2017年8月1日火曜日

8月1日 小論 アパレル産業から見たファブレスメーカー形成の論理

 以下の小論は、本ブログに掲載した小論の中でも、これまで以上に筆者の直接的な思いが先行した小論である。全くの空想だということではないが、聴き取り調査等を通してこれまで筆者が見てきたことを踏まえ、それを筆者なりの考えで膨らました結果が、以下の小論の内容である。本来的な「論文」には全く縁遠く、「論文」と称することはできない小論であるが、筆者が考えていることを文章化し、関心のある方に見てもらいたいと考え、あえて掲載することにした。

ファブレスメーカー形成の論理についてアパレル産業を事例に考える
        —ニットメーカーの受託生産企業化を通して—
渡辺幸男

目次
はじめに
1、      日本のアパレル産業とニット外衣メーカー
  補:五泉・見附の主要ニットメーカーの事例
2、      アパレル産業での産地ニットメーカー群の受託生産者化事例が、
     ファブレスメーカー形成に関して示唆すること
3、      アパレル産業の事例から見た
  現代機械工業のファブレスメーカー化への含意

はじめに
 筆者は、現在、機械工業企業のファブレスメーカー化の論理に関心を持っている。かつてのフォードやIBMに見られたように、企画開発と生産そして販売を同一企業内で一体的に行い、かつ主要部品の開発生産を含めた内製化、さらには主要製造装置の自社内開発といったように、開発と生産が統合された機能を垂直的にも統合し、そのことで市場支配力を形成する巨大企業が、機械工業の先端企業とみなされていたこともあった。
 しかしながら、現在では完成品メーカーとしてのアップル社や任天堂に見られるように、あるいはクアルコムやMTKといった半導体メーカーに見られるように、企画開発と販売を行うが、生産については、外部に委託するといったファブレスメーカーとしての巨大企業が目立つようになってきた。しかも、そこでは自らに必要な主要部品の開発も行うこともあるが、その場合も生産は全て委託するといったことも行われている。
 他方で、かつての受託生産企業の多くは、自立的に生産技術発展を担う自立した受託生産企業というよりも、日本の下請系列企業に多く見られたように、委託側の企業の主導のもとに、技術力的に、そして取引上劣位な従属的取引関係にあるOEM企業という形態を取っていた。生産技術的に委託側に対し受託側企業が劣るがゆえに、技術力向上、受託企業としての競争力強化のため、有力受託企業が意図的に委託側企業に従属するといったことも、日本では広く生じていた。この点は、筆者が日本の下請系列取引関係に関して、1970年代後半から1980年代にかけての実態調査研究を通し、確認したことでもあった。
 それゆえ、日本の下請系列取引関係は、垂直的統合と同様に、委託側企業の論理を受託側企業に受容させ管理することができ、なおかつ受託側は別の企業であることで、受託側企業として競争に曝すことができるという特徴を持つことになる。その結果、委託する側の企業にとって企業内部の部門と同様に利用しながら、競争圧力に曝し、かつ必要に応じて委託する側の企業に負担なく他人資本として切り離すことができる。このようなものとして、企業内に統合する場合に比して、委託する企業側にとって、極めて使い勝手の良い関係であると言える。同時に、このような関係が、高度成長期の日本の機械工業で成立したのは、生産技術的にも委託する側の企業が優位にあり、受託する企業側が生産技術面で同じ分野の企業間の競争に打ち勝つためには、委託する側の企業からの生産技術の導入がほぼ唯一の道であり、不可欠だったことによる(渡辺幸男、1997を参照)。
 それに対して、ファブレスメーカーに対峙される受託生産企業、例えばEMSの鴻海精密工業や半導体受託生産企業・ファンドリーのTSMC等は、現在では、生産技術的には委託企業側からは完全に自立し、委託側に依存するどころか、最先端の生産技術を開発導入することを通して、受託生産企業間の競争に勝ち抜き、巨大企業化している。
 かつての日本の下請系列取引関係における委託側企業が受託側企業を従属的に利用しうるがゆえに、委託生産が幅広く行われるのとは異なる論理がそこには存在することになる。その論理がどのようなものであるのか、この点を考えるヒントが、日本のアパレル産業でのファブレスメーカーと受託生産メーカーとの関係にある。のちにニット外衣製造業で見るように、日本においても、アパレル産業では委託側企業が生産技術面で優位に立つことはなく、生産技術についての主導権は受託生産企業側にあった。それにもかかわらず、形式的には下請系列取引関係と類似の生産委託と受託の関係が、ファブレスメーカーとしてのアパレルメーカーと受託生産企業としてのニットメーカーの間に存在した。この事例を通して、下請系列取引関係とは異なるファブレスメーカー化と受託生産企業化の論理を考えてみたい。
 そしてそこから、電子機器でのファブレスメーカーとEMSの群的形成の示唆するもの、また他の機械工業への含意を検討する。
 結論を先取りして言えば、ファブレスメーカー群の形成の必要条件としては、市場環境と市場での競争優位の中核的要素の特徴が問題となる。すなわち、一方で重要なのは、もっぱら製品技術のみでの競争優位を形成することが可能であり、それが競争上決定的に重要な市場環境の存在である。同時に、製品技術の変化が激しく、新製品の開発の必要性が大きく、市場それ自体の変化、市場での製品内容の変化が生じやすい市場環境が重要である。他方で、製品技術に比して、生産技術が相対的に安定し、幅広い新製品の生産に応用可能な状況も、ファブレスメーカーの生産委託先としての受託生産企業群の形成と存在にとって、重要な要素である。
 このような市場環境の重要性を念頭に、筆者が実際に調査した事例として、アパレル産業でのファブレスメーカー形成の具体的事例を、受託生産企業化したニットメーカーの側から見ていくことにする。

