資料 渡辺幸男の実態調査研究の方法 事例紹介
はじめに
事例1 1960年代日本での零細企業に関する渡辺幸男の興味深い現象の発見と、
そこからの何故の路、そして論文の作成
実態調査研究を通して、「仲間」取引を発見し、
興味深い現象の論理的説明を実現すると言う研究方法
事例2 機械工業における業種分類の意味についての疑問と、
山脈構造型社会的分業構造の発見への路
事例3 産業集積の地理的広がり把握に関する疑問と、広域機械工業圏への路
おわりに
参考文献(上記に関連した渡辺幸男の著書と論考)
参考文献について
はじめに
本稿は、筆者のこれまでの研究方法と、そこでの発見を紹介することで、仮説構築を追究するフィールドワークを中心とした実態調査研究の有効性を、筆者なりに紹介することを目指している。筆者は、1976年に、研究者としてはじめて本格的にフィールドワークを中心とした実態調査研究をおこなった。同時に、実態調査の対象として筆者が選択したのは、筆者がそれまで既存研究のレビューと統計的確認でしかかいま見ることができなかった、当時急増していた機械工業零細企業であった。興味深い現象に注目し、その現象をめぐる既存の議論と既存の実態調査研究を既に検討していたことが、対象の選択に大きな影響を与え、結果として、当初の論争の枠を超えたいくつかの発見につながった。そこでは、たんに既存の議論のどれが現実を説明するのか、妥当するのかといったことのための実態調査、既存の仮説の実証ともいうべき調査ではなく、関心を持った現象を、自らの調査を踏まえ、自ら論理的に説明しようとするための実態調査をおこなうこととなった。
当初より、何処まで方法的な意味で明確な認識を持っていたかは疑問であるが、先人が打ち立てた仮説だけでは、身近な現象を充分に説明できないという基本的な認識があり、自ら説明する論理を構築することを意識していたことは確かである。そのような発想を持っていたのは、父親から散々「理屈ではそうだが、現実は違う」という批判を、筆者は受けていたことが大きいと思われる。これに対する反論を目指し、現実そのものを論理的に説明するという志向が、かなり早期から存在していたと、今の時点では考えている。
当初より、何処まで方法的な意味で明確な認識を持っていたかは疑問であるが、先人が打ち立てた仮説だけでは、身近な現象を充分に説明できないという基本的な認識があり、自ら説明する論理を構築することを意識していたことは確かである。そのような発想を持っていたのは、父親から散々「理屈ではそうだが、現実は違う」という批判を、筆者は受けていたことが大きいと思われる。これに対する反論を目指し、現実そのものを論理的に説明するという志向が、かなり早期から存在していたと、今の時点では考えている。
事例1 1960年代日本での零細企業に関する渡辺幸男の興味深い現象の発見と、 そこからの何故の路、そして論文の作成
実態調査研究を通して、興味深い現象の論理的説明を実現する、と言う研究方法
出発点 1960年代、特にその後半以降、日本経済での初めての人手不足が生じ、その下で、機械工業そして繊維産業で、また大都市と農村で、零細企業の増加が目立っていた。この現象について当時の中小企業研究者達が注目した。人手不足が生じているように雇用機会が急増している高度経済成長過程にあるにも関わらず、何故、零細企業が増加しているのか、と言う疑問である。
その背景には、これまで零細自営業、特に新規開業の多くを、窮迫的自立、すなわち他の就業機会がないゆえに、自ら自営業を創業したのが零細企業経営者と言う見方が支配的であったことによる。雇用機会に恵まれないから、仕方なく自営業を開業する。だから、低収入ないしは低所得であり、大企業等での安定した雇用機会をみいだせれば、被雇用者化する層と想定されていた。
その背景には、これまで零細自営業、特に新規開業の多くを、窮迫的自立、すなわち他の就業機会がないゆえに、自ら自営業を創業したのが零細企業経営者と言う見方が支配的であったことによる。雇用機会に恵まれないから、仕方なく自営業を開業する。だから、低収入ないしは低所得であり、大企業等での安定した雇用機会をみいだせれば、被雇用者化する層と想定されていた。
1960年代後半以降、機械工業で零細企業が急増したことをうけ、窮迫的自立とは異なる説明が必要となり、当時の中小企業研究の第一人者である瀧澤菊太郎氏と清成忠男氏が、それぞれ新たな説明を提唱し、両者を中心とした論争が生じた。
瀧澤氏は、低賃金相当の工賃収入であるが、労働時間の法的規制のある被雇用者よりも、自営業主は自営業主故に長時間労働を実行することが可能となることに着目した。一人当り労働時間を柔軟に増大できるゆえに、大手工場の人手不足の解決策の一環として直接・間接に外注先として零細企業を利用することを拡大した。その結果、創業が増加し、それゆえに零細企業層が拡大というのである。
