2016年9月27日火曜日

9月27日 金木犀の開花、秋の実感


久しぶりに蒼空になり、夏が戻ってきましたが、
ただ、庭の木は秋、金木犀が咲き始め、
香りが漂い始めました。

ご近所も咲き始め、
朝の散歩は、香りに包まれました。
長男が生まれた時は、1週間ほど早く咲き始めましたが、
例外的だったようです。

秋海棠の花も、賑やかに咲き続けています。


秋明菊の花も少しですが、咲いています。
秋を感じさせます。


百日紅の花は、少しだけ残っていますが、
ほとんど実になり、青空にまた違った趣を与えています。
夏の間、次から次へと花をつけ、楽しませてもらいました。

2016年9月24日土曜日

9月24日 付論 小川さやか著を読んでの続編 Mathews & Yang論文を読んで


まえがき
 久しぶりに英文の論文を読みました。小川さやか氏の著作を読み、そこで参考にされていたMathews, Gordon and Yang, Yang両氏の論文(以下、Mathews他)が‘Low-End Globalization or Globalization from Below’、すなわち「底辺でのグローバル化、ないしは、下からのグローバル化」について、香港や広東省を中心に議論しているということで、読みたくなりました。英語の論文をまともに読むのは、本当に久しぶりなのですが、学術論文ということもあり、余り多くの回数、辞書を引くことなく、内容を把握することができました。
 読んでみて、自分が主張したい「中国新興企業によるグローバル市場の底辺部分の創造、ないしはグローバル市場の外延的拡大」ということと、何が同じで、何が異なるのか書きたくなり、したためたのが、下記の文章です。

Mathews,  Gordon(香港中文大学人類学教授
                  and Yang, Yang(香港中文大学人類学修士) (2012), How Africans Pursue Low-End Globalization in Hong Kong
                   and Mainland China
          Journal of Current Chinese Affairs, 41,2, 95-120.  を読んで 渡辺幸男

