2019年2月2日土曜日

2月2日 渡辺幸男の中小企業研究50年史 その6 第5期

渡辺幸男の中小企業研究50年史
1968年〜2018
第5期
渡辺幸男
第5期 調査からの引退、定年退職 2012年〜2018
    2011年、中国での調査を最後に、(知的)体力の限界を感じ、
実態調査に参加することをやめた
    2011年までの中国調査をもとに単著出版、あとはブログに雑文をup
20133月 慶應義塾大学を定年退職し、慶應義塾大学名誉教授になる
20163月 4冊目の単著出版
『現代中国産業発展の研究』慶應義塾大学出版会

2010年代 現地調査をやめ、そして定年退職
 2011年の中国での現地調査以降、私は聞き取り調査をやめた。そして2013年に定年退職を迎え、名誉教授となった。聞き取り調査を2011年を最後にやめた直接的な原因は、中国での現地調査が困難になったことが大きかったが、その後も調査を再開しなかったのは、調査に対する体力、特に知的体力の衰えを感じたからである。私にとって、現地での企業からの聞き取り調査は、興味深く、多くの収穫を生んできた。私が自らの研究成果として、これまで触れてきたことは、聞き取り調査を通して得られた情報をもとに、自らその論理的説明を考えた成果だと思っている。
 同時にその聞き取り調査は、あるいはそれゆえに、大変な緊張を伴うものであった。聞き取りに集中し、対話の中で、次に聞きたいこと、聞けることを考え、最大限、聞き取りの機会を活用する。そのためには、私自身がメインインタビュアーとして参加する。このような姿勢を30年余の間貫いてきた。体力的に、これをやめて聞き取りを継続するか、聞き取りを諦めるかの選択を、自ら迫られたと言える。結果、聞き取りを諦めた。中途半端な形で参加することは、自ら納得がいかないし、同行の方々にも迷惑をかけることになる。
 2013年の退職後は、まずは、これまで行ってきたことを踏まえ、聞き取り調査をせずにやれること、やり残したことを模索した。結果、中国産業発展の研究について、その私なりのまとめが不十分であることに気がついた。特に神戸大学の加藤弘之教授(当時、故人)の中国の独自な産業発展を「曖昧な制度」という伝統的な中国の制度的あり方から説明して行く考え方に、極めて強く反発を感じた。下請系列取引関係での南山大学の中村精教授(当時、故人)による日本的縦社会からの説明を思い出し、中国経済発展の独自性を強調することには賛意を表するが、それを中国の伝統的な制度のあり方から説明する発想には、強く反発を感じた。実際に、自らの調査結果を踏まえて、伝統的制度に戻ることなく、加藤弘之教授が「曖昧な制度」で説明している事象の1つを、自ら説明したくなった。その結果が、拙著『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』(慶應義塾大学出版会、2016年)である。
 中国の産業についてのこれまでの研究蓄積をきちんとレビューしてきたこともなく、「中国産業発展の研究」というタイトルをつけることは、極めておこがましいことであるが、加藤教授の議論について検討したく、このような本を書きたくなった。自らの聞き取り調査の結果のまとめと、そこから学んだものを整理し、その限りで言えることを、加藤教授の言うところの曖昧な制度の1つである「垂直分裂」すなわち「垂直的社会的分業の広範化」を中心に議論した。日本の産業発展を見てきたものとして、中国の工業発展をどう見るかについての見解を、私なりに述べたものと言える。

中国で垂直的社会的分業(垂直分裂システム)が広範化した背景
   ―市場環境(量的・質的・制度的・政策的)と主体の状況―
(1) 改革開放後の中国が置かれた市場環境(量的・質的・制度的・政策的)
a) 財・サービスの移動の低コスト化と移動容易な制度的環境の構築