他方で、清成氏は、最新技術を利用した零細企業の生産性の高さ故に、外注利用が増え、単なる低賃金相当の工賃支払いのためではなく創業が増え、それゆえに零細企業層が増加していると主張した。
この論争で どちらの議論が正しいか、という論点から零細企業研究への関心が、中小企業研究、特に小零細企業の実態研究に向かわせる筆者にとっての直接の契機となった。博士課程の最初の1年余、とりあえず、この両氏の議論の妥当性を検討するために、零細企業創業についての既存の議論や、日本各地の各産業での実態調査研究をレビューし、自ら統計的事実の確認を工業統計表や、就業構造基本調査等を通しておこなった。
工業統計表等を確認しただけでも、両氏の議論がいずれも間違っていると思われることを発見した。零細規模での新規創業は高度成長期の前半からすでに多かった。しかし、高度成長期前半においては、創業企業が雇用者を増加させることは容易であり、経営の拡大に応じて従業者規模の増加が多くの創業企業で生じ、零細規模層での滞留は限定的であった。この状況が人手不足で変化し、従業者規模の拡大が相対的に困難となり、零細企業として滞留し、結果として零細企業層の企業数の増加をもたらした。それゆえ、それぞれ上記のような理由で零細企業層の増加を論じた両氏の議論は、どちらの議論も妥当なものではないことが明らかになった。しかし、これだけでは、どのような企業が実際に創業し、従業者規模を増加せずに零細企業として再生産しているのか、これらのことは統計的事実の確認からだけでは、全く把握できなかった。
何故、創業が大都市や農村でも多く、多様な産業で多かったのであろうか。またそのような企業はどのような理由で創業可能であったのであろうか、と言った疑問には、全く答えることができなかった。筆者自らによるフィールドワークがないまま、池田正孝氏の伊那や諏訪の機械工業の調査や、丹野平三郎氏や青野壽彦氏の繊維産業の調査等を利用することで、創業が多様な地域や産業で多いことについて、それぞれ独自な理由がありそうで、何か1つの論理で多様な産業での零細企業の増加を、零細企業の増加であるということだけで説明することには無理があるということを、推測するにとどまっていた。
1960年代後半以降の零細企業の増加と言う興味深い現象について、何故の一定の積み重ねをしたが、ここまでで終わったのが、筆者の最初の公刊論文「零細規模経営増加についての分析」(『三田学会雑誌』67巻10号,1974年10月)の事実上の内容であった。筆者なりの検討を加え、独自な仮説を構築するべく努力したが、曲がりなりにも独自なものとして構築した仮説・論理的説明は、既存の主要な主張の否定を統計的事実で説明するに留まり、積極的な主張を伴う仮説・論理的説明の構築には至らなかった。
自ら増加する零細企業の実態をみることで確認できないまま過ごす中で、清成氏が注目し、自らの零細企業増加に関する仮説・論理的説明の根拠の1つとしていた、大田区等の東京の零細企業についての実態調査の機会を得た。東京都労働局(当時)の委託調査である「東京の家内労働調査」を、佐藤芳雄慶應義塾大学商学部教授(当時)が主査として受託し、当時大学院で実態研究に踏み込む機会を得ないまま他の研究者の調査研究に依存しながら中小企業研究をしていた院生であった筆者たちを、実態調査のメンバーとして動員してくれた。「佐藤マフィア」と当時自称していたグループの誕生である。佐藤教授を中心に、池田正孝中央大学教授、伊藤公一千葉商科大学専任講師、大林弘道神奈川大学専任講師、三井逸友院生と私からなる調査チーム(職位等は、いずれも調査参加時点でのものである)である。
この実態調査研究の一環として、筆者は、大田区を中心とした東京城南地域の機械工業関連自営業者と墨田区を中心とした東京江東地域の螺子製造関連自営業者の、いずれも東京の機械工業関連零細企業の存立状況の実態調査を担当することとなった。これ自体の報告書は、『家内労働の実情-東京都家内工業業種別実態調査結果報告書-』(東京都労働局,1977年3月)として刊行されている。筆者は、この報告書では、「金属加工業-城南地区-」と「金属製品(ねじ・挽物)製造業―城東地区―」を担当執筆した。
この調査研究によって、東京都労働局の協力を得ながら、1976年の1夏で大田区と墨田区等の城東地区の零細企業(特に夫婦2名の自営業)中心に、50社強での聴取り調査を、佐藤ゼミの学生らの協力を得ながら筆者自ら行うことができた。この実態調査研究に参加したことを通して、筆者自身としては、東京の機械工業関連零細企業層の増加の論理の解明を目指すことになった。漸く、何故が、実態調査を通して追究できる状況が生まれたのである。