1、日本のアパレル産業とニット外衣メーカー
 以下では、まず筆者が実際に聴き取りを行ったアパレル産業の一部を構成する日本のニット外衣産業で、受託生産企業が、アパレル産業全体を包摂するファブレスメーカーの形成に対し、そのニット製品の生産面で支える存在として形成された状況を紹介する。そのことで、ファブレスメーカーが生まれうる環境としての受託生産企業群がどのように生じたか、これを見ていきたい。
 筆者は、ニット産業について2002年に新潟県五泉市と見附市の産地で研究仲間とともに聴き取り調査を行った。その産地調査それ自体の具体的内容は、2003年に社団法人中小企業研究センター編の著作として刊行されているので、それを参照していただきたい。そこで見てきた「ニットメーカー」は、調査時点では、その業務の中心がファブレスメーカーであるアパレルメーカーからのニット外衣の受託生産であった。また、その時点では、受託生産での展望のなさから、それらの企業の多くが、企画デザインを自ら行う「メーカー」化を目指す状況にあった。本論で問題とするのは、これらの受託生産を主としていたニットメーカーは、もともと受託生産を中心としてニットメーカーとして存立していたものではなく、かつては、自ら企画・生産し、そして地方の卸しに販売する、本来的な企画生産販売を行うニット「メーカー」であったということである。
 地方の卸を対象に自ら企画した商品、ニット外衣を製造し販売していた五泉産地や見附産地のニット「メーカー」の多くは、日本のアパレル産業がファッション化しブランド化していく過程で、企業成長について、一定の方向を選択した。それは、自らが(総合)ファッション製品の企画開発をする「メーカー」になる方向ではない。そうではなく、産地外に存在しニット外衣以外も含めたアパレル全般について企画開発を行い、アパレル製品全般のブランド化を進め、ファッション産業としてのアパレル産業の構築を主導していた「アパレルメーカー」から、ニット外衣について受託生産を行うという道である。このことで、企業成長を目指すという選択をしたのである。実際、ファッション性の高い衣料の需要が増加し、またニット外衣の需要が、ファッション性の強いブランドの構成要素として位置を高めたことで、さらにその総量が増加した。そのことで、アパレルメーカーからの受託生産は増え、ニット外衣受託生産メーカーはニット外衣産地で生産技術や部材購買、染色管理等、ニット外衣のものづくりでの中核的存在として企業成長を実現した。
 ここから見えてくることは、ファッション性の高い商品としてのアパレルについて、企画開発を行い、ブランド構築を行うことは、ニット外衣の生産をめぐる能力とは、全く異なる要素を多く含むということである。かつニット外衣の生産は、他の素材のアパレルとは異なる生産技術や関連産業を必要としている。アパレル製品全般でブランド化を実現するには、ニット外衣だけの生産では商材の幅が狭すぎる。他方で、ファッション化したアパレルブランドには、ニット外衣の品揃えが不可欠である。さらに、ニット外衣の生産設備や生産技術等は布帛とは大きく異なる独自なものである。それゆえ、アパレルメーカーからの受託生産を中心としても、それらの生産技術を軸として独自な企業発展をし、ニット外衣生産での競争優位を実現することも可能である。
 それゆえ、アパレル産業のファッション化のなかで、ブランドの一部を構成する場合が多かったニット外衣では、かつて自ら企画し生産販売していたニット「メーカー」が、アパレルメーカーとしての広範囲のアパレル分野への展開し、ファッション化に対応しアパレルメーカー化するか、ニットメーカーとして受託生産者化し、アパレルの一部だが生産技術的に独自な部分で一層の発展を追求するかの企業発展の方向性の選択を迫られた。その結果、多くのニット産地の企業は受託生産者化の道を自ら選択し、それを通して企業発展したのである。
 同時に、ニットメーカーの受託生産企業化は、特定アパレルメーカーからの受託に依存するのではなく、主要なニット製品生産受託企業は、有力ブランド各社から、幅広くニット製品部分を受託し生産し、アパレル産業の成長、そしてその中でのニット製品の比重の増大を自らの売り上げの増加へとつなげていった。この点は、以下に紹介する、新潟県五泉市や見附市の有力ニットメーカー2社の状況からも明らかである。ファブレスメーカーとしてのアパレルメーカー群の、ニット製品に関する受託生産企業群として、それぞれのニットメーカーが生産技術的に自ら得意とするニット製品を中心に多くの有力アパレルメーカーから受託生産を行う、層としてのニット製品専門受託生産企業群の形成が生じた。