 中国経済では、フラグメンテーション論に表現されるような、1980年代以降のグローバル化が進展した経済環境のもとで、市場経済化が一挙に進行した。この点では、同様に計画経済から市場経済へと移行したロシア・東欧と同様の条件のもとにある。中国もロシア・東欧も、いずれも企業が国境を越え、自らの拠点(生産拠点・販売拠点)を自在に最適立地できる状況下で市場経済化した。今一つ、近年のグローバル化が進展したもとでの経済的環境として重要なのは、国境を越えた、さらには大陸間での財の移動とサービスの一部の移動が極めて容易になったことである。インフラの整備と高度化による移動コストの顕著な低下のみならず、制度的にも国境を越えた財・サービスの移動が容易なものとなったことである。
 すなわち、現代のグローバル化は、たんに経済的に世界経済が一体化してきたというだけに留まらず、財やサービスの生産の生産拠点が、部分的な財やサービスの生産について、それぞれの立地の最適化ができ、それの統合体として、世界経済での財やサービスの生産が成立ちうるようになってきていることを意味している。極端にいえば、財やサービスの生産の個別工程が、その自体の立地の最適化の論理で立地可能となったのである。例えば、最終需要者との緊密な情報のやり取り、フェイスツーフェイスの対応が必要であることにより、最終製品についてその消費地での近接生産が不可欠であったとしても、その川上の工程については、それぞれの立地論理で、多様な経営資源の賦存をもとに世界中に最適立地を求めることができるような状況が生じてきている。地域間(企業内分業でも社会的分業としてでも)分業を極限まで追求できる条件が整った。
 日系の機械製造企業の多くが中国に生産拠点を移し、中国が販売市場の主要な部分になった現在でも、開発機能や試作機能、量産立ち上げ機能等は、日本国内に残しているのも、このような最適立地の選択を工程・機能ごとに行いうることによる。これは企業内地域間垂直的分業の深化といえる。それにたいして、アップル社の製品についていえば、企画開発機能と販売の中核機能は、アップル社社内にあり、部材の生産から組立個別販売拠点への配送等については、全て多数の多様な企業を利用し、日韓台を中心とした東アジア各地で企画開発され生産された部材が、鴻海等のEMSによって調達され、アップル社の製品としてアップル社からの生産委託(外注)のもとで、台湾等においてつくられた生産設計をもとに、内陸中国を含む中国各地で組み立てられ、世界中にアップル社によって販売されている。これはグローバルな地域間垂直的社会的分業である。
 このように、現代の技術のもとでは、生産工程や生産拠点について、最終製品の消費地やあるいは最終製品の生産地への近接を必要としないことを意味している。同時にそのことは、1企業内で垂直的に統合した生産を、技術的な意味では、必ずしも必要としないことも意味している。技術的には広範な地域間分業と細分化された企業間分業すなわち社会的分業が可能である。
 すなわち、現在の機械工業等で、垂直的統合化を実現した巨大企業が多数存在し、垂直的統合企業によって構成されている産業も多数存在するが、先に見た事実は、技術的な意味では、垂直的統合化が有利であり必要であるとは必ずしもいえないことを意味している。垂直的統合が一般化している産業の多くは、他の理由、例えば寡占的市場支配を強化するため等の理由で、そのような状況が生じている可能性が高い。
 このような地域間・社会的分業に関する技術的条件下で、中国やロシア・東欧の市場経済化は進展した。それを前提に、その後の各国の市場経済下の進展の状況を見ていく必要がある。すなわち、既存の工業基盤があろうとも、巨大な市場があろうとも、財・サービスを供給する側の企業にとって、生産拠点として意味をなす工程や機能といった部分だけを、当該地域に残し、あるいは新規立地し、他の工程は世界中に最適立地を求め、自由に展開していくということになる。
b) 巨大な国内市場の存在とその存在状況