 本稿で検討したいことは、上記のMathews 他の論文での‘Low-End Globalization’と、私のいう「中国新興企業による、発展途上国の新規形成低価格品グローバル市場の創造を含む、グローバル市場の創造的外延的拡大」とは、どのような認識を共有し、またどこで異なっているのか、ということである。
 両者にとって、グローバル化を議論する時の、グローバル化が意味する中核的な現象は異なっている。Mathews他にとっては、発展途上国の人びとの自発的な大量のグローバル大の移動の発生こそがグローバル化であり、それを議論の対象としている。それに対して、私は、中国を中心としてグローバル商品市場の形成、すなわち、グローバル市場の底辺部分の拡大、低価格品市場の創造とグローバルな一体化とを、グローバル化の議論の中心としている。この意味では、グローバル化という時の内容は異なることになる。
 すなわち、Mathews他にとってのグローバル化は、発展途上国の普通の人びとのグローバル大の移動の活発化であり、商品市場のグローバル化その自体ではない。商品市場のグローバル化が人びとの移動を活発化させるとしても、それ自体がグローバル化ということではない。それに対して、私にとってのグローバル化は、あくまでも、これまでにない低価格品のグローバル市場の創造であり、グローバル市場の外延的拡大である。発展途上国の普通の人びとのグローバルな移動も、商品の流通に絡んだものとして把握されるのであり、それ自体が市場のグローバル化を意味しているのではない。発展途上国の人びとが消費者として中国を核とする新たな低価格品グローバル市場に参加すれば、それだけでも、それらの人びとはグローバル化市場の一翼を担うということで、グローバル化の担い手の一つとなる。
 また、Mathews他にとってグローバル化を可能とさせる重要なインフラは、発展途上国の普通の人びとが移動できる安価な手段と滞在できる宿泊施設ということになる。しかし、私にとって重要なのは、中国での商品生産と流通の独自なシステムの形成と、そのグローバル市場での有効性である。
 問題関心が異なることで、主要な議論の対象がどこかに関して、そもそも異なっているといえよう。しかし同時に、グローバル化を可能にさせたものについての認識では、Mathews他と私とで、ある意味での共通性が存在する。
 すなわち、Mathews他は、要旨で以下のようにも書いている
The article argues that one essential economic role China plays today is in manufacturing the cheap, sometimes counterfeit goods that enable Africa and other developing-world regions experience globalization; the African traders who come to China help make this possible.(同論文、95ページ)
 このような人の動きのグローバル化をもたらしているものとして、中国の製造業が生産する安価な商品の存在こそが重要であり、発展途上国はそのおかげでグローバル化を体験し、中国と消費市場をつなぐことで、それを体験することを可能にしているのがアフリカの商人であるといっている。
 そして、中国の製造業が多くの発展途上国の普通の人びとを引きつけるのは、中国の製品が‘relatively inexpensive and of  acceptable quality(同論文、98ページ)、相対的に低価格でそこそこの品質だからであるとしている。さらに、「もし中国がそうでなければ、下からのグローバル化は少なくとも現在の規模では生じていないことは確かであろう」とし、「これこそ中国の絶対的重要性である」(同論文、99ページ)とも述べている。
 それゆえ、グローバル化は人の動きのグローバル化を指しており、市場のグローバル化を指していないということで、底辺のグローバル化の内容が、私とは異なる。しかし、底辺のグローバル化の動きをもたらしたものとしての中国製造業の重要性に認識については、私と同様なものといえる。
 ただし、中国の製造業が低価格のそこそこの品質のものを供給できていることについての理由の分析は存在しない。しかも、本論文の中で、「2009年以降、労働コストや綿花といった原材料費の上昇が生じてきている。同時に人民元の対ドルレートも上昇してきている。これらが商人の利益幅を大きく減じている。一部の西アフリカの商人は自国に戻り始めているし、他のものはより安い商材を求め、タイ、ベトナム、マレーシアといった労賃や原材料費がより安い地域に出向いている」(同論文、113ページ)と述べている。
 ここからは、中国製造業製品が底辺でのグローバル化の中心となっていることの理由についてのMathews他の理解が推察される。すなわち、労賃や原材料費が安いから、さらに人民元が対ドル相場で安かったから、グローバル化の中心となりえたという、理解といえよう。この点で、中国の製造業発展の独自性についてと、その独自性ゆえにグローバル底辺市場を構築できたという私と、異質な認識が存在している。
 すなわち、Mathews 他と私との理解に違いは、一つは、グローバル化を何でみるか、人の動きでみるMathews他に対し、市場の広がりでみる私との違いといえよう。同時に、中国が中核にあることについては同一の認識だが、その中国が中核にあることをもたらしている中国製造業の優位性についての理解も異なるといえよう。2009年以降の人民元と中国での労賃高騰程度で、中国の底辺グローバル市場での優位性が揺らぐとみるのがMathews他である。それに対して、私は、そのような程度では中国の持つ優位性は崩れないという理解である。
 これまでも、工業化がある程度進展した低賃金国が多く存在しながら、それらの国ではなく、グローバル市場への低価格工業製品の供給の中心が中国になってきたこと、この点の論理を積極的に評価し、それを把握し理解するかどうかで、上記の点での認識の違い生じているといえよう。
 中国の製造業は、巨大な中国国内市場の多様性に富んだ低価格品市場向けへの生産・流通体制を構築したことで、その延長線上で発展途上向けの市場を新たに創造できたというのが、私の理解である。それゆえ、アフリカの商人は、自らの出身国の中下層の消費財市場向けに適切な商品を、多様な内容で、好きな量だけ低価格で手に入れることができる。このような生産・流通体制を構築せず、低労賃中心で製造業が発展した他の多くの中進工業国では、これに代替することはできない。どうもこの点で、Mathews他の見解は、私の理解と大きく異なるようである。

参考文献
Mathews,  Gordon and Yang,  Yang,  2012  How Africans Pursue Low-End Globalization
       in Hong Kong and Mainland ChinaJournal of Current Chinese Affairs, 41,2, 95-120.

