2017年9月7日木曜日

9月7日 小論 橋本著で米国の互換性部品量産機械産業の発展を考える

橋本毅彦『「ものづくり」の科学史 世界を変えた《標準革命》』   を読んで

はじめに
 全8章からなる本書の第1章から第3章は、米国での互換性部品を利用した量産機械工業の形成をめぐる議論である。米国では18世紀末のマスケット銃から始まり、コルト拳銃やライフル銃、そしてミシンや自転車に至る量産機械が、安価に大量に供給可能となった。その根本に互換可能な部品の量産が、専用工作機械を中心とした機械体系の構築の下に可能となったことが示される。
 本書の中心はそこだけではなく、互換性部品を使用したマスケット銃の製作の試みが、まずはフランスで始まったこと、あるいは、19世紀半ばにイギリスでも部品互換性の銃の製作が軍需との関連で試みられたが、最終的には定着せず、他の産業へ波及するどころではなかったことが紹介される。
 このような、互換性部品を使用した量産機械の生産をめぐる前史については、私はほとんど無知であった。830日の本ブログで紹介した渋井康弘氏の論考を書く前に、渋井氏と話す機会を持ち、その際に、互換性部品を使用した「機械」開発は米国発祥ではなく、マスケット銃について、まずはフランスで互換性部品を使ったものとして生産する試みがなされたとの指摘を受けた。そのことから、いつもながらの自らの勉強不足を改めて痛感し、橋本毅彦氏の著作を見いだし、改めて互換性部品を使った機械製品が、どのような歴史過程を経て、米国で花咲いたのかを学ぶことにした。
 以下では、橋本氏の議論を、私の関心事、なぜ、互換性部品の量産機械という技術発展が、フランスで互換性部品を使用する試みが始まりながら、本格的に展開したのはアメリカだったのか、という点を中心に紹介し、私なりの理解と橋本氏の議論から得たものを示したい。