<受注工賃の地域間での差異の発見> この実態調査を通して、自ら、何故、大田区等、大都市東京の機械工業で零細企業が増加しうるのか、発見し、確認する作業に取り掛かることができた。
<受注工賃の地域間での差異の発見> この実態調査を通して、自ら、何故、大田区等、大都市東京の機械工業で零細企業が増加しうるのか、発見し、確認する作業に取り掛かることができた。
当時、旋盤加工の零細経営の受注工賃は、大田区では1時間当り1,100円(普通旋盤、被雇用者なし自営業)から1,500円(フライス盤加工、被雇用者なし自営業)という状況が、まずは確認された。他方で、中央大学経済研究所の日立地域の日立製作所の下請中小企業の調査によれば、日立地域の下請中小企業の受注工賃に関して、1時間当り500円以下(普通旋盤、被雇用者ありの中小企業の場合)と報告されていた(中央大学経済研究所編『中小企業の階層構造 -日立製作所下請企業構造の実態分析-』(中央大学出版部、1976年)p.53)。また、日立製作所の日立地域の下請企業の受注工賃が例外的に安いのではなく、京浜地域が例外的に高いということも、他の調査報告書等で確認された。 何故、日立等での中小企業の受注工賃と東京の零細企業の受注工賃とに、このような大きな差があるのに、東京の零細企業に下請加工の仕事が発注されるのか。これがそこから生まれた最大の疑問であり、それを論理的に説明するために、より突っ込んだ実態調査研究とその分析が必要とされた。
<実態調査を通して確認されたその他の事実> 実態調査を通して、受注工賃以外の点についても、東京の大田区等の機械工業小零細企業の持つ独自性が確認された。大田区等の東京の小零細企業の仕事は下請的部分加工についての受注生産であり、加工そのものとしては技術的に日立地域での汎用旋盤等の機械加工等と大きく変わるものではない。ただし、大きく異なるのは、受注内容、すなわち同一の受注内容の仕事の継続性、同一企業からの受注の継続性、受注ロットのサイズの大きさと安定性といった点である。大田区等の零細企業の受注には継続性がなく、ロットサイズは小ロットサイズに偏った上に大小様々であり、かつロットサイズにも安定性が無いという特徴が見られた。受注の質が異なり、特定の企業から、安定的に受注を確保、それも同様な受注内容の仕事を継続的に確保できる状況とは、大きく異なる状況にあることが確認された。取引先企業の変動も含めて、きわめて変化の激しい受注に依存していることが明らかになった。
東京の零細企業が受注している仕事は、受注単価は高いが、不安定でロットサイズも小さい、しかも、個別の取引関係としては安定しない受注内容であるといえる。多少単価が高いにしても、このような変化の激しい不安定な仕事で、何故経営を維持できるのであろうか、と言うのがつぎの何故であり、疑問であった。1つは個別の取引関係が継続的かつ安定的でないのに、何故経営が成立つのか、と言う疑問である。今1つは、常に変化する仕事に、加工を受託する側が、どのような工夫をすることで、対応可能となるのか、と言う疑問である。
日立地域のように、日立関連の仕事を安定的に確保し、大ロットサイズの仕事を継続的に受注可能であれば、受注が途切れることもなく、また頻繁に段取り替えする等の手間もかからず、ある幅の中で発注され受注される内容的に安定した仕事の加工に集中することで、充分経営を維持することが可能となる。下請企業としての特定の取引先との関係維持のための経営努力は必要だが、それ以上の経営をおこなう必要は少なく、新規の受注先開拓をする必要も限定的である。
他方で、京浜地域の不安定な受注に依存している小零細企業は、業主自らが加工を担当するのが当り前の自営業主でありながら、多様な取引先と絶えず交渉することが必要となる。すなわち、新規受注開拓と言った経営努力を含めたような経営が必要となる。また、変化する仕事内容に対応する、単なる加工能力の習熟に留まらない、加工内容の頻繁な変化に迅速に対応するような熟練技能が必要となる。 柔軟かつ迅速な段取り替えに関する熟練が形成され、そして、より一層の柔軟対応を可能とする「仲間」が存在し、結果として、半端な仕事が、単価が高いのに関東一円から集まる状況が形成された。このことが、東京の小零細企業が不安定な受注に依存しながら、層として再生産され、1960年代後半から1970年代にかけて層として拡大した理由である。