補:五泉・見附の主要ニットメーカーの事例(1) 
<第一ニットマーケティング()
 関係会社に()近藤商店というニット用の糸問屋を持ち、糸を背景にした提案を強みに展開している、見附産地最大手のメンズ・レディスニットメーカーである。
 同社の前身は昭和20年代に先代の社長(現社長の父君)が、見附市で産地の商社をやっていたことに始まる。糸を中央から仕入れ、機屋に販売し、出来上がった織物を仲介して地方に売っていた。その後、自ら生産に携りたいと近藤織物という機屋を設立した。昭和40年頃の構造改善事業により、近藤織物の織物部門は第一合繊という会社に集約し、ニット部門は第一ニットとした。他方、昭和25年に産地の糸屋として近藤商店を設立した。昭和62年には近藤商店の卸問屋的な部門を切り離し、第一ニットに統合した。これによってニットに関しては製造から卸まで第一ニットがおこなうことになり、会社名を第一ニットマーケティング㈱に変更した。()近藤商店はニット糸の糸問屋となり、第一ニットマーケティング㈱の子会社になった。現在、()近藤商店は地元のニッターに糸を供給しており、供給割合は1/3が自家用、1/3は五泉地区、1/3は見附地区である。
 第一ニットマーケティング㈱の最盛期は平成34年で売上高75億円であったが、現在は26億円(平成143月期)である。従業員は198(男子79名、女子119)であり、見附市内に本社工場の他に、縫製・編立を行う3工場を所有している。
 受注先(受託生産であり、販売先ではなく、受注先が主要販売先である・・・引用者)は高級ブランド・アパレルであり、海外系高級ブランド品(山陽商会のバーバリ、レナウンのアクアスキュータムなど)の国内製造を受注している。早くから日本橋などの集散地問屋と取引が多かったこともあり、ハイクオリティを要求されている製品を生産してきた。例えば、カシミヤやカシミヤシルクなど高品質の素材のみを使用した30ゲージのインナーセーターがある。手間を掛けて編機で編むので、生地が薄くて製造が難しい。ミシンを含め特殊な製造になるので、この分野へは新規参入がしにくく、同社はファインケージでは国内有数のメーカーである。
 しかしここ数年、量産定番品の生産は中国に移ってしまい、業績・業容とも急降下した。生産数量もかつて紳士物は2,0003,000枚、多いものは1万枚であったが、今は200枚程度まで減少した。さらに、納期は受注後2ヵ月間と短期化するなど、経営環境が厳しくなってきている。同社の場合2ヶ月の内、生産にかかる時間は1ロット200枚なら、正味数日である。編立に1日、縫製に1日、仕上げに1日、検査・出荷で45日ないしは一週間でこなしている。しかし、素材の中の部品が1つ足りなかったりするなど、それが納期を延ばしている。
 現在国内に残っている生産は、多品種で小ロットかつ短納期、及びファション性のあるブランド品の製造である。ニットメーカーにもデザインなど企画・提案力が求められ、もはや何もしないでアパレルから注文が来ることは基本的に無くなった。何らかのアイディアをアパレルに提案しなければ、待っていてもアパレルから注文は来ない状況だと同社社長は言う。
 そこで、同社では糸を一つの軸として受注先に提案をしている。同社は糸を近藤商店に発注している。近藤商店は紡績メーカーから原料を調達し、糸の混率や太さなど特徴にオリジナル商品を持っている。そこで、第一ニットマーケティングは近藤商店と糸の開発を共同で行い、アパレルに対して糸を背景にした独自の製品提案を行っている。近藤商店と密接な関係を築くことにより、早い段階で新素材の情報が入手できるため、それに合わせてサンプルを作成し、アパレルに製品の提案をしている。また、この提案を通して受注が取れれば、安定した素材調達が可能となる。つまり、提案を通して糸の選択権をこちらに引きつけることで、素材調達の遅れが納期を遅らせることのある状況下でも、安定した生産を可能としている。
 このよう同社が高級品生産に特化するだけでなく、糸を背景に製品提案することで、差別化と生産の安定化を実現している。同社はこうした取り組みを通して、将来は生産の10%位を自社の企画・製造により、百貨店やブティクで直接販売したいという展望をもっている。

