ウクライナへの侵略下におけるロシアの工業再考
渡辺幸男
はじめに
まず現在のロシアの工業を考える際に必要なことは、現在のロシアの産業の母体となったのは旧ソ連からの産業であり製造業であるということと同時に、旧ソ連圏内完結型という独自な構造を持った、ロシアを中心とした独自に形成された工業生産の構造自体は、1990年代に完全に解体したということである。
ロシアがその中核を成していた旧ソ連圏内の工業は、それぞれの産業部門の製品が国際競争力を持っていたかを別として、旧ソ連圏内で農業製品や鉱業製品の一次素原料はもちろんのこと、工業製品のほぼ全てを、非耐久消費財のみならず、耐久消費財や資本財、そして軍需製品等、ほぼ全てを部材の一次加工から、そして完成部品・完成品に至るまで圏内で、しかもほぼ完結する形で生産するという特徴を持っていた。生産が可能なだけではなく、圏内の需要をほぼ充足、輸入に依存できないし、しないということから需要が抑制されていたにしても、生産能力に規定されていながらも、圏内の需要を圏内生産で充足していたといえる。
この意味での旧ソ連圏内需要の充足は、人工衛星やジェット旅客機あるいは量産乗用車、金属・機械生産のための工作機械、そしてアパレル製品やその生産のために繊維機械といった、実に幅広い工業製品についてもの充足であった。このような状況を「旧ソ連圏内完結型の生産構造」と、私は呼んでいる。この完結型の生産構造で生産される製品の特徴の一つは、工業製品の多くについては、米欧の市場で競争力の持つ製品の生産ではなかったことである。量産乗用車ラーダが代表していたように米欧製品との競争のない旧ソ連圏内でのみ存立し販売できる商品群がほとんどであった。
国際分業型の構造へと変化
この旧ソ連圏内完結型の工業生産が、旧ソ連圏の解体、ソ連邦の崩壊解体により、ロシア連邦が生まれ、そのロシアが旧ソ連圏内の主要産業について、一次製品生産とともに工業製品生産についても受け継いだが、米欧、特に欧州との競争、自国内市場についても、欧州製品との競争にさらされ、大きな構造変化を被った。1億4千万人規模の市場となったロシア連邦市場は、西欧諸国に比べ所得水準はかなり低かったが、以下で述べるような一次産品とその一次加工品については、高い国際競争力を持っていたこともあり、低所得国化することなく、中所得国としてそれなりの大きさの市場を提供し、かつ一次産品輸出を通しての海外製品の購入能力を持つ、市場として一定以上の大きさを持つ、かつ一定程度の経済成長を実現していたこともあり、西欧諸国企業にとって販売市場として魅力的な経済となった。
しかも、一方的な市場開放と一部オリガルヒによる経済支配により、市場開放の成果が、多くのロシア国民に行き渡らず、富の顕著な偏在が生じた。そのような旧ソ連解体直後のロシア経済に対し、エリツィン大統領を引き継いだプーチン大統領は、資源企業の国有化や課税強化を通して、天然資源輸出とその一次加工品輸出での国際競争力を利用し、財政収入を豊かにし、年金改革等を通して一般国民の消費水準の底上げを実現した。そのために、ロシアルーブルの為替レートを高く維持し、国際競争力のある天然資源輸出そして農産物輸出で稼ぎ、国民の生活水準の向上を、一定程度、持続的に実現することに成功した。
すなわち、旧ソ連時代に保有していた工業製品の生産能力の改善による工業製品の国際競争力強化による輸出拡大ではなく、国内工業生産能力の減退を放置しながらも、豊富な天然資源の輸出を通しての工業製品の輸入能力の増強を実現し、高為替水準を通して、国民生活水準の上昇を実現したのである。
国内(旧ソ連の場合は圏内)完結型の生産構造の放棄、ある意味での国際分業関係強化、自国の得意分野へのシフト、これらを通して、これまでよりは豊かな国民生活を、早期に大々的に実現した。これが2000年代のロシアということができよう。そこで生じたことは、旧ソ連圏内として保有していた工業製品についての圏内完結型の工業の多くを、欧州や中国の工業製品に、部材を含め依存する構造へとシフトさせる、ということであった。自立経済圏志向の旧ソ連圏的なあり方から、豊かな天然資源と農産物輸出国へのシフト、1億4千万人の国民経済を、オーストラリア型の豊かな天然資源と農産物輸出に依存し成長する一次産品輸出依存国へとシフトさせたのである。
これは、巨大な社会実験である。オーストラリアの人口は2500万人強であり、ロシアの人口の5分の1以下にすぎない。原油輸出で成長したサウジアラビアの人口は3600万人弱であり、ロシアの4分の1程度である。1億4千万人の国民を天然資源と農産物の輸出で豊かにし続けることは可能なのであろうか。この発展方向を追求することで、先進工業国並みの一人当たり所得の水準を実現することは可能なのであろうか。
