組立工場が、関連部品産業等の工場群からなる産業集積を形成することなく、労働力を確保しやすい立地を求め、独自に立地展開している。関連部材は、近隣で生産されることなく、世界中から調達されている。
乗用車のEV化は、今以上に量産電子機器の生産と同様に、グローバルな広がりの中での部品調達という部分が大きくなることが予想される。結果、乗用車組立工場が立地しても、EMSの立地がそうであるように、その周辺に関連部品生産企業を従来のような規模で立地させることは、限定的であろう。乗用車生産における産業集積の意味が大きく変わる可能性を与えるのが、乗用車のEV化でもある。そのEV化が、大気汚染の問題とも関連して、世界最大市場の中国やそれに次ぐようなEU市場で差し迫っているのが、今の乗用車産業である。とするならば、既存の乗用車組立工場を核に地域産業集積の発展を通して地域の経済発展を展望する、ということには、大きな疑問を感じざるをえない。
ちなみに、本書でも、鳥取県の乗用車部品関連へと電機部品製造から転換した中小企業の多くは、取引先は山陽のマツダや三菱自動車関連の工場ではなく、近畿等の企業からの受注開拓で転換可能となったことが紹介されている(第5章 山陰企業の自動車部品事業への参画 4. 鳥取県自動車部品企業の事例)。すなわち、そこでは、産業集積の地理的拡大、すなわち山陽地域の乗用車工場からの受注開拓の結果としての自動車関連部品企業への転換として、鳥取県立地の旧電機部品企業の乗用車部品関連産業への参入は描かれていない。立地は、地理的により自由であり、日本全体を前提にした、より広域的な調達が、旧電機部品関連企業の乗用車部品関連への進出では前提されていることが、事例からは示唆されている。
ちなみに、本書の終章の最後のパラグラフで結論的に述べられていることは、本書のスタンスを象徴するものと言える。そこでは「本書は地域自動車産業論というカテゴリーを標榜し、あくまで中国地方という限定された地域経済の再生産に寄与しうる実践的な議論を試みてきた。しかしながら最終的に建設的な提案に至らなかった点もある。その最たるものは、労働集約的でありながら競争力のある国内量産工場のあり方を検討し、その維持・存続に向けて具体的かつ実践的な手法の提示にまで及ばなかったことである」とし、「人口減少が進む地方においては優秀な技能職や技術者を地方に留めることが最重要な課題であると主張したことまでが本書の到達点」(本書、302ページ)としている。
ここから見えてくるのは、地域産業集積を形成してきた乗用車産業のあり方それ自体についての大きな変化は、問題にする必要がなく、産業集積の必要性を前提に人材の問題を考える必要がある、ということになる。EV化等を通して、乗用車生産での地域集積する必要性が極めて低下する可能性を、本書は全く見ていないと言える。それで良いのであろうか。

ただ、この議論、乗用車産業の日本国内の既存産業集積の顕著な縮小の可能性については、私自身は、輸出部分がほぼ全面的に海外生産化することを通してすぐにも生じると、前世紀末から主張してきた。しかし、実際には、それほど急激な海外生産化は生じず、国内生産の縮小はそれほどでもなかった。私の読みは、大きく外れた。それが本書のような議論が2010年代においても可能となっている理由といえる。

その意味では、私の議論としては、輸出部分の全面的海外生産化の可能性とその影響という議論が、EV化の影響という議論に変わったとも言える。今回は、どちらが正しいのであろうか。この点についての結論は、近々出ると私には思えるのだが。

2019年8月14日水曜日

8月14日15日 我が家の鯉とエントランスの花

退院し、庭の池の鯉の世話を始めました。
入院中も、妻が世話を引き継いでくれたおかげで、
庭の池の鯉は、元気に泳いでいます。

餌をやるだけではなく、池の排水を利用した掃除や、
大小2つの循環ポンプからのゴミの除去、
これを一日置きくらいには、行う必要があります。

 15週間の入院中、
これを代行してくれた妻に、
感謝以外、何もありません。
私の趣味の維持に付き合ってもらい、
おかげさまで、退院後、好きな鯉の世話に復帰しています。
外には出かけられませんが、
花と鯉、この2つの世話、
私にとっては、大変、楽しい時を過ごすことができています。