 中国の人口は13億人以上であり、一人当り平均所得水準は極端に低いが、巨大な市場を形成する可能性が存在する。巨大な人口を持つ国民経済における市場経済化ゆえに、最終商品としての需要を開拓できれば、一挙に巨大な市場を構築する可能性が存在している。同時に、計画経済下での内生的な工業化を実現した上での市場経済化ゆえに、国際競争力は無いとしても、産業機械を含め一通りの近代工業製品を、国内で生産可能であった。
 人口の多さや一人当りの所得水準の低さは、インドと同様であり、また、内生的な工業化をそれなりにも実現していたことでも、インドと同様である。ロシア・東欧は、一人当りの所得水準の低さは中国・インドほどでは無いが、国内市場の大きさでは大きな差がある。ただ、内生的な工業化をそれなりにも実現していたことでは、中国・インドと同様であり、この点で、これらの国は、タイ等のアセアン諸国を含め、多くの途上国とは大きく異なっている。
 中国の産業発展のあり方を考えるうえでは、独自かつ大規模な国内市場を実現する可能性を与える(潜在的)国内市場の大きさと、計画経済下で一定程度実現していた近代工業の形成とが、重要な意味を持っている。このことが、大規模な国内市場向けに、外資等の影響を避けながら産業発展を実現する可能性を与えている。
c) 販売市場の状況
 中国が(潜在的に)巨大な国内市場を持っていることは、インド等と同様である。しかし、その市場の置かれた状況が大きく異なることで、産業の構造が大きく異なっている。通常、発展途上国や新興工業国の市場では、供給側の主体である企業には、大きくわけて3種類が存在する。一つは先進工業国から進出した外資系大企業、2つ目は国内の工業化の成果として形成された国有大企業を含めた国内大企業、それに自生的に形成された中小企業群の3種類である。
 中国の国内市場の特徴として強調すべきことは、形成された国内巨大市場は所得水準が低く、低価格志向が極めて強い市場であり、その部分が一挙に巨大に形成されたことである。先進工業国の外資系大企業にとっては、供給対象とするには低価格、多くの場合低品質すぎ、自らの市場とはなり難い市場である。通常、これらの低価格市場が大規模に形成されていれば、現地の大企業がその市場の主要な供給企業となり、残された細分化された市場を、現地の中小企業が担うことになる。巨大な国内市場を持つ新興工業国であり、低価格品の巨大市場も存在するインドの場合、外資の進出は制約を受けているが、低価格市場への現地の大企業の進出は大規模に行われている。その結果、本格的工業化以前に、寡占的支配構造が、多くの大規模な市場で形成されている。その場合、寡占的大企業は、必ずしも製造業企業に限られるものでは無く、流通大企業が問屋制下請のような形で流通側から製造業中小企業を支配し、市場全体をコントロールするような場合も含まれる(柳澤遥『現代インド経済−発展の淵源・軌跡・展望−』名古屋大学出版会、2014)
 中国の場合も、改革開放後の初期においては、計画経済下に形成された垂直的統合型の巨大企業が、多くの市場を、外資とともに寡占的に支配していた。しかし、インド等と中国が大きく異なるのは、まずは、流通大資本による問屋制等の製造業中小企業に対する支配が、全く存在せず、流通システムは資本制企業によって担われているのでは無く、全くの物流に過ぎなかったことである。しかも、垂直的統合生産体制にあった寡占的大企業も、基本的には市場経済における経営能力、市場の動向に迅速に対応する能力に欠ける、生産工場群とその管理者の集合体ともいうべき存在であった。結果として、中国の場合、1990年代に入り市場経済が本格化し、単純な不足経済から、市場の動向に合わせて経営を必要とする状況になると、既存の()国有大企業は、市場動向に対応できず、多くの産業分野で新規に形成された中小企業群との競争に敗れた。
 改革開放以後の中国の市場の特徴としては、以上のように、外資系の進出困難な巨大な国内市場が存在し、そこには市場経済への対応能力に欠ける国有大企業が中心的に存在している状況から始まっていることが第一にいえる。そのことは、市場が変化すれば、巨大な充足されない市場が形成される可能性が高く、他方で、その市場に供給するために必要な、経営資源、技術、人材、部材等の供給については、国有大企業内に存在しているが、国有大企業にはそれらを市場の変化に応じて活用できないことを意味している。
