2024年4月29日月曜日

4月29日 中露の産業発展を考える

中露の産業発展を考える

   計画経済からの移行後の工業発展を規定するものは何かを模索し−

渡辺幸男

 

 かつて計画経済にあり、計画経済期を通して工業化を推進し、1990年代に市場経済化、資本主義経済化した中国とロシアの経済、それらのその後の工業のダイナミズムをどのように把握するか、両経済を対比しながら、計画経済からの移行の持つ意味の多様性について考え、かつ工業発展を規定するものは何かについて考えたい。

 

 1990年代、ロシアは旧ソ連の解体と市場経済化であり、中国で言えば改革開放経済を迎えた時点である。その状況を、中露についてまずは対比的に見る必要がある。

 旧ソ連、その中の中核部分を占めていた現ロシア経済は、1990年代開始時点で、既に計画経済期が70年以上経過していた。それに対し中国経済のそれは40年弱であった。ロシアの場合は、市場経済状況を知る産業人は皆無、完全な世代交代がなされ、計画経済下で育った産業人だけという状況にあったといえよう。それに対し中国経済の場合は、一世代は優に経過していたが、人材的にはかつての市場経済を知っていた世代も残っていた。

 産業体系としても、旧ソ連では、主要製造業全体において、計画経済が浸透し、市場経済的な裁量余地がある経営主体は、ほぼ皆無であるといえよう。それに対して、中国経済においては、工業全般について技術的な遅れが存在しただけではなく、計画経済がカバーできない産業活動部分が多少なりとも存在し、赤い帽子を被った私営企業等、すなわち実質的な私営企業が、中小企業層を中心に、工業分野にもかなりの数、層として存在していた。

 さらにいえば、工業水準として両国を比較すれば、開発力としてロシアが先行し、多くの工業分野で先進工業国並みの技術水準を実現していた。それに対し、中国の工業自体は、一通りの近代工業分野を国内に保持していたという点で、近代工業国と一応言える水準であったが、その水準はロシアと対比しても、かなり遅れたものであった。

 また、工業生産、特に消費財生産に対応する工業製品需要を見ると、その所得水準からも言えることであるが、ロシアは一応先進国並みの消費財水準にあったと言えるのに対し、中国の工業製品の消費財市場は、先進国経済と比較してかなり遅れた後進国消費水準に近い水準であった。すなわち国内市場の性格が、かなり異なり、ロシアは欧州の先進工業製品である消費財の市場となる可能性が高かったが、中国の消費財市場のうちの大部分は、先進国消費財の市場には、そのままでは転換できないような水準の市場であった。

 他方、ロシアの所得水準は中国に比べかなり高く、ほぼそのままでヨーロッパ製品の市場となりうるものであったが、市場規模で言えば、1990年代初頭のEU市場と対比しても、その数分の1の水準にとどまり、潜在的にも当時のヨーロッパの市場経済の市場規模を凌駕する可能性を持つような市場ではなかった。それに対して、中国経済は、当時の絶対的な市場規模は大変小規模なものであったが、消費人口規模としては当時においては他に類例を見ない規模であり、潜在的な市場拡大の可能性は、極めて大きかった。

 

 以上のような状況を前提に、1990年代以降、中露両国での市場経済化が進展した。

 

 そこで生じたことは、欧州からの輸入による工業製品のロシア産工業製品に対する代替化によるロシア工業の衰退、あるいは欧州系外資系企業のロシア現地投資進出による計画経済下に存在した自生的・自国系(ロシア系)主導の工業から外資系企業主導の工業への代替である(藤原克美(2012年)では、繊維製品工業を中心にした分析であるが、旧ソ連工業がロシア化してから、大きく工業が衰退したロシア工業の実態が、繊維製品を生産する資本財の状況を含め、紹介されている)。何れにしても、ロシアの既存のロシア系工業企業の全面的衰退、私のいうところの非工業化が進展したのである。

 それに対して中国の場合は、1990年代当初は、中国の豊富な低賃金労働力と、港湾、道路、電力等の近代工業に不可欠な産業基盤の一応の存在とがあいまって、多数の外資による中国からの輸出向け工業製品生産のための直接投資が、大量に他に前例がない規模で行われた。産業基盤の存在と豊富な低賃金労働力の利用可能性を前提とした、多様な工業製品の最終組立工程を中心とした、加工貿易型の工業生産の一挙拡大であった。