多少単価が高いが、手間がかかる、安定しない仕事内容の加工とは、安定した仕事を充分確保できている他の地域の受託加工企業にとっては、通常と異なる習熟を必要とし、それがなければ面倒なだけの仕事であり、引受けようとはしない仕事である。それでは、何故、京浜地域の零細企業は、他の地域の企業が引受けないような、そのような面倒な仕事を引受けるのであろうか。さらには、引受けることができたのであろうか。
このような状況が生じたのは、何故か。零細企業経営者が望んで、積極的にそのような需要を開拓したのではない、と言うのが、聴取り調査をした結果であった。かつては、京浜地域の零細企業も、地域内に多数立地していた量産工場からの仕事のうちの一定部分を受注し、経営を成立たせていた。特定企業との安定した取引的繋がりの中で、相対的に小ロットサイズの仕事を受注することで経営を成立させていた。それが、1960年代後半からの量産工場の域外転出で、特定取引先との安定的な取引関係を維持することが、地域に立地する中小零細企業全体として困難になった。他方で、本社機能や研究所が多く立地しかつその機能は拡大し、また一品生産の重電工場や造船所等が依然として立地を継続していたこともあり、小ロットサイズの変化の激しい仕事の受注機会は、相対的に豊富にかつ増加傾向で存在していた。
その結果、京浜地域の小零細企業は、日本国内の機械工業集積地の中で、はじめて量産工場に依存して立地することができない環境下におかれ、かつ不安定な仕事そのものは増加傾向にある状況におかれた。環境の変化に強制され、生き残るために、量産工場の転出に追随せず京浜地域に残った機械工業小零細企業は、安定的な受注に依存せず、変化の激しい受注に依存して生き残る方向で、まずは個別経営として対応する努力を始めた。
しかも、変化の激しい受注内容の仕事に、柔軟かつ迅速に対応するのには、個別小零細企業の経営内努力では、大きな限界がある。同時に、周辺には、同様な加工内容の小零細企業や、それぞれ得意な加工内容を異にする小零細企業が、多数存在し、同様な悩みを抱えていた、さらに、これらの企業の経営者は、出身企業でのかつての同僚であったり、機械商や材料商を介しての知り合いであったり、さらには近所の飲み屋仲間であったりして、直接、間接に相互に知り合い、かつ一定の信頼関係を形成していた。「仲間」と零細企業の経営者達が呼んでいるものがそれである。
各小零細企業とその経営者にとって、それぞれにとっての「仲間」が10人前後の規模で存在する。「仲間」はクローズドな小集団ではなく、それぞれの企業家ないしは自営業者にとって、それぞれ存在するものであり、「仲間」の「仲間」といった形でネットワーク状に広がっている。一定の信頼関係が存在することで、必要に応じて、自ら受注した仕事に対する能力不足を補い、また自社ではできない加工部分を含めた仕事を受注し、できない部分を「仲間」に依頼する。前者は量的補完であり、後者は質的補完であるといえる。これが、「仲間」の間では双方で行われる。小零細企業の誰かが、仕事ごとに窓口になり、その仕事を「仲間」で仕上げる。その窓口が取引先により柔軟に変わる、と言う形でも表現可能な関係といえる。
すなわち、何故、不安的な仕事が大田区に来るのか、という疑問に対して発見された解答は、多数の多様な小零細企業が層として存在し、単価は相対的に高いが、小ロットサイズの発注、非定期的な発注、面倒な仕事内容の発注、急ぎの発注といった、安定的な受注を中心に生産をしている受注生産型中小零細企業では引き受けたがらない仕事を、何でも嫌がらずに引き受けてくれるからということである。 それが何故可能なのかという疑問に対する解答は、多様に専門化した小零細企業が多数存在し、それらが「仲間」を通して相互に仕事をやり取りすることで、迅速にどんな仕事も対応可能であることによるということである。すなわち、「仲間」で仕事をやり取りすることで、個別には不安定な半端な仕事に依存していたも、総量として仕事が安定し、東京の機械工業小零細企業全体として、層として受注する総量が安定的に拡大すれば、変化の激しい仕事に依存していても、個別経営としても経営が安定することになる。
この「仲間」の存在の確認と、その独自な機能の(筆者による)発見が、実態調査を通して初めて可能となった。集積論の視点から議論すれば、仲間取引という一種の集積の外部経済性が機能して、半端な仕事に迅速に対応できるということになる。だから高くても半端な時間のない仕事は、関東一円から大田区等に発注される。他方で、半端な不安定な仕事に依存していても、総量があり、それが融通され、京浜地域の小零細企業の経営が安定する。さらには、零細企業だと、より柔軟に対応でき、経営が安定しやすい。結果として、大工場のワーカーとして勤務可能な熟練工が、独立する。このように見ることができるのである。
