2019年4月7日日曜日

4月7日 二宮町葛川の桜とエントランスの君子蘭

二宮を流れる葛川の土手の桜が満開となりました。
人通りのほとんどない橋の上から、
人家が見えないところで咲く桜を撮りました。

このあたりは、花見客もなく、
川の流れと桜が、とても良い感じです。

こちらは少し上流で、
やはり橋の上から撮った写真です。
奥に見えるのが、菜の花で「有名」な吾妻山です。

我が家の君子蘭も、
ようやく本格的に咲き始め、
霜の心配もなくなったので、エントランスに出しました。

 これから順番に咲き始めた鉢を出して、
4月中は、楽しめるのではないかと思っています。

エントランスでは、初冬の花、
クリスマスローズがまだ賑やかで、
ゼラニウムは、ますます多くの花房をつけています。
モミジの新緑も始まりました。

2019年4月4日木曜日

4月4日 中国の経済発展と「中進国の罠」

 下記は日経記事についての勝手なコメントであるが、主として取り上げた記事そのものは先月半ばの論説であり、かなり古くなっている。ただ、4月に入って紹介された深圳の産業集積についての記事と、あまりに中国経済についての認識が異なるので、改めて両者を念頭に置きながら、自らの考えを示したくなり、ここに掲載することにした。

原田亮介「中国のもう一つの憂鬱「未富先老」迫る 中進国の罠、どう回避」
日本経済新聞、2019318日、7ページ どう読むべきか
渡辺幸男

補完的記事: 山田周平「ASIA TECH」、見出し「深圳にカーボンナノチューブの拠点」「日本発新素材、中国で量産」「集う帰国組、政府の傘」「国内「移民」活力源に、創業文化 若者に定着」「組み立て工場から脱却」(日本経済新聞、201942日、14ページ)

0、論説委員長である原田亮介氏による記事の中核的論点(記事の抜き書き)
2000年代初めには「世界の工場」に躍り出て、その後はインフラや住宅・ビルの建設投資などで内需を底上げ
改革開放のスローガンは民営企業が躍進し、国有企業は後列に退くという「国退民進」だったが、その後は逆に「国進民退」が進んでいる
今回の景気の下振れでも民営企業は運転資金が足りず苦境にある
国有企業の寡占が進めば経営効率は二の次になり、独自技術も生まれにくい
1人当たりGDP1万ドルを超えるあたりから、途上国の経済成長が停滞する――。「中進国の罠」
問題はこうした旺盛な起業家精神をどのようにイノベーションにつなげるかだ

1、事実認識についての、いくつかの問題点
2000年代初めには「世界の工場」に躍り出て、その後はインフラや住宅・ビルの建設投資などで内需を底上げ」という認識は妥当か。
 海外市場向け輸出を外資の直接投資主導で実現したことが、改革開放後の中国経済の急成長の1面であることは確かであるが、同時に、新興企業(民営企業や地方国有企業)による国内市場向けの生産体系の再構築とその成長が、「世界の工場」とともに中国産業発展を支えた。2000年代の中国経済の内需拡大は、住宅建設投資と公共投資的側面が強い建設投資のみで語られるものではない。
 また、スローガンは「「国退民進」だったが、その後は逆に「国進民退」が進んでいる」という認識は、「国有企業の寡占が進めば経営効率は二の次」という認識につながるのであれば、大きな間違いを二重にしていることになる。すなわち、まずは、このような現象が生じた時期を、どう見ているかである。文章を読む限り、「国退民進」が言われはじめた時から「国進民退」であったように読み取れるが、それ自体は間違いであろう。当初は、民営企業主導、ないしは新興企業主導であった。民営企業が総体としても急激に相対的に拡大した時期が存在したことが欠落した認識である。また国有企業イコール寡占的大企業と見ること、またこのタイプの国有企業が産業全般で拡大していると見られかねないことと言った諸側面でも、誤解を生むことになる。
 国有企業には数多くの競争的(地方)国有企業が存在し、それらも民営企業の拡大とともに拡大したことは事実である。しかし、それらは、特定の部門で独占ないし少数寡占を認められた国有大企業とは異なる、極めて競争的な新興「企業」群である。国有企業イコール寡占的大企業と見ることは、中国の場合、大きな誤解を生じることになる。国有企業、特に巨大な中央政府国有企業、多くは寡占的市場支配を認められているが、それらが存立する分野は、いくつかの分野に限定される。製造業では鉄道車両製造等の特定完成品部門に限定されている。
多くの製造業部門の企業は、単に民営企業と競争するだけではなく、国有企業同士でも激しく競争するという意味での競争的企業である。もちろん、地方国有企業として地方政府によって支援されていることから、市場からの退出等では大きな行動上の差異が、民営企業との間に存在する可能性が大きいが、独占的な大企業ではなく、競争的企業であることも事実である。しかも、その多くは、改革開放以前から大企業として存在したのではなく、創業時期は別として、本格的に企業成長したのは、改革開放後である。
この記事の著者は、いわば常識的な後進工業化国での国有企業概念にとらわれ、中国の「国有企業」の多様性と、その存立の状況を見ていないことになる。