 ロシアへの外資の進出は、対ロシア工業製品輸出と共に、既存のそれなりに先進的であったロシア工業(市場競争力は皆無といえるが、技術的には欧州諸国と張り合えるような水準の工業)の解体をもたらした。ロシアの市場は1990年代当初より、欧州企業にとっては魅力的な市場であり、市場競争力形成の必要性のない中で先進工業化していた旧ソ連の先進工業企業に取って代わって、工業製品をロシア市場向けに輸出し、ロシア内現地生産化を実現し、欧州系企業を中心に資本主義市場経済の競争の中で育った企業群が、工業生産部門の多くで既存旧ソ連系企業に取って代わった。そして、その代替の多くは、既存のヨーロッパの工場、すなわちロシア外の工場からの供給という形をとった。

 それに対して、潜在的には巨大な消費財市場を保有していたともいえる中国においては、現地市場を対象にする外資系企業の進出は、多少は見られたが、1990年代においては先進工業国製品を受容できる層は極めて限定的であり、そのため、中国市場向けの外資系企業の多くは、中国消費者の大多数を対象とすることはほとんどできなかった。当時の中国消費者の中心的な所得水準の人々にとっては、先進工業国の製品は、たとえ低賃金労働力を活用した中国で生産されたとしても高価すぎる手の出ないものであったといえる。

 この結果、中国国内市場向けには、新たな商機が、中国系企業、と言っても既存の国有企業ではなく、新規創業を中心とした郷鎮企業や民営企業に生じた。機械加工等、一通りの近代工業に必要な工業生産力は、中国に存在していた。しかし、その生産力を保有していたのは国有企業群であり、ここでも旧ソ連同様に中国国有企業は、新たな市場開拓や形成を実行し、あるいは市場動向に応じて柔軟に経営努力を行うような存在ではなかった。1990年代の改革開放の過程で、これらの国有企業の多くは経営的に行き詰まり、そこで働く技術者や技能労働者を解雇せざるを得なかった。

他方、外資系企業は中国市場向けへの生産ための進出は難しかったが、外資系企業に雇われた膨大な雇用労働力を中心に、安価な工業製品への需要そして市場が一挙に形成された。これを充足するためには起業家・企業家層の存在が不可欠である。その必要性を現実化したのが、郷鎮企業であり、赤い帽子を被った民営企業である。私が現地調査をして見てきた温州市に見られたような、計画経済期から私営企業として経済活動を、規制の中で実行していた人々が、本格的に経済活動、企業活動を開始したのである。そのような企業が、地域的な偏りは非常にあるが、中国全体としてみれば、多数形成され、存在し、激しい競争の中で淘汰されることにより、低価格を不可欠とし、先進工業国製品が充足できないような、新たに中国国内に形成されつつあった巨大市場を発見開拓し、充足することになった。

これらの新興の中国民営企業の起業家・企業家は、既存の国有企業内に保有されていた工業技術を、企業縮小・解体の過程で放出された技術者や技能者を通して活用し、また現地で生産されていた諸機械を利用し、低価格品市場として形成された国内新市場、成長市場を目指し、独自な低価格製品を開発し、新規形成市場の開拓に成功した。中国の潜在的に巨大な市場が、超低価格製品市場として開拓され始めたのである。市場形成当初のエビソードではあるが、私が中国での現地調査を開始した2000年前後の時期には、想像を絶するような低価格かつ粗悪な製品の販売の話が、幾つも聞かれた。紙でできており1週間も履けば壊れてしまうような靴が、実際に温州地方で生産され、内陸地方に販売された、と言ったような話も、少し前の話として聞かれた。

当然のことながら、このような極端な粗悪品は、あっという間に市場から追放された。他方で、低価格だが、それなりに使用可能な多様な消費財が、郷鎮企業や民営企業によって開発・販売され、先進国工業製品生産企業が開拓不能な低価格消費財市場を開拓し形成していった。また、このような消費財の生産に適した、先進工業国の機械から見たら顕著に精度を落とした安い加工機械類も開発された。いわゆる、リバース・イノベーションと呼ばれる現象が、多様な市場で多面的に生じたのである。これらの点が、自国系工業の非工業化が進展したロシアと決定的な差異といえる。

