2024年8月22日木曜日

8月22日 カリマーニ著『ヴェニスのユダヤ人』を読んで

リッカルド・カリマーニ著(藤内哲也監訳・大杉淳子訳)

『ヴェニスのユダヤ人 ゲットーと地中海の500

(名古屋大学出版会、2024年) を読んで 渡辺幸男

 

 イスラエルへのハマスの反撃、そして、それへの報復としてイスラエルによるガザへの攻撃、昨年10月からの一連の動きを見て、改めてパレスチナ問題と呼ばれているものの中身を、自分なりに理解し直したいと思った。そのため、ガザを巡る現状の紹介の議論をまとめた著作から始まり、パレスチナ問題、そしてユダヤ人問題についての諸著作を読み始めた。その最新の読書対象が、このカリマーニ著の『ヴェニスのユダヤ人 ゲットーと地中海の500年』である。昨日、2週間程度かけ、本文330ページほどのこの本に、ようやく一応目を通し終わった。

 この著作は、副題にあるように、ヴェニスのゲットーですごした、多様な出自のユダヤ人の500年間の話である。ユダヤ人と言っても、イタリア半島各地のユダヤ人、ドイツ系ユダヤ人、地中海東岸地域出自のレヴァント系ユダヤ人、イベリア半島を追われた西方ユダヤ人と、多様な出自のユダヤ人が、それぞれなりの理由で、ヴェニスのゲットーにそれぞれごとにグループ化しながら棲みつき、500年の長きにわたり、全体として独自な社会をヴェニスという大都市の中で構成してきた。それ自体多様であり、数千人規模でありながら、10万人規模のヴェニスの中でも独自性を発揮し続けてきたユダヤ人とその社会、その歴史を時代時代のトピックスを踏まえながら、描いた著作である。

 1516年という16世紀初頭にヴェニスにユダヤ人ゲットーが作られてから、それが解体される18世紀末、そしてファッシストによるユダヤ人迫害が行われた第2次世界大戦期までの500年のヴェニスのユダヤ人ゲットーの歴史を描いた著作である。重い、重い著作、ユダヤ教の信者であるがゆえに、ヴェニスに代々住み着いたとしても、数百年にわたって、ナポレオン戦争で状況が変化するまで、「異邦人」としてゲットーという一種の隔離状況下で暮らし、かつヴェニスの社会・経済にとっては大きな意味を持ち続けた存在、そんなヴェニスのユダヤ人を描いている。

 

 何よりも、この著作から、私が読み取ったことは、改めて、「ユダヤ人」とはキリスト教徒が大多数を占める中のごく少数派の異教徒たるユダヤ教徒の集団、少なくともヨーロッパでは、そのような存在だということである。何故、このようなことを、改めていうのか自らに問うてみれば、「民族」というものがあるとして、そのような存在、1つの「民族」として「ユダヤ人」を把握することは、私が常識的と思うところの民族概念とは相入れないということからである。

少なくともヨーロッパでは、ユダヤ教徒がキリスト教徒に改宗すれば、「ユダヤ人」ではなくなる、ということを意味する。このような存在であることが、本書から明確に浮かび上がってくる。ユダヤ人はユダヤ教徒であるからユダヤ人、少数派宗教人であるから、圧倒的多数派のキリスト教徒から差別疎外されてきた、少なくともヨーロッパのキリスト教徒社会では。このように、この本を通して改めて確認され、理解された、私には。

その土地の多数派宗教に対する異教徒として、独自の聖典を保持し、当該地域に一般的な言語以外のそれをめぐっての独自言語をも維持し、土着した土地に一般的な言語をもしゃべりながら、ユダヤ教徒間では独自な伝統的な言語を、それぞれの土着した土地の言語との融合により、方言的な分化を遂げながらも維持している。そんな宗教集団、地中海東方地域で生まれた宗教集団が、発祥の地から離れ、地理的にはバラバラになりながら、1000年以上たっても、宗教的一体性を維持し、地中海周辺全体、そしてそこから内陸へも広がっている。広域的に分散し、地方化しながら、保持している宗教を核とし軸とする独自文化集団としての繋がりも維持している、そんなふうに理解された。

また、イベリア半島、そこにはかつてイスラム教徒が支配する社会が構築され、そこにユダヤ教徒も少数派としてだが、ユダヤ人社会として、地中海世界の商業的活動等の有力な担い手として、隔離されることなく存在していた。それが、土着していた土地であるイベリア半島が、キリスト教徒に支配されるようになり、イスラム教徒支配層が排除されただけでなく、イスラム教徒の社会でも少数派であったユダヤ教徒は、キリスト教への 改宗かイベリア半島から退去を求められ、「隠れユダヤ教徒」化した。それが「マラーノ」と呼ばれる人々であり、イベリア半島からイタリア半島へと移動し、ユダヤ教徒へと戻り、西方ユダヤ人と呼ばれたことも、新しく知ったことである。

地中海世界の、少数派宗教の人々・集団であり、それぞれの地域で圧倒的多数派を構成する、イスラム教徒やキリスト教徒ではなく、地中海世界全域に分散し、それぞれの地域でごく少数派だが、堅固な宗教的一体性を保持する宗教集団、それがユダヤ教徒であり、「ユダヤ人」ということになる。彼らは本書の例にあるように、ヴェニスに500年間住み続けていても、「ユダヤ人」であり、「イタリア人」とは、「民族的」にならない、一体化しないということであろうか。ユダヤ教の信仰を保持している限り。宗教を主たる結集の軸とした少数派人間集団、とでもいうべき存在である。

 

このような状況が生じたのは、一神教の世界ゆえなのであろうか。東アジアの世界、特に日本では、多様な宗教、その多くは多神教であるが、それらが共存的に存在し、状況に応じて各人の中でさえ使い分けられ、それぞれの状況に応じて宗教対象とされている。このような世界での「民族」そして「日本人」とは、なんであろうか。考えさせられることになる。言語的一体性ゆえであろうか。現在の米欧での「民族」、これまたよくわからなくなる。

 

「日本人」というとき、何を表象して、その人を「日本人」と我々は見なすのであろうか。両親が「日本人」というはトートロジーであろう。先祖代々多くの時を「日本」と慣習的にみなしている区域内に住んで過ごし、主たる言語として「日本語」を喋ってきた。こんな基準なのであろうか。少なくとも、そこには宗教的な一体性についての議論は、今は全く登場しない。「日本民族」となると、尚更わかりにくい。数千年の歴史でみても、日本列島には、多様な出自の人々が集団移住し、定住している。「縄文人」あるいは「弥生人」と言った形で分類することすらできないくらい多様な人々、集団が住みつき、混淆しているようである。少なくとも近年の遺伝子を調べた結果に基けば。

 

話は「ユダヤ人」とは何かから、「日本人」とは何かに移行してしまった。本書の中心的なテーマは、そのようなことではない。当然のことながら、ヴェニスに長年住み着いた「ユダヤ人」とは、どのような人々であったかが議論されている。そして、それらの人々が、他のヴェニスに長年住み着いた人々と宗教的に異なる集団であるがゆえに、特別な場所、ゲットーに押し込められ、ヴェニス市当局から税負担等、他のヴェニスの人々が負担する必要のないほどの重い負担を強いられてきた。また、就業先の選択でも限定され、金融業、古着商、貿易業等、特定の業務にのみ従業することが認められるに過ぎなかったようである。

 

「ユダヤ人」ゆえの多くの負担等を負いながらも、圧倒的多数派のキリスト教徒に吸収されずに、ユダヤ教徒として自らの一族を再生産し続けられたのか、そのような状況を経験したことがなく、近くに見てこなかった私にとっては、驚異以外の何者でもない。私の娘は、一代前は中国で生まれた方を片方の親とする人々から生まれた夫と、「日本人」として日本で暮らしている。孫たちも、日常的には三代前の先祖が大陸生まれであることを全く意識していないように見える。三代数十年で現地の人々と同質化していると言える。ここからは、500年間の少数派「ユダヤ人」の再生産、維持は、至難のことのように見える。

「ユダヤ人」として生き続けた人々が残り得たということ、圧倒的な少数派でいながら、圧迫されながらでのそれは、すごいこととしか言いようがない。その原動力は宗教なのであろうか。

 

このような少数派として生き抜いた人々の一部が、その子孫の一部が、同じ宗教を信奉する人々が少数派として住んでいた地域から、異宗教の圧倒的多数派先住民を追い出し、自分たち優先の国を、20世紀になって構築する。そして、その国を維持するために、敵対可能勢力を徹底的に力で排除し、その存立基盤をも破壊する。どう考えたら良いのであろうか。ヴェニスのかつてのゲットーの住民から見たら、今のイスラエルによるガザのパレスチナ人破壊は、どのように見えてくるのであろうか。存立再生産、500年間の長きにわたってそれを可能としたヴェニスのユダヤ人ゲットーとは程遠い存在が、今のガザといえよう。

それとも、ガザやヨルダン川西岸に押し込まれたパレスチナ人が、ヴェニスのゲットーのユダヤ人とは異なり、押し込んだ側、この場合はイスラエル側の論理のもとで行動しないから、全てを破壊すること、その存在そのものを否定することも許される、ということなのであろうか。

 

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