1、橋本毅彦著での議論 互換性部品を使用した量産機械の構想と実績
 私のこれまでの知識では、互換性部品を使用した量産機械の開発そして生産という技術発展は、米国由来のものであるというものであった。この限りでは、ある意味正しいのであるが、互換性部品を使用した機械の開発という発想自体は、米国発のものではなく、すでに18世紀のフランスの兵器生産において生じていたものである。このことについて本書を通して具体的に知ることとなった。
 18世紀も初めの1720年代に、フランスでは、マスケット銃の「互換性部品からなる銃の発火装置を作り上げることに成功」(同書、32ページ)し、「660個の発火装置を製造し、いずれも互換性をもたせることに成功」(同書、33ページ)した。しかし「通常の5倍のコスト」(同書、33ページ)をかけての上であった。その後もフランスでは兵器の生産について、18世紀後半にかけて、互換性部品からなる製品を作る試みが行われたが、「精密性を要するためにかなりの製造コストがかかってしまい・・・多くも検査を通過しなかった」(同書、50ページ)とされる。
 すなわち、18世紀のフランスでの互換性部品を利用した兵器の量産の試みは、製品としては一応生産されたが、互換性部品を旧来の生産方法でのコストに比較して遜色ないコストで生産することができず、また、精度を安定的に維持することもできなかった、ということが示されている。技術的に、旧来の生産方法、やすりがけをして1台ずつ兵器を完成していく方法に対し、優位に立つだけの技術基盤を持ち得ていなかったということができよう。また、フランスでの試みは、旧来の生産方法、そしてそれを担ってきた職人層の反発(同書、50ページ)に対抗できないまま、単なる試みにとどまった、ということである。
 これに対して米国では、18世紀終盤にフランス駐在大使であったトーマス・ジェファーソンを通して、フランスでの試みが伝えられ、「互換性技術という非経済的な先端技術が政府の工廠で育てられていく」(同書、57ページ)ことになる。また、「互換性を持つ部品を大量に製造するための大きな鍵は、機械の助けを借りて半自動化された製造法を編み出すこと」(同書、59ページ)であるが、「倣い旋盤」が発明され、「専用工作機械」が開発され、「治具と固定装置」により1820年代には異なる兵器廠で生産される銃の部品が、「完全に互換性を保有する」(同書、75ページ)ようになった。
 このように兵器廠で兵器の量産のために工夫され開発された互換性技術が「兵器廠から民間企業に伝わり、移りわたった職人の腕を通して、全米中に広がっていくこと」(同書、77ページ)になった。
 他方で、米国で発達した兵器の互換性技術は英国政府の注目するところとなった。18世紀のフランスと異なる点は、19世紀半ばの英国は工作機械の精度等では米国を勝るものが存在していたことである。ここで英国での銃の軍による注文の特性が問題となる。英国では「軍からの注文は変動が大きく、優秀な製造職人の間では敬遠されていた。そして貴族たちが購入する狩猟用の銃はオーダーメイドで、非常に精密な作り」で、「多くの職人がその分業化された工程に携わっていた」(同書、83ページ)ことが特徴的であり、軍需に対する不信が銃生産者に存在したことと、軍以外の市場こそが主要な市場であり、そこでは量産型の銃が求められていなかったことが、示されている。その結果、一時的に試みられた銃の量産の試みも、軍需の減少を通して挫折し、「イギリスでは伝統的な製造法が息を吹き返す」(同書、89ページ)こととなったとされる。工作機械技術としては米国に優っていたとも言えるイギリスでは、民需機械へ量産の互換性部品を使った生産が普及するどころか、軍需で試みられた銃の互換性部品を活用した量産さえ根付かなかったのである。
 これとは異なり、米国では、「工廠で生まれ育った互換性部品の製造技術は、民間の銃製造会社、ミシン製造会社、工作機械製造会社などを通じて、自転車などの製造会社に普及していった。しかも、その際に、製造のための工作技術、加工技術は徐々に改良が加えられていった」(同書、102ページ)ということである。つまり、米国では、量産技術が銃の生産で定着しただけではなく、他の量産機械の勃興に貢献し、それらとともに一層磨きがかけられていったことが示されている。
 以上の18世紀におけるフランスでの互換性部品での銃の量産の試み、米国でのフランスでの試みを見ての19世紀初めにおける導入と定着、そして英国での19世紀半ばでの銃の互換性部品を元にした量産技術の導入努力とその失敗、さらには米国での19世紀後半における他の量産機械の勃興をもたらすものとしての互換性部品に基づく量産機械技術の他産業への波及、これらが興味深く描かれているのが、本書の第3章までである。

