ここ数年、ブログに書いてきた小論を、整理して見たくなりました。以下が、それを「覚書 現代資本主義における産業発展研究の諸論点」としてまとめたものです。ここには、「はじめに」、「目次」と「おわりに」のみを文書として掲載し、本文は、URLとしてアップしました。アップした先のアドレスは「おわりに」の後に一覧として付記しました。全文のものと、各章節ごとのものとがあります。関心のある部分について、一部でもご覧いただけたらと思います。さらに、コメント等を寄せていただけたら、これに越したことはないと思います。
なお、ブログに書いた時の気分で、自分についての表現が「私」であったり「筆者」であったりしています。その他、1つの著作と見ると奇妙なものもあり、これまで、論文をまとめて、出版社から著作として出す時、いかに私が編集者の手を煩わせていたかを、痛感しました。ここでは、編集者として表現を統一する等の努力を全くしていませんので、ご了承ください。
覚書 現代資本主義における産業発展研究の諸論点
渡辺幸男
はじめに
本覚書は、私がここ数年書きため、ブログに掲載した覚書のうちから、「現代資本主義における産業発展研究の諸論点」に関わるものと考えたものを抜き出し、多少の修正を加えてまとめたものである。
ブログに掲載した年次順とは関係なく、視点ごとに整理して章構成を行なった。私が近年関心を持ってきたテーマは、現代の産業発展・工業発展と工業企業の発展をどのように考えるべきか、特にグローバル化が進展していると言われる中で、後発工業化国での工業発展を、どのように把握したらよいか、ということである。自らは全く実態調査研究を行わなくなった中で、他の方々の書かれた調査研究や新聞記事等を叩き台に、自らの意見をまとめたものである。
これまで中小企業を中心に産業・工業の展開を追いかけ、その展開の論理を日本と中国の現状を中心に解明しようとしてきた。しかし、そのような自らの実態調査研究を、相対化し、全体としての工業発展の中に位置付けたくなり、既存の研究を少しはフォローしてみた。そこから、いくつかの既存の工業発展の理論に対し、かなりの違和感を感じた。それらのことを含め、感じたことを、自らのかつての経験と対比しながら、ある意味、素直に勝手な意見として述べたのが、以下の覚書である。なお、各節ごとに書いたものであり、その都度ブログに掲載したものがほとんどである。そのため、内容的に重複するところや自分自身の表現にもばらつきがあるが、改めて整理をするのがきついので、ほぼそのままの形でまとめた。
この覚書の基本的主張は、国民経済単位で工業の発展を考えることは、現代においては、グローバル化が進展した現代経済においては、極めて限定的な少数の国民経済についてのみ可能である、ということである。工業化についての既存の議論は、「雁行形態論」に始まり、「ルイスの転換点」、そして「中所得国の罠」といった概念を念頭において展開されている。しかし、これらの概念は、いずれも国民経済単位の産業発展、工業化、工業企業発展を念頭においていることは明確である。それが妥当かどうか、現代の国民経済の多くに妥当かどうか、これが私にとっては、極めて疑問に思えてきたのである。
確かに、中国経済の工業化については、中国国民経済単位の議論が可能であると思われる。私自身、そのようなことを前提に議論をしてきた。しかし、ブラジルのエンブラエル社のリージョナルジェット機メーカーとしてのフロントランナー化の事実に遭遇した時、これをブラジル経済の国民経済としての先進工業化の一表現として位置付けることはできなかった。しかし、エンブラエル社が三菱航空機等の先を越し、リージョナルジェットと言う先端工業分野で、カナダのボンバルディア社とともにフロントランナーになっていると言うことは確かである。これが可能なのが現代工業である。そのような工業現象をどのように位置づけるかは、既存の国民経済単位の工業化論では不可能であると考えた。