 

中国の場合、改革開放当初は、国内市場の低価格だが巨大な潜在的な可能性を持つ市場を対象に、既存の国有企業でない多様な新興企業群を担い手として、既存国有企業が形成し保有していた近代工業技術を利用する形で、独自な低価格品市場を中心とした工業発展を実現した。しかも、巨大な市場が一挙に形成されたこと、既存技術の応用で参入することが可能であり、多様な発展機会が存在していたことと相まって、多数の多様な企業の起業や参入が一挙に実現した。

この環境下でこのような過程で生じたことであり、その後の中国工業にとって重要なその過程で形成された工業上の特徴が、社会的分業のあり方の独自性である。丸川知雄教授が主張されている改革開放後の中国工業の「垂直分裂」丸川知雄、2007傾向である。すなわち、中国企業の存立形態は、かつての計画経済下の国有巨大工業企業や、先進工業国の寡占的大企業の存立形態である「垂直的統合」企業形態ではなく、川上から川下までの諸工程についての高度な社会的分業下で工業製品の生産、各企業がごく狭い範囲に特化して社会的分業の中で完成品を生産する体制が、先進的と見られるような工業製品の生産体制として実現したのである。

この点を考える上で重要なのが、先に指摘した中国の1990年代の改革開放期以来の国内市場形成期の市場の特徴である。既存国有企業は、基本的に市場経済的な意味での企業ではなく、ほぼ単なる生産者にとどまり、その経営者は経営者とは名ばかりで、事実上は工場長であった。それゆえ、競争的な市場で競争するための経営力を持っていなかった。この点では中露で差異はなかった。また、近代工業国としての技術についても、中国はかなり水準が低かったが、存在していたという意味では中露で差がなかった、中露で差異があったのは、国内市場の在り方と(潜在的な意味も含めた)大きさであり、ロシア市場は欧州先進工業製品の直接の市場となるだけの所得水準にあったに対し、中国市場の大部分は、先進工業国製品の市場としては存在できないような低価格品中心の、それも潜在的に存在する低所得者中心の市場、潜在的に巨大な市場に過ぎなかった。これを開発したのが、既存の中国国内工業技術を利用した、新興の中国国内工業企業群であった。

一挙に潜在的に形成され、先進国工業製品が進出不能な、可能性としては巨大な中国国内市場、これを市場として顕在化せしめたのが、中国の多様な非既存(国有)企業であった。一挙の市場形成であり、特定の製品市場について垂直的に統合した形で参入することは、どのようなタイプの新興の非既存国有企業にとっても、市場開拓において、時間がかかり、目の前にあるビジネスチャンスを逃すことになる。そのため、統合的な形態での参入企業は、事業の特定部分のみに参入し、そこでの競争優位を実現しようとするタイプの企業との競争に負けることを意味した。

既存国有企業を中心に国内に蓄積された技術は、既存国有企業の技術者や熟練労働者に体現され存在し、市場は潜在的だが巨大で、かつ多様に存在している。そこで必要なのは、それぞれの市場を、既存の技術を組み合わせ、かつすばやく動員して、いち早く開拓することである。それこそが、1990年代後半以降の中国経済の国内市場の多くを開拓することの際に不可欠なことであった。そこで生じたことは、技術的に最も単純化された部分に専門化し、それに特化し、その技術に関連する市場を、徹底的に開拓することであった。その際、特定の製品に専門化するのであれば、その川上部分の自企業内生産にはこだわらず、既存の供給企業を利用し、その製品市場それ自体にいち早く参入し、自企業の存立基盤を形成することであった。また、特定の完成品ではなく、部品や特定の加工に専門化する企業も、完成品生産企業の多くが垂直的統合を志向していないなか、多様な川下の需要企業を念頭に、特定分野に専門化して参入することが可能であったし、それがいち早くその市場での存在余地を確保するために必要なことであった。

