中国経済経営学会・アジア政経学会・日本現代中国学会合同企画*
「加藤弘之『中国経済学入門』との対話」
での4人の討論者**の見解を、どうみるべきか
はじめに
筆者が4月のブログでその近著を取上げた加藤弘之氏が8月30日に逝去された。加藤弘之氏の中国研究に対する貢献を評価し、その業績を偲び、中国経済経営学会が中心となり、上記の3学会の合同企画として、加藤氏の近著を巡る4名の研究者による討論会が、中国経済経営学会全国大会の際の一つの企画として開催された。
筆者は、今年の4月9日付のブログに書いたように加藤氏の『中国経済学入門』の内容を把握したのだが、11月6日に慶應義塾大学三田キャンパスで行われた、中国経済経営学会における上記の合同企画での4人に討論者の見解は、筆者の加藤氏の著作に対する見解とは大きく異なっていた。筆者は、加藤氏の同書の中での「曖昧の制度」の理解の中に、「曖昧な制度」でありながら制度を有効に機能させる制度として、市場での競争の強制が、事実上組込まれていることを発見した。この点を積極的に強調し、「曖昧な制度」であるにもかかわらず、市場での競争のあり方ゆえに、制度が効率的に機能していると、加藤氏も事実上考えているのではないかと、主張した。
また、加藤氏が曖昧な制度の一つとして議論している「垂直分裂」について、中国の100年を超える伝統に戻ることなく、改革開放期の中国経済、産業が置かれた状況から経済学的に説明可能であることを、筆者なりに提示した。それが筆者の4月6日付の「中国の垂直的分裂とは」というタイトルのブログである。
筆者は、中国資本主義の独自性を、加藤氏と同様に強く認識し、さらには既存の正統派経済学の理論では把握することのできない産業・経済発展が生じているという点では加藤氏と認識を共有している研究者である。同時に、上記の2つのブログを通して、その独自性をどのように理解するかで、加藤氏のように中国の伝統的制度を総称として「曖昧な制度」と呼び、それによって中国資本主義の独自性を解明する方向に対し、疑問を呈した。しかしながら、今回の討論での4人の討論者は、私とは異なる評価、認識を加藤氏の議論について提示している。以下では筆者なりにそれを要約し、筆者との差異を明らかにする。その上で、どうしてそのような差異が生じたのか、多少なりとも検討したい。
1 4人の討論者の議論
最初の討論者である毛里和子氏は、加藤氏の著書の曖昧さを、例えば、国家と社会に対する中間的な存在の第三領域の存在といった中間的なものの多様な存在から説明している。その上で、「“中国的なもの”に徹底してこだわる」のが加藤氏の特徴だとしている。その上で、中間的領域の存在が発展へとつながるのは、中国に限ったことではなく「アジア経済学」へとつながる議論だとしている。(毛里和子、2016)
ここでは、既存の理論で把握できない中間的領域の存在を、「曖昧な制度」とし、それはアジアで共有されうるものであるとみている。中国の歴史的伝統が、どのように中間的領域の存在にかかわっているかはさておき、曖昧さは中間的領域を意味していることになる。
制度の「曖昧」さとは、中間的領域的存在である点については、細かい点では異なるし、それだけではないという認識もあるが、中兼氏、菱田氏、川端氏、3氏とも共通の認識である。その中で、中兼和津次氏は、特にどこに制度の「曖昧」性があるのか、異なる制度の重複部分と、それぞれの制度の周辺部分との2つの部分に分け、曖昧さの所在を巡る議論を展開している。その中で、中兼氏は、所有形態で中間的、混合的な所有形態の企業でも、市場では効率性を追求するという加藤氏の議論、筆者が大いに評価する「競争の強制」と筆者が呼ぶ部分、加藤氏のいう「(混合所有という国家資本といえども)資本はそれ自体が増殖を追求する存在である」ことについて、「本当にそうか?」(中兼和津次、2016)と疑問を呈している。