いまひとつは、本格的な工業発展、先進工業化への中核的課題であるイノベーション、これがどのような状況で社会的現象として生じるのか、この点についての理解の、既存のいくつかの議論と私とのズレである。私にとっては、イノベーションの簇生は、市場環境と企業家・起業主体の存在を中心に、その可能性が議論可能となるものと認識される。国民経済として必要だから、特定の政策を通して簇生可能というものではない。しかし、私が見たいくつかの研究書の中には、中所得国の罠を脱するにはイノベーションが必要であり、そのための経済政策を先行事例から学ぶことで、イノベーションが実現可能であると考えていると理解されるものがあった。当該経済の発展のあり方、中所得国に達した過程のあり方を抜きに、労働力不足と所得水準を前提に経済政策を通してイノベーションの簇生が可能であるかのような認識であった。私には理解不能な発想であり、改めて、どのような市場環境下で、誰によってイノベーションが生み出されるのか、この点を考え直すことが不可欠と感じた次第である。
さらに、グローバル化が進展している中で、米国と中国の国民経済市場は、依然として自立的国民経済として把握可能な側面を保有している数少ない国民経済である。ただし、その性格はかなり異なり、新たな産業展開にとっての意味も異なる。この点も想像的に展開、検討した。
覚書の内容
序章 現代資本主義における工業生産グローバル化とその意味
− 工業企業・産業の発展の国民経済枠からの把握を超えて –
第1章 方法的論点
第1節 事例を通しての渡辺幸男の実態調査研究の方法
第2節 後発工業化国での産業発展に関する方法をめぐって 1
第3節 後発工業化国での産業発展に関する方法をめぐって 2
第2章 グローバル市場時代における後発工業化国製造業・企業の発展をどう見るべきか
第3章 グローバル生産体制とファブレス企業
第1節 岸本千佳司『台湾半導体企業の競争戦略 戦略の進化と能力構築』
日本評論社、2017年 を読んで
第2節 Financial Times記事*でのインドスマホ市場の動向紹介と、
その動向が持つグローバルな社会的分業への示唆
第4章 ファブレス化の論理
第1節 ファブレスと受託生産企業への分化の論理
—ニットメーカーの受託生産企業化を通して—
第2節 ファブレス化の進展する半導体産業の社会的分業の理解
第5章 もう1つのグローバル市場とグローバル生産
第1節 もう1つのグローバル市場の事例
第2節 もう1つのグローバル生産体制の事例
第6章 後発工業化国の工業企業の先進化への道
第1節 後発工業化国の工業企業のフロントランナー化と「中所得国の罠」
第2節 日本での産業発展とルイスの転換点
第3節 後発工業化地域対し日本での分工場立地が示唆するもの
— 2000年代前半の東北地域機械工業調査の含意 —
第7章 現代の巨大国民市場の意味
第1節 乗用車のAI化・EV化と乗用車産業変化の方向性
第2節 中国の巨大市場が意味するもの
日経:中山淳史「中国からやってくる「規格」」
FT:B. Bland‘China face scan start-ups capture a lead’を読んで
補節 日経:中村裕「中国CATL 首位疾走」を読んで
おわりに
本稿は、ここ3年ほどの間に書き、ブログに掲載した私のノートを多少整理し、並べてみることで、私が何を言いたかったのか自ら確かめるためにまとめた覚書集である。
改めて整理してみると、基本的に言いたかったことは、産業発展は、市場のあり方と企業の競争状況によって、決まると私は考えているということ、このことに尽きていると再確認された。議論の素材は、いくつかの著作と日経・FT・朝日といった新聞の記事である。それらは、自ら取り上げたかったものであり、勝手に私の視点から紹介し、コメントしながらも、専ら自らの主張を述べている。
覚書集で結果的に述べていることを、もう少し詳しく述べれば、現代の産業発展でのグローバル化、市場としてサプライシステムとしての双方のグローバル化を前提に見ていく必要があること。これが第一であろう。そのことは、一方で、自ら立地する国民経済内の産業基盤を使用しなくとも、個別企業として先端工業企業化しうるということを意味する。
また、他方で、国民経済全体として先進工業化を実現するには、従来の発想では不可能である、ということも意味する。同時に、現代でも先進工業での規模の経済性を実現でき、かつ競争的な市場を提供可能な国民経済市場が少数だが存在する、ということも言いたかったことの1つである。すなわち、米国と並んで中国がその現代では例外的なそのような規模の国民経済市場であること、しかも米国以上に競争的であること、これらのことも主張したかったことである。