この点で参考になるのが、南米の姿であろう。豊かな農産物と工業用原材料資源に恵まれながら、南米のブラジルやアルゼンチンといった諸国は、中所得国から高所得国へと発展することができず、かつてはそれらの国よりかなり国民所得水準が低かった日本経済に対し、大きく遅れを取るといった状況となっている。それに対して、米国(USA)は、19世紀においてその南部は欧州向け農産物輸出により経済成長を実現していたが、南北戦争を契機としているのかどうかは別として、北部の工業化が優位となり、先進工業国としての国際競争力を19世紀から20世紀にかけ実現し、高所得国であり、大量の移民も受け入れ、人口的にも3億人を超える覇権国家となった。幅広い工業生産での優位を維持することなく、1億人を超える規模の国民経済で、高所得化を実現した国家はいまだ存在していない。
このロシアの工業製品の国内生産、特に基幹的な工作機械や産業機械等の資本財、また半導体等の先端部品の国内生産の「放棄」を、ロシア経済の「非工業化」と、私は呼んでいる。私が目を通すことができたロシアの工業の2000年代の動向を示した統計的実態を含めた実態調査を踏まえた日本語で書かれた実証研究、藤原克美氏のロシアの繊維産業と繊維生産のための繊維機械産業についての著作(藤原克美、2012年)、丸川知雄氏と服部倫卓氏のロシアの鉄鋼製品輸出についての共著論文(丸川知雄・服部倫卓、2019年)、ジェトロのロシア工作機械についての報告書(日本貿易振興機構、2021年)、いずれも、工業生産、特に資本財や自国天然資源の加工製品でもその2次加工品についての国際競争力の喪失ないしは無さ(元々持っていなかったが、経済体制ゆえに維持できていたというべきだが)と、輸入への代替を明らかにしている。藤原氏の著作は、資本財のみではなく、主要アパレル製品といった非耐久消費財でも国内生産はほぼ消滅したという、衝撃的な事実を紹介している。
ただし、ロシア経済は、国による調達と輸出を軸とする軍需製品生産だけは、旧ソ連圏内完結型の生産体制並みの水準を保持し、その限りでは軍事産業それ自体として健在といえよう。ただし、20世紀末から21世紀にかけて、一挙に進展した、軍需製品のIT化にかんしていえば、ロシア軍需工業は旧ソ連経済産業の解体後の時期に於ける軍需関連IT部材や製品の国際的な技術進歩にまったくついていけず、国内企業の生産基盤を形成できず、輸入部材依存になっていた。その意味では、非軍需工業生産部品や製品とほぼ同様な状況に陥っている。
このように先進工業国生産体制に組み込まれた一次産品輸出国である経済そして「工業国」であるロシアが、ウクライナ侵略を開始し、その結果として、欧米日の先進工業国からの厳しい経済制裁を被ったのである。欧米日からの経済制裁により、国内に存在する既存完成工業製品の補修用部品に関する部品調達についても、元来の生産販売メーカーから調達できなくなった。そのため、ダミー企業や迂回輸入を利用し、あるいは中国製への代替を図り、部品等の調達を図った。その結果として、当面、ロシアは工業生産水準を、縮小一辺倒にすることなく、一定程度の水準に維持することには成功したようである。
また、米欧から輸入規制を受け、船荷保険の適用が制限され、輸出が抑制された原油等についても、中印等の非西欧国との取引を拡大し、一般的な相場よりかなり低い水準ではあるが、原油輸出について量的水準を維持しているようである。そのために、ロシアの原油生産国有会社ロスネフトが、インド国籍の石油タンカー保有会社の設立に関わった模様であり、その企業は世界中からタンカーを買い集め、世界有数、世界第11位のタンカー保有企業として突如出現し、ロシアからインドへの原油輸出を実現していると報じられている(Wilson, 他、2023年)。米欧企業が支配している輸出の際の保険の利用も制約されているが、この企業は特定国との取引に専業化することで、この問題を回避し、一挙にインドへの輸出を拡大したというのである。
このような対応は、輸出それ自体は、米欧以外の諸国からの需要を利用し、自ら輸送手段を調達することで実現している。が、しかし、低価格販売と、コスト増加の双方で、大きな負担を強いられるとともに、平時に戻った際の輸送船団維持ないしは処分等についての負担が巨大となる可能性を同時にもたらすものであるといえる。非常時ゆえに、数量の充足を第一に短期でかき集めたタンカー、これをきちんとメンテナンスを行い、維持し、平時において国際競争力のあるタンカー群にしていくことが可能であろうか。造船能力のないロシアが、必要に迫られかき集めたタンカー群、量的にはそれなりに集まったようだが、平時における競争力維持は、大いに疑問とされよう。