(株)ウメダニット」(布帛複合製品へのアプローチ)         
 同社は早くからニットのみならず素材に布帛を使った製品を生産し、幅広いモノ作りと品質の良さで定評のある、五泉産地の大手レディース(ミセス)ニットメーカーである。
 同社は昭和36年に設立され、当初はいわゆる産元問屋を経由してセーターなどを作っていたが、昭和42年に内外織物からニットの洋服を作りたい(立体裁断)との要請を機に、同アパレルと直接取引き(OEM)を始めることとなった。そして昭和45年、内外織物から一部資本を受け資本金を2,000万円へ増やして現在地に工場を移設し、本格的な立体裁断によるニットの洋服作りを始めた。翌々年にはこれを軌道に乗せ、ワールド、キング、グンゼ産業とも直接取引きを始めた。相反する形で、地場問屋との取引は昭和50年頃までにはなくなった。さらに増産のため昭和49年には人手不足に対応して新潟に工場を、そして昭和50年には新津に別会社を設立した。
 同社が複合製品も含めた布帛製品の生産へシフトしていったのは、取引先のニットアパレルがニット製品のみの取り扱いではやっていけなくなり、総合アパレルへの転身を図って布帛・織物製品に進出していったことが主因だ。これにより同社も昭和50年代半ば以降、培ってきたニットの洋服作りの技術をもとの布帛に適用した形で布帛製品の製造を開始し、ニットが季節商品であるがゆえに不安定だった操業を、年間を通じて安定的なものへと変えていった。昭和63年には先行していたワールドの情報を得ながらCADを導入した。売上のピークは平成3年で45億円となった。その後、売上は減少していった。
 現在、同社の売上は255千万円、利益は2億円だ。殆どがOEM生産だが、既存取引先への販売額が引き続き漸減しており、ここ45年は新規の取引先を増やしていっている。素材別製品内訳は、布帛のみの製品が70%を占め、同社を特徴づけている。なお、丸編みニットは18%で、横編みニットは12%となっている。平均型数は500型で、月産26,00030,000枚を生産する。ちなみに従業員数(新潟工場を除く)130名中60名が縫製部門に属する。新潟工場と別会社はあわせて44名中90%が縫製関係だ。さらに縫製に関しては生産量の約50%を協力工場に出すとともに、オール布帛製品の生産(縫製)についてはコストダウンの面から、平成12年に中国企業に委託を開始、昨年は全生産量の約10%に相当する量を生産している。
この布帛製品の多い同社の特長は品質の良さだ。この場合の品質とは、単に規格品として出来の良さを指すのではなく、アパレルのブランドとして顧客なり小売店が喜ぶ商品かどうかという意味合いであり(梅田社長)、裏返して言えば素材のタッチや質感など感性の部分である。それだけに同社は、1つのブランドの、高級ゾーンの、1つのグループを布帛アイテムも含めてまとめてコーディネイトしてパッケージで受注するだけの高い競争力を持つ。
これまで同社は、アパレルとの関係において、アパレルを補完する形で相対的に自社の存在を高めてきた。アパレルサイドの企画が手薄になれば自分たちで企画し、コストを下げたいと言ってくれば我々は中国へ出ますというふうに、あくまでアパレルをサポートしている。このようにアパレルからのOEM生産を大事にする気持ちは、同社のポリシーとして、ボリューム的に社内生産能力を上回るものは外注に出すことはあっても、設備等の面から社内でできないモノは一切受けないというところにも現れている。アパレルがメーカーに発注する際の基準である品質、納期、価格のいずれにも責任を持てないのだろう。
なお、OEM製品生産に際しては、布帛の生地は基本的にはアパレルからの有償支給だが、ニット糸の有償支給の割合は全体の10%以下だ。同社企画による糸は年間約40tになる。自分たちの提案に係わる素材(=糸)にこだわるのは、在庫リスクを負うにもかかわらず自分たちが管理することにより、糸の背景や染工場のデリバリーを把握することができ、早くから原材料を協力工場に投入することにより他社より早いスタートが切れると同時に、コスト的なメリットや製品の安定、生産のコントロールなどが図られ、有利な競争につながるためだ。ここに提案力の強さが見て取れる。この糸の染色については、地元の共同精錬染色工業(ちなみに社長は同社の会長)と村松の染工場を活用している。
また、提案力に直結する同社のデザイナー起用法はユニークで効果的だ。これまでの付き合いから同社の設備や人材など現場を知り、第三者的な目で同社の強み等をアドバイスできる元アパレルのデザイナーを8年がかりで探し出し、同社の企画責任者と実際にモノ作りを一緒にさせるほか、アパレルへの提案に際し強い説得力で同社案をサポートさせている。なお、同社の企画関係のスタッフは1415名だ。
同社は、今後の展開として、コストダウンを目的に進出した中国での生産は、労働力の確保の面から、またアパレルからの中国生産を前提とした低価格商品の製造依頼により、中期的には増大して行かざるを得ないが、ロットの小さく要求水準の高い商品は国外に出にくいため、提案により付加価値を上げることが益々重要と考えている。しかし、今後の活路を小売部門へ自ら進むという方向に求める気はない。
OEMにおける提案力強化という意味では、梅田社長は中期的な目標として、アパレルを相手に自ら自由に出し値を決定して、シリーズ的に独自なモノを作り、展示会という場で提案ができるようにすることを夢見ている。
 以上見てきたように、同社はニット製品のみの季節的生産というニッチな世界から、アパレルとともに、布帛を中心としたニット製品生産へと発想を逆転して広い世界に住み替えた企業である。これからもアパレルに対する高い企画提案力を維持しつつアパレルをサポートする形での23脚は同社のベースとなるだろう。