巨大な低価格品市場が一挙に形成されたこと、それを、マトを絞っていち早く自らのものとすることが、企業としての存立発展の第1条件であること、このことから、丸川氏のいうところの「垂直分裂」が広範化した。このような社会的分業の進化した工業体制が形成されたということは、そのこと自体が、特定部分に極度に専門化した企業の参入を容易にするということになる。競争は、完成品市場ごとに垂直的に統合した企業間で行われるのではなく、社会的分業が可能な多様な水準ないしは次元、完成品、完成部品、あるいは特定加工といった形で細分化され、それぞれに存立基盤を持つ企業間で多様に行われることになる。逆に言えば、垂直統合された完成品生産企業の場合であれば、内部部門、内製部門として、直接的には市場競争にさらされないような部品生産や加工までも、激しい市場競争にさらされることになる。これが極端まで進行したのが、中国の改革開放期の工業発展、丸川氏のいう「垂直分裂」ということになる。

ここから中国では、中国系企業が自国市場、特に新規形成市場に、他の専門家企業群を活用しながら当該市場の製品・部品・加工に専門化した形で参入し、新たな市場を開拓していくことが通常化したといえる。既存企業による自社技術を前提とした自社内での多角化に依存した新市場開拓ではなく、多様な新規企業、起業家による新規市場開拓が広範化し、その後の工業発展の担い手が多様に形成されることとなった。

 

ロシア経済の場合は、そこでの産業発展が、経済圏内完結型の自国系企業主導の発展から輸入と欧州系企業主導の発展に転換した。そこに至った論理ないしは理由は、比較的豊かな市場が既に存在し、国内の既存工業企業が解体せず、解体を利用して技術者や技能者を活用する新規創業企業層の大規模形成もなかった。ゆえに、自生的な工業再生は生じず、非工業化が進展した。その根本的な部分には、既存企業が抱える技術を新たに活かす新規創業企業層が形成されるような時間的な余地がなかったこと、その形成のための余地に必要な、先進工業国企業が参入できないような巨大な独自市場が存在しなかったこと、これらが中露の比較から見えてきたことといえる。

(この点は、ウクライナ研究の著作(松里公孝2023年)を紹介した私のブログでも言及した、旧ソ連以来のウクライナの機械工場の例が参考となる。この企業は2010年代にも依然として存在し、かつこの企業が、外資系企業が近隣に設置される設備機械の調達に対し、自社でも生産可能な製品を、ウクライナ外の企業から調達したとして、自ら生産できることを示すために同様の製品を生産し工場内に展示(同書、2829ページ)していた、という、この企業の話からも理解されることである。旧ソ連の重機械生産企業にとって、当該機械を生産できることが第一であり、それをどのようにして他企業の製品と差別化して販売するか、という点は二の次、三の次なのであろう。旧ソ連の企業は先進的な機械をそれなりに生産できた。しかし生産できることは、市場参入の必要条件であっても、市場での販売競争に勝てる条件を意味しない、必要条件であっても、十分条件ではないこと、これが依然として理解されていないようである。

なまじ作れるだけに問題は厄介になる。中国の新興企業のように初めから作れなければ、作れる製品を売るための市場開拓をするであろうが。さらに言えば、このような発想をする企業が、なんとか、今まで残っていられること自体、ウクライナの工業、旧ソ連の工業の持つ問題点が解消されていないことを意味しよう)

 

そして、2020年代、改革開放から30年後以降、原油や天然ガス等の素原料を中心とした輸出で、それなりにさらに豊かになったロシアのウクライナ侵略が開始された。結果、ロシア経済が1990年代以降依存してきた欧州工業からの隔離が生じた。ある意味、既存の蓄積を生かし、欧州企業が占めていた国内市場からの欧州企業の撤退を活用し、ロシア市場を前提に、ロシア国内の技術者や熟練技能者を生かし、ロシア系企業を担い手としたロシア系企業による工業発展の再興の機会が生じたともいえる。