このように見てくると、少なくとも東京の大田区等の零細企業の増加は、瀧澤氏の言うように、低工賃だけど長時間労働故に、外注利用されるか増加しているというのではない。単価が高く、総量としては仕事量が多いので、企業としての収入は高く、大企業の工場労働者として勤務するより、独立したほうがよい零細企業が、層として、東京で増加しているといえることになる。また、清成氏のいうような、増加するのは生産性が高いからといった、単純な話ではなく、歴史的経緯で形成された集積の独自な機能ゆえに、大田区等の東京でこそ独自な零細企業が増加しているのである。これを実態調査を通して発見し、論理的な説明をおこなった。
ここにまで漸くたどり着いたといえるのは、1970年代の末あるいは1980年代初めであり、その成果は、まずは、佐藤芳雄編著『巨大都市の零細工業 都市型末端産業の構造変化』(日本経済評論社,1981年)の「Ⅷ章 城東・城南の機械・金属加工業-集積立地の機能と存立基盤-」としてまとめられた。1972年から数えれば、足掛け10年かかったことになる。
事例2 機械工業における業種分類の意味についての疑問と、
山脈構造型社会的分業構造の発見への路
多様な業種の企業から、同じ加工内容だが、安定しない迅速性を要求される変化の激しい仕事を、多様なルートで受注する。これが京浜地域の小零細企業の受注内容の特徴であることを確認した。そこから新たな疑問の形成と発見へと展開した。
まずはこれらの小零細企業と業種分類とはどのような関係にあるのか、新たな疑問が生じた。業種分類の分類基準を日本標準産業分類で確認すると、それぞれの事業所単位で、売上高が最大の業種に大分類から順番に、中分類、小分類、細分類と4桁分類まで割り振っていくことになる。当該小零細企業が、例えば、多様な業種の製品の部品の旋盤加工をおこなっているとすると、その年の売上について部品を分類し、まずは中分類業種でまとめてみて最も多かった部品の業種に分類される。さらに同じ作業が分類された中分類の中で、どの小分類が一番多いかで分類され、最終的に小分類の中で一番多い細分類、4桁分類の業種の事業所と見なされることとなる。すなわち、電気機械関連の部品、輸送用機械関連の部品、一般機械関連の部品の旋盤加工を専らおこなっているような事業所は、まずは上記の3つの中分類業種のどの業種の売上高が一番多いかで中分類業種を割り当てられる。自動車部品の加工が一番多い企業でも、洗濯機と発電機の部品の合計の方が多い企業であれば、中分類業種としての輸送用機械器具製造業の中の自動車製造業ではなく電気機械器具製造業のどれかの細分類業種に分類されることになる。
このような業種分類の原則故に、同じ年の中で多様な業種の製品の部品の特定加工だけを受注している京浜地域の多くの小零細企業は、その年ごとの、多少の受注先の量的組合せの変化で、大きく中分類業種を変えることになる。実態としては、業務内容や受注部品の組み合わせ等でほとんど変化をしていないにもかかわらず、その業態ゆえに、頻繁に業種変更をしているかのごとく把握されるのである。これに対し、同じ機械関連の部品の特定加工に専門化した小零細企業でも、金属プレス加工に専門化した企業は、その業種分類が加工対象の製品ではなく加工方法で分類されるがゆえに、どんなに加工する製品内容が変化しても、加工方法が大きく変更されない限り、同じ業種として分類される。業種変更はないことになる。
ここから見えてきたことの1つは、業種分類と小零細企業の存立実態とは、業種分類のあり方により、かなりズレが生じる可能性があるということである。また、事業所が統計上中分類業種レベルで業種転換している場合でも、実際に大きく業務内容を変えている場合と、ほとんど実態的には何も変わっていない場合があるということである。統計上の分布と、実態としての業務内容との関係については、実態と業種分類の双方をきちんと理解して、初めてその持つ意味が把握可能となり、統計にだまされることなく、統計を活用できることになる。 今1つは、京浜地域の小零細企業は、業種分類で表現されるような形で特定の製品の部品の加工に専門化しているのではなく、特定加工に専門化し、多様な製品の部品の特定加工を担っているということである。この点から、業種分類で単純に整理することが、京浜地域の小零細企業のような存在の場合、大きな存立実態に関する誤解を生じる可能性があるということが明らかになった。