 以上の事例から見えてくるのは、まずは、上記のニットメーカー2社は、自ら企画し生産販売する「メーカー」であったこと、それが、アパレル産業のファッション化ブランド化の過程で、自ら企画デザインし、ブランドメーカー化することではなく、当時ファッション化をリードしていた域外のアパレル商社等の受託生産者となることを選択したということである。この選択により、国内アパレル市場が急拡大し、国内生産もそれに応じて拡大した過程では、受託生産企業として急激な企業成長を実現したのである。さらには、このような企業成長の背景には、ニット外衣の受託生産企業として、生産技術や部材調達においてこれまで蓄積してきたものを活かすことで、他の受託生産者に対し優位に立っており、ファブレスメーカーである国内の主要アパレルメーカー群からの幅広い受託を実現していた、ということがある。
 筆者の調査時点では、このようなアパレルの国内市場の急成長が終わり、かつ受託生産者として中国等の企業が存在し始めたことで、従来の国内主要アパレルメーカー群の受託生産者としての企業成長展望を維持できなくなり、さらには、企業存続さえ困難な可能性が垣間見られる状況となっていた。すなわち市場環境が大きく変わったことで、あらたな企業発展のモデルの模索を迫られ始めたところであったと言える。
 他方で、アパレル産業のファッション化、ブランド化が進行する中で、ファブレスメーカーとしてのアパレルメーカーは、企画デザインを軸に、自社ブランド等を立ち上げ、幅広くアパレル関連製造企業を委託先として確保し、布帛を中心にニット製品もブランドに組み込み、幅広い製造企業に委託し、品揃えを行なっていった。これらの企業は、単にアパレル製品の卸機能を保有するだけではなく、企画デザイン機能を保有し、自らデザインしたファッション製品を、多様な受託生産企業に生産委託することで、自らのブランド構築を実現していった。しかも、ファッション性の高いアパレル産業の特性として、新製品の開発の頻度は極めて多く、かつその当たり外れも大きく、そのリスクを負わなければならないのが、アパレルメーカーであった。そのようなアパレルメーカーにとって、多様な生産機能を自社内に保有することは、極めて経営的リスクを高めることになる。結果として、既存の「メーカー」に生産を委託することで、生産面での遊休化のリスクをカバーするとともに、特定製品への需要の急増に対処可能な柔軟な供給体制を構築する必要があった。このような市場環境の変化の中でのアパレルメーカーにとってのニーズとリスクゆえに、アパレルメーカーは、開発と販売の双方についてアパレル産業を主導する存在としてのファブレスメーカー化を選択したと言える。