2、橋本毅彦氏の議論を踏まえて、何が見えるか
 何故、このような差異が北米と西欧で生じたのであろうか。フランスでの先駆的な試みについては、まずは技術的な未熟さゆえの失敗、と見ることもできる。しかし、19世紀半ばにおける英国での銃の量産の試みについては、工作機械技術等では米国の水準を上回っていたことから、このような技術的な問題とすることはできない。
 他方で、バーミンガムの銃生産職人の存在と、その主たる需要者が需要変動の激しい軍需ではなく、狩猟用のオーダーメイド銃を求める貴族等であったこと、この点が量産の銃生産の試みを途絶させたという指摘が極めて興味深い。他方で19世紀半ばの米国では、ライフル銃について、「量産された銃のうち、互換性を要求する軍の規格に合うものは六割ほどであった。だがその時期は、ちょうどカリフォルニアのゴールドラッシュの折であり、軍の規格から外れた銃も同じ価格で売りさばくことができた」(同書、95ページ)とされている。ここから見えてくることは、民需市場の性格と大きさが、米国と英国で大きく異なる可能性の存在である。
 当時の状況は、大西洋を挟んで量産機械類を輸出入する状況にはなく、それぞれの機械は当該生産地域内の市場を前提していたと思われる。その意味で、北米と西欧の市場は、人材や技術の交流は頻繁に存在していたとしても、財の市場としては一体のものではなく、それぞれの市場の状況が、互換性部品の生産技術の普及の可能性の有無を規定したと見ることができる。それぞれの市場環境こそ、英国での互換性部品に基づく銃の量産を挫折させ、米国においては多数の民需市場での互換性部品による量産機械の発達を可能にしたと言えそうである。
 西欧と北米は、当然のことながら英国に発する産業革命以来の近代機械工業の技術を源に近代工業を発展させたということでは、出発点を共有している。また、発想の伝播のみならず人材の移動も存在している。米国での互換性部品に基づく量産の銃の生産を試みるに当たっては、フランスからやってきた技術者が「強力な味方」となったと指摘されている(同書、54ページ)。しかし、互換性部品に基づく量産機械が本格的に普及し、そのための技術体系が構築されたのは、西欧ではなく米国である。
 市場として、現代のようにグローバル市場として一体化していなかった西欧市場と北米市場とでは、市場の性格、そして、そこでの諸企業の競争状況が大きく異なっていた。英国では、精度の高い工作機械はあっても、銃の安定的需要は、貴族の狩猟用であり、オーダーメイドこそ意味のあることであったが、米国では普通の人々が日常的な道具として銃を必要としていた。だからこそ米国では軍の規格に外れていた量産のライフル銃も、大量に安定的に同一価格でもって民需市場で販売可能となった。銃の量産が最も有効に機能する市場であるということになる。
 さらに、米国では、大衆市場が他に先駆けて形成され、民需用の量産機械、ミシンや自転車が広範に普及することが可能であり、銃器で確立された互換性部品の基づく量産機械の生産が、多様な分野へと広がり、そのことが一層量産機械生産の技術水準を押し上げることになった。専用工作機械の開発が重要な意味を持ったと本書でも指摘されているが、専用工作機械が意味を持つのは機械ないしは金属製の財について継続的に大量生産が維持される場合である。市場の大きさと安定性・成長性が存在しない経済では、専用工作機械が開発される余地は小さいし、その意味はほとんど存在しない。戦時に一時的に急増する軍需中心の市場だけでは、専用工作機械が開発される余地は小さいと言える。常時安定的な大規模市場があってこそ、専用工作機械を使用した金属製の財の部品の加工が意味を持つ。米国では、それがコルト拳銃やライフル銃だけではなく、ミシンであり、自転車であった。さらに、本書ではその発展系としてフォードの自動車生産が取り上げられ、「1910年にT型車の大量生産を開始した」(同書、109ページ)という形で、第3章での事例紹介は締めくくられている。
 少なくとも、20世紀初頭まで、互換性部品に基づく量産機械の生産体系は、米国市場向けに米国で独自に発展したと見ることができる。ここからは、技術の発展においては、互換性部品に基づく量産という発想、そしてそのために必要な諸機械の開発も、それぞれ必要条件として重要であると言える。しかしながら、その具体化のためには、そのような発想や機械開発が有効な市場の存在が、決定的に重要であり、不可欠であるということが言えそうである。
 それゆえ、私が日本と中国の産業発展を通して認識してきた、独自な大規模市場と、そこでの地元企業群に担われた独自な技術発展の可能性という考え方の有効性・妥当性を、本書の米国での互換性部品での機械量産技術の発展事例を通して、私は改めて確認することができた。まさにこの点を、米国での量産機械産業の展開と共に、英仏での試みとその挫折が示唆しているといえよう。
 なお、本書の内容は、当然ながら米国での互換性部品での量産機械の産業の発展についての歴史的分析にとどまるものではない。「標準化」という切り口から、その後の標準化の歴史を追っている。それ自体としては大変興味深い議論であるが、私の独自な産業発展・技術発展可能性の存在についての理解にとっては、本ブログで紹介した第3章までの議論こそが重要であると言える。

参考文献
橋本毅彦、2013『「ものづくり」の科学史 世界を変えた《標準革命》』

講談社学術文庫

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