その1つの典型的な例が、乗用車産業の下請構造についてのピラミッド型の社会的分業構造としての把握である。京浜地域の3次4次の下請中小零細企業の多くは、特定加工に専門化している。そして、受注先は多岐の業種にわたり、多様な製品の部品について特定の加工をおこなっている。これらの企業は特定加工に専門化しているのであるが、機械加工の中の特定可能に専門化している企業の場合は、業種分類による統計上は、いずれかの製品に分類される特定業種の企業と見なされる。実態と大きくかけ離れることになる。それをピラミッド型の社会的分業構造を念頭に把握すると、多くの小零細企業は、特定製品のための生産の一部を担う存在として位置づけられることになる。統計を媒介することによる、機械工業関連小零細企業の存立形態に関する歪みが形成されることになる。
鉄鋼業の生産する鋼板等の素材は、特定の製品分野のためではなく、広範な分野、建設から機械工業等にわたる素材として認識され、乗用車向けが極めて大きな位置を占めていても、乗用車産業のピラミッド構造には組込まれることはない。これは、鉄鋼業が独立した中分類業種であることからも、当然と見做されていることである。しかし、特定加工に専門化した小零細企業については、同様に多様な製品分野の加工を受注し、あくまでも特定加工のサービスの提供に専門化している企業のはずだが、ピラミッド構造の中に組込まれ議論されている。業種分類にとらわれず、企業の存立実態から把握をすれば、特定加工に専門化していることが見えてくるのであるが、既存統計のみを前提に議論を組み立てる発想の研究者には、全く見えてこない点である。
実態調査を踏まえ、その自体の存立の状況を説明する論理を追究した結果が、このような認識に到達することを可能にしたといえる。
さらに、そこから、このような認識は、山脈型社会的分業構造としての把握へと発展していくこととなる。すなわち、業種分類をまずは前提に把握することに対し疑問を感じ、実際のものづくりのあり方、京浜地域の小零細企業の取引関係の実態を踏まえた時、社会的分業は、どのようなものとして把握されるべきであるか悩みはじめた。改めて、実態調査をもとに、誰と誰が、どのような市場を巡って、どのような競争をしているのか、経済学の原点に戻って考察し、そこから社会的分業の実態を考えることにした。
その結果が、概念図としての山脈型社会的分業構造図である。機械工業関連と若干の金属関連製品の諸産業は、鉄鋼等の素材を別としても、特定加工に専門化した加工サービス企業群、その多くは中小零細企業であるが、これを外注先企業としていわば共同使用している。製品ごと、あるいは各業種ごとに特定加工に専門化した企業が存在するのではなく、共通の基盤産業として、特定加工サービスに特化した企業が存在している。最終製品の業種としてきわめて巨大な乗用車産業は、その多くを専用的に利用しているが、あくまでも、乗用車関連産業に専らサービスを供給している特定加工専門化企業も、専門化している特定加工分野の企業、他の製品のために加工サービスを提供している企業と競争しているのである。乗用車関連の他の加工サービスの提供に特化したり、あるいは乗用車向けの部品を生産している企業と競争しているのではない。
事例3 産業集積の地理的広がり把握に関する疑問と、広域機械工業圏への路
東京の機械工業小零細企業の独自な存立形態の発見、小零細企業層としての再生産と、層としての多様な業種の多数の受注先への依存、変化の激しい迅速性を求められる面倒な仕事への依存、それらの需要に対応するためにきわめて重要な意味を持つ集積の外部経済性としての「仲間」の存在、これらを考えていく中で、このような東京の機械工業小零細企業の集積を、集積の経済性の存在から考察した時、どのような地理的広がりを持つものと考えるべきなのか、これが疑問として浮かび上がった。
先にも指摘したように、東京の機械工業小零細企業は、きわめて広域的に受注している。通常の産業集積では、同一の製品の生産を行っている企業群の立地範囲ということで、ある意味簡単かつ明確に、その集積の地理的広がりを確定できる。燕の洋食器生産の産業集積の地理的広がりは、燕市を中心に、それに近接している市町村を念頭に、洋食器を生産している企業群の立地を見れば、それで集積の広がりが確定可能である。同じことは、中国の産業集積についてもいえ、丸川知雄東京大学教授が、私のこの問題についての議論を紹介する過程で指摘している。
しかし、東京の機械工業小零細企業は、特定の製品を生産しているのではない。きわめて多様な製品の部品の特定加工について、関東一円を中心により広域的な範囲からも受注している。しかも、「仲間」といったような産業集積としての外部経済性が存在しているから成り立っているような、独自な産業集積である。このような産業集積について、地理的広がりをどのように見るか、機械工業関連で特定加工に専門化している企業群として、単純に地理的広がりを確定し難い。