2、アパレル産業での産地ニットメーカー群の受託生産者化事例が、ファブレスメーカー形成に関して示唆すること
 近年のアパレル産業では、ファッション製品の頻繁な開発とブランド化が、製品供給企業にとっては決定的に重要である。さらに、売れ筋の製品を開発し、それがヒットした場合、いかに迅速に、必要な量を供給するかが、競争上、決定的に重要である。
 他方で生産技術については、製品デザインが変更されても、基本的に必要とされる技術や工程は大きく変わることはなく、デザインに応じて裁断や縫製等のやり方を変更すれば済む。調査事例の企業の場合も、当然10年単位で見れば、生産技術に大きな変化があり、生産技術の革新は不可欠であるが、ファッション化したアパレル製品の製品開発と比べればサイクルが長く、両者の間の変化の頻度には大きな差異がある。
 またファッション化したアパレル産業では、常に新製品を供給する必要がある市場部分が大きく、新製品の当たりや外れも頻繁に生じる。なおかつ、市場全体としては、一定の大きさがあり、総量としての生産量は大きく変化しない。
 すなわち生産側に求められる需要総量は、アパレルメーカー各社それぞれからの個別需要が大きく変動する可能性が高い一方で、大きく変わることがないし、高度成長過程では順調に拡大した。それゆえ、委託する側の個別の需要の変動を、いかに生産する側が柔軟に吸収し、全体としての需要の安定的拡大を個別受託生産企業の生産の安定的拡大性に結びつけるかが、受託生産企業にとっては重要なポイントになる。
 日本の場合は、アパレルメーカーがブランド構築の下で開発設計を行い、産地メーカーはその生産を受託し、自社内の生産設備と下請企業の生産設備を利用しながら実際の生産を行い、アパレルメーカーに納入し、アパレルメーカーが自社でもって個別の新製品の販売リスクを引き受け販売している。しかも、アパレルメーカーから受託生産する産地メーカーは、自らが再発注する多くの下請企業も生産能力として活用することを通して、自らが主として取引を行なっているアパレルメーカーの販売動向によって、自らの生産設備を遊休させることもなく、産地全体の生産能力を活用することで、個別アパレルメーカーの需要急増にも迅速かつ柔軟に応じられる体制を構築している。
 なお、日本のアパレル産業では、上記のような分業生産体制が、戦後かなり広範化したが、これと異なるような方向での企業間分業形態を通して企業発展した例も生じてきている。SPAと呼ばれるものは、大手アパレル小売企業がアパレルメーカーの担当領域、すなわち企画デザインまで自社内に取り込み、直接産地メーカー等に生産委託を行う形態であり、企画開発と生産との社会的分業ということでは、旧来のアパレルメーカーと共通の性格を持っている。それに対してアパレルメーカーが直接生産に乗り出す例も存在している。もともと下着等を含めファッション性や流行性が低い衣類製品分野では、アパレル産業でも自社工場で生産する企画開発を行うメーカーが多く存在している。それに対して、ファッション性の高い外衣の分野でも企画開発を行うメーカーが自社工場で主として生産している例も存在している。広い意味での生産技術、品質管理等を含む生産技術での差別化も追求するメーカーゆえに、このような選択も存在していると見ることができよう。
 何れにしても、日本のファブレスメーカーとしてのアパレルメーカーと産地の受託生産メーカーとの関係から見えてくることは、製品技術と生産技術との変化の頻度のずれであり、委託側の個々の発注量の変化の大きさと、産業全体としての需要量の相対的安定性というずれである。少数寡占的に市場支配を実現していれば、これらのずれを企業内で吸収できることになる。しかし、特定少数企業による市場支配が存在しなければ、両者のずれを個別企業が直接引き受けることは、経営的に極めてリスクが大きいことを意味する。ここに、そもそもファブレスメーカーと受託生産企業との社会的分業を形成する志向が生じる経済学的根拠が存在すると言える。
 日本国内完結型生産体制の下で日本のアパレル産業でのファッション化・ブランド化は、まさに製品内容の頻繁な変化を意味し、生産技術面での変化とのズレが生じ、需要全体が日本での国内生産に向かう限り、アパレル産業の成長は、一方でのファブレスメーカーとしてのアパレルメーカー各社の成長と、他方での受託生産者化した産地メーカー群の成長の共存を意味した。それを必要とし可能としたのが、需要全体の成長下での製品の激しい変化と生産技術の独自の発展である。このように見ることができよう