d) 起業家・企業家の簇生と大量の参入
 以上のことは、後は市場の変化に対応できる起業家・企業家群の簇生が重要であり、これが生じれば、既存の経営資源を活用し、国有大企業に代わって巨大な市場をいっそう開拓し、それへの供給を実現することになる。この起業家・企業家群となったのが、中国の場合は、郷鎮企業群であり、温州等では(紅い帽子をかぶった事実上の)民営企業群ということになる。起業の基盤となる郷鎮や民営企業家は極めて多数存在した。同時に、それらの多くは競争に敗れ、早々と市場から姿を消すことになるが、無数ともいって良い多数の起業家の中からは、経営的能力を獲得した企業家も絶対数としては多数生き残り、成長することになった。これらの生き残った郷鎮企業や民営企業が、国有大企業が敗退し、競争的となった巨大市場で、拡大する市場を巡って激しく競争することになる。これらの新規創業企業群は、経営資源を、すなわち国有企業から放出された技術者や技能者といった人材、必要な部材や産業機械を、相対的に安価に容易に確保することができた。
 これらの新規創業企業では、資金が限定的であり、まずは自らが最も見込みがあると考える部分に参入し、企業としての生存をかけることになる。先にみたように技術的には垂直的社会的分業が可能な状況が生まれており、それを前提に、それぞれの企業が川上から川下までの部分的工程やサービスに、そして最終製品の生産のみに特化して参入した。中国では、市場が巨大で、品質より価格勝負の市場であり、その生産のために必要な部材や機械、また技術者や技能者といった経営資源は、計画経済下の国有大企業内に蓄積されていた。しかもそれらの国有大企業は、市場経済化の進展の中で敗退し、大量のそれらの人材や部材・機械を放出することとなった。それゆえ、起業家は必要な経営資源を、安価に容易に調達することができ、必要なのは経営者として、中間財の市場も含め、自らが目指す市場を確定し、それに応じた経営資源の調達を行うことであった。起業家たちにとって、とりあえずの市場への供給には、既存の経営資源で充分であり、流通経路も含め、市場を開拓することこそが最重要な課題となった。しかも、拡大する市場は、既存技術で充分対応可能な市場がほとんどであった。それゆえ、低価格で市場動向にあった製品・部品・サービスを提供できれば、販売可能となり企業成長が可能となる。起業家・企業家にとって重要なのは、市場の動向を把握し、あるいは追随し、動向に適合する体制を構築することであった。
(2) 独自な市場環境がもたらしたもの
 その結果、外資の進出できない巨大な市場での競争相手は、層としてみれば、市場対応能力に欠落した国有大企業であり、新興の郷鎮企業や民営企業は、これらの市場で国有大企業が形成してきた経営資源を、安価に必要に応じて利用可能なことを活かし、巨大な国内市場の供給主体となった。しかも、そこでの参入は、資金的に限られているうえに、差別化能力が欠落ししているゆえに、垂直的統合により市場を囲込むことに意味がなく、特定の部分に専門化して参入することになる。
 新規創業企業の多くが、技術的には垂直的社会的分業が可能なことを前提とし、かつ差別化能力がない中で、市場の発見開拓こそ、激しい競争の中で生き残る道であることにより、特定部分に専門化し、他の財やサービスについては、市場で通常のものをできるだけ迅速に安く調達することを目指すことになった。そこから、技術的な垂直的社会的分業の可能性の存在が、全面的に開花し、丸川知雄氏がいうところの「垂直分裂システム」が中国の諸産業で、他の先進工業国とは比較にならない規模で広範化した。
 技術的に多くの分野でより細かく可能となった垂直的社会的分業の可能性が、中国の市場の条件と経営資源の賦存条件とにより、一挙に現実化したのが、中国の垂直分裂システムの広範化なのである。