しかし、実際に生じたことは、原油等の輸出先のインドや中国への転換とともに、それらの収入を生かし、中国やトルコ・インドといった諸国から工業製品を輸入すること、欧州に代替する工業製品調達先を転換することであった。ウクライナでの侵略を継続するための兵器生産体制維持ゆえに致し方なかったこととも言えるが。これにより、兵器類の国内生産の水準を維持し、かつ多くの国民を当面満足させるそれなりの消費水準を維持することが可能となった。しかし、これは、非工業化の継続を意味し、低価格工業製品を含めた再工業化の展望を全面的に失うことを意味する。工業製品輸入元が、欧州から中印トルコへと移動しただけで、ロシアの非工業化からの脱却、再工業化の展望は全く開けないことになる。

 

 

 以上の中国とロシアの近年の工業発展の状況の対比から、産業論的な意味で示唆されることは何か。何よりも、経済発展、産業発展における「競争」の持つ意味とその競争の質の差異が持つ意味の産業発展いとっての重要性である。計画経済の何よりの特徴は、一国レベルで、他の先進工業との競争に打ち勝つことという競争が存在するのみであることである。国内企業間の競争が、ほぼ存在しないのが計画経済である。

計画経済のもとで、国家間の競争が強制することは、先行する工業国の工業水準にキャッチアップすること、目標とする先進工業を定め、それに追随し、その工業水準に追いつくことである。ごく比喩的に述べれば、「コンコルドスキー」を生産することであるといえる。欧州で開発された超音速旅客機コンコルドをその目標と定め、それに追いつくために同様なジェット旅客機の生産を目指し、それがそれなりに実現したのが、旧ソ連のツポレフ144(TU-144)超音速旅客機である。形や一定の性能部分でコンコルドに追いついたが、旅客航空機市場では、先行したコンコルド以上に市場競争力がなかった。超音速旅客機ではあったが。

このような比喩で表現されうるように、計画経済下での企業にとって、対抗する市場経済下で開発された工業製品を模倣し、それに近いものを生産することは、そのような指令が与えられれば、ある意味で可能であると言えよう。それを実証したのが、ソ連経済下の工業発展であったと言えよう。しかし、市場ニーズに従い、自ら独自な製品を生み出し、企業間競争に打ち勝つこと、これは極めて困難なことになる。何せ、市場が存在しないゆえに、市場からの圧力も存在しないし、国家の要請は受けても、市場のニーズを知る機会もなく、計画当局から指示された製品を、きちんと生産することのみを求められているのであるから。

 

 他方で市場経済下の企業は、市場からの競争による圧力を受ける。しかし、同時に、それぞれの市場経済の置かれた環境により、その市場圧力の内容ないしは方向性は異なることになる。「競争」が存在する市場ならば、そこに存立する企業にとっての市場からの競争圧力は、質的に同様である、とは言えない。市場の置かれた環境次第で、市場からの競争圧力の質・方向性は異なるのである。

 

以上の中露の計画経済からの移行における差異から見えてきたこと

中露の改革開放時のあり方の最も大きな差異は、絶対的な工業化水準での差異を別とすれば、中露それぞれの市場の置かれた環境と市場からの競争圧力の質と方向性における差異と言えよう。

まずは、中露のそれぞれの市場環境であるが、市場規模から見れば、潜在的な大きさを含めるならば、隣接する先進工業の市場の大きさに比してもロシア市場の相対的な小ささであり、他方での中国市場の潜在的な巨大さであると言えよう。しかし、それ自体は、改革開放時には直接機能せず、市場としてのレベル、国民の消費水準の先進工業国消費水準との近接性の違いが決定的な意味を持ったと言える。ロシアはすでに消費水準としては、中進国レベルに達し、多くの国民が隣接するヨーロッパ諸国の既存の工業製品、たとえそこでの低価格品を中心とするとしても、それらを受け入れうる所得水準に到達していた。

それに対し、中国の改革開放時は、例え、台湾や日本市場での低価格品をもってしても、大多数の消費者にとっては高価すぎるような所得水準の市場であった。あらためて、その低所得水準の消費者向けに、一層低価格な商品を開発することが、中国市場の巨大な部分に参入するためには不可欠のような市場であった。

 

 中露ともに、計画経済下で形成された国有企業群は、計画経済下の「企業」であるがゆえに、市場経済での競争の担い手となることができるような企業ではなかった。市場経済化され、本格的な市場競争に曝されると、その圧倒的大多数は市場から退出せざるを得ないような存在であった。経営をしない、ないしは経営をできない企業には、市場経済競争下での存立余地は存在しないのである。それゆえ、中露ともに、計画経済下で成長し、それなりに当時の中露の工業を担っていた大企業のうち、市場競争にさらされた企業群は、消滅することとなった。このことでは、中露の間で差異はない。

 中露の間での最も大きな差異は、改革開放後の工業発展を規定したという意味でのそれは、周辺の先行している工業国の諸企業の市場になりうる所得水準であるかどうかと、独自市場として発展可能な規模で存在しているか、ということにあるようである。さらに、必要なのは、既存技術を活用し、計画経済下の大企業とは異なり、市場のニーズに敏感に反応しうる企業群、起業家群を大量に生み出せるかどうかとなる。ただし、後者については、ロシアについて言えば、その可能性の検証するに必要な時間が、所得水準の一定程度の高さゆえに、欧州諸国企業に一挙に国内市場を掌握されたことで不足し、起業家群の存在の有無についての歴史的検証は行われないままであったと言える。中国では、そのような起業家群、それも郷鎮企業や地方国有企業の経営者を含めた、多様なそれが存在したことが、その後の歴史的経過を通して確認されているが。

 

 ここまで見てきて、あらためて、私自身の研究の幅の狭さを痛感している。日本の1970年代そして中小企業を中心とした工業発展の実態調査に基づく研究、また2000年代における中国沿岸部の温州市や自転車産業での工業発展についての実態調査研究、これらから、中国の産業発展については、日本の工業発展との対比をも踏まえ、それなりに実態的な裏付けを脳裏に浮かべながら議論を展開してきた。しかし、ロシアの近年の工業発展については、本ブログの論考でも紹介した、いくつかの興味深い研究を通しての間接的な知識しかない。

 たしかに、日本と中国の急激な工業発展の実態を見た上で、それらの発展の論理を考えたことは、ロシア工業の現状を考える上では、大変参考になっている。が、それ以上ではない。かつて、計画経済下での中国の工業化に圧倒的な影響を与えた旧ソ連・ロシア工業、しかし、ウクライナ侵略下でのロシア経済の中国工業への大幅依存、それによって、近代戦の遂行を維持し得ているロシアの現状、このことの中身が見えてこない。勝手な想像に近い形で、間接的な推論に基づき、このメモ書きをしてみた。非工業化しつつあるロシア工業の実態、東部ウクライナの旧ソ連重機械工業の系譜を引く大工場でも良いのだが、その実態を知りたい。なによりも見てみたい。日中の中小企業から見た工業発展を、実態調査研究を通して見てきた身として、今それを痛切に感じている。

 

*本稿で展開したことの中身には、これまで私がこのブログ等で述べてきたことの繰り返しに近い部分が圧倒的に多い。新たな情報を、近年発行された方々の研究成果にのみ依存せざるを得ない現状では、仕方ないことかもしれない。

それにつけても、これだけ注目されているロシア経済の現状について、ロシアの産業それ自体についての実態調査に基づいた現状分析的研究が、少なくとも日本語文献では、ほぼ見ることができない。断片的な新聞報道等を通して、勝手な推察をしているのが、今の私であり、言いたいことはあるのだが、実質的に繰り返しにならざるを得ない。

 

参考文献

藤原克美『移行期ロシアの繊維産業:ソビエト軽工業の崩壊と再編』春風社、2012

松里公孝『ウクライナ動乱 −ソ連解体から露ウ戦争まで』ちくま新書2023

丸川知雄『現代中国の産業 勃興する中国企業の強さと脆さ』中公新書、2007

2024年4月2日火曜日

4月2日、9日 エントランスの君子蘭

今年も君子蘭が、艶やかに咲き誇っています。
冬越しの廊下から、エントランスに、
賑やかです。


エントランスの一番上が君子蘭、

アプローチにはゼラニウム、

そして、なんとか冬越ししたサルビア


春本番のエントランス、春を謳歌。

9日
雨の早朝、
新聞を取りに出たら、
雨に濡れた君子蘭の艶やかさが一層増し、
もみじの若葉が冴えていました。