このような中兼氏の加藤氏の議論についての認識は、逆にいえば、筆者のいう「競争の強制」の存在を、筆者同様に加藤氏も認識していることを示唆するものとなり、筆者の加藤氏の現状認識についての理解が妥当なものであることを感じさせるものとなっている。他方で、中兼氏は「曖昧な制度」の動態的なモデルとして、「領域A,Bを制御する制度C」という制度モデルを提示し、「制度Cとは:暗黙の契約が実行されるような補完的制度的メカニズム、例:信頼(trust)関係あるいは司法制度」(中兼和津次、2016)としている。筆者には、何故市場での競争状況がここに入ってこないのか、理解できないのだが、同時に、このような「曖昧な制度」理解は、「競争の強制」による制度の「曖昧さ」の解消について、中兼氏が考慮する可能性も示唆しているのかもしれない。
菱田雅晴氏の議論は、「曖昧な制度」を、専ら「党・国家・社会関係」の「重複」(菱田雅晴、2016)として把握されているようにみえる。筆者の視点からいえば、中兼氏が引用されているような、市場での混合所有企業の競争といった側面が重要なのだが、菱田氏の議論では、その部分はほとんどみえなくなっている。経済が市場を軸に自立的に展開するのではなく、経済が社会に飲み込まれ、それが党と国家に誘導される姿として、「曖昧な制度」が描かれているように見える。このように把握することは、中兼氏が批判している加藤氏の混合所有企業の競争市場下での行動様式等については、ほとんどみえなくなることを意味しよう。筆者からみれば、中国の産業や経済が持っているダイナミズムのほとんどを説明不可能としてしまう加藤氏の「曖昧な制度」論理解だと思われる。
4番目の討論者は、筆者とほぼ同様な研究分野の産業論研究者である川端望氏である。川端氏は、加藤氏のいう中国経済や産業の曖昧さは、内容的には大きく異なるが、日本経済や産業にも制度の曖昧さとして存在するとし、両者がどう違うと考えるべきかと課題を提起している。川端氏が取上げているのは、日本のサプライヤーシステムでの下請契約の核をなす「基本取引契約書」のもつ曖昧さ、下請企業側に対し契約上では無限の要求が発注側大企業から可能であるような条項の存在である。このような一方的な契約の下でも、取引関係が長期継続的取引関係として成立っている限り、下請契約を結ぶ双方にとって、一定の利益を与え、産業発展へとつながるものとして機能していることを、日本の研究蓄積を紹介しながら、明らかにしている。
そこでの含意は、「制度そのもの」が曖昧なものであろうと、その下での「企業・個人のビヘイビア」を通して、産業発展の「ダイナミズム」(川端望、2016)が生まれる可能性が存在しているということである。曖昧な制度であるから、産業・経済発展に有効に機能しない、と一方的にいうことはできない。ただし、川端氏は、このような関係が何故生じえたのか、伝統的制度とどのようにかかわるのか、また競争のあり方がどのような場合、関係の再生産が可能になるのか、といった筆者が関心を持つ事項については、今回の簡単な討論の中ではふれていない。最後に、「インプリケーション」として、「モデルに「主体」としての企業・個人を導入して」、「制度そのもの」、「そのもとでの企業・個人のビヘイビア」、「両者の関係から生まれるダイナミクス」を「区別と関連をつけることが必要ではないか」(川端望、2016)と問題提起をし、討論を締め括っている。
中国経済での独自な市場環境の形成と、そこでの企業・個人の行動を、まずは問題にし、経済学的に検討することを指摘しようとしているものとも思われる。最後に筆者の近著(渡辺幸男、2016)を引用されていることからも、その点が示唆される。しかし、残念ながら、短時間の討論では、この点についてのこれ以上の追究はなされていない。
2 まとめ
以上のように、合同企画の加藤弘之著を巡る議論では、その多くの部分が、「曖昧な制度」(筆者には旧来からの制度の共通的性格を示すものとしてよりも、それらの総称に過ぎないと思うのだが)の曖昧さとはどのようなものであるかの検討を行うものとなっている。中兼氏が指摘したような曖昧さの外側で曖昧な領域を制御するような存在、「制度C」の存在の重要性を示唆するような議論もあったが、重点はそこにはなかった。