小川さやか、2016『「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済』光文社新書
渡辺幸男、2016『現代中国産業発展の研究 
製造業実態調査から得た発展論理』慶應義塾大学出版会


2016年9月21日水曜日

9月21日 巨大なグリーンパラソルと茗荷の花


庭のグリーパラソルが、ますます巨大化しています。
これは2株なのですが、ほぼ一体化して見えます。


手前のサルビアの花や紫蘇の実と比べてもらえば、
その大きさが実感できるかとも、思うのですが。


夕方になり、別の角度から撮ったものです。
奥に庭園灯が灯っています。


下の写真は、庭園灯の周りの茗荷の根元をとったものです。
初秋になって茗荷の花芽をかなり収穫して、
おいしく食しました。
この辺りのは取り損なっていたら、
黄色い花が賑やかに咲いていました。
ここまで咲いてしまうと、食べるのには向いていないので、
このまま、咲かせておくつもりです。


2016年9月16日金曜日

9月16日 小論 小川さやか著を読んで

小川さやか
『「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済』  
(光文社新書、2016年) を読んで  渡辺幸男

はじめに
 本書は、タンザニアを対象に都市露天商等の零細自営業や日雇い労働等の著者の言う「インフォーマルセクター」の人びとの行動を、Living for Today「その日暮らし」と括ることで理解できるということを主張し、それを具体的に、人びとの行動観察から実証することを目指すものである。私が理解するには、かつて日本にも大量に存在した不安定雇用の下の都市雑業層といわれた人の、タンザニアにおける現代版ということができよう。
 それらの人びとの多様な行動の中に、中国の広東省へのタンザニアの零細商人による買い出し行動が生まれ、それにも注目している。ここで本書の研究と私の中国産業発展研究との接点が生じた。私は、本ブログで、「中国の民営企業の発展がもたらしたもの(1) グローバル市場の付加的創造ないしは巨大な外延的拡大」というタイトルで、中国の側から中国の民営企業を中心とした新興企業による産業発展は、「全体としてみれば、中国新興企業によるグローバル市場の創造的外延的拡大ということになる」という、大胆な主張を提起した。それは「先進工業国市場向けを含め、中国新興企業が自らの市場として創造し拡大した市場は、既存製品の単なる低賃金労働力使用ゆえに低価格化した商品を販売する市場では無いということである。相対的低賃金な労働力を利用していることは明確だが、同時に、キャッチダウンや簡便化開発といったイノベーションをも通して実現し開発した多様な低価格商品により、グローバル市場の低価格部分を極めて巨大なものに外延的拡大することに成功したのが、中国新興企業なのである」という主張でもある。
 このような中国民営企業を中心とした新興企業によって担われた中国の産業発展を、グローバル市場の外延的拡大の一環として組込まれたのが、タンザニアの零細商業者が担っている消費財市場であり、それをタンザニアの側から見たのが本書であるといえる。
 本書では、アパレル等を扱う零細商人の行動を紹介しながら、その過程で中国広東省の巨大消費財市場とのつながりが紹介されている。そこでの紹介を以下抜き書きしながら、本書での視点とは異なり、中国新興企業のグローバル市場の外延的拡大という私の視点から、その意味を考えて行きたい。