長期的展望を持つのであれば、遠回りでも、自国内での造船業の強化を実現し、生産とメンテナンスの双方の能力を充実しながら、自国製造の船での運輸能力を確保するのが、王道であろう。しかし、その時間はなく、結果的には、弥縫策に終わり、戦争が終われば、無に帰す原油タンカー群であると思われる。
いずれにしても、軍需品の生産維持を優先しながら、工業生産水準の維持に努めた結果、軍需品ではない乗用車の生産は3分の1以下に低下している。もちろん、ロシアでの乗用車生産は、輸出競争力のない乗用車生産であり、特にロシア系メーカーはそうである。最近の乗用車には必須となっているようなABSのような機構さえも組み込むことができない、ただ走るだけの旧ソ連時代レベルの乗用車の生産でも、その生産量が3分の1以下に落ち込んだのである。日本製の中古車の輸入は活発化していることから見て、この乗用車の国内生産の縮小は、需要の縮小以上に、生産能力の問題の結果としての縮小であると言えそうである。
さらに、資本財(工作機械等の産業機械、あるいは航空機等の産業用輸送機械)の輸入は正規ルートでは不可能となり、それらの補修用部品も正規ルートを通しては入手困難となっている。
その結果、旧ソ連圏時代は、ソ連圏内で完結型生産体制を構築したことで、資本財から耐久消費財そして消費財を、先にも指摘したように原材料から一次加工そして部品さらには完成品と全てソ連圏内で生産可能であり、ほぼ自給していた。しかし、現在は藤原克美氏が示すように、繊維製品用資本財は輸入、民需用の中高級繊維製品も輸入依存となり、カーテン生地等を国内生産するのみということである。
また、ジェトロの報告書によれば、国内利用の工作機械のほとんどを輸入しているとされている。さらにいえば、半導体の本格的な生産能力はなく、一部半導体の企画開発はできるが、先端半導体については、全面的に企画開発そして生産とも、海外そして海外企業に依存している状況にあるとのことである。
丸川・服部両氏によれば、国際競争力のある鉄鉱石資源がある等から、鉄鉱石の一次加工品には国際競争力があるが、2次加工鉄鋼製品の国際競争力はなく、鉄鋼の国際販売はできるが、鉄鋼完成品の国際競争力はないと指摘されている。原油と天然ガスの鉱物燃料の輸出能力と輸出競争力を保有し、農産物とその一次加工品等の輸出能力と競争力も保有している。これらと鉄鋼等の鉱物資源の一次加工品の輸出競争力で、1億4千万人のロシア国民の生活水準向上を実現し、それを維持している状況である。それにもかかわらず、主要資本財や消費財の工業製品についての輸入元の欧州を敵に回す可能性が大なウクライナ侵略を敢行した。
以上が、2022年のプーチン政権下のロシア工業を中心としたロシア経済の状況と言える。それにもかかわらず、なぜ、ウクライナ侵略が可能と考えたのであろうか。2014年のクリミア半島強奪の「成功」の体験こそ、このようなロシアのプーチン政権の判断の誤りを導いたのであろう。クリミア半島強奪をほとんどロシア軍が無傷のまま実現し、その際の米欧のロシア経済に対する制裁もロシア経済にとって決定的なダメージを与えるものとはならなかった。
まずはゼレンスキー政権の短期間での崩壊を前提に、その後に傀儡政権を樹立すれば、米欧の経済制裁も、多大な影響を与えるものとならず、形だけのもので終わる、という読みがプーチン政権にはあった。このように考えることによってのみ、ロシア政府のウクライナ侵略実行について理解することが可能となる。ロシア経済、特にその工業は脆弱であり、長期の本格的な戦争、他国侵略とその維持については、主要先進工業国からの本格的経済制裁の下で耐えられる水準にはない。先進工業国からの部材や完成品の供給に大きく依存する工業製品をもとに軍需品生産を行っている国が、何故、主要先進工業国の経済制裁下で、必要な軍需生産を維持できるのであろうか。たとえ、原材料等の輸出により、外貨を稼ぐことが維持されたとしても。
ボタンの掛け違い、ウクライナ侵略が短期収束し、ロシアにとって友好的な傀儡政権樹立につながる、という読み、このもとに侵略を開始した。しかし、読みは全く外れ、戦闘は長期化し、自らの軍需生産のための工業基盤の脆弱さを痛感せざるをない状況に陥ったが、他方で政権維持を可能とするような妥協の余地がロシア現行政権にとってはなくなった。このように見ることができよう。