独自の機能を持つ産業集積として、その機能を可能とする集積の外部経済性を実現できる範囲が、集積の地理的広がりということになろう。このような中核となる集積の経済性の存在範囲を念頭に集積の地理的広がりを把握しようとすると、それは「仲間」取引が可能な範囲ということが出来よう。大田区が機械工業関連の特定加工に専門化した小零細企業が最も多数立地し、そこでの仲間取引が活発であることを確認したこと踏まえ、大田区を中心に、どの範囲まで「仲間」取引が広がっているか、このような問題意識を持ち、70年代末から80年代初めにかけて、京浜地域での聴取り調査を行った。
そこから見えてきたことは、大田区内を越え、東京城南地域が包摂されるだけではなく、城南地域から多摩川を越え転出していった小零細企業も東京城南地域の小零細企業との「仲間」取引を維持しており、その範囲は、川崎市内から横浜市の港北区辺りまで広がっていることが確認された。同時に、都心を挟んだ反対側の城東地域の小零細企業とは「仲間」取引的関係が存在しておらず、また、横浜の中心を越えた金沢区以東の工業地域の企業とも同様に「仲間」取引的関係を形成していないことが確認された。区市をまたがる集積であると同時に、首都圏全体に特定加工に専門化した機械工業関連中小企業は数多く立地していながら、その特定部分の企業群が、大田区を中心とした独自の産業集積を形成していることが確認されたのである。
同時に、集積の経済性は、「仲間」取引による外部経済性に限定されるものではない。熟練労働力の確保の容易さや、物流での近接性の利益等、多岐にわたるものである。例えば、京浜地域の機械工業での近接の利益の典型的な例として、受注した加工を仕上げた後、業主が自らライトバンで発注元まで届けるといった形で、輸送に時間をとられないため、一品生産で時間勝負の試作品などでは、物流面での近接性が、決定的に重要なものとなり、集積の経済性となる。このような物流については、宅配便網等のインフラ整備を通して、業主による運搬の機会費用を下回るコストで、夕方宅配便業者に委託すれば、翌朝発注元に届くことが、従来の京浜地域の範囲を越えて可能となった。集積の経済性を享受できる範囲が、この経済性に関しては、大田区を中心に見るならば、関東一円へ、さらには東日本といった範囲に広がったといえる。
また、情報流の革新であるファックスの普及、さらにはインターネットの普及は、図面情報を中心とする生産のための諸情報をきわめて低コストで、国内各地域、そしてグローバルにほぼ瞬時に送付することを可能とした。これに双方向での情報のやり取りの容易さが加わり、かつて集積の経済性の一側面を構成していた情報のやり取りの多くの部分が、集積の経済性を構成するものではなくなった。
物流、情報流、人流といったものは、それぞれインフラの整備により、その流れの量と速度そしてコストは大きく変化する。それに応じてかつてほぼ地理的に見て一体として存在していた集積の経済性の諸側面が、それぞれ地理的に独自の広がりを持つことになる。集積の経済性の多層化である。インフラ整備等の技術革新は、特定地域を前提とした集積を、当然のごとく不変のものとして、一義的に想定することを、不可能にしたのである。該当する集積の経済性から見た時、どのような地理的広がりで集積の経済性が実現されるか、それを通してその集積の経済性にとっての地理的広がりを持った集積が、地理的に確定されるのである。
このような認識をもとに、集積の経済性の全てではないとしても、そのいくつかを実現できる1990年代における機械工業の集積のより広域的な範囲は、どのような範囲であろうか、という疑問を踏まえ、その解答として「広域機械工業圏」という概念を提示した。京浜地域を中心としてみた場合の「広域機械工業圏」として、広域関東広域機械工業圏が考えられ、その地域内では、かつて東京城南地域の工業集積内で見られた集積における外部経済性のいくつかが存在し、その意味では、ある意味での産業集積としてのまとまりをもっていると、確認された。
ただし、このような広域機械工業圏の広がりも、インフラ整備等により時代とともに変わるというのが、筆者の産業集積に関する認識である。2010年半ばの今、より広域的なものとなっていると感じてはいる。しかし、それを実態調査をもとに裏付ける作業を行っていないので、これ以上議論することはできない。 集積の経済性の多様性とその地理的広がりの多様性から、産業集積の地理的広がりの多層性が生じているのが、日本の大都市を中心とした機械工業集積の実態である。これが、実態調査から明らかにされた。