1 本書でのタンザニア零細商人の行動紹介
 まず、本書は、「東アフリカ諸国間の近距離交易を事例に」し、「この交易が大規模な流通業者ではなく、有象無象の零細商人の一群によって担われている」ことを確認し、その論理を「「試しにやってみる」が切り拓く経済の論理に照らして考えて」(同書、76ページ)いる。すなわち、零細商人が、そもそもタンザニアとその周辺との交易を直接担っていたことを確認し、その延長上で零細商人達による中国への買い出しを見ている。
 その中である古着商の例を紹介し、「2006年まで市内の古着市場の露天で中古ジャケットを販売」していたこと、その後、「東アフリカ関税同盟結成後、域内の衣類産業保護の観点から域外からの古着の関税率が引上げられたこと」や、
「中国・東南アジア製の新品衣料品が急激に輸入されるようになったこと」で、「2006年頃には、その他の大勢の古着商人と同様に著しい経営の悪化に直面」(同書、78ページ)したとしている。
 また、露天商であった零細商人が、市当局が「貸店舗を増設」(同書、88ページ)したことを契機に、「大家の出現により、商品の購入費も店舗の賃貸料も無い、実質的ほとんど金のない路上商人が商店経営に参入できるようにな」り、店舗を零細商人に貸し出すことで、「実質的にはフォーマルセクターである商店街が、インフォーマル経済の実態で動くようになった」とする。いわば「シェアストア」(同書、92ページ)ともいうべき状況が現出した。結果、「路上商人たちはフォーマルな商店主となっても、インフォーマルな路上商人の時と同じく自律的かつ自由に商売をしている」(同書、94ページ)とする。
 その上で、このような零細商人も含めタンザニアの商人が中国へ買い出しに出かけていくことが紹介される。その商品の買い集め方は、タンザニアの近隣諸国との交易の際にも行われた「クペレンバ」というもので「特定の卸商や商店から一度に大量の品物を買い付けるのではなく、複数の店をまわって多様な商品を数点から数十点ずつ買い集めていく方法」(同書、83ページ)を、中国でも実践しているとする。私が見たり聞いたりした限りでは、中国の市場でも、このような商品の収集は、ごく普通のことであり、それをアフリカ系の商人達も、もともと行っていたということであろう。
 このようなアフリカの商人が買い回る先として、「アフリカ系の交易人に圧倒的に人気の交易地は、広東省広州市と深圳市、浙江省義烏市の三都市である」(同書、106ページ)とし、広州市白雲区の「三元理には中国系住民が卸売店を経営する場所と、ナイジェリア人を中心にアフリカ系住民が多く店を構える場所(アフリカンマーケット)がある。卸売店や商店を経営するアフリカ系住民の中には、長江デルタ地域や珠江デルタ地域の工場の特定の商品の製造を委託したり、短期滞在型商人の代行として広州からの買い付けや現地企業との仲介を行うものも存在する」(同書、108ページ)し、「何度か渡航して慣れてくると、工場にサンプルを持込んで、注文生産するようになる」(同書、109ページ)とも述べている。
 その上で、著者は「現地に中国の工場や企業とアフリカのビジネスマンを仲介する長期滞在者がいれば、実のところ、アフリカ系零細商人はわざわざ中国に来なくても、彼らを通じて中国から商品の輸入を行うことができる。にもかかわらず、現地の仲介業者や中国人の取引相手と直接的に交渉するために中国に渡航する零細交易人の数が増え続けている」(同書、116117ページ)とし、そのことの「もう一つの重要な理由は、・・・対面交渉による「信頼」に基づいて動いていることに深く関係しているように思われる」(同書、117ページ)とする。
 その上で、「トランスナショナルなインフォーマル交易や第6章で論じたエム・ペサを通じた<借り>のシステムは、資本主義経済に対抗したり、政府が一般的ルールを導入して築かれているものではなく、資本主義経済の仕組みを流用することによって自律的に発生・躍動している経済であり、もう一つの資本主義経済なのである」(同書、213214ページ)と締め括っている。