注記:このような後進工業化国での国有企業イコール寡占的大企業という発想は、後進工業化国政府の産業振興政策を、特定の大企業に担わせることが多いために生まれた発想であろう。マレーシアのプロトン等、まさにそれに該当する企業が世界中に数多く存在する。しかし、中国の国有製造業企業の多くは、そのような当初より、中央政府によって特別扱いされた寡占的大企業ではない。数的には圧倒的部分が様々な段階の地方政府国有企業である場合が多い。それらの企業は、競争的市場で存立する企業であり、歴史的に見れば、圧倒的な部分が競争により実際に淘汰されている企業群であり、競争的市場の企業群である。

2、「中進国の罠」の議論について
 本記事での「中進国の罠」とは、多分「中所得国の罠」と同義に使われているのであろう。ここで指標としているのは、工業発展水準が「中進」ということではなく、所得水準が一人当たり1万ドルに達したところという「中所得」ということであり、工業発展水準それ自体の評価からの議論ではなさそうである。
 すでにこのブログでも議論していたところであるが、「中所得国の罠」の議論は、中所得国という所得水準が、一定の経済構造や産業構造を意味しているかのごとく把握し、共通する政策的対応で一層の経済発展が可能と考えるような議論である。いわばロストウ的な量的発展段階で各国経済の発展状況を把握可能と考える議論の系ともいえよう。
私にとっては、当然のことなのであるが、例えば、戦後の日本経済とアルゼンチン経済とで、所得水準が中所得化した際のその発展の内容は大きく異なると理解している。結果として、その後の発展は、当然のことながら大きく異なっていた。中所得国となった時点で類似した経済構造や産業構造であり、その後の内的外的環境、努力や経済政策の違いが、両国経済のその後の差異をもたらした、といった理解は、私にとっては不可能なことである。
 しかし、「中所得国の罠」という議論は、まさにこのような量的な発展と経済構造のあり方とをほぼ同一視し、それゆえに同様な内容で、その後の展開の課題が把握されるという議論と言える。外資の進出を軸に所得が中所得化したという共通認識があるがゆえに、アセアン諸国と中国とを同一の発展経路で把握可能と考えているのであろう。そして、経済政策としては、多くのイノベーションを実現することを促進する以外ない、という政策提言をする議論でもある。しかし、「中所得国の罠」の議論では、そのイノベーションが、当該経済ではどのような発生可能性が存在するかの分析は抜きに語られているように、私には読み取れた。
 日本とアルゼンチンを比較すると、現在では、両国の所得水準は大きく開いているが、戦後のある時点では両国はそれぞれ中所得国であった。というより、アルゼンチンの一人当たり国民所得が日本のそれを上回っていた。このような状況にあった日本とアルゼンチンの第2次世界大戦後の経済発展ないしは経済展開の歴史を遡れば、同じ所得水準の達成が、同様な経済構造や産業構造を意味しないことは、多くの人にとって当然のことと考えられよう。日本の工業発展を軸とした高度成長と高所得国化、農業大国であるアルゼンチンの停滞と高所得国化ないしは高所得水準の維持の失敗、これを、類似の経済構造を前提にした上での、同様な政策的課題への対応の巧稚の差異に帰すことができるとすれば、この議論は成り立つことになるが、私には、そうは考えられない。両国は、それぞれ中所得国化したその時点での、経済構造と産業構造がそもそも根本的に異なり、そのことが、その後の発展の大きな差異に決定的な影響を与えたと、私は考える。
 このような発想の人間である私にとっては、「中所得国」共通の経済構造や産業構造が、中所得国化したゆえに存在すると、直線的に考えることはありえないのである。個別の経済の中所得国化の経路、その実現をもたらしたそれぞれ独自な構造を踏まえてこそ、その後の発展への展望と政策的課題に関して、それぞれについてのそれが明らかになる。このように考える。

