2025年8月25日月曜日

8月25日 ポプキンズ, A.G.著『アメリカ帝国 グローバル・ヒストリー』を読んで

ポプキンズ, A.G.著『アメリカ帝国 グローバル・ヒストリー』

上、下、 (ミネルヴァ書房、2025)  を読んで

 

  渡辺幸男

 

  この著作は、米合衆国の歴史を独立から振り返り、かつての英国の植民地が、独立国になっただけではなく、ある時点からまさにアメリカ帝国となり、対スペインの19世紀末の戦争を契機に、キューバやプエルトリコといった島国をカリブ海で、そしてフィリッピンを太平洋で植民地として獲得し、またハワイもヨーロッパ系の移民を送り込むことで植民地化し、植民地帝国として存在していたことを明らかにしている著作である。

 

 しかし、私は、本書でプエルトリコ等を植民地化した19世紀末の対スペイン戦争以前の歴史として書かれていたこと、これに強く関心を惹かれた。

この著作を読んで、自分が米合衆国についての基本的知識において、極めて曖昧に生きてきたことを、改めて感じたのである。

 米合衆国とその資本主義のあり方について関心があり、その問題性についても色々考えてきたつもりであるが、そもそも米合衆国が、いつどのようにでき、すなわち、本書の最初の部分が述べている、米合衆国がいつ植民地から独立国家になり、南北戦争という内戦を経て、その後、覇権国家の道を進んできたかの歴史的経過そのものについて、時代的、地理的に私の理解が全く曖昧であり、きちんと確認し、理解することができていなかったことを、本書での主題である米合衆国の帝国としての形成過程やその内容そのものを受け止め検討する以前に痛感させられた。

 

 上巻の194ページの「図5−1 19世紀における合衆国の大陸拡張」、そして195ページの「表5−1 合衆国の政治発展の指標としての州設立年」という図表が端的に表していることであるが、米合衆国のそもそもの独立時からの地理的拡張の経過そのものと、それらの歴史年代的な経過さえ、まともに理解できていなかったのである。

 すなわち、米合衆国の独立は1783年、そして南北戦争が始まったのが1861年、これらと、当時の米合衆国を構成していた諸州ないしは地域が米合衆国に組み込まれた経過や時期等についての知識が、極めて不確かなまま米合衆国史を勝手に理解したつもりになり、考えていたのである。

今の時点で考えれば、当たり前のことのようにも思えるのであるが、図の5−1は、独立時の米合衆国の州が、北アメリカ大陸の東の端の部分のみに過ぎず、アパラチア山脈東側の13州のみからなっていたこと、独立後に、他の英国植民地を接収し、スペイン領を手に入れ、西に大きく拡大し、太平洋岸まで到達したことを示している。そして、その進出併合の多くが19世紀に入ってからのその世紀の前半の時期であったことである。そして、同時に、重要なのは、13州で独立したときには、アパラチア山脈の西側にはネイティブ・アメリカンの「国々」、すなわち先住民の生活圏が大きくは傷つくことなく、実質的に広がり、生活圏として再生産していたこと、それらが形式上は欧州諸国の植民地として存在していた。それらを、当時の宗主国から買取り、あるいは宗主国との戦争を通して奪うとともに、そのもとにそれなりに存立を保っていたネイティブ・アメリカンの国々そして生活圏を完全に破壊し、それらの人々を元来の生活空間から追い出し、それぞれのネイティブ・アメリカンが共同体としてもっていた再生産の基盤を破壊したことである。また、そこへヨーロッパ人からの移民の入植を大量に進め、欧州人中心の自国の州として米合衆国に編入してきたことである。

さらに認識すべきは、それが今からたった200年少し前からの事柄であったこと、これらのことである。そして、しかも、これらを知っているつもりになっていて、歴史的に年代的に自分の中で位置付けることなく、私は認識し、理解したつもりになっていたのである。

 

ここで、なぜか先日のアラスカでの米露首脳会談を思い出した。アラスカはかつて一時期ロシア帝国の領土であった。それは当時ネイティブ・アメリカンが住んでいた今のアラスカの地を、ロシア人が1741年に「発見」し、1799年にロシア領とし、1867年に米合衆国がロシア帝国より買収した結果のことである。このことは、今のロシア連邦、そして前身の旧ソ連やロシア帝国のシベリアや極東の地が、ロシア人により「発見」され、ネイティブの人々の存在とその生活空間を無視し、ロシア帝国領とされ、ヨーロッパ系のロシア人が移住し作られたロシアのシベリアや極東地方、その東の先端がアラスカであったこと、このことを示している。