2 小川さやか氏の言う「もう一つの資本主義経済」とは何か
     — 産業発展研究からみえてくること —
 私が先にブログで述べたような産業発展研究の視点から、本書の上記のような部分をどのようにみるべきであろうか、この点を見ていくことにする。
 ここで注目すべきことは、タンザニアの零細商人等の商人は、2000年代初頭まで、近隣諸国との交易を担い、そこでの交易によって、必要な商材、例えば古着を得ていたということである。その後、国内産業保護政策もあり、古着の輸入が困難になるとともに、中国等から新品衣料が輸入されるようになった。このことは、保護関税等があっても、中国等の新品衣料のタンザニア市場での競争力は強く、国内製造業保護にはならなかったことを示唆しているとみることができよう。そのため、タンザニアの商人も積極的に中国に買い出しに行くことになる。この際、注目すべき第1点は、中国でタンザニアの商人は、極めて小ロットでこれはと思う商材を、多様な商品の中から選択し、仕入れることができることである。第2の点は、中国現地に同国人が滞在しており、それを活用し小商人でも、ある程度リスクを低減しての商材の仕入れが可能になることである。第3は、現地駐在のアフリカ系の人びとが、自ら仕入れたい商品の生産を生産依頼できる工場が周辺に存在するということであり、さらには短期出張で買い付けにきた商人も、自分の必要な商品を注文生産により手に入れることができるということである。
 すなわち、アフリカの零細商人にとって、必要な売れ筋の商品を探すのに有効であるばかりでは無く、欲しい商品を注文して生産してもらうことも可能なのが、そしてそれを零細商人が必要とするような小ロットでも調達可能なのが、中国のこれらの市場とその周辺の工場群である、ということが示唆されている。同時に、このような事実は、このような商材探しや小ロットの注文生産が、タンザニアやその周辺諸国では不可能であることをも示唆している。
 なぜ、低賃金労働力が豊富で、それなりに消費財を生産している小製造業企業が存在すると思われるタンザニアやその周辺国で、このようなことが不可能なのであろうか。これが可能であれば、当然、わざわざ、遠い中国まで多額の旅費をかけ、タンザニアの零細商人が出かけることは無いであろう。
 このような視点からの認識が、本書には欠けている、と産業発展研究から本書で紹介されているような事象をみる私には思われる。
 本書も指摘しているように、このような零細商人が商材として必要なものを、タンザニアの庶民が必要とする商材を、先進工業国から消費財を仕入れるような既存の貿易商に依頼して手に入れることは、取引に応じてもらえるかどうかを別にしても、扱う商品の質からして、そもそも不可能であろう。たんに安いだけのものではなく、地元の庶民の好みに合わせ、流行に合わせた商材を、小ロットで供給することは、上記のような貿易商には、全く不可能なことである。
 他方で、本書にも書かれているように、中国の広州市や義烏市の市場ではこれが可能である。それが可能だからこそ、アジアへの海外渡航という大きな金をかけて、アフリカの零細商人さえ中国に出かけるのである。なぜなのか。地元の零細製造業企業が対応できず、既存の貿易商が相手にしないような内容の商材を、何故中国の市場は提供可能なのであろうか。この点については、本書は全く答えていない。あくまでもタンザニアの零細商人をはじめとしたインフォーマルセクターの人びとの行動の一環として紹介され、その人たちの行動原理が議論され、そこから「もう一つの資本主義経済」(同書、214ページ)という結論が導かれている。私はこの点で、大きな疑問を感じる。「もう一つの資本主義経済」と著者が言っていることは、タンザニアの視点からは導き出せない。タンザニアだけを見れば、導き出せるのは、インフォーマルセクターの小さな資本主義経済であり、それは主流の経済に対抗する「もう一つの資本主義経済」ではない。
 主流の経済と対抗する「もう一つの資本主義経済」がいえるとしたら、それはタンザニアの零細商人が、中国の沿岸部の巨大市場と直結し、そこで、主流の経済とは異なるグローバル経済に組込まれたからである。すなわちタンザニアの零細商人が、中国の市場をハブとした「もう一つの資本主義経済」の一部となったからである。
 このような意味で、タンザニアの零細商人達は、主流の経済に対峙する「もう一つの資本主義経済」の担い手の一部になったのである。
 それでは、なぜ、中国の沿岸部の市場は、「もう一つの資本主義経済」のハブとなりえたのであろうか。本書との関係で、より具体的にいえば、アフリカの零細商人さえ自ら乗り込むことで、安価でかつ地元で売れるような商材を手に入れることができる市場となり、主流の経済の流通とは異なる経済のハブとなりえたのであろうか。これは、まさに中国の民営企業を中心とする新興企業主導の経済発展の中身そのものでもある。
 この点は、伊藤亜聖氏の著作『現代中国の産業集積 「世界の工場」のボトムアップ型経済発展』(名古屋大学出版会、2015)で、最も適切に描かれている。そこで示されていることは、義烏市や広東省の諸市場が、たんに集散地市場として巨大化しただけでは無く、広域的にみた後背地に多様な生産能力を持つ製造業の集積を多数もち、それらとの繋がりの中で、安価な多様な商品を揃えるだけでは無く、常に新たなものを追求し、かつ、どんな注文量、大小様々な注文量に対応できる柔軟な供給体制と生産体制を構築した。このような市場体系が、まずは、低価格品を必須条件とするが、それぞれ多様なものを求める中国での広大な多様なニーズ向けに構築され、市場と生産の双方を組込んだ体系としてでき上がった。すなわち中国国内市場向けの生産流通体系として構築されたのである。
 それが、先進工業国のみならず発展途上国の多様な低価格品を求める商人から注目され、中国内からだけでは無く、海外からも幅広く買い付け商人が来るようになった。より多様な商品揃えをする市場となり、国際市場となった。
 このような生産構造を組込んだグローバル市場向けの低価格品を柔軟に供給する集散地市場は、これまで世界に存在しなかった。それを中国内の義烏市や広州市は、巨大かつ多様な中国市場向けの集散地市場から発展する形で構築したといえる。結果として、中国国内にこれまでなかった低価格品の巨大市場を構築しただけでは無く、グローバル市場がこれまで包摂できていなかった低価格製品の需要部分を組込むことに成功したのである。これが、私が言う、中国の新興企業によるグローバル市場の外延的拡大ということでもある。まさに、その一部としてタンザニアの市場も当初はタンザニアの商人によって組込まれた。
 さらには、「現在中国に向かう零細商人達の最大のライバルは、中国系の零細商人達である。彼らが直接、タンザニアに商品を輸入し、さらに現地で卸売りから小売りまでを担ってしまったら、タンザニアの零細商人のニッチはなくなってしまう」(同書、159ページ)と言われているように、中国をハブとする「もう一つの資本主義経済」は、中国()主導での一層の展開を示そうとしている。グローバル市場の底辺部分が創造され、大きく拡大し、その生産と流通のハブは中国にあり、タンザニアの零細商人は、それとのつながりで「もう一つの資本主義経済」の一翼を担っているとみるべきではないかと考える。