3、新企業の簇生
 この記事のもう1点興味深い点は、最後に簡単に触れている、中国での新会社設立の数が、半端でなく多いということである。日本の年間設立数を1週間で実現していると述べている。そして、「問題はこうした旺盛な起業家精神をどのようにイノベーションにつなげるかだ」と締め括っているのである。
 この記事が見ている大量の会社設立が、新企業そのものの形成をそのまま表現しているとは言えないが、新企業の大量形成を反映していることは確かであろう。それだけ多数の新企業が毎年生まれていること自体は、それだけで競争が各部門で極めて激しいことを意味している。企業は新旧いずれかの産業部門に参入する形で形成されるのであるから。だが、参入競争が激しい産業部門でも、市場自体が縮小するような産業部門では、過当競争となり、積極的な経営が成功する余地は小さくなり、新旧企業の共倒れの可能性が高い。しかし、中国の市場は、多くの部門で拡大過程にあり、潜在的に存在する市場を含めれば、その拡大余地は極めて大きい。そこで競争が激しくなれば、結果として多様なイノベーションが生じるというのが、経済学の常識ではないのか。中国経済での非常に多数の新規開業の存在を認めながら、それがイノベーションにつながらないというのであれば、そのように中国経済の場合については考える根拠を逆に示す必要があるのが、経済学の常識であると思うのだが。

補 201942日付の「ASIA TECH」記事をどう見ているのか
 この「ASIA TECH」という連載の初回の記事は、同じ日の日経1面に「中国特許、深圳が過半」「昨年出願件数 米中で世界の4割超」という見出しの記事が書かれ、それを受けての中国広東省深圳の産業状況を紹介する記事でもある。14面の記事の見出しの一覧表からもわかるように、深圳での産業発展、それも電子機器産業を中心とする多くの創業と研究開発を伴った発展、これまで多くの研究者によって紹介されてきたこれらの点を、コンパクトにまとめて紹介している記事である。
ここから見えてくる点はいくつもあるが、先の原田記事との関連でいえば、中国での特許の過半を占める深圳では、創業が多く、新たな分野の開拓を含めたイノベーティブな活動が活発に行われているということの紹介が注目される。原田記事の、多数生じている創業をイノベーションに繋げられるかどうかが課題、という認識は、このような状況と矛盾するように、私には思われる。果たして、原田日経新聞論説委員長は、自社の記者の認識をどのように踏まえて、自らの記事を書いているのであろうか。

まとめ
私には、原田論説委員長が、現場の人間としての記者の現状認識から学ぶよりも、学会での理論としての「国有企業」論や「中所得国の罠」論の諸議論に学ぶことが多い方ではないかと、見えてしまう。これは邪推であろうか。今、中国で何が生じているのか、その担い手は、具体的にどのような存在なのか、単に「国有企業」だから、所得水準が「中所得国」になったから、既存理論を当て嵌めて見ると、こうであろうということでは、今後生じるであろう現実の展開については、全く何も見えてこないであろう。
理論を当て嵌めるのではなく、実際の中国の新興(国有)企業群が、どのように行動し、起業家がどのような分野で創業しているのか、見る必要がある。既存理論での概念の直接的な当て嵌めで現状分析をするような、理論から演繹することが好きな一部の「研究者」が持つような目ではなく、まさに「現場記者」の眼で見て、帰納的に現実を分析し、それを踏まえて論じることこそ重要であろう。