 ここから見えてくる中国の資本主義発展の論理についての含意は、加藤弘之氏が主張されるような「曖昧な制度」という独自な伝統的な制度に由来する制度、ないしは制度群が「中国型資本主義」(加藤弘之、2016)の独自な発展をもたらしたのでは無いということである。すなわち、改革開放後の中国の資本主義の置かれた独自な経済的な内外環境が、独自な発展をもたらしたとみることができる。当然のことながら、発展開始前の経済環境ゆえに独自な発展をしたということは、その環境に大きな変化が生じれば、発展のあり方は大きく変わるということを含意している。それに対して加藤氏のように伝統に基づく独自な中国型資本主義の発展の特徴だとすれば、多少の環境変化が生じたとしても、その特徴、垂直分裂システムの広範化は、大きく変化することは無いということになる。
 私は、当然のことながら、前者の理解に立っており、私の見解が妥当かどうかは、中国の近未来の展開が証明することになろう。

) 垂直的社会的分業(垂直分裂システム)の機能
           ―その広範化の意味するもの―
 国民経済において垂直的社会的分業(垂直分裂)が広範化することは、どのようなことを意味するのかを、以下で検討する。
a) 各環節での一層の参入促進、競争激化
 何よりも強調すべきことは、垂直的社会的分業が広範化するということは、それぞれの製品の生産工程が、企業間取引関係として細分化されることを意味し、そうでない場合に比べ、圧倒的に参入に必要な資本が小規模になることを意味する。さらに少額の資本で参入できるだけでは無い。垂直的統合企業が支配的な市場では、既存企業はいずれも企業内の分業に依存し、市場から調達する必要性が無いので、新規参入企業が部材の調達や部材の販売先を開拓することは極めて困難である。他方、垂直的社会的分業のもとでは、このような意味での部材調達や販売市場開拓の困難は無く、既に中間財の市場は存在しており、それを前提に特定の部品・工程・機能等に専門化した競争相手との競争を考えれば良いことになる。
 結果として、単に小規模資本で参入できるという意味だけでは無く、市場開拓がより容易になる。それだけ、参入企業がそれぞれの部分で多くなり、一層競争が活発化し、促進される。
b) 各環節での多様なつながりの模索とイノベーションの進展
 最終製品の生産を巡り、その企画から始まり、部材の生産、組立、販売と各環節が個別企業によって担われるのが、垂直的社会的分業である。しかも、各環節への参入は、垂直的統合が進んでいる状況とは異なり、活発に行われ、より競争が激しくなる。それゆえ、各環節に専門化した企業にとって、激しい競争の中で、自らどのように企業として再生産していくかが課題として突きつけられる。垂直的統合企業であれば、統合企業全体としての再生産が問題となるが、垂直的社会的分業の下では各環節の企業にとっての再生産が、それぞれ問題となる。
 そこから生じることは、各環節の担い手企業がそれぞれ、自らの市場の開拓の一環として、既存のつながりを超えた多様なつながりを模索することである。垂直的統合企業の中間段階の生産部門にとって、供給先は自社内の川下部門であることは自明であるし、そこへの供給は、よほど他企業の同様部門に比して後れを取ることがなければ、保証されている。しかし、自立した特定環節の企業にとって、販売市場は保証されたものではないと同時に、特定の製品に向けての連関だけにこだわる理由も存在しない。既存供給分野について多数の川下企業が存在しているだけではなく、可能性として、多様な川下部門が存在し、それらを開拓することで自らの拡大再生産を可能とする余地が、極めて大きい。それゆえ、市場開拓の模索の結果として、新たな川下分野とのつながりが形成される可能性が、より高くなる。