15日の池の鯉

元気に泳いでいます。

 下の写真は、エントランスに置いた紫紺野牡丹、
一日花ですが、たくさんの花を咲かせています。

勝手に生えてくる高砂百合も、
可憐な花を咲かせました。

入院中、肥料も十分ではないのですが、
花々はそれなりに咲き誇っています。


2019年8月3日土曜日

8月3日 渡辺幸男の入院生活 春から夏へ

渡辺幸男の入院生活 春から夏へ
412日から7月25日の15週間

412日(金)、朝、右足が完全に麻痺していたので、
その週の初めから通っていた近所の整形外科の医師に相談、
すぐ、東海大学医学部付属大磯病院の整形外科担当医師を紹介される。
午前11時ごろ病院につき、MRI等の検査を受け、医師の診察、
その場で、入院、午後7時からの手術が決まる。
全ての手配、その日の午後に手術を控えていた医師自身が、
その場で行ってくれた。そして午後7時からの3時間半の手術。
結果は、当初の診断、腰椎硬膜外血腫のため3週間入院から、
骨髄炎、8週間絶対安静に。

4月19日(6人部屋時代)
個室の空きがなく、大部屋にとりあえず入る。

点滴をはじめ、酸素吸入、心電図モニター、酸素モニター、
脚の電動マッサージ器、氷枕、脚の包帯、そして導尿、
いろいろ身体中につけて、
30度以上起き上がれない、寝たきり状況。

4月24
約1週間後、個室に移動した。
依然、30度以上に起き上がることができない寝たきり状態。

点滴の薬の量が多少減ったけれど、
点滴と心電図モニターをつけ、
30度以上起き上がれず、
導尿をつけ、3度の食事、シモの世話、
全て看護師さんや妻頼みの状況。
6人部屋では、眼科の手術をうけ数日で退院の自由に動ける患者から、
私のような、寝たきり、自分では何もできない患者までが一緒、
最初こそ、熱にうなされるような状況で、周りを気にする余裕はなかったが、
数日で、周囲が気になり始めた。個室に移り、ホッとした。
個室に移り、部屋の窓の外を眺めることもできるようになる。

4月25日、
大磯の丘陵地帯が、本格的な緑の季節を迎えていた。
7月の退院まで、緑が濃くなるのを実感しながら過ごす。



30度以上起き上がれないということが意味することは、
部屋から検査等で他の階に移動するときは、ベッドに寝たまま、
天井を見ながら移動することになる。
緊急入院、即手術の私は、
手術以前に、外来として東海大学大磯病院に通ったことがないまま、
ベッドに横たわっただけの生活となり、
自分のいる部屋の位置どころか、
大磯病院がどのような構造になっているのか、全くわからないで、
8週間を過ごすこととなった。
病院には、当然のことながら、多様な方が入院している。
夜中に怒鳴りはじめる人、昼間、大きな声で話し続ける人、
色々あり、気になることもあったが、
私自身はよく眠れた。病ゆえなのであろうか。

52
病室で迎えた連休、
相変わらず寝たきりで、時々検査で部屋を出るが、
部屋を出るときは、
ベッドに寝たまま、廊下の天井を見ながら、
ベッド用のエレベーターに乗せられ、
別の階のMRI等の検査室まで運ばれる。


時間だけはたっぷりあり、
頭は動いていたので、
いつも以上に、FTや専門書をじっくり読むことができた。

寝ながらのパソコン作業が可能なように、
子供達に頼み、寝ながら使えるパソコン台を調達、
これは、大変、重宝した。


子供達に頼んで、Wi-Fi用のルーターもレンタルで調達してもらい、
パソコンとスマートフォンで自由にネットが使えるようになる。
定額レンタルなので、使用料を気にせず使えた。
結果、快適なネット環境になった。
ネットが使えると、本の注文、雑用の連絡等々、世界が広くなり、
とりあえず、関係者に迷惑をかけないで済むようになった。


我が家の花々
育てていた私が入院、しかし、妻の水やりのおかげもあり、
我が家の庭では、季節季節の花が、
結構豪華に咲いた。
上は花盛りのノースポール、下は姫甘草の花盛り