何故か、米合衆国の西部へのネイティブ・アメリカン社会を破壊しての拡大とロシア帝国今のロシア連邦東部への拡大、ネイティブ社会を破壊し、欧州系ロシア人を入植させ、植民地化した動きが、重なるのである。これらは、多少時代のずれがあるものの、ほぼ同時期に行われ、アラスカで米露が巡り合い、ネイティブ民族の存在を無視して、占領者による勝手な土地の売買取引が行われた。そして、今の米露の国境が確定された、といえる。

欧州の他の植民帝国は、ネイティブの人々を結果的には皆殺しにし、欧州人とアフリカ人を送り込んだ地域を含め、植民地母国の欧州諸国と地理的に大きく離れていたが故に、第2次大戦後、多くの地域が植民地の立場を脱し、独立することになった。南米大陸の多くの国は、この点では異なる歴史的経過を経てはいるが。

しかし、ロシアの東部地域と米合衆国の中部や西部地域の植民地地域は、本国と地続きであるがゆえか、欧州人による植民が数の上で圧倒しただけではなく、米露という植民を行った欧州人の国土そのもの一部とされてしまった、と言えそうである。この一点でも、両国は似ている。トランプとプーチンの両氏が、現代の主権国家の国境について、自国の利害で変更可能かのように考えている点で似ているように、両国の国土の拡大形成経過も似ているように見える。

もちろん、ロシア帝国は、他方で地続きでありながら、人口的に大きくかつ密であり民族としての独自文化を強固に育んできた中央アジアの諸民族については、それを自国帝国内に民族的存在のまま取り込んでいるようであり、全面的に民族の破壊を行うようなことは、いくつかの例外を除き、しなかったようである。まさに欧州系のロシア人が主力を占め、他民族を内部に従属的に従える典型的な多民族帝国を形成していたし、今のロシア連邦もその一部が依然として継続しているということは確かであろう。

同時に、ロシア東方の極東地域等では、先住民社会の破壊と欧州系ロシア人の入植による植民地化を行い、西漸してきたアメリカとアラスカで欧州出身者同士の植民地としてぶつかったことも事実と言えそうである。

 

 この本は、上記のような点も含め、米合衆国を帝国と見ているとも言える。

また、同様なことは、規模は大きく異なるといえるが、和人の北海道でのアイヌ人の共同体や生活環境の破壊、土地の掠取や、ブラジルのポルトガル人を中心とした欧州系の人々のネイティブ・アメリカンの社会の破壊等、多くの地域で、同時代から現代にかけても見られることでもある。それをどのように我々は位置づけるべきなのであろうか。私は、たまたま破壊した側の人間として生まれたに過ぎないのだが。

これらの事実をきちんと自覚し、自分なりに位置付ける必要があろう。

 

 この本を読んで、まずは、こんなことを考えた。自らの生活圏を拡大するために、他の人々が営々として築いてきた共同体の生活圏を破壊してしまうこと、このようなことは、その時点で軍事的に優位に立った人々により、現生人類の歴史の中で繰り返し行われてきたのであろう。長い歴史を持つ事実であろう。しかし、だからといって、今、人類を単位に豊かな社会の構築を唱える人々としての我々が、このような過去を背負っていることを忘れるべきではないであろう。また、同じようなことを今から行うことは、絶対に許されるべきではないであろう。しかし、ここ2百年の時間の中で、このような出来事は、一挙に進んだとも言えるのである。米露に限らず、今存立している社会の多くが、このような他の共同体の破壊を行ってきた結果として存立していること、これに目を瞑るべきではないであろう。

 アラスカという地は、どのような理由ないしは根拠で、ロシア帝国が米合衆国に売却し得たのか、その背後の歴史を知ること、そこに先住の人類の営みが存在し、それらの多くが破壊されたということ、これを知った上で、今を見つめる必要があろう。偉そうに振る舞うプーチンとトランプの両氏を見るたびに、このようなことが思い浮かぶ今日この頃である。

 現在はウクライナ領のはずのクリミア半島の先住民であるクリミア・タタールの人々を、クリミア半島から旧ソ連のスターリンが追放してから、まだ百年も経たないのである。その地に旧ソ連はヨーロッパ系ロシア人を移住させた。ロシア連邦は、ウクライナ領になっていたその地を、2014年に自国領土に編入した。移住したヨーロッパ系ロシア人が、ロシア連邦への併合に賛成したということなのであろうか。プーチンはスターリンの遺産を活用したともいうべきなのであろうか。 

2025年8月22日金曜日

8月22日 日経:呉軍華「「光」と「影」が際立つ中国経済」を読んで

 呉軍華「「光」と「影」が際立つ中国経済」

エコノミスト360°視点,(日本経済新聞、2025822日、p.6) 

を読んで 渡辺幸男

 

 この新聞記事を読み、「角を矯めて牛を殺す」の格言、諺を思い出した。

 