集積というの一定の地理的広がりとして把握される概念であり、点ではない。しかも、集積の経済性は多面的であり、それぞれが経済性を発揮できる地理的広がりを持っている。結果として、集積の経済性の広がりは地理的に多層的であり、集積の経済性を発揮できる地理的広がりが、特定地域として一義的に決まるのではない。これが実態調査研究から明らかになったのである。特定産業の企業集積地域が、特定の地理的広がりを持つ地域としてあり、その範囲内では集積の経済性が働き、その外側では集積の経済性が存在しないという理解、これは、少なくとも大都市の機械工業小零細企業の集積の持つ経済性については、該当しないのである。
おわりに このような書いてくると、興味深い現象を見つけ、疑問を感じ、その解答を実態調査を通して発見し、さらに先の疑問を発見し、それもまた実態調査により解答を見つける、と言った順調な積み重ねのように見えるであろう。しかし、実際には、1972年に興味深い現象、零細企業の増加という現象に関心を持ち始め、それを軸に発展した発見の連鎖を、自身の単著『日本機械工業の社会的分業構造 階層構造・産業集積からの下請制把握』として本にできたのは、1997年である。四半世紀かかっている。
後から整理すれば、上記のような連鎖の中で研究が進んだということは、間違いではない。しかし同時に、結果として、ここにたどり着いたのであり、その過程そのものは紆余曲折の過程でもあった。ただいえるのは、先人の発想や同時代の研究者の成果を多いに活用させてもらいながらも、自分自身で論理を構築し、その論理について、実態調査の成果と突き合わせ、自分なりに納得することを目指し続けたことも事実である。この点については、しつこく追究し逃げなかった。これは言える。
参考文献(上記に関連した渡辺幸男の著書と論考)
1、『日本機械工業の社会的分業構造 階層構造・産業集積からの下請制把握』
有斐閣、1997年
2、『大都市圏工業集積の実態 日本機械工業の社会的分業構造 実態分析編1』
慶應義塾大学出版会、1998年
3、『現代日本の産業集積研究 実態調査研究と論理的含意』
慶應義塾大学出版会、2011年
4、「中小企業研究での帰納的研究の可能性の帰納的確認」
『三田学会雑誌』104巻1号、2011年4月
5、「産業論の論理的枠組みと中国産業発展・発展研究
-産業論研究の方法に関する覚書-」『三田学会雑誌』105巻3号、2012年10月
参考文献について 1は、25年かけて行ってきた実態調査研究の中間取りまとめであり、日本の機械工業における下請系列化の論理と、産業集積の多層化広域化の論理が、実態調査と統計分析を踏まえて、展開されている著書である。2は、1が論理的な説明の展開を軸に実態調査等に言及している形をとっているのに対し、1の基礎となった筆者が実際に行った実態調査報告をもとにした個別の調査研究に係わる論考を、そのまま再録し、紹介している。ここでは、それぞれの実態調査対象の持つ独自な現象を、どのような形で論理的に説明したかがわかるものとなっている。
また、筆者が調査に参加し、かつ報告書の執筆にも参加した調査研究(1と2のもととなった調査自体の報告書)の一覧は、1の著書の243~245ページに列挙してある。そこでは、同書執筆時点までの33本の調査報告書が提示されている。 1と2の著書を出版後、1990年代末から2000年代にかけて、筆者は、再度精力的に日本国内と中国沿海部で、産業集積の実態調査を行った。その日本の産業集積についての研究と、そこから筆者が考えたことをまとめたのが3である。日本の産業集積の実態を通して確認したことを踏まえて、既存の産業集積論研究の多くを、産業集積絶対視論として批判し、産業集積の有効性を相対化することを主張した。4は筆者が行った慶應義塾経済学会での会長講演をもとにまとめた論考である。筆者の中小企業研究の方法である帰納的研究により、どのような発見があったかを時系列的に提示した。本稿が発見に至る契機、疑問の形成を軸に筆者の研究を振り返っているのに対し、4は発見したものは何であったかを中心に述べているもので、本稿の姉妹編といえる論考である。5は筆者が中国の産業発展の研究を、現地実態調査を踏まえ行った結果から生まれた、方法的反省の論考である。そこでは、産業発展を研究する際に考慮すべき論点を、中国の産業発展研究を念頭に整理し、述べている。産業発展研究において、きわめて重要なのが、供給側と需要側・市場側の両面から産業発展の展開論理と可能性を見ることである。さらに需要側についても、経済学の原理論レベルで市場一般として見るのではなく、市場の置かれた具体的環境を踏まえ見るべきであることを強調した。また競争についても、競争一般としてみるのではなく、それぞれの市場の置かれた環境のもとでの独自な競争状況を念頭に、論理を構築すべきであるとした。
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