普段、プランターへの水やりと、池の鯉の世話、
そして、メダカの世話、
これに家の前の掃除や分別ゴミの集積所への運搬等が、
私の趣味と家事担当であった。
それが、全て妻の負担となり、
手を広げすぎた花と魚の面倒、半端ではない負担を妻にかけた。
感謝、感謝、以外ない。
全て枯れ、死んでも仕方ないと思ったが、
妻のおかげで、今、家に戻り、徐々にまた世話ができるようになった。
趣味の世界に、少しずつ戻れている。
これも、妻のおかげ以外の何物でもない。


6月7日
ついに30度以下で寝続けることから解放され、
起き上がり食事をする、車椅子に乗る、
といったことが許されるようになった。
ただ、車椅子も介助者が必要で、勝手に乗ることはできず、
ナースコールを押し、助けてもらってだが、トイレ等にも行くことが、
可能となった。


自分の手で食事を摂ることが、
8週間ぶりに可能となった。同じ病院食でも、味が変わる。
とは言っても、病院食、おかげさまで最初の数日以外は美味しくいただき、
完食し続けた。


6月21
車椅子での移動のみから、歩行器使用が認められた。
車椅子は病棟内であれば、自立、勝手に移動可能、
トイレも介助者無しで、自分一人で行けるように。
歩行器は介助付き、看護師さんに見てもらいながらの
歩行練習に。


勝手にトイレに行ける、
こんなことができるようになるだけで、気分は大きく変わる。
ナースコールを押すことが、ようやく少なくなる。


611日に町役場の担当者が見え、
私の介護認定の為の面接を行なった。
大きな声、ゆっくりした声での問いかけに、
私としては、当初、極めて戸惑った。
同時に自分の今の立場を、多少理解することとなった。



結果は、要介護3、私にとっては、青天の霹靂といった気分。
自分で身の回りのことができない、という認定であった。
確かに611日時点では車椅子に座るだけの生活であり、
仕方がないといえば、しかたがないが。
次回の認定時には、要支援レベルとなることを期待している。


78
リハビリの成果もあり、
車椅子では、病院内、コンビニも含め、どこでも自分で移動可能に、
フロアの異なるリハビリ室にも、
自分で勝手にエレベーターを使っていけるようになる。
また、歩行器での歩行練習も同じ病棟内であれば、
自分で勝手に、看護師さんの見守りを必要としないで、可能となる。


歩行器を使っての自主トレ、病棟の廊下を使って何往復も繰り返した。


杖歩行の練習を本格的に始め、
かなりしっかり歩けるようになったことで、
マイ介護履とマイ杖を購入した。
この杖は、現在は外出用に使用しているが、
先が太めの杖で、少し重い杖、
今、室内用に使っている杖は、もう少し細めで軽い。


この介護履
左右のサイズが違う。片足ずつの購入で、色を揃えた。
右足にはアンクル装具をつけるので、ひとまわり大きなサイズにした。
不揃いの履たち。


713
連休の間、一時帰宅がすることが許された。
久しぶりにポロシャツを着た。
パジャマでないものを着たのは3ヶ月ぶり。
入院して3ヶ月、その前に髪をカットしたのは3月くらいだったので、
4ヶ月間、伸ばしっぱなしの髪の毛、こんな形になった。
一時帰宅で美容院に行き、カットしてもらったが、
このまま伸ばしたら、とも美容師の方に言われたが・・・・


自分としては、やはり以前の自分に戻りたい気持ちがあり、
長髪もお茶の水博士みたいで、それなりに魅力的に感じたが、
入院前の髪型にしてもらった。


725
ついに退院の日が来た。
やはり、とても嬉しかった。
入院即手術から15週間が経っていた。
主治医の医師、担当の看護師の皆さん、
お世話になった方々から、異口同音に、
退院といっても自宅療養で、完治ではないので、
勘違いしないように、と散々釘を刺されたが。


退院後、起きているときは、コルセットをし、
右足の痺れが残っているため、杖歩行、それもかなり慎重な歩行、
筋トレで右脚、右腰の力をつけ、足のしびれをカバーする努力、
毎日、それなりに室内歩行、また、妻の運転で買い物に行き、
ショッピングカートに掴まり歩行、これにはほとんど不自然さを感じない。
これが、今の状況。
秋には、多摩川を越え、研究会等へ出席
これが、今の目標。