逆に言えば、日系企業等にとっては、今後の先進工業としての位置を維持するためには、米国市場と並んで中国市場の動向を注視し、それを踏まえて自らの戦略を立てることが不可欠だということも、言いたかったことになる。ましてや後進工業化国の企業にとっては、グローバル市場での競争力を持つためには、少なくとも中国とか米国とかの市場で、一定の競争力を持たなければ、グローバル企業としての展望も開けないことを意味している。
ただし、グローバル市場には、米欧先進工業国が築いてきたグローバル市場とともに、2000年代になり中国企業が開拓した、もう1つのグローバル市場も存在する。そこでは、市場競争の中心が、まずは低価格であることにあり、その上で、各カスタマのニーズにどのように対応するか、このような市場の中には、20世紀までは欧州の古着によってしか充足されていなかったアフリカの衣料市場のような市場も含まれる。また、この市場への供給者としては、タイの先進工業国外資系企業主導の工業化と言ったようなものとは異なる、中国系企業主導のベトナムでの農村部小零細工業企業といったものも組み込まれている。
このような発想で、現代の産業発展を考える私にとっては、産業政策論レベルのみで有効な政策と言いうるといった発想は、評価しようがない。また、国民経済の枠組みを前提に考える、雁行形態論のような産業発展の可能性も理解の外である。さらに、後発工業化国共通に中所得国の罠があるとか、労働力不足はルイスの転換点として共通の課題となるだけではなく、各国共通の状況として理解され、共通の対応が政策的に可能である、といったことは、理論先行の見解であり、産業発展の論理を理解しない見解ということになる。
いわば、国民経済幻想、マクロ経済幻想、経済政策万能幻想という3つの幻想の虜になっている研究者の方々がおられるように思われる。国民経済は、産業・工業発展単位・場としては、現代では、グロバール経済の中で、特異な場合のみ存立可能な存在である。当然のことながら、マクロ経済の数字は現象の結果を表現するもので、そこに至る経過や今後の展開可能な内容の論理を示すものではない。言い方を変えれば、必要条件を示していたとしても十分条件とはほぼ関係ない数字である。しかし、マクロの数字で見る限り、どのような経過をたどった経済も同じ状況にあるように見てしまう議論が、世の中には存在していることを知った。マクロ経済幻想たる所以である。さらに、経済政策は喉の乾いた馬を、川辺に導くことで水を飲ますことはできても、喉の乾いていない馬に水を飲ますことはできない。政策が施行される場である当該経済の具体的な状況を無視して、マクロの数字にもっぱら依存するだけを前提に経済政策として評価し、そこから得られるベストな政策など存在しない。
いずれも幻想であると言えるが、その幻想たる理由は様々である。ただ、その背景は共通である。既存の先進工業化国民経済から抽出されたある種の理論の当て嵌めから考え始めていることにある。
あるいは、誘致工場ないしはFDIは、誘致工場・FDIであるがゆえに環境が変われば転出する存在であり、誘致した地域の工業発展にはなんら意味を持つものを残さないといった議論も、マクロ経済幻想の裏返しとしてであるが、これまた抽象的な論理から導かれた蓋然性の議論に過ぎないと言える。私が見てきた東北の誘致工場のその後から見えてきたのは、そのようなタイプの工場でも工場の性格次第で、環境変化への各工場の対応が蓋然性の高い方向とは異なる可能性が存在するということであり、少数であるが地域の工業発展をその後も担う可能性を持つ誘致工場も存在した、ということである。既存の議論からの推論のみの当て嵌めの怖さを、ここでも実感した。
当該企業、当該地域経済が置かれた市場環境と競争環境を具体的に検討しそれを踏まえることを通してのみ、当該企業にとって、当該地域経済にとって有効な方向性が示唆され、そこから有効性を持ちうる可能性を持つ政策が導かれると言いたい。
以上のようなことが、ここ数年考えてきたことである、ということを、この覚書集をまとめることで再度確認できた。
覚書のアドレス
覚書2018年7月全文章一体化 アドレス
https://drive.google.com/file/d/1jNh73XXpteUNf1LjJf-7swh_Gy9GTY-n/view?usp=sharing
https://drive.google.com/file/d/1jNh73XXpteUNf1LjJf-7swh_Gy9GTY-n/view?usp=sharing
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