3、アパレル産業の事例から見た現代機械工業のファブレスメーカー化への含意
 アパレル産業の事例を通して、見てきたことを一般化すれば、下記のようにまとめられよう。
 企業として主要な販売製品を頻繁な新開発製品に依存するということは、製品開発頻度の多さ、変化の激しさと、その当たり外れの大きさにより、販売量を安定化し難いし、必要な生産手段も多様となり、その使用程度も大きく変化することになる。そのような状況下では、ファブレスメーカー化することで販売量と製品内容の変化の激しさの自社経営への影響を最小限に抑えることが可能となり、新製品開発にもっぱら依存する経営が可能となる。そのような意味で、ファブレスメーカー化することが、経営上極めて有効な経営形態の選択となる。
 他方で、多様な新製品の生産について、既存生産技術での対応可能な余地が大きければ、また、生産技術が相対的に安定的な発展を示しているならば、多様な個別には変動の激しい需要が産業全体としては総量と安定的拡大することが高いことで、受託生産企業群は、群として安定した需要量を確保できる可能性が高い。
 いうならば、製品技術の激しい変化と生産技術の相対的安定性というずれの問題が、アパレル産業で見られたように、ファブレスメーカー化と受託生産企業化との社会的分業の一般化をもたらしたと言える。ただし、当該産業の高度な寡占的市場支配状況になれば、この製品技術の変化と生産技術の変化の差異や、製品の当たり外れによる個別製品の需要変動の激しさは、個別企業内で相殺されることとなる。IBMがかつて実現したことがこれに該当しよう。
 電子機械産業の先端部分、米国シリコンバレーで見られるような、製品開発型のベンチャーの簇生は、電子機械としてではあるが、様々な分野の多様な用途の機械が頻繁に開発されることを意味している。また、ベンチャーが簇生すること自体、特定少数企業による寡占的市場支配が貫徹していないことを意味する。そこでは、極めて製品的には変化が激しいが、同時に、電子機械としてその製品の生産に必要な技術は、多くの場合一定の幅の中に収まり、既存の生産技術の組み合わせで対応可能な場合が多い。まさに総需要量の増大の下で、アパレル産業と同様な新製品開発の頻発と生産技術の相対的安定性とが共存している状況が生まれた。そこから、アップル等の多くのファブレスメーカーとしてのベンチャー企業とソレクトロン等の数多くのEMSとの分業が生まれる必要性が生じたと見ることができる。この論理は半導体の開発とその生産とにも同様に当てはまるといえよう。ファンドリー形成の論理である。
 ではその他の機械工業については、どうであろうか。機械工業の多くは、IoTを通して、これまでの機械設備単体の電子化を超えて、システム全体の電子化が急激に進展している。同時に、産業用機械設備の場合には、技術的には積み重ねの場合が多く、一挙に新製品が登場し、それがファッション製品のように毎年大きく変化するといったことは生じにくい。それゆえ、ファブレスメーカー化する余地が小さいといえよう。