核保有国ロシアを核戦争に突入させることなく、経済制裁を通してロシア経済をじわじわと締め付ける、このような状況は、ロシアの資源輸出に依存することが少なく、ロシアを主要仮想敵国としてきた米国にとって、最適な姿ということであろう。また、欧州各国政府にとっては、資源依存の関係が強くあるロシアに対し、経済制裁を課し資源輸入を縮小することは、かなりの痛みを伴うものであるが、隣接するロシアの好戦的な姿勢に対しては、その痛みを背負うことも仕方がないことと国民に受容され、本格的な経済制裁、ロシア資源依存からの解放の追求となろう。特にバルト3国といった旧ソ連構成国やポーランド等の旧ソ連経済圏構成国を受け入れたEUにとって、旧ソ連からの独立国ウクライナへの一方的なロシアの侵略は、到底受け入れることができるものではないであろう。
このような2022年の2月24日に開始されたロシアのウクライナ侵略は、今や、2回目の夏を迎えようとしている。ロシアによるウクライナ侵略の戦線は膠着状態に陥っている。ロシアそしてウクライナ双方にとっての人的損失は、膨大な数字となっているようである。ロシアは、プーチン大統領の命運をかけた侵略を続行しているが、自国領土化を2022年の侵略後に宣言したウクライナの4州については、2014年に自国領土化を宣言したクリミア半島のようには、その諸州を全面的に占領することさえできていない。いわば、自国領土化したはずの東部と南部の4州内で、依然としてウクライナ軍との戦闘に従事し、対峙している状況である。全面的に占領をしてもいない州を、一方的に自国領土と宣言し、侵略を維持している。このような状況をロシア国民は、どのように認識しているのであろうか。
その結果は、長引く戦争状態、経済的、特に民需向け工業生産の縮小となる。乗用車需要を充足するためには、乗用車、生産台数が3分の1となった状況下では、正規販売ルートから新車を輸入できないゆえ、中古車しか輸入できない。工業生産は、発展途上国並みの生産へと縮小しつつある。同時に、旧ソ連型の完結型の工業生産の再建も不可能であり、工業生産能力のジリ貧状況の継続しかない状況へと向かっている。プーチン大統領にとっては、自らの地位を当面維持することができれば、後は野となれ山となれ、ということなのであろうか。
以上、ウクライナ侵略下でのロシア経済について、その工業生産の側面を中心に、今の時点で、手に入れた日本語資料をもとに、改めて、私なりに書いてみた。内容的には、ほとんどこれまで書いてきたものの焼き直しであるが、戦争開始後1年と2ヶ月を過ぎ、ロシア工業の限界がますます見えてきた今、当初の理解が大きく間違っていなかったことの確認も兼ね、あえて、繰り返し的内容をまとめてみた次第である。
それにしても、本稿は、私が手に入れることができたロシア経済、特にロシア工業の現況についての日本語文献が、いかに貧弱か、この点を露呈している論考とも言える。これは、私の努力の足りなさだけによるのではなさそうである。ロシアの工業実態について、日本の研究者にとって現場を見る機会がごく限られ、さらには統計自体の発表もさらに限定的になってきていることが影響しているようである。2000年前後から10年ほど中国工業の現場を歩き回って、実態を私自身の目で見ながら日本の戦後の工業発展の実態と比較でき、また多くの日本の研究者の目で見た実態調査報告や実態研究を読みながら、考えることができた、私の中国工業発展の研究、これができたことが、いかに幸運であったか、改めて感じている次第である。
参考文献
日本貿易振興機構海外調査部サンクトペテロブルグ事務所編、2021年
『ロシア工作機械市場概況』JETRO、2021年
藤原克美、2012年『移行期ロシアの繊維産業 ソビエト工業の崩壊と再編』
春風社
丸川知雄・服部倫卓、2019年
「中国・ロシアの鉄鋼業–競争力の源泉は何か?」
『比較経済研究』56巻1号、2019年1月
Wilson, T., C. Cook, C. Cornish & A. Stognei, 2023年
‘Mystery Mumbai company emerges as big transporter of oil
from sanctions-hit Russia’ Financial Times, 5月5日, 3ページ
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