 同時に、それぞれの環節での専門化した企業間の競争の存在、多くは激しい競争の存在は、それぞれの環節でのイノベーションの模索を激しいものとする。垂直的統合企業では、川下や川上の部門と有機的関係が形成され、特定環節部門だけが、独自にイノベーションを行うことは難しく、統合された分野を前提としてのイノベーションが模索されがちである。しかし、特定環節に専門化した企業にとっては、その環節を軸にしたイノベーションこそ全てであり、それぞれの環節ごとにイノベーションが追求されることになる。
 このように垂直的社会的分業の進展、深化は、各環節での競争を激しくするだけではなく、社会的分業のあり方、各環節の川上部門や川下部門とのつながりの一層の錯綜化を進行させ、各環節でのイノベーションを活発化させるといえる。
 また、多様な各環節に専門化した企業の存在と、その川下部門とのつながりの模索は、最終製品の企画開発を行う企業、ファブレスメーカー、その代表的な存在はアップル社であり、中国でいえば小米のような企業であろうが、そのような企業に、必要な部材の調達を、多様な供給源から調達可能にするだけではなく、必要な部材の開発を川上の企業群に競わせることで、新たな水準の部材の調達も容易とさせる。結果として、最終製品部分でも、内部の部材供給部門に制約されない、より自由な製品開発が進展することになる。
 さらに、これらの動きは、垂直的統合の寡占大企業が市場化に向け内部で取捨選択を繰返した結果として少数の製品が市場に登場するような場合と異なり、いずれも大小様々な多数の企業が、多様な模索を行うという形で、市場化に向けた努力が行われる。企業内で一定規模の市場が見込めないから製品化を見送るといった、大企業内部での選択による排除はうけにくい。

) 中国での垂直的社会的分業(垂直分裂システム)の展望
 以上のように、垂直的社会的分業(垂直分裂システム)100年以上の伝統ゆえの存在ではなく、計画経済から市場経済化した際の状況ゆえに生まれた特徴であるから、環境が変われば、100年を経ずに大きく代わる可能性が大である。当然のことながら、中国経済でも市場経済化初期の環境は急速に変化している。市場の急拡大が一段落し、その結果として既存市場での資本集中が進行し、寡占間競争となり、技術的差別化等の差別化の必要性が競争上大きくなれば、関係特殊資産が増え、垂直的統合(場合によっては日本的な準垂直的統合(渡辺幸男、1997))が進行する可能性が、それが寡占企業間の競争上で意味のある産業分野では高くなることも、大いに考えられる。
 もちろん、一度広範に形成された垂直分裂システムの存在を前提し、それの再編過程として生じるのであり、インド等のように本格的工業化以前に寡占的支配が、製造業そして流通で生じている国での、本格工業化過程での垂直的統合の維持あるいは進行とは、異なる程度と過程を経て進行するであろう。

この項の参考文献
絵所秀紀、2018「国際価値連鎖とインドの自転車産業」『経済志林』86巻2号
加藤弘之、2016『中国経済学入門 「曖昧な制度」はいかに機能しているか』
名古屋大学出版会
丸川知雄、2007『現代中国の産業 勃興する中国企業の強さと脆さ』中公新書
柳澤遥、2014『現代インド経済 発展の淵源・軌跡・展望』名古屋大学出版会
渡辺幸男、1997年『日本機械工業の社会的分業構造
 階層構造・産業集積からの下請制把握』有斐閣
渡辺幸男、2016年『現代中国産業発展の研究
 製造業実態調査から得た発展論理』慶應義塾大学出版会

定年退職後の主要な「研究」活動
 研究活動と言えるかどうかは別として、私自身は、研究論文として発表するものではないが、自分なりの見解を文章化することが、大変好きであることを、退職後発見した。教員時代も、いろいろな機会に雑文も数多く書き、雑誌等に載せていたが、これは、あくまでも商工総研に頼まれ、『商工金融』の巻頭言を書くといったものであった。しかし、退職後は、調査をすることもなくなり、これまでの調査の成果等を活用にしながら、学会報告にコメントをしたり、著作についての感想文を書いたり、新聞記事にかこつけて、自分の見解を述べたりしたくなった。それをブログに掲載することが、主要な執筆活動となった。