 他方で耐久消費財的な需要の場合、多様な新製品が開発され、その更新頻度は多く、さらには製品によっての当たり外れも大きくなる。例えば、任天堂は全くのファブレスメーカーであり、ゲーム機を開発し世界中に販売しているが、その生産は全面的に外部委託である。今回のようにゲーム機であるスイッチがヒットすれば、その増産を自社内での設備投資なしで行うことが可能となる。同時に委託先の生産能力とその増産投資次第で増産規模が決まることになる。
 また、MicrosoftXbox 360」の場合は,カナダCelestica Inc.シンガポールFlextronics International Ltd.そして台湾Wistron Corp.3(日経エレクトロニクス2005/08/18)が受託製造していたとのことである。
 このような分野では、EMSの存在を前提にファブレスメーカーによって開発が行われ、需要の増減に対し、自社の投資ではなく委託生産の増減で対処するような選択がとられがちである。ゲーム機の場合、ファブレスメーカーではないソニーのPS4の場合でもフォックスコンへの生産委託が行われているという情報もあり、変化への対応手段として、EMSへの委託は重要な位置を占めているといえよう。
 ファブレスメーカーと受託生産企業との組み合わせが機械工業で生じる可能性は高いと言える。しかし同時に、全ての機械工業が製品技術の頻繁な変更と個別需要の大きな変動を被るような分野ではない。機械工業の中の耐久消費財的な内容の市場で、製品開発が頻繁に生じ、ベンチャー等の参入の多い市場分野でこそ、ファブレスメーカーと受託生産企業との組み合わせによる製品開発と生産が生じる可能性が高い。このように見ることができよう。
 筆者にとっては、このような見方を、巨大な耐久消費財産業であるが、寡占化がグローバルに進行している乗用車産業に、どのように適用できるか、これが目下の課題である。製品技術の大きな変化が、100年単位で久しぶりに乗用車産業に生じようとしている。しかし、同時に、現状の乗用車産業は、既存巨大企業がグローバルレベルで開発生産販売を強固に把握した少数寡占産業そのものである。また、当面見えている、製品技術の大変化を機に参入を目指している企業は、ICTの巨大企業でもある。
 汎用コンピューターからパソコンへのシフトの際に生じた、企業内に開発生産の多くを包摂したIBMから、マイクロソフトやインテルといった専門化企業の形成、そしてファブレスメーカーとしてのアップル等とソレクトロン等のEMSの形成、このような過程と同様な激しい構造変化の状況が、乗用車産業にも生じるのであろうか。生じるとしたら、どのような方向あるいは内容であろうか。興味深い論点であるが、筆者には、まだ何も見えていない。

(1)  以下の2つの事例は、筆者が主査として参加した聴き取り調査の事例である(社団法人中小企業研究センター編、20032024ページ))。

参考文献
社団法人中小企業研究センター編、2003『産地縮小からの反攻 —新潟県ニットメーカーの多元・多様な挑戦—』同友館

渡辺幸男、1997『日本機械工業の社会的分業構造 階層構造・産業集積からの下請制把握』有斐閣

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