もう1ついえることは、曖昧な制度が中国の伝統、特に「包」とどのようにつながるのか、加藤氏の議論にそって検討した討論者もほぼ存在しなかったことである。筆者の理解では、加藤氏の議論の主張点は、「曖昧な制度」の曖昧さそのものとともに、それが中国独自な伝統を引継いだものであり、かつ中国の産業・経済発展をもたらしているのが中国独自な制度であるという、これら3点にある。中国の伝統により形成された中国独自な曖昧な制度が、近年の中国経済の急激な発展、産業発展をもたらした、というものといえよう。その意味では、討論者の論点提示は、かなり一面的であった。また、筆者が加藤弘之著からくみ取った内容とも、かなり異なった理解となっている。
なぜ、このように討論者の議論は、「曖昧な制度」の「曖昧」とは何かに集中したのであろうか。筆者からみると、加藤氏は、曖昧な制度と呼ぶものの個別の制度について、その機能のあり方をそれぞれの制度の具体的姿から論じている。しかし、その上でいずれも曖昧であると括っている。ないしは総称している。それゆえ、「曖昧な制度」という総称ではなく、個別の具体的な制度がどのように機能していると加藤氏は考え、それがどのような意味で妥当であり、どこに現実からのズレや説明不充分さがあるかを、みていく必要がある。それを通して、個別の中国資本主義の持つ独自性について加藤氏の主張内容とともにどのように考えるべきかをも明らかになる。しかし、どの討論者も、「曖昧さ」という総称にひきずられることにより、残念ながら、加藤氏と独自性の存在自体についての認識を共有しながら、それのよって来る根拠とその機能について具体的に把握することに失敗しているといわざるを得ない。
川端氏の日本の「曖昧な制度」の具体的機能内容とその有効性の議論を、中国の加藤氏が取上げて個別の制度に対して展開すれば、上記の限界を打破しえたかもしれないが、そこまで川端氏は討論を展開しないで、終了した。また、中兼氏は、「制度C」
という曖昧な領域を制御するとする概念を持ち出しては来ているが、それぞれの「曖昧な制度」でそれがどのような存在で、かつどのように機能するかについては、短時間の討論では言及されることはわずかであった。残念なことに、故加藤氏に今後の展開を求めることは不可能であるが、川端氏や中兼氏の討論内容が、今後、発展展開されれば、加藤氏の議論をベースにした上で、中国産業・経済発展の独自性把握に関して、筆者との接点が生じる可能性は充分存在することが示唆された、と筆者は勝手に考えている。
おわりに
なお、上述のブログ2本と本ブログとを中心に、研究ノートとして再編し、『三田学会雑誌』に投稿することを予定している。順調に採用されれば、来年3月までには掲載されることになるかもしれない。
* 中国経済経営学会・アジア政経学会・日本現代中国学会合同企画
「加藤弘之『中国経済学入門』との対話」、2016年11月6日
於:慶應義塾大学三田キャンパス
** 討論者の討論タイトル(討論順)
毛里和子、2016「中国経済学の可能性を問う」
中兼和津次、2016「「曖昧な制度」とその意味について再度考える
—加藤弘之著『中国経済学入門』名古屋大学出版会、2016年を読んで—」
菱田雅晴、2016「加藤弘之『中国経済学入門〜「曖昧な制度」はいかに機能しているか』へのコメント 形容詞系から名詞形へ 曖昧な移項?」
川端望、2016「中国経済の「曖昧な制度」と日本経済の「曖昧な制度」
—日本産業論・企業論研究から—」
なお、引用は『中国経済経営学会2016年度全国大会 報告要旨集』(中国経済経営学会)から行った。
参考文献
加藤弘之、2016『中国経済学入門 「曖昧な制度」はいかに機能しているか』
名古屋大学出版会
渡辺幸男、2016『現代中国産業発展の研究 製造業実態調査から得た発展論理』
慶應義塾大学出版会
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