 教員として行なっていた講義を再びしたくなる、といったことは全くなかった。講義をすること自体は、負担にはなっても、積極的に取り組むものではなかったと自覚した次第である。それに対して、何かの文章を書くということは、積極的にやりたいことの第一であった。これが明確に自覚されたのである。
 2015610日ブログ掲載の資料 渡辺幸男の実態調査研究の方法 事例紹介」から始まり、ほぼ3年後の2018729までの「覚書集 現代資本主義における産業発展研究の諸論点」までで、40本をブログに掲載した。中身は様々で、内容的には繰り返しも多いのであるが、それぞれ、対象を設定し、対象を紹介しながらも、それにかこつけて自分の見解を述べるという内容のものである。なお、40本目の「覚書集 現代資本主義における産業発展研究の諸論点」は、このタイトルに該当すると私が感じたブログ掲載の論考を集め、希望する方にはダウンロードができるようにしたものである。
 さらに、その後も小論を書いている。特に20189月の日本中小企業学会全国大会の際の報告に対し、コメントしたくなり、ブログには3名の方の報告を中心に、かなりの量のコメントを書いた。また、個人的に抜き刷り等をいただいた方に対しても、勝手なコメントを書き、送付した。また、その一部をブログにアップした。

中小企業研究奨励賞と中小企業懸賞論文の審査委員の継続
 ブログ向けの執筆とともに、現在中小企業研究関連の活動と言えるものがある。季節労働ではあるが、毎年、中小企業研究奨励賞と中小企業懸賞論文の審査委員を、一般財団法人商工総合研究所からの依頼され、退職後も継続して担当してきているのが、それである。自らが奨励賞の特賞を受賞した後、審査委員であった佐藤芳雄教授が逝去され、そのこともあって、同世代の中では、かなり早くから奨励賞の審査委員を務めることとなったと、記憶している。
 近年は、中小企業研究奨励賞の経済部門の主査、中小企業懸賞論文の産業部門の主査を引き受けている。9月に奨励賞の応募が締め切られ、10月のはじめに中小企業研究奨励賞審査のための専門委員会が開催されるところから始まり、『商工金融』3月号に向けての担当部門の総評執筆、そして2月下旬に開催される2つの賞の合同表彰式での総評までの、5ヶ月近くの季節労働である。
中小企業研究奨励賞の主査を引き受ける前は、審査委員として専門委員会が選んだ著作のうち、多くて3・4冊の著作を読めばよかったし、主査の方々に対し、私の前任者は村上敦神戸大学名誉教授(当時、故人)であるが、自分の感じ判断したまま、好きな意見を言えた。しかし、主査となると、他の審査委員の方の見解も踏まえ、経済部門としての見解をまとめる必要がある。
これが結構大変であることを、主査になって痛感した。何しろ、現在、私が主査を務めている経済部門の審査委員は、港徹雄青山学院大学名誉教授、三井逸友嘉悦大学大学院教授、清水啓典一橋大学名誉教授、松永宣明神戸大学大学院教授、関根正裕商工組合中央金庫代表取締役社長である。喧々諤々の議論が展開することは必定、それをどうまとめるかが問題であり、私はどう考えるか素直に意見を吐露し、言いっ放しとすることができる余地は、極めて小さいのである。
また、主査は、専門委員会にも出席し、第1次、第2次選考も行うので、最終選考のみの一般の審査委員より、数多くの著作を読み、評価しなければならない。これが10月初めから始まる。これも極めてきつい。安定的に数多くの著作を読み、評価し、私より若い専門委員3名、しかし、それぞれ一家言ある専門委員の議論を踏まえ、審査委員会に推薦する著作を選考する。ここで、まずは、主査としてのまとめる能力を試され、私なりに苦闘する。すなわち、私のことであるから、当然のことながら、自己の見解をも踏まえたいのであるが、それを相対化し、委員会4名の総意を主査として探らなければならない。きつさは、読むこと自体だけではなく、専門委員会としての結論を出すことにもある。なお、現在の経済部門の専門委員は、安田武彦東洋大学教授、岡室博之一橋大学大学院教授、駒形哲哉慶應義塾大学教授である。それぞれなりの主張を持っている方々であることは、一目瞭然である。