3 まとめ 中国をハブとする「もう一つの資本主義経済」への組込みの意味
 これまでのタンザニアのグローバル市場への組込みは、一方では資源輸出国としてのタンザニアであり、他方では富裕層向けやインフラ向けの先進工業国からの商品、庶民向けでは無い消費財や先進的機械の輸入国としてであったといえよう。本書を見る限り、庶民の消費財は、周辺国を含めた零細製造業企業の製品や輸入古着等であったように見える。そこに底辺市場の中国をハブとする「もう一つの資本主義経済」への組込みが生じた。これが本書の主張をグローバルにみた場合の結論であろう。
 このことは、タンザニアの産業発展について、極めて大きな含意を持つことになる。零細商人は、豊富な商材を自在に入手可能な市場を見つけており、現地進出した中国商人との競合に勝てば、不安定な零細商人の地位から脱し、それなりの商業者としての地位を確保することも可能であろう。しかし、タンザニアの産業発展にとっては、極めて厳しい条件が課せられることになる。インフォーマルセクターと呼ばれていたような、底辺市場への財の供給が、グローバル市場への供給者、主として中国の集散地市場への供給者に限定され、それにタンザニアの製造業企業が何らかの形で生産者として組込まれない限り、国民経済としては、これまで以上に海外の製造業製品に低価格品も含め依存することを意味する。
 製造業の発展を目指し、地域経済ブロックを形成しているようだが、その地域ブロック全体が、中国の集散地市場の商圏に組込まれることになる。それも、中国系商人とともに自国系の商人の活躍と中国系商人との激しい競争により、それが一層強固のものとなる可能性が強いのである。従来の先進工業国からの工業製品の輸入に依存している限り、国内製造業零細企業にとっての主要な市場であった国内消費市場の底辺層、需要者数としては最も大きな部分を占めているといえる層が、それはかつて国内零細製造業の発展の場となる可能性を提供していたと考えられる層であるが、そこが完全に中国をハブとする市場圏に組込まれてしまうのである。自生的製造業発展の場が消滅するとも言える。
 このような含意については、本書の著者にとっては、全くの関心外だということによるのだと思われるが、残念ながら本書では全く示唆されていない。

参考文献
伊藤亜聖、2015『現代中国の産業集積
 「世界の工場」のボトムアップ型経済発展』名古屋大学出版会
小川さやか、2016『「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済』
光文社新書
渡辺幸男、2016『現代中国産業発展の研究 
製造業実態調査から得た発展論理』慶應義塾大学出版会


2016年9月9日金曜日

9月9日 エントランスのサルビア


春から咲いていたサルビアに、春の苗を加え、
エントランスは、ますます、サルビア中心になりました。


雨上がりの朝のサルビアの色は、なかなかのものです。
夏とはまた違う鮮やかさになりつつあります。

春蒔いたマリーゴールドの種からの苗も、
かなりの数、育ちました。
ただ、花付きは今ひとつです。
公園のマリーゴールドと異なり、
密集させすぎているのかもしれません。
マリーゴールドの蕾もかなり付いているので、
これからマリーゴールドも盛りを迎えることを期待しています。