 呉氏は、この日経のOpinion欄で、現在の中国経済の「光」として中国の「先端産業」の「技術覇権に挑む勢い」を述べ、「影」として「不動産市況の崩壊」等、「経済は改革開放以来の深刻な局面に陥っている」ということを、まずは確認し、「なぜ、光があっても景気減速が止まらないのか」と問い、その答えとして、新産業の「波及効果が乏し」く、「経済全体をけん引するには裾野が狭い」こととともに、制度的制約も1つの要因と指摘し、それが「地方政府間の熾烈な競争をもたら」し、「過剰生産と無秩序な競争を招き、価格破壊」となっている、こととしている。すなわち「「光」を生む仕組みが同時に「影」を増幅していることを示す」とし、「真に持続的成長を図り、国際社会との調和を目指すには、・・・無秩序な競争の是正といった構造改革が不可欠だ」としている。そして、「さもなくば、せっかくの「光」の輝きも国内外の摩擦に覆われ、色あせることになりかねない」と結んでいる。

 

 ここでの議論を、私流に見ると、今の中国では、「地方政府間の熾烈な競争をもたら」し、「過剰生産と無秩序な競争を招き、価格破壊」が影をもたらす要因であるという、それ自体としては、妥当な指摘をしていると思う。だが、同時に、この要因が「技術覇権に挑む勢い」を可能にしている、という呉氏自身が主張している事実、これを呉氏は議論の最後では無視しているようにも見えるのである。

 最大の光をもたらす主要な要因の1つが、同時に影をももたらしている、まさに光と影の関係である。このような事実を無視し、あたかも両者を切り離して政策的対応が可能かのように議論しているように、私には見える。

つまり、先端産業企業の簇生という光る牛の「角」の1つであるはずの「価格破壊につながる」「過剰な生産と無秩序な競争」という角を、「矯める」ことを推奨するような結論を安易に述べているように見える。

 

 この呉氏の議論を読みながら、かつての日本の通産省の1つの動きを思い出した。通産官僚による乗用車産業の「過当競争論」であり、政策的にはトヨタと日産の2大メーカーに集約することを政策的課題とすべきという高度成長初期における産業政策論である。

 その論理は、高度成長初期の日本国内の乗用車市場の小ささを前提に、当時の技術水準で見ても、乗用車産業企業が規模の経済性を十分に実現するためには、日本の市場には乗用車メーカーは2社程度が適切であるという認識に基づくものである。それゆえ、後発の東洋工業(現マツダ)、プリンス等の乗用車市場への参入は規模の経済性の実現という意味でも、当時の遅れた日本の乗用車産業にとっては、「過当」な競争をもたらすから、後発企業の参入を抑え、さらには排除し、2大メーカーに集約すべきである、という政策的議論である。ましてや二輪車メーカーのホンダや鈴木の乗用車産業への参入は政策的に断固阻止すべき、といった内容ではなかったかと思う。かなりうろ覚えであるが。

 ここでの重要な点は、当時の産業政策担当の通産官僚の認識では、世界市場で競争できる規模の経済性を実現することが第一であり、日本市場を前提にそのことを考えると2社程度に集約し、国内市場で規模の経済性を発揮させる必要であるということである。すなわち、国内企業間の企業間競争を抑え、世界市場に打って出られる規模の経済性を最初から発揮できる企業を政策的意図で作ることが可能であり、必要である、ということになる。それが国際競争力を日系企業が発揮するためには不可欠である。このような理解であるといえる。

 このような通産官僚の思惑による政策が、実際には実行されず、「過当競争」的な乗用車産業への参入がその後も生じたが故に、1980年代後半以降の日米貿易摩擦の中心が日系企業による米国への乗用車輸出となるような日系乗用車メーカーの発展が生じたと言える。結果的には、「角を矯め」て「牛を殺す」ことが無かったが故に、日系工業企業の世界的な展開が1980年代以降に発現したといえるのである。

 このような日系工業企業の発展展開、90年代以降の相対的停滞についての議論は別として、一度は世界市場の主導企業としての地位を多くの産業で実現した事実、これを思い起こすと、今の中国の状況を光とその影として見ること自体は妥当だと、私も思うが、その影自体を解消する政策を、光をもたらした要因の「是正」という策にすべきということには、疑問を感じざるを得ない。しつこいが、「角を矯め」て「牛を殺す」ことがない形での軟着陸を模索すべきなのではないかと考える次第である。

 呉氏は、最後に「せっかくの「光」の輝きも国内外の摩擦に覆われ、色あせることになりかねない」と結んでいるのであるが、「せっかくの「光」」の元を断ってしまっては、光が色褪せるどころか消えてしまい、元も子もないということになろう。ただ、ここでの呉氏の議論もかつての通産官僚の議論と同様に、実際には実行されず、中国では、「産業の育成と支援」をめぐる「地方政府間の熾烈な競争」は、今後もしばらくは続きそうに、私に思えるのであるが。