ただし、今の私にとって、中小企業研究者として言えるとしたら、この季節労働こそが、その根拠と言えるかもしれない。ここで、数多くの優れた中小企業研究書を、自分の好みで選り好みしないで、幅広くかつ丁寧に読むことになる。これにより、「中小企業研究者」と自称することを許される蓄積がなされるとも言える。
普段、ブログで取り上げている著作や記事は、今、特に読みたい著作や記事に限られ、タイトルを見て本を買っても、あるいは研究者の方々から著作を送っていただいても、目を通すかどうかは、自分で好きにしている。興味が感じられなければ、関心を持たない分野であれば、目を通すことはない。気ままな好事家の読書をしている。これでは、研究者として中小企業研究をフォローしていることには全くならない。しかし、奨励賞がらみでは、そうはいかない。まさに、今の中小企業研究の成果を追いかけることになる。
それゆえこれらの審査委員については、あと数年は、当然のことながら商工総合研究所から断られなければあるが、続けたいとは思っている。ただ、主査の立場については、できたら他の審査委員に代わってもらいたいのだが。

2018年度の商工総研から委託された審査も、ほぼ終了し、あとは総評を書くだけになっている。1968年に慶應義塾大学経済学部伊東岱吉研究会に入会して51年近く立つことになる。これを自身の中小企業研究50年史として辿ってきた。そのため、いくつか研究者の道を歩んでいく上での重要な事項を、中小企業研究そのものではないため抜かしてきた。これをこの研究史の最後に触れておきたい。
1つは、大学院時代の研究仲間のことであり、いまひとつは家族、特に40年余のパートーナーである妻のことである。
大学院時代、先が見えない中で自分なりに模索していた時期、ともに議論した仲間は、中小企業研究がらみの仲間以外にも存在した。あるいは、修士課程や博士課程の前半では、中小企業研究がらみの仲間以上に議論してきた仲間がいた。それが清水正昭千葉商科大学名誉教授、田中秀親淑徳大学教授、中宮光隆熊本県立大学名誉教授といった専門は異なるが、院生仲間として同じ講義や演習で学び、近くの飲み屋、つるの屋で飲みながら議論した仲間である。皆ほぼ同年齢ながら、田中君だけは、なぜか現時点でも現役教授である。
井村喜代子教授(当時、現名誉教授)の輪読中心の院での授業で、途中で井村教授のダメ出しが入り、自らの報告を最後までさせてもらえず、いかに自分の認識が甘いかを思い知らされる。そのあと、上記の院生仲間で、つるの屋に場所を移し、報告者を囲んで、当日の井村教授のコメントをどう捉え、それに対してどう考えるべきか、またいかに井村教授に反論すべきか、共に、熱く議論したことを思い出す。研究者として、徹底的に論理的に思考し、発言することを訓練された場が、これらの院での授業と「つるの屋」だったと思い出される。
また、妻とは、助手に採用された年の秋に結婚した。それから40年余、5人の子供の子育てでは、私はジュニア・パートナーにとどまっていたと自覚している。が、私の研究においては、妻は重要なアドバイザーであった。私が研究の方向性等で悩む時、私は妻に勝手に話をする。妻はそれを聞き、研究の中身そのものではないが、私の思考と志向とを念頭に、大きな方向性についてのアドバイスをしてくれる。あるいは、トントンと軽い形で方向のずれを修正してくれる。そのような存在である。
研究者としての私は、学生時代に父から突きつけられた課題、「世の中、理屈通りにはいかない」に対する自分なりの答え、「だが、世の中の現実を、論理的に理解することは可能である」を、実態調査を通して中小(工業)企業の存在と発展論理を追究することで、求めてきた。それを50年余にわたり継続できたのは、妻の存在が極めて大きかったと